Sonar Members Club No.31

since February 2013

静けさの中から (10) ハ長調の色は?

2018 SEP 30 21:21:01 pm by 西村 淳

☘(スーザン):ピアニストのエレーヌ・グリモーが演奏前のインタビューで彼女は音楽を聴くと、本能的に色彩を感じる、とはなしていた。それは音楽の二次性感覚(Synaesthesia)と呼ばれるもので、最近よく知られるようになってきている。
この感覚を持っている人は、何調の音楽を聴くと、何色、というふうに特定の色がはっきり見えてくるらしい。エレーヌは「ハ長調はぜったいに白です」ときっぱり言っているが、これは個人的な感覚に基づくものだから、二次性感覚を持った人でもそれぞれ意見が異なるのだそうだ。
同じ質問を受けたら、たぶん私も「ハ長調は白」と言うだろう。ピアノのハ長調は、すべて白鍵で弾く。ピアノと長年付き合っている人間にとってみれば、ハ長調が白いと思うのは自然の成り行きではないかなと思う。
夫のボブがこう付け加えた。「色っていうのは、つまり光(可視光線)のことだから、光の波長や、音の周波数、それぞれの調整の間に、なにか協調性や関連性があるのかどうか、調べてみると面白いかもね」・・「関連性って?」・・かれは深い眠りに落ちていた。

🍀(私):二次性感覚という単語はよく知らない。でもボブの言うことはちょっと面白い視点かもしれない。
グリモーがどうのじゃなくてじゃあおまえはどうだ?といわれたらハ長調は白。イ長調は青、ヘ長調は黄色、ニ短調は茶色、変ホ長調は????。ところで電話で聴く時報の正時に鳴るのが440Hzでその半音下が約415Hzだそうである。で昨今のバロックの標準ピッチはこの415Hzなので衰えたとはいえ、440Hzで作られた絶対音感を持った人間にとって気持ちが悪くて仕方がない。でもハ長調はハ長調であって、ロ長調ではないわけで、半音低くてもこれを白とするだろうか?少なくとも私にとってはもう白ではない。しいて言うなら薄い茶色か。ただ調性が曲の性格を表すこともあるに違いないし、ショパンの雨だれのプレリュードはロ短調でなければならない。このあたりが音楽の楽しみでもあって1+1は人それぞれなのである。2の人も3の人も1のままの人も。
と書いてみたものの、調性の性格や表現も所詮時代の子なのかもしれない。つまり18世紀、ラモーやシャルパンティエはヘ長調の性格を「荒れ狂ったような」「嵐、憤怒」と著し、これは私たちがベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ「春」や交響曲第6番「田園」で植え付けられたイメージとは大きく異なっていることがわかっている。

