Sonar Members Club No.31

since February 2013

静けさの中から (13) 聞こえてくる声

2020 MAY 18 15:15:10 pm by 西村 淳

☘(スーザン):大学時代の友人でテノール歌手のジョン・グレアム・ホールが一緒にシューベルトの「冬の旅」を勉強してみないか、と連絡をくれた。
やはりテノール歌手のマーク・パドモアが「冬の旅」のことを、音楽における「リア王」のような存在だと書いていた。それほどの名曲なのである。また弾いてみたい。
ジョンと、数日後に会い、私達がどのくらい音楽的に相性が良いか、考えが合うか、試しにちょっと練習してみよう、ということになったのだ。ピアノパートの練習を始めるとともにまず、あらゆる録音を聴いてみることにした。ある日の午後、ペーター・シュライヤーとアンドラ―シュ・シフの素晴らしい録音を聴いた。そのあと、1930年代までさかのぼって歴史的な録音をあれこれ取り出してみた。
その日、私の家には友人が泊まりに来ていた。昔、オーペアでお世話になったドイツ人女性で、夫君と一緒にロンドンに遊びに来ているのだ。ボブと私がちょうど、1930年代に録音された、ゲオルグ・ヘンシェルのCDをかけているところに彼らが戻ってきた。すると二人は私たちが聴いているCDを耳にするなり、身震いするようなしぐさをし、嫌悪感をあらわにして顔を見合わせている。低い声で、「THIRD REICH」と言っているようだ。尋ねてみると、このCDから聞こえてくるドイツ語はナチスの将校たちの発音にそっくりだというではないか。なんでも、子音と母音のニュアンスが独特で、ナチスの匂いをぷんぷんと放っているらしいのだ。これは単にヘンシェルの発音がその時代を反映しているということだ。「どの母音?どの子音?」英語を母国語とするボブと私はドイツ語の微妙な発音の違いを、どうしても聴き分けることが出来ない。言語の世界にはこのようにその国の人しか理解できないとても微妙な独特の言い回しや発音の仕方があるのだ。ヘンシェルの歌は私にはとても歯切れのよい、明瞭なドイツ語と感じられた。

🍀(私):余談だが、その昔私の友人が、当時日本に在住していたのユダヤ人の女性リュート奏者から直接聞いた話として、「グルダのピアノを聴くと、ナチスの軍靴の音が聞こえる」と伝え聞いたことを思い出す。フリードリッヒ・グルダは私にとって大切なピアニストの一人だし、その才能は若きアルゲリッチを虜にしたことでも有名だ。彼の政治信条は知らないが、Deccaに全曲録音していたベートーヴェンのソナタがお蔵入りになったのももしや・・などと勘ぐってしまう。
音楽を生業にしている人たちは耳に自信を持っている。私の半端な絶対音感などではなく、たとえば442Hzと443Hzを比較ではなく聴き分けられる人もいる。スーザンも彼女自身の耳には自信があるといっているし、その彼女が聞き取れない微妙な違い。ここに人の心に触れるなにかが隠されているのかもしれない。それは私たちがいくらレッスンを受け勉強しても身に着かないものだ。

