Sonar Members Club No.31

since February 2013

奇跡のレッスンーサーシャ・バインを見た

2020 FEB 28 21:21:44 pm by 西村 淳

コロナ・ウィルス関連ニュースを耳にすると絶望的に腹が立ってくるのでテレビニュースは見ないようにしている。何しろ伝染病の「専門家」が手の洗い方を指導し(小学生に教えるように!?)物知り顔の芸能人の放言を一体誰が喜んで見ているのか!
たまたま裏番組でやっていたBS1の「奇跡のレッスン」を見た。途中からだったがあのサーシャ・バインが登場していたからで、言うまでもなく大坂なおみ選手をランキング世界1位に導いた人だ。魔法のようなアドバイスがネガティヴになりかけていた大坂を救ったことがとても印象的だった。今回は大阪にある高校の女子テニス部での指導。うろ覚えだが得心した言葉を忘れてしまわないうちに。
(NHKドキュメンタリー‐奇跡のレッスンより)
○ 世界のトッププレイヤーの練習も同じことをやっているよ。1秒1秒をどう生きる、どう使うかってことが人生でも重要なんだ。
⇒チェロの練習も全く同じだ。こんなに練習しているのにどうしてうまく弾けないんだろう?考えもせずに意味のない練習ばかりしているだろうな、きっと。
○ 相手のことを考えず、自分のプレーに集中する。
⇒ 試合でゲーム・ポイントを何度も握りながら勝ちを意識して体が動かない。相手の姿がちらついて、勝てそうなゲームに負けた!雑念を捨ててやるべきことに集中する。
○ 試合に負けはない、勝つか学ぶかだ。 
⇒ 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けはなし」。野村監督の有名なフレーズと同じことを説く。失敗から学んで次には奇跡も!ライヴ・イマジン44、「牧神の午後への前奏曲」の最後のコントラバスとチェロのピチカート・・失敗続きが成功を導いた。負けて泣いていた生徒がこの言葉に顔を上げた。
○ どんな練習をしてほしい?と尋ねられた生徒が、えっ?と。今までそんなことを考えたこともなかったって。苦し紛れに全部、と言った生徒の答えに一つだけだよ、と諭す。
⇒ 自分で考え、自分で判断し、発信する。どんなものもこれなしには説得力を欠く。大臣の国会答弁を見るがよい。昨今私たちの周りでは自分自身で考え、物事を判断している人はもどかしいほどお目にかかれない。わからない、考える、調べる、納得する。もはや「考える葦」であった人間は化石か。これからAIが出した結論に従い考えることはますます後退して人は奴隷化してしまうのか・・。そういえば将棋の棋士でさえAIでカンニングしていたことがあったっけ。
サーシャの1週間のレッスンが引き起こした技術と心の変化、生徒たちはまさに目から鱗が落ちるような経験をしたに違いない。でもその鱗は今の日本の淀んだ空気の中ではまたすぐに元に戻りくっついてしまう。