「蜜蜂と遠雷」を読んでみて

2018 AUG 12 15:15:36 pm by 西村 淳


恩田陸著「蜜蜂と遠雷」
幻冬舎刊

恩田陸の有名な作品だそうである。今まで読んだことがなく、著者の名前は知っていた程度だったがいやはやこの作家は素晴らしい。テーマは「ピアノ・コンクール」。音楽を筆の力で伝えることは至難の業なのにコンテスタントが弾いている有名な曲は頭の中で鳴るし、実在しない作品までその音の形が想像できる。コンクールの臨場感と緊張感の描写はその特別な場に私をワープした。誰がその頂点に立つのかをワクワクしながら読み進め、アッチェレランドに乗った読了後の爽快感はたまらない。私だったら「素晴らしかった」とか「最高!」とかそんな表現しかできないなと思いつつ、どうしたらこんなに書けるのか著者の略歴を紐解いてみた。あーやっぱり、ご自身でピアノを弾くそうだ。かと言ってピアノが弾ければ文章が書けるわけでもなく、文章が書ければピアノが弾けるわけでもない。
その中にちょっと気になる文章を見つけた。音楽をビジネスとしてみるなら、あらゆる手段を使い利潤を追求する。それに私たちも少なからず恩恵を受けているが、裏があるのはどの世界であっても同じこと。
「聴衆の聴きたい曲と、ピアニストの弾きたい曲は必ずしも一致しない。例えば、いわゆる現代音楽は、「普通の」聴衆には敬遠される。リサイタルの主催者からプログラムに現代音楽は入れないでくれと懇願された話はよく聞くし、ショパンやベートーヴェンらの人気曲を入れ、そちらを宣伝に押し出すことでようやく現代音楽を一曲いれられたらいいほうだという。人気ピアニストになり、ファンのすそ野が広がるにつれてその傾向は強まる。より多くのチケットを売り、大ホールをいっぱいにするには、より多くの聴衆が聴きたい曲をメインにする必要がある。新聞や雑誌、チラシに印刷されたプログラムの中に、お客さんの聴きたい曲とピアニストの弾きたい曲のせめぎあいが見える。チケットを売る側の思惑と、冒険したいピアニストとの駆け引きが透けて見える。」
手前味噌ながらライヴ・イマジンのプログラミングについて褒められることが時々ある。プログラミングは私自身の弾きたい曲、好きな曲はその曲を知らない人にとってもきっと好きになってくれるに違いない、という信念に基づいている。そのモデルが正しかったかどうかはお客様が残してくれたアンケートに顕著だし、拍手はとても正直なものだ。結局は名曲が並ぶことが多くなるが、やはり名曲には名曲たる所以があるし、知られざる何とかはどう考えてもベートーヴェンやモーツァルトを凌ぐものではない。無料のコンサートだからこその冒険もたまにはさせていただいているが、ここにある演奏家本位ではなく作品本位でのコンサートの成立ちだったことに改めて我ながら驚く。

技術者が死にかけている

2018 JUL 29 21:21:11 pm by 西村 淳

勇払工場の閉鎖が決まり日本の製造業について考えてみた。
なぜ製造業はこれほど疲弊してしまったのだろう?製造業の疲弊は日本そのものの疲弊だ。
あれほど高い評価を受けていた技術者たち、職人たちは一体どこに行ってしまったのだろう?原点に立つなら技術者であれば誰だっていいモノを作りたい、より一層いいモノを作りたい。その結果、社会に貢献しているような気もしてやりがいも満足感も得られた。仕事の生きがいはこのことと支払われる給与との両輪だった。
ところが1980年以降に会社でしている仕事は目先のコストダウンのことばかりだ。鉄板を1mm薄くしたらいくら儲かるかなんて経営者じゃなくたって小学生だって計算できる。いやいややらされる一時の利益確保のためのコストダウン、行きついた先は能力給という言葉に置換された減給、挙句の果てリストラだった。人がいなくなった工場で始めたのは苦し紛れの検査偽装、そして開発遅れに納期遅れと信用失墜。国内への投資も先細り、「経験」するという貴重な場を奪われ人が育つわけがなく今ではメーカーのプレゼンテーションは60歳を超えたベテランばかりだ。
コストダウン、省エネだけでは技術革新はなく、ちまちました改善ばかりである。そう、仕事に生きがいなんかなくなっちまった。これでは技術者は死んでしまう。これが今の日本が失ったものの一つだろう。
より良いモノではなく、より安いモノ。別にルイ・ヴィトンのバッグを持つことが良いとは思わない。バブルの頃、持っていない人を探すほうが大変だったのに、持って歩いている人を見かけることはほとんどなくなった。安物が好きなんじゃない、お洒落だってしたい、
でもこれしか買えないんだよ!!安くて良いものをと言う。よく言うよ、そんなものは夢か幻か。
希望を失い、理想を失い、生涯働いても家の一軒すら持てない。外を歩けば心を閉ざし目の輝きを失った疲れた顔の人ばかり。白髪のおじいちゃんには過酷な建築現場の作業はさぞかし辛かろう。
今、私たちのようなロートルが頑張っている間に新たな価値へのチャレンジと創造がなければ本当にこの国は死んでしまう。
まだ言うか!?何とかなる?甘く見ないほうがいい、残されている時間は限られている。
そして外ではとてつもないスピードで技術革新が進んでいるのだから。