モーツァルトとコンスタンツェ

2020 MAY 6 21:21:22 pm by 西村 淳

コロナ自宅軟禁もはや2か月近い。時間が沢山あるようでも思ったほど多くのことができているわけではないようだ。
次回ライヴ・イマジン(7月24日開催予定)のプログラムノートの参考にしようと、読み始めたのが「モーツァルトとコンスタンツェ」新説 謎の死と埋葬をめぐって(フランシス・カー著/横山一雄訳:音楽之友社刊)。
面白い。それも特別に。モーツァルトの死の真相は本命はサリエリだったんじゃなかったっけ?ほかにも諸説あるのは知っていたけれど、この視点は漏れていたなあ。内容はモーツァルトの手紙を軸に主にコンスタンツェとの係わりを展開していくノン・フィクション。行間を読むようにそのニュアンスまで嗅ぎ取りながら背後に隠れているものが炙り出され、ホーフデーメルという官吏がその本命としてクローズアップされる。それと併行して徹底的にコンスタンツェを嫌な女として描く。実際、コンスタンツェをいい印象で見ている人は少ないだろうけれど、どうしてモーツァルトがこんな女と結婚しようとしたのか、父レオポルドに激しく同意するがモーツァルトはきっとすべての女性に恋をしていた。そしてそのうちの誰も愛してなんかいなかった。
モーツァルト裁判なるものがあったそうで、遠い記憶の片隅に残っているが、曰く、
1983年、ロンドンの南、ブライトンでの音楽祭で「誰がモーツァルトを殺したか」なるテーマで模擬裁判が行われ、俳優がコンスタンツェ、マグダレーナ、ジュスマイヤー、サリエリに扮し、正式な法廷の手続きに則り審問が行われ、評決に入った。その結果最有力容疑者となったのはサリエリではなくモーツァルトのピアノの女弟子のひとりだったマグダレーナの夫でモーツァルトが死んだ翌日、妻を傷つけ自殺した最高裁判所書記フランツ・ホーフデーメルだった。この模擬裁判の資料、ホーフデーメル有罪の証拠提供者がこの本の著者、フランシス・カーだったとのこと。カーがプロモートしたものかもしれないし、結論ありきだったのかもしれない。
ホーフデーメルという官僚は社会で一番低い階層にいる小男に天誅を加えることくらい何のためらいもなかったかもしれない。それは撲殺であろうと薬殺であろうと、金まで工面してやったりしているのに人の女房を孕ませやがって、くらいの気持ちだったに違いない。ただ相手があまりにも有名すぎた。ホーフデーメルが真犯人だとすると、いままで謎とされていた埋葬のこともすとんと腑に落ちる。ただこの事件により顔を傷つけられ、瀕死の重傷を負ったマグダレーナ、ジュスマイヤーの子を身籠っていたコンスタンツェ、さしずめ現代なら文春が大喜びしそうな見事な三面記事。ハプスブルク帝国の威信にかけてもみ消しに走ったのもうなずける。
因みにマグダレーナはピアノ協奏曲第27番K595の隠れた献呈先。事件の後、健康が回復してからカール・チェルニー(みんなを苦しめるあの練習曲の作曲者)に息子を弟子入りさせている。チェルニーは勿論ベートーヴェンのお弟子さん。さらにマグダレーナはチェルニーにベートーヴェンのピアノを聴かせてくれるようお願いしてくれないか、とおねだりまでしている。それを伝え聞いたベートーヴェンは「マグダレーナはモーツァルトと関係のあった女だな・・いやだよ」と最初は断ったが、後で気が変わったようだ。当時ベートーヴェンは、(というか世間は)モーツァルトの死について知っていた、ということになる。ただいつまで経ってもどんな証拠を開示しようと出来上がったサリエリ説は揺るがない。一度定着したものを覆すことの困難さはどの世界も同じことだ。

メルケル首相のCOVID19対応策

2020 MAR 30 16:16:36 pm by 西村 淳

友人からメルケル首相がドイツ国民に向けて行ったテレビ演説の翻訳が送られてきた。
「素人翻訳」で内容保証はできないとのことであるが中身は十分伝わるものがあり感動した。少しでも多くの人と共有したく、即座に申し出た本ブログへの転載を快く承諾いただいた。
ドイツ国民にとって音楽は特別な存在だ。第二次大戦中にも、隣に爆弾が落ちても演奏活動を止めなかったベルリン・フィルの公演までが中止されていることを想えば、その取組の本気度に圧倒される。語り掛けること大切さ。
それに比べ・・これから先は言うまい。

Quote
・・・・
親愛なるドイツ国民の皆さん!
現在、コロナウィルスは私たちの生活を著しく変えています。日常生活、公的生活、社会的な人との関わりの真価が問われるという、これまでにない事態に発展しています。

何百万人もの人が職場に行けず、子供たちは学校や保育施設に行けない状況です。劇場、映画館、店などは閉鎖されていますが、最も辛いことは、これまで当たり会っていた人に会えなくなってしまったことでしょう。このような状況に置かれれば、誰もがこの先どうなるのか、多くの疑問と不安を抱えてしまうのは当然のことです。

このような状況の中、今日、首相である私と連邦政府のすべての同僚たちが導き出したことをお話ししたいと思います。 オープンな民主主義国家でありますから、私たちの下した政治的決定は透明性を持ち、詳しく説明されなければなりません。決定の理由を明瞭に解説し、話し合うことで実践可能となります。

すべての国民の皆さんが、この課題を自分の任務として理解されたならば、この課題は達成される、私はそう確信しています。 ですから、申し上げます。事態は深刻です。どうかこの状況を理解してください。東西ドイツ統一以来、いいえ、第二次世界大戦以来、我が国においてこれほどまでに一致団結を要する挑戦はなかったのです。連邦政府と州が伝染病の中ですべての人を守り、経済的、社会的、文化的な損失を出来る限り抑えるために何をするべきか、そのためになぜあなた方を必要としているのか、そしてひとりひとりに何が出来るのかを説明したいと思います。

伝染病について私がこれから申し上げることは、ロベルト・コッホ研究所のエキスパート、その他の学者、ウィルス学者からなる連邦政府協議会からの情報です。世界中が全力で研究していますが、まだコロナウィルスの治療薬もワクチンも発見されていません。 発見されるまでの間に出来ることがひとつだけあります。それは私たちの行動に関わってきます。つまり、ウィルス感染の拡大の速度を落とし、その何カ月もの間に研究者が薬品とワクチンを発見できるよう、時間稼ぎをするのです。もちん、その間に感染し発病した患者は出来る限り手厚く看護されなければなりません。

ドイツには優れた医療制度があり、世界でもトップクラスです。しかし、短期間に多くの重症患者が運び込まれた場合、病院には大きな負担がかかります。それは統計上の単なる抽象的な数字ではなく、父または祖父、母または祖母、パートナーであり、彼らは人間です。そして、私たちはすべての人の命に価値があることを知るコミュニティで生活しているのです。 まずこの場を借りて、医師、そして看護施設、病院などで働くすべての方にお礼を申し上げます。あなた方は最前線で戦っています。この感染の深刻な経過を最初に見ています。毎日、新しい感染者に奉仕し、人々のためにそこにいてくれるのです。あなた方の仕事は素晴らしいことであり、心から感謝します。

さて、ドイツでのウィルス感染拡大を遅らせるために何をするべきか。そのために極めて重要なのは、私たちは公的な生活を中止することなのです。もちろん、理性と将来を見据えた判断を持って国家が機能し続けるよう、供給は引き続き確保され、可能な限り多くの経済活動が維持できるようにします。

しかし、人々を危険にさらしかねない全てのこと、個人的のみならず、社会全体を害するであろうことを今、制限する必要があります。私たちは出来る限り、感染のリスクを回避しなければなりません。

すでに現在、大変な制限を強いられていることは承知しています。イベントは無くなり、見本市、コンサートは中止、学校も大学も保育施設も閉鎖、公園で遊ぶことさえ出来ません。州と国の合意によるこれらの閉鎖は厳しいものであり、私たちの生活と民主的な自己理解を阻むことも承知しています。こういった制限は、この国にはこれまであり得ないことでした。 旅行や移動の自由を苦労して勝ち取った私のような人間にとって(注※メルケル首相は東独出身)、そのような制限は絶対に必要な場合に
のみ正当化されます。民主主義国家においては、そういった制限は簡単に行われるべきではなく、一時的なものでなくてはなりません。今現在、人命を救うため、これは避けられないことなのです。 そのため、今週初めから国境管理を一層強化し、最も重要な近隣諸国の一部に対する入国制限を施行しています。

経済面、特に大企業、中小企業、商店、レストラン、フリーランサーにとっては現在すでに大変厳しい状況です。今後数週間は、さらに厳しい状況になるでしょう。しかし、経済的影響を緩和させるため、そして何よりも皆さんの職場が確保されるよう、連邦政府は出来る限りのことをしていきます。企業と従業員がこの困難な試練を乗り越えるために必要なものを支援していきます。

そして安心していただきたいのは、食糧の供給については心配無用であり、スーパーの棚が一日で空になったとしてもすぐに補充される、ということです。スーパーに向かっている方々に言いたいのです。家にストックがあること、物が足りていることは確かに安心です。しかし、節度を守ってください。買い溜めは不要で無意味であり、全く不健全です。 また、普段、感謝の言葉を述べることのなかった人々に対しても、この場を借りてお礼を申し上げます。スーパーのレジを打つ方々、スーパーの棚に商品を補充される方々は、この時期、大変なお仕事を担われています。私たち国民のためにお店を開けていてくださって、ありがとうございます。

さて、現在急を要すること、それはウィルスの急速な拡散を防ぐために私たちが効果的な手段を使わない限り、政府の措置は意味を持たなくなるということです。私たち自身、誰もがこのウィルスに感染する可能性があるのですから、すべての人が協力しなければなりません。

まず、今日、何が起こっているかを真剣に受け止めましょう。パニックになる必要はありませんが軽んじてもいけません。すべての人の努力が必要なのです。 この伝染病が私たちに教えてくれていることがあります。それは私たちがどれほど脆弱であるか、どれほど他者の思いやりある行動に依存しているかということ、それと同時に、私たちが協力し合うことでいかにお互いを守り、強めることができるか、ということです。

ウィルスの拡散を受け入れてはなりません。それを封じる手段があります。お互いの距離を保ちましょう。ウィルス学者は明確にアドバイスしています。握手をしてはいけません。丁寧に頻繁に手を洗い、人と少なくとも1,5メートルの距離を置き、出来るだけお年寄りとのコンタクトを避けましょう。お年寄りは特にリスクが高いからです。 この要求が難しいことであることは承知しています。こういった困難な時期にこそ、人にそばにいてもらいたいものですし、物理的な近接、触れ合いこそが癒しとなるものです。残念ながら、現時点ではそれは逆効果を生みます。誰もが距離を置くことが大変重要であることを自覚しなくてはなりません。

善意のある訪問、不必要な旅行、これらはすべて感染を意味し、行ってはならないのです。専門家が「お年寄りは孫に会ってはいけない」と言うのには、こういった明白な理由があるからです。人と会うことを避ける方は、毎日たくさんの病人の看護をしている病院の負担を軽減させているのです。これが私たちが人命を救う方法なのです。