奇跡の写真

2018 JUL 16 17:17:59 pm by 西村 淳

1929年、ワイマール共和国、ベルリン。

このCDジャケットの写真を見て痺れた。
左からブルーノ・ワルター、アルトゥーロ・トスカニーニ、エーリッヒ・クライバー、オットー・クレンペラー、そしてヴィルヘルム・フルトヴェングラー。ワイマール共和国の黄昏、それにしてもよくこの写真がとれたものだ。まさに丁度このころモットル夫人を介してフルトヴェングラーに面会する機会を得た近衛秀麿はその著書「フィルハーモニー雑記」(音楽文庫‐音楽之友社、1954年刊)に記す。・・面会の唯一の注意として、「彼の前ではトスカニーニのトの字も言ってはいけない」。思わずにやりとしてしまうが、この奇跡の一枚、クラシック音楽を多少なりとも齧った人にはその価値はよく理解できるに違いない。20世紀はカリスマ指揮者の時代だった。

勇払にいた頃

2018 JUL 14 22:22:18 pm by 西村 淳

私にとって衝撃的なニュースが舞い込んだ。それは「地元に衝撃ひろがる 日本製紙勇払事業所の洋紙生産撤退」と題された日本製紙勇払工場が2020年をもって操業を完全に停止すると報じた苫小牧民報社からのものだった。80年にわたり苫小牧の紙パルプ産業の一翼として人々の生活を支えてきた工場の閉鎖は決して軽いものではない。

(苫小牧民報社;2018年5月29日付配信記事より)

オフィスでの紙使用量を考えると実感はないものの、ペーパーレスという言葉がいよいよ現実のものとなり、10年くらい前からアメリカでは新聞社がバタバタと倒産に追い込まれ業界そのものの崩壊が始まっていた。一方日本では緩やかな変化であったが、とうとうここにきてもう持ち堪えられなくなってしまったようだ。今や電車の中で新聞を読んでいる人にお目にかかることはほとんどない。
勇払は日本で初めて三角測量の基点となった地でもあり、苫小牧からの日高本線が王子軽便鉄道のころ、訪れた宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」のモデルとしたという説もある。
旧山陽国策パルプ工業(現日本製紙)という紙・パルプを生産する会社に就職し、転勤してきたのがこの地だ。1980年ころの勇払は周りには出光の製油所くらいしかなく、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」にあるヒースの茂れる最果ての地とイメージは重なる。常時風が強いため工場の煙突の煙は必ず横にたなびき、冬の厳しさは明治時代に屯田兵として入植した八王子千人隊の命をすべて奪った。海が荒れた翌日には海岸に北寄貝が打ち上げられ、荒涼感に拍車をかける。社宅の庭を放置していたら天然のイングリッシュガーデンになってしまいグリーンアスパラが自生していた。近くにあるウトナイ湖のバード・サンクチュアリあたりから飛来する鳥たちの餌付けはヒッチコックの「鳥」の一場面がリアルに再現した。満天の星空の下、こんな美しい星空をそれ以降見たこともなかったが、もう自然なんかいらない、もうたくさんだ、なんてどれほど思ったことだろう。
だが勇払には私の「生きる」ことへの原点を作ってくれた。それまで計測・制御という世界とはほとんど無縁だったが、配属された工場の「計装課」という部署で見よう見まねで必死になって身に着けたプラント制御の技術はその後の人生を支え続けている。とにかく生活の礎をここでの6年間で築いた。
工場の勤務は朝8時から夕方4時までであった。社宅からは10分もあれば職場に行けたし、さらに景気が悪くなって週休3日という時期があったりでとにかく自由になる時間がたっぷりと用意されていた。長い付き合いになるチェロを始められたのはこの有り余る時間のおかげといってもいい。当時札幌に居を構えていた小林道夫先生から紹介していただいた札幌交響楽団のチェロの先生のところへレッスンに毎週60kmの運転をして出かけた。それまでピアノを音楽の原点としていたが、就職してみると「転勤」という言葉が現実になりピアノを持って歩くことは現実的ではなく、チェロと共に歩む音楽事始めはここからだ。人はパンのみにて生きるにあらず。計測制御の技術が「生きる」ことを支え、それだけでは飢えてしまう魂を音楽がバックアップするという人生の基本構図がはっきりした。
勇払工場の閉鎖により一つの時代が幕を下ろす。それと同時にわが人生もそろそろこのあたりが黄昏などと言ってはいられない。音楽はまだこれからだ。