確かに難しい状況の人もいます。世話をしている人、慰めの言葉や未来への希望が必要な人をひとりにはさせたくはありません。私たちは家族として、あるいは社会の一員として、お互いに支えあう他の方法を見つけましょう。ウィルスが及ぼす社会的影響に逆らうクリエイティブな方法はたくさんあります。祖父母が寂しくないように、ポッドキャストに録音する孫もいます。愛情と友情を示す方法を見つける必要があります。Skype、電話、メール、そして手紙を書くという方法もあります。郵便は配達されていますから。自分で買い物に行けない近所のお年寄りを助けているという素晴らしい助け合いの話も耳にします。この社会は人を孤独にさせない様々な手段がたくさんある、私はそう確信しています。

申し上げたいのは、今後適用されるべき規則を遵守していただきたい、ということです。政府は常に現状を調査し、必要であれば修正をしていきます。現在は動的な情勢でありますから、いかなる時も臨機応変に他の機関と対応できるよう、高い意識を保つ必要があります。そして説明もしていきます。

ですから、私からのお願いです。どうか私たちからの公式発表以外の噂を信じないでください。発表は多くの言語にも訳されます。私たちは民主国家にいます。強制されることなく、知識を共有し、協力しあって生活しています。これは歴史的な課題であり、協力なしでは達成できません。 私たちがこの危機を克服できることは間違いありません。しかし、いったいどれほどの犠牲者となるのでしょう?どれだけの愛する人々を失うことになるのでしょう?それは大部分が今後の私たちにかかってきています。今、断固として対応しなければなりませ
ん。現在の制限を受け入れ、お互いに助け合いましょう。 状況は深刻で未解決ですが、お互いが規律を遵守し、実行することで状況は変わっていくでしょう。 このような状況は初めてですが、私たちは心から理性を持って行動することで人命が助けられることを示さなければなりません。例外なしに、一人一人が私たちすべてに関わってくるのです。

ご自愛ください。そしてあなたの愛する人を守ってください。ありがとうございます。

・・・・
Unquote
(翻訳者 註)
ドイツの医療制度は国民皆保険で強固なファミリードクター制度をとっており検査は全て無料。今回のコロナ騒動でも致死率0.25%(3/22現在)と欧州では圧倒的に機能しているといえよう。

奇跡のレッスンーサーシャ・バインを見た

2020 FEB 28 21:21:44 pm by 西村 淳

コロナ・ウィルス関連ニュースを耳にすると絶望的に腹が立ってくるのでテレビニュースは見ないようにしている。何しろ伝染病の「専門家」が手の洗い方を指導し(小学生に教えるように!?)物知り顔の芸能人の放言を一体誰が喜んで見ているのか!
たまたま裏番組でやっていたBS1の「奇跡のレッスン」を見た。途中からだったがあのサーシャ・バインが登場していたからで、言うまでもなく大坂なおみ選手をランキング世界1位に導いた人だ。魔法のようなアドバイスがネガティヴになりかけていた大坂を救ったことがとても印象的だった。今回は大阪にある高校の女子テニス部での指導。うろ覚えだが得心した言葉を忘れてしまわないうちに。
(NHKドキュメンタリー‐奇跡のレッスンより)
○ 世界のトッププレイヤーの練習も同じことをやっているよ。1秒1秒をどう生きる、どう使うかってことが人生でも重要なんだ。
⇒チェロの練習も全く同じだ。こんなに練習しているのにどうしてうまく弾けないんだろう?考えもせずに意味のない練習ばかりしているだろうな、きっと。
○ 相手のことを考えず、自分のプレーに集中する。
⇒ 試合でゲーム・ポイントを何度も握りながら勝ちを意識して体が動かない。相手の姿がちらついて、勝てそうなゲームに負けた!雑念を捨ててやるべきことに集中する。
○ 試合に負けはない、勝つか学ぶかだ。 
⇒ 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けはなし」。野村監督の有名なフレーズと同じことを説く。失敗から学んで次には奇跡も!ライヴ・イマジン44、「牧神の午後への前奏曲」の最後のコントラバスとチェロのピチカート・・失敗続きが成功を導いた。負けて泣いていた生徒がこの言葉に顔を上げた。
○ どんな練習をしてほしい?と尋ねられた生徒が、えっ?と。今までそんなことを考えたこともなかったって。苦し紛れに全部、と言った生徒の答えに一つだけだよ、と諭す。
⇒ 自分で考え、自分で判断し、発信する。どんなものもこれなしには説得力を欠く。大臣の国会答弁を見るがよい。昨今私たちの周りでは自分自身で考え、物事を判断している人はもどかしいほどお目にかかれない。わからない、考える、調べる、納得する。もはや「考える葦」であった人間は化石か。これからAIが出した結論に従い考えることはますます後退して人は奴隷化してしまうのか・・。そういえば将棋の棋士でさえAIでカンニングしていたことがあったっけ。
サーシャの1週間のレッスンが引き起こした技術と心の変化、生徒たちはまさに目から鱗が落ちるような経験をしたに違いない。でもその鱗は今の日本の淀んだ空気の中ではまたすぐに元に戻りくっついてしまう。

ギックリ腰とゴッドハンド

2020 FEB 13 20:20:11 pm by 西村 淳

その日がやってきた。昨日の朝。腰の周りに違和感がある。腰かけている椅子から立ち上がるのが段々と億劫になってくる。ポケモンのジムバトルをしに出掛けるもこんなのろのろ歩きはクルマが来たら撥ねられるなと思いながら道を渡る。グイグイと悪化しているのを実感しながら会社に行けばなどと駅に向かうが最初はトロトロしか歩けない・ま、まずいかも・・ギックリ・・ギックリ・・・悪い予感を抱えながらそれでも歩みに慣れるとそれなりのペースに。身動きできないラッシュの山手線。ワイヤレスホンのBGMはショルティの第九だ。暴力的なベートーヴェンにはこのハガネのような演奏はピッタリ。お、目の前の人が立った、しめた!第九は第三楽章に。うーん天国とはいかないけれどしばしの幸せの時をすごす。ところが大崎駅に到着しても今度は椅子から立ち上がれない!何とかつり革につかまり降車しても流れに乗って歩くどころか階段の手摺につかまり迷惑を撒き散して一歩一歩がやっと。ちょっとのことで腰が砕ける。つ、つらい!幸い会社には到着したものの一度座ってしまうと立ち上がれない!ギックリ菌が間違いなく増殖している。
こうなったら五十肩を一日で快癒させてくれたゴッドハンドに頼るしかない。大崎から東松原までタクシーに乗ったって大した距離じゃない。幸い先生が電話口に出てくれた。おお、神の声だ。その後、キャンセルがあったから2時でもいいですよと。社食で鶏クッパを食べ急ぎ聖地に向かう。
「どんな感じですか?」立川談志似の先生に今朝からのことをあらましお伝えする。ギックリ腰ですよ。何か思い当たることは?うーん、ちょっと辛かったのは根津の打上でべた座り4時間かなあ、と。きっとそれが引き金でしょうけれど、疲労が溜まっているかもしれません。とのことで腰、背中、足の付け根、尻などを丁寧にあるときはググっとゴッドハンドがツボを抑え込む。ワーフェデールのアルニコ・ツィータ―の話をしながらかれこれ2時間近く。こちらもどっと疲労したが、作用反作用で施術者の負担も相応のものがあるに違いなく、領収書を書くことさえ困難になっている。命を削って対応してくださっているのが分るだけに申し訳ないような気持を置いて帰途に。
少しましになったかと電車に座ってみるもののまだ時間的には悪化の途上、やはり立ち上がるのには苦労が伴なう。とても何かをするような元気もなく就寝。ぐっすりと眠れたが会社も流石に今日はおやすみ。ところが朝はまだまだったのに午後からがすごい。もう一分刻みで今度は快復を実感する。チェロの練習もまったく問題ないしすうっと立ち上がれるではないか!!やったあ、また一日で治してくれたわ。それこそ命を救われたくらいの感謝でいっぱいである。何かできっと恩返しをしなければ済まされない。

古典四重奏団 レコード・アカデミー大賞 受賞!

2020 JAN 15 21:21:01 pm by 西村 淳

古典四重奏団の「ショスタコーヴィッチ・弦楽四重奏曲全集」のCDが2019年度「レコード・アカデミー賞 大賞」に輝く!
おめでとうございます!心からお祝いさせていただきます。
このニュースは正直なところ耳を疑った。外部の環境が変化しているとはいえ、メジャーレベルでもなく、日本人が演奏した、室内楽でしかも弦楽四重奏という最もストイックな分野でありながら、この1年間に発表されたすべての録音の頂点に立ったわけだから。
古典四重奏団は思えば2004年の「文化庁芸術祭大賞」という快挙にもう一つ勲章が加わったことになる。早速1セット購入させていただいた。
チェロを担当している田崎先生にはいつもライヴ・イマジンでは毎回ご指導いただき、また時には指揮者としても登場、公演のクオリティを担保していただき大変感謝している。

「レコード・アカデミー賞」は音楽之友社が雑誌「レコード芸術」で採り上げたディスクを音楽評論家たちの投票により交響曲、管弦楽曲、室内楽・・などの各分野において年間の最優秀を決定、賞を贈られる。クラシックファンであれば誰もが一度は目を通したことがある雑誌であり音楽を聴き始めの右も左もわからぬ私にとっても格好の入門書だった。事実その影響力は巨大なもので空前のオーディオ・ブームとの強力なタッグチームは世の善男善女を洗脳して今に至るコンサートゴアーの形成に一役買った。
ベタ褒めされ1967年に大賞に輝いたたベームの「トリスタンとイゾルデ」(バイロイト実況盤)はスネカジリにとって当時はとても高価なもので憧れ以外の何物でもなく、今に至ってさえそのままだ。JBLのParagonと共に憧れは憧れのままの方がいいのかもしれない。