両国界隈

2018 MAY 21 21:21:17 pm by 西村 淳

20数年前、住居を今の場所に決めた。決め手はロケーション。その当時は出張も多く週2回の国内、年2回の海外、みたいな感じで羽田と成田、東京駅への利便性を第1に考えたことに加えオフィスが西新宿にあったことから大正解だった。何しろ田舎から出てきてしばらく住んでいた西武新宿線沿いの久米川では夜、最終便で羽田に降り立ってから我が家がはるか遠くに感じられ、なんとか間に合った電車で読書に夢中になって乗り越してしまい、戻る電車がない始末。ここ両国に居住してからはそんな精神的な負担はほとんどなくなった。言うまでもなく通勤時間は短ければ短いほどいいということも実感できた。
このあたりは本所・深川という江戸の下町。関東大震災と戦災でそのほとんどが灰燼に帰してしまったエリアで、海抜もほとんどゼロメートル地帯。地味としては良いわけがなく山の手の住人からはその点が一番評価されないことと聞く。ただ、東日本大震災の時には液状化現象が起きたわけでもなく、(今話題の豊洲なんかはマンホールが柱状になって突き出していたりしたが)唯一の心配は大雨、大嵐の荒川の氾濫か。
良くないことばかりではなく、白髭神社のお祭りは下町の風物詩であろうし、本所松坂町では吉良の殿様はそれほど悪人でもない、とばかりに毎年吉良祭が行われるし、近くの回向院は鼠小僧次郎吉の傍に我が愛猫ビリーも眠っている。何と言っても尊敬する葛飾北斎ゆかりの地でもあり最近では小さいながら北斎美術館までオープンしてしまった。北斎はライフ誌にミレニアムの年、最近1000年で最も影響のあった人物100人の中に選ばれた唯一の日本人であるが、海外での評価と極東のガラパゴス島の評価に乖離を感じてしまう。東に行けばポケモンGOの聖地でもある歓楽街・錦糸町。そうそうポケストップのあるちっぽけな野見宿禰神社は相撲の神様がいるそうだ。
一方、「すみだトリフォニーホール」は度々ライヴ・イマジンでは本番に、練習にたびたびお世話になっている。このホールの音響とプロフェッショナルな運営は他の公共ホールとは一線を画す。第40回の記念公演がここで出来ることが自慢のタネ。演劇ではやはり聖地となっているシアターΧ(カイ)。ソナーメンバーのお一人、早野ゆかりさんが出演する演目も今月の25日からここで予定されている。
こうして挙げてみるとわが街も悪くない。それどころか歴史を大切にし、その伝統を現代に生かしていこうという姿勢が古い下町の空気にモダンの息吹を吐きかける。
夜の帳が落ちるころ、ふと見上げるとスカイツリーのイルミネーションが美しい。強烈に現代を主張しながら。

静けさの中から (9) 解説書付き

2018 MAY 15 22:22:57 pm by 西村 淳

☘(スーザン):朝食のトーストを焼いていたら、ラジオからバッハの「マタイ受難曲」が流れて生きた。美しいありあ「成し遂げられた」である。十字架にかけられたイエスが最後に口にしたと伝えられる言葉だ。
一緒に聴いていたボブが、このテーマは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタOp.110の緩徐楽章に出てくるテーマと同じだという。わたしはこれまでOp.110を何度も演奏してきたけれど、この曲がマタイ受難曲のこのフレーズを引用していたとは全く知らなかった。Op.110の緩徐楽章では、ベートーヴェンはかの有名な「嘆きの歌」(悲歌)を展開する。ここで「マタイ」のアリアを使ったのは明らかに意識的なことであったろう。
それを今まで知らなかったとは。そのことは素直に恥じている。けれでもこの事実を知ったことによってベートーヴェンのOp110に対する畏敬の念がさらに別次元に達するように増したかというと、そうではなかった。ベートーヴェンが最終楽章の終わりでこの嘆きの歌にたどり着くまでの流れ、、全体の構成の中での位置づけ、意気消沈しきったリズムの開始。そこから主題が展開していくありさま、旋律の断片、そして再び沈み込む・・このすべてが、彼が訴えたかった意味を明快に伝えているからである。
これはベートーヴェンが、自らの作品そのもので全てを語りつくしたことを説明しているわけで、最高の賞賛に値する。それにくらべてこれまで何度、この曲にはこのような意味があり、何某を引用していますと飾り立てられたことか・・まるで実態よりも素晴らしいものに仕立て上げようとするように。