静けさの中から (12) レクチャー・コンサート

2019 DEC 20 21:21:15 pm by 西村 淳

☘(スーザン):コンサート前のトークは最近よくあることだけれど、普通は奏者の一人が舞台に出て、「本日の聴きどころ」といった話を簡単にする程度だ。でも、今日の主催者のリクエストは私たちフロレスタン・トリオのメンバー全員が出てそれぞれのパートの抜粋を弾きながら解説をしてほしい、というものだった。
じつは私たちは今まで、このようなレクチャーに積極的ではなかった。本番の直前に、1時間もかけて曲目の解説をするのは、実際、とても疲れてしまうものなのだ。なによりも、気が散ってしまう。開演前に演奏者が自分でレクチャーをすればさらに集中力が高まる、と思う人もいるかもしれない。でも実際は逆効果で、演奏そのものに対して、言葉では表現しにくいが、距離感みたいなものが生まれてしまう。コンサートそのものはあまり重要ではなく、曲目解説のために実演をしているような気持になってしまうのだ。コンサートでは、音楽そのものが一番大切であるべきだと思う。でも、「音楽」よりも「言葉」のほうが人間に直接的に訴える力があり、理解しやすい。だから主役が「言葉」にとってかわられてしまい、「音楽」がわき役に甘んじてしまうのである。

🍀(私):ライヴ・イマジンでは演奏を始める前に、ご挨拶としてわたしがプログラムのことを中心に5分ほどお話をさせていただく。またライヴ・イマジン37でやったように(初めてのことだが)東さんに「さよなら、モーツァルト君」というプログラムに沿った興味深いお話をしていただいたこともある。ピアノも弾いてこれは20分。また音楽指導をしていただいている古典四重奏団の田崎先生はプレトークと称して、15分ほど開演前にメンバーの演奏を交えてレクチャーをやることがよくある。スーザンが指摘していることは事実であるし、本来であれば「俺の音楽を聴いてくれ」ですまされるはずであるが、実際にはレクチャーという形は好評を得ることが多くお客様は楽しみにしていることのほうが多いようだ。聴衆のひとりとして参加してみるとやはり「言葉」のもつ直接的、直感的なパワーは具体的で直接心に届く。だからこそ言葉はえらばなければならない。あり方としては演奏をする人とレクチャーをする人が同じであるよりは、別の人のほうが全体の水準は高まるような気もするが・・なかなか企画するほうは苦労しそうだ。

西洋音楽の受容について

2019 NOV 16 20:20:51 pm by 西村 淳

吉田秀和氏の「時の流れの中で」(中公文庫)を手に取った。今までこの人の文章は正直すぎて痛いところがあって多くを読んでいるわけではないが、日本人の西洋音楽受容のありかたについてと気になっていたことが書いてあった。ホロヴィッツのモスクワでのリサイタルDVDのことで、以下のような文章である。
「どうしてあんなに落ち着いて、ピアノをとっくりときいていて、しかも感激性を失わない聴衆が、あすこには大勢いるのだろう?いくらモスクワでも、何十年ぶりかのホロヴィッツのリサイタルだというので、センセーショナルな事件として受け取られたのだろうから、あの聴衆の中にもそういう異常な出来事に対する好奇心というか、やじうま根性で集まってきた人々がいなかったはずはない。だが、全体の雰囲気はとてもそんな上っ調子のものではなかった。・・とにかく、モスクワにはじっくり音楽を聴く聴衆の層が存在する」
ドイツでもポーランドでも留学したりそこに住んだことのある人であれば異口同音に「生活の中に身近なところに音楽がある」と言う。それは家庭であれ、教会であれ、路上であれ、生きることと表裏一体になったものとして存在することを実感するのだろう。
日本には音楽に限らず、人生そのもの愉しもうとする人がとても少ないのではないか。たとえばクラシック音楽の愛好者は全人口の1%だそうである。その1%の人たちの音楽の楽しみ方はこれだ。コンサートに行けばお行儀よく咳払い一つに気を遣い、ほんのわずかの物音に過剰な反応をして日ごろのストレスを発散するどころかストレスを溜め込んでしまう。ただこれとて恵まれた都会の住人たちの話。生演奏は田舎に住む人間にとっては人生とは無縁の物なのだから。一時期、この状況に騙された外来演奏家が日本の聴衆のレベルの高さを云々する話をよく耳にしたが、吉田氏の外国での体験にあるような反応は日本にはない。なんと哀しき精神構造か。
先生に言われたことを1mmも外れることなく徹底的にやり抜く態度はいわゆる芸事にあって芸術ではない。なぜなら芸術とは学ぶことではなく生きることそのものだから。ドビュッシーが言ってるではないか・音楽は人に教えられるものではありませんと。日本において音楽は芸術ではなく芸事であり、その精神がピアノやヴァイオリンの技術を磨くことに反映している。だから何某の門下いった派閥が派生し、外国でいくら素養を磨き、極意を習得しても帰国してからは○○大学の△△門下でない人には何一つとして仕事が回ってこないし、仮にそれの突破を図ったところで一時的なもので、ネグレクトされてしまう。無視されるということは村八分であり、相当にきつい。要は日本の家元制度の音楽シーンでは生きていけないということ。さらに加えて閉鎖社会の中での音楽家たちの社会的な地位は低い。
チェロの鈴木秀美さんの師匠でもある、井上頼豊さんの「井上頼豊 音楽・時代・ひと 」(外山雄三、林光(編集)音楽之友社刊 )という本に彼が戦後シベリアに抑留された時、ロシア人から「日本では音楽家も戦争に行くのか?我々の国では音楽家は戦争には行かないよ」と言われたことがショックだったと書いてあった。必ずしも現実はその通りではなかったにせよ、音楽、芸術を大切にしている社会とそうでない社会の違いがそこにある。最近はよくフラッシュ・モブという形態でクラシックの音楽家たちが外に出て行って皆を楽しませるような催しが世界各地で行われている。例えば最初はコントラバスが一人で何かのメロディーを弾き始め、徐々にほかの楽器が加わってみたいな、あれである。道行く人たちの小さな幸せを拾った喜び、柔らかな表情がとても良く、ああ、同じように音楽を感じ受け止め、楽しんでいる・・私と波長が一緒だ!みたいに。こんなのを観たり聴いたりしていると、昨今のこの閉塞した日本の社会から脱出して同じ呼吸をして価値観を共有する人たちのところに行ってしまいたい、などと感じてしまう。