🍀(私):ベートーヴェンのOp.110のソナタは私も大切にしている曲。でも目からうろこの落ちるような話!知らなかったなあ。
でもこの意見には迷いがありました。やはり作品の背景とか、作曲動機とかそういったことを知らなければ曲を理解できないのではないかという懸念。とはいっても書かれた音符そのものが語る、語らせるわけで、それ以上のものはないという考え。知らないよりも知ったほうがいい、というのはこの場合は当てはまらない。知ったからといって、表現が変わるなんてことは本当にないか?いくつかの項目をあげると
フレージングが変わるか? → Maybe so
テンポが変わるか? → Supposed to
歌詞の理解が変わるか? → Maybe
それを表現できるか? → Maybe not
リズムが変わるか → No!
ボウイングは変わるか? → Probably No
これだと実際に演奏に出てしまう可能性もある・・しかも無知よりはいいはず・・むぅ・・・・。
スーザンのは正論だし、私もマタイのFinished !については知らなかった。でも迷える老羊はこんな結論になってしまいました。

日本の歴史に翻弄された音楽作品

2018 MAY 3 22:22:36 pm by 西村 淳

大日本帝国は皇紀2600年の記念行事の一つにその当時の大作曲家に作曲を依頼している。1940年、日米開戦の1年前のことである。リヒャルト・シュトラウスという大立者に依頼している事実を知った時、びっくりしてしまったが、その作品がこの人の管弦楽曲であるにも関わらず、録音はおろかほとんど演奏の機会すらなかったのには、二度びっくりだった。フジタ等の戦争画と同様、やはりその成立ちが大きな影を投げかけているのであろうか。ところがシュトラウス以外にも委嘱を受けた作曲家が何人かいたし、以下がそのその全容である。
・ ブリテン(イギリス) シンフォニア・ダ・レクイエム
・ ピツェッティ(イタリア) 交響曲 イ長調
・ リヒャルト・シュトラウス(ドイツ) 日本建国2600年祝典曲 Op.86
・ イベール(フランス) 祝典序曲
・ ヴェルシュ(ハンガリー) 交響曲
この中であまり馴染みのないのはピツェッティとヴェルシュ。一方、訳あり(どう言い訳しようと、レクイエムはないでしょう)で却下されてしまったブリテンとイベールはその後も演奏される機会に恵まれている。こうして見ると枢軸国側にあったシュトラウスやヴェルシュ、ピツェッティはろくな評価をもらっていない。うがった見方をすれば戦後処理がそのまま反映されているのではないだろうか。
「いや、つまらん作品なんだ所詮」、という意見もあるかもしれないが前述した通り演奏機会に恵まれず、判断のしようがないというのが実情だ。皇紀2600年オーケストラの録音で
イベールの作品は「あかとんぼ」の山田耕作が行っている。写真では10人のコントラバス奏者が写っており(公式には12人)160人ものマンモス・オーケストラはまるでシモン・ボリバル管弦楽団を思い起こし苦笑してしまった。
そんな折、ピツェッティとイベールの楽譜が手に入った。おそらく印刷製本されて作曲者のもとに届けられたものと同じものであろう。1940年発刊とある。
曲の内容と言うより日本人として歴史の中にあった西洋音楽との接点をこれらの楽譜感じることが出来る。見る、触れる・・それはモーツァルトの自筆譜ファクシミリを手にしたときの感覚と似ている。300万人の犠牲者を出した大きな戦争に突入する直前、平和を信じ、世界の仲間入りをしようと背伸びをしていた痛々しい時代を映す、滑稽にすら見える哀しい感覚。人によってはゴミ、ただ私にとっては心の拠り所の一つとして大切なものである。


(写真提供:ディスク・ユニオン ストアブログ)

静けさの中から (8) 音楽家の一代目

2018 APR 15 21:21:14 pm by 西村 淳

☘(スーザン):成長する過程で、両親から「音楽家を志すなんて、おかしなことはやめなさい」と言われ続けたら、どうだろう?
演奏家は、自分の考えを音を通じて披露すると同時に、批判の対象になることも覚悟して舞台に出なければならない。そんな時、一番の心の支えになってくれるはずの家族から「音楽を職業にするなんて、世の中のためにならない」といわれつづけた経験があると、いざというときに自分に確信がもてなくなってしまう。
生徒の一人に三十代で音楽学校に入学した女性がいる。やっと音楽家を目指す決心がついたという。子供のころから音楽の専門教育を受けたいと思ってきた。でも家族からは「音楽は趣味でやるものでしょう」と言われ続けた。とりわけ母親は毎日のように、練習中でもおかまいなしで部屋に入ってきて、「スーパーの買い物をするとか、アイロンがけをするとか、もっと家族のためになることをやってちょうだい」と迫ったという。この女性の家族は「ピアノを弾いているなんて、身勝手。日常生活の何の役にも立っていない」とにべもなかった。彼女自身が自信を失ったのは当然と言える。
私も音楽家一世である。「本当にこんなことをやっていてよいのかしら」という一抹の不安と迷いから逃れられないでいる。

🍀(私): 考えさせられる。音楽はわたしにとって生きることそのものになっているし、やはり子供のころピアノを習わせてくれた親に感謝するものの(まだピアノが一般家庭に普及する前のことで、クラスの男子でピアノを習っていたのは私だけ、というか全学年で一人だけだったかもしれない)家族はそれを生業とすることには絶対的な拒否の姿勢を持っていた。やれ「音楽を職業にしたって食べていけるわけがない」、「それは趣味でやるものだ」、「東京の音大はとても高いんだ。それに○○さんなんかは毎週飛行機で△△先生のレッスンを受けに入っているし、それなしには入学もできないんだ」などがみがみと小学生の高学年あたりから風当たりがだんだんと強くなって行ったのを思い出す。田舎に音大などは勿論なく「東京藝術大学」だの「武蔵野音楽大学」「国立音大」なんていう名前は後光が射していたものだ。後発組の「桐朋音大」はまだ地方まで名前は届いていなかった。
結果として音楽を志したところで音楽家になれたかどうかは別にしても、今になって振り返ると音楽を職業にしなくてよかった、と人生の進路選択は正しかったに違いない。音楽はどこまで行っても解らないものだし、今はその過程を下手な演奏であっても十分楽しんでいるわけだから。ただもし音楽家となっていた場合、ピアノ弾きだったらアルゲリッチがポリーニがバレンボイムがライヴァルであったに違いないし、それを考えるとはっきり言って私の怠惰な性格では彼らに太刀打ちどころか、箸にも棒にも掛からぬものなのは明白だ。スーザンの文章にはその道に踏み込んだ人のことが書いてあるが、スーザン自身それなりの地位と栄光を手にし喝さいを浴びてさえ、まだどこかにわだかまりが残っているようだ。

I(アイ)教授の訃報

2018 APR 1 21:21:04 pm by 西村 淳

日ごろアイ教授、と呼んでいた国立音大教授、礒山雅さんが2月22日に亡くなったことをコンマス・前田さんからのメールで知り愕然としてしまった。今年の1月27日、雪の日に転倒し、外傷性頭蓋内損傷、71歳とのこと。
日本の、否世界のバッハ研究の第一人者であり、特に「マタイ受難曲」への思い入れは部外者たる私のところにもその空気は届いていた。また2006年、国立音大での鈴木秀美さんのチェロ、平井千絵さんのフォルテ・ピアノによるベートーヴェンのチェロソナタ第1番が演奏された。秀美さんの素晴らしい演奏が終わった後で、最前列に座っていた礒山教授が感極まって大泣きしたのを思い出す。これが生前、唯一の接点であったが、その柔らかな語り口と類まれな感受性は独特の音楽観を伝えてくれた。
2月17日のライヴ・イマジン39の公演ではバッハのピアノ協奏曲二短調もプログラム冒頭に置いていた。事前準備には礒山さんの「J.S.バッハ」(講談社現代新書)を読んだりもしていたし、あまり馴染みのなかったバッハ作品の羅針盤にさえなってくれた。まさかそんなこととはつゆ知らず、この日、バッハの力強い音楽はホールに鳴り響いた。
まだブログはそのまま公開されているが、その中のおススメ本に「神坐す山の物語」浅田次郎著(双葉文庫)があったので今日早速丸善で買い求めた。I教授の余韻を噛みしめながら読み進めよう。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

GONZO
三遊亭歌太郎
小林未郁