静けさの中から (11) 旬を過ぎた書込み

2019 OCT 31 21:21:18 pm by 西村 淳

☘(スーザン):音楽家が楽譜に約束事を書き入れるとき、音符の上にぐにゃぐにゃと波線を欠くことが一番多いと思う。これはそこの部分のテンポが「少し揺れる」という意味だ。そこの部分を、ほんの少し時間をかけて演奏することによって、音色のうつろいをはっきり示す余裕ができる。
とくに約束事が混雑するのは、曲の中で、一つのセクションが終わって、次の段階に入る「変わり目」に来たところ。ほとんどの奏者が、意識的に入れ込んで弾きたくなる。たとえば楽曲のなかで重要な位置を占める「第二主題」。曲が展開する大事なところではあるけれど、作曲家がこの「第二主題」が出現するときにテンポ表示を変えることは、まずない。でも「第二主題は第一主題に対して全く異なる雰囲気を持つもの」と決まっているから、奏者にとっては大切にしたい「変わり目」なのだ。だからこの部分をどうやって演奏するか、どの奏者も頭を悩ます。

🍀(私): 私の場合音符の上にぐにゃぐにゃを書き込むのはどうしてもヴィヴラートがほしい、忘れずに、って時が多い。書いておかないとすぐに忘れるのはあたりまえとして、こぐにゃぐにゃを書いても見えない(!)ことさえあるのだ。お休みが沢山ある(休符がたくさんある)ところの他の人の旋律などもよく書き込むし、あとは指示、例えばErsts ZeitmaBには「初めのテンポで」とやる。こんな作業をしているとドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の指示がドイツ語で書かれているのを見つける。おお!生粋のフレンチマンだと思っていたのに、標題はフランス語なのになぜかドイツ語で指示が。じゃあ彼のほかの曲は?とどんどん好奇心の渦に溺れていく。人生足りないわ。
さて、スーザンが指摘しているこのあたりの表現の仕方をどうするか、これにはアマチュアもプロもない。「第二主題」の処理の仕方については、いい音楽家であればあるほど、実際にテンポが揺れているにもかかわらず、気づかれないようにそしてきわめて自然にやっている。とても先生が教えられる領域ではなく、「才能」が処理の分かれ目となる。
もしこういったことを勘違いしてテンポを変えようとする人が演奏するメンバーにいたら大変だ。そう、第二主題が出現してもテンポはそのままが原則なのだ。自信たっぷりにテンポ変更をやられるとそうかなとは思っていても、だがしかし・・その対応次第では友達が、いや人生を失ってしまうかもしれない。

バルトーク・レコーズ

2019 OCT 5 21:21:41 pm by 西村 淳

バルトーク・レコーズはベラ・バルトークの息子で、録音技師だったピーターが主に父の作品を制作する目的でベラの死後、1949年に設立した会社で、その頃録音された米ピリオドの有名な録音はこの頃のものである。シュタルケルの代名詞にさえなったコダーイの無伴奏チェロ・ソナタはその圧倒的な演奏と輝かしい音で今日に至るまで全く色あせていない。
「バルトーク・レコーズ・ジャパン」の村上泰裕さんから注文したCDが届いた。少し前にソニーから復刻されたニュー・ミュージック四重奏団(NMQ)の米コロンビアに録音した全てがCDでリイシューされたのをきっかけに、バルトーク・レコーズのNMQによるベートーヴェンを探していて村上氏につながったわけである。NMQは1948年から1956年までしか活動をしなかったことと、モノラルからステレオへの変遷という過渡期だった不幸も重なりほとんど顧みられなかった団体ながら、完璧な演奏は後のジュリアード四重奏団の範ともいうべきものだ。
村上氏はバルトーク・レコーズ・ジャパンを立上げ、ピーターの録音の保全、販売などを手掛ける一方で、ここが一番凄いところだと思うが、ベラが望んでいて果たせなかった出版譜の改定をピーターと共に行っている。CDに同封されていた商品カタログと日経の文化欄に掲載された「バルトーク愛 楽譜校訂」の記事を読んで驚いた。単なるCDの転売屋さんではなかった・・。私達演奏者はどんな一つの音符であってもないがしろにすることは出来ない。常にその意味を考えているから信頼すべき校訂版の登場は本当にありがたい。本当にいい仕事をしているに違いないし、心からエールを贈りたい。
既に出版されたものは「青ひげ公の城」のスタディ・スコアなどすでに16点を数え、そのために教職を辞しまでした使命感が村上氏の中で赤々と燃えている。人としての一番大切なものが何なのかを伴って。知己を得る前に購入し未読のままだが、「父・バルトーク 息子による大作曲家の思い出」ピーター・バルトーク著 村上泰裕訳 ㈱スタイルノート刊もある。
さて、肝心のバルトーク・レコーズである。この会社を知り、係わりを持ち始めたのは「ある晴れた日に」という個人(故古畑銀之助さん)のレコード通信に紹介されたのがきっかけであった。この通信は眼を世界に向けてくれたし、おかげで多くのLPが海外から我が家に届いた。それまでとても遠い存在だったバルトークが途端に身近な人となったNo.17(1976年4月)を以下に引用する。

▶ 「バルトーク・レコード」が手に入る
・・吉田秀和「一枚のレコード」(中央公論社)のトップに出てくる「バルトーク・レコード」#916、無伴奏ヴァイオリン・ソナタは、ジュリアード四重奏団のロバート・マン若かりし頃の録音、私は前からこれがほしくてニューヨークへ行くたび、あっちこっちのレコード店で「バルトーク・レコードは」と尋ねてみましたが、「もうない(ノーモア)」と、そっけない返事。しかし、ほかのバルトーク・レコード社、ときおりセール箱にほうりこまれていて、安く入手できること、ニューヨークもシカゴもバッファローもトロントも、同じで、またシュワン‐2(モノラル・カタログ)には、いまなお全「バルトーク・レコード」が掲載になっているのです。そこで、とうとう去年、シュワン・カタログ社に問合せ、新しいあて名を知りました。早速手紙で問合せ、二つ折り四項の小パンフレットと、値段は一枚5ドル、と報せてきたので、直接注文したら、すぐレコードを送ってきました。セロの堤剛氏に、「ピーター・バルトークはどうしてるだろう、先生のシュタルケルに尋ねてみてくれないか」と、私は一度話したことがあり、堤氏は、「たしかニューヨークで今もレコード社をやっていて、欲しいという人にだけ売っていると聞いていますが」と言っていましたが、その通りでした。
パンフによると、全部で35枚のレコードがあります。みなモノラルです。しかしながら、やれステレオ、やれ4チャンと、計測器に頼って音とりし、またその音を後で加工する、というような、この頃の技師たちのやり方と違い、自分の耳だけを頼りに正しい音を残すことに努めたピーターは、このバルトーク・レコード社の設立前後にも、モノラル・ピリオド盤コダーイの無伴奏チェロ・ソナタ(シュタルケル)、先にも書きましたように、日本のオーディオ・ファンの名言「弦の松脂の粉の飛び散る音まできこえる」名盤名録音を残していますが、モノラルとはいえ、この35枚中にはやはり名録音があります。
35枚全部を聞いたわけではありませんが、特に録音でめざましいのは、#908、Tibor Serly:Sonata for violin solo(Frankces Magnes,Violin)です。このレコードは、針を落とすなり、目の覚めるようなピチカット・ヴァイオリンの音が豊かに飛び出してきますし、曲も演奏もよろしい。ピリオド盤コダーイに勝るとも劣らなぬ名録音だと思います。これに比べると、私が欲しかった上記のロバート・マンのバルトークのソナタは、演奏は素晴らしいけれど、少しふやけた音がしますし、またいかに鋭いピーターの耳とはいえ、当時の録音装置では、オーケストラやピアノ物は、現在の水準からみると不満が多いこと、やむを得ないでしょう。
また、我が国は、オーディオ・マニアの多いこと、世界一だと信じますし、ピーター・バルトークの名も、アメリカより我が国でこそよく知られているのではないかと思いますが、わが国レコードメーカーの誰か、ピーター・バルトークを日本に招き、よい録音を企画しようという人はいませんか。「良い録音」という意味は、優れた機械に頼るのではなくて、優れた音楽的な耳に頼る、ということを私は言いたいのです。

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