ギックリ腰とゴッドハンド

2020 FEB 13 20:20:11 pm by 西村 淳

その日がやってきた。昨日の朝。腰の周りに違和感がある。腰かけている椅子から立ち上がるのが段々と億劫になってくる。ポケモンのジムバトルをしに出掛けるもこんなのろのろ歩きはクルマが来たら撥ねられるなと思いながら道を渡る。グイグイと悪化しているのを実感しながら会社に行けばなどと駅に向かうが最初はトロトロしか歩けない・ま、まずいかも・・ギックリ・・ギックリ・・・悪い予感を抱えながらそれでも歩みに慣れるとそれなりのペースに。身動きできないラッシュの山手線。ワイヤレスホンのBGMはショルティの第九だ。暴力的なベートーヴェンにはこのハガネのような演奏はピッタリ。お、目の前の人が立った、しめた!第九は第三楽章に。うーん天国とはいかないけれどしばしの幸せの時をすごす。ところが大崎駅に到着しても今度は椅子から立ち上がれない!何とかつり革につかまり降車しても流れに乗って歩くどころか階段の手摺につかまり迷惑を撒き散して一歩一歩がやっと。ちょっとのことで腰が砕ける。つ、つらい!幸い会社には到着したものの一度座ってしまうと立ち上がれない!ギックリ菌が間違いなく増殖している。
こうなったら五十肩を一日で快癒させてくれたゴッドハンドに頼るしかない。大崎から東松原までタクシーに乗ったって大した距離じゃない。幸い先生が電話口に出てくれた。おお、神の声だ。その後、キャンセルがあったから2時でもいいですよと。社食で鶏クッパを食べ急ぎ聖地に向かう。
「どんな感じですか?」立川談志似の先生に今朝からのことをあらましお伝えする。ギックリ腰ですよ。何か思い当たることは?うーん、ちょっと辛かったのは根津の打上でべた座り4時間かなあ、と。きっとそれが引き金でしょうけれど、疲労が溜まっているかもしれません。とのことで腰、背中、足の付け根、尻などを丁寧にあるときはググっとゴッドハンドがツボを抑え込む。ワーフェデールのアルニコ・ツィータ―の話をしながらかれこれ2時間近く。こちらもどっと疲労したが、作用反作用で施術者の負担も相応のものがあるに違いなく、領収書を書くことさえ困難になっている。命を削って対応してくださっているのが分るだけに申し訳ないような気持を置いて帰途に。
少しましになったかと電車に座ってみるもののまだ時間的には悪化の途上、やはり立ち上がるのには苦労が伴なう。とても何かをするような元気もなく就寝。ぐっすりと眠れたが会社も流石に今日はおやすみ。ところが朝はまだまだったのに午後からがすごい。もう一分刻みで今度は快復を実感する。チェロの練習もまったく問題ないしすうっと立ち上がれるではないか!!やったあ、また一日で治してくれたわ。それこそ命を救われたくらいの感謝でいっぱいである。何かできっと恩返しをしなければ済まされない。

古典四重奏団 レコード・アカデミー大賞 受賞!

2020 JAN 15 21:21:01 pm by 西村 淳

古典四重奏団の「ショスタコーヴィッチ・弦楽四重奏曲全集」のCDが2019年度「レコード・アカデミー賞 大賞」に輝く!
おめでとうございます!心からお祝いさせていただきます。
このニュースは正直なところ耳を疑った。外部の環境が変化しているとはいえ、メジャーレベルでもなく、日本人が演奏した、室内楽でしかも弦楽四重奏という最もストイックな分野でありながら、この1年間に発表されたすべての録音の頂点に立ったわけだから。
古典四重奏団は思えば2004年の「文化庁芸術祭大賞」という快挙にもう一つ勲章が加わったことになる。早速1セット購入させていただいた。
チェロを担当している田崎先生にはいつもライヴ・イマジンでは毎回ご指導いただき、また時には指揮者としても登場、公演のクオリティを担保していただき大変感謝している。

「レコード・アカデミー賞」は音楽之友社が雑誌「レコード芸術」で採り上げたディスクを音楽評論家たちの投票により交響曲、管弦楽曲、室内楽・・などの各分野において年間の最優秀を決定、賞を贈られる。クラシックファンであれば誰もが一度は目を通したことがある雑誌であり音楽を聴き始めの右も左もわからぬ私にとっても格好の入門書だった。事実その影響力は巨大なもので空前のオーディオ・ブームとの強力なタッグチームは世の善男善女を洗脳して今に至るコンサートゴアーの形成に一役買った。
ベタ褒めされ1967年に大賞に輝いたたベームの「トリスタンとイゾルデ」(バイロイト実況盤)はスネカジリにとって当時はとても高価なもので憧れ以外の何物でもなく、今に至ってさえそのままだ。JBLのParagonと共に憧れは憧れのままの方がいいのかもしれない。

静けさの中から (12) レクチャー・コンサート

2019 DEC 20 21:21:15 pm by 西村 淳

☘(スーザン):コンサート前のトークは最近よくあることだけれど、普通は奏者の一人が舞台に出て、「本日の聴きどころ」といった話を簡単にする程度だ。でも、今日の主催者のリクエストは私たちフロレスタン・トリオのメンバー全員が出てそれぞれのパートの抜粋を弾きながら解説をしてほしい、というものだった。
じつは私たちは今まで、このようなレクチャーに積極的ではなかった。本番の直前に、1時間もかけて曲目の解説をするのは、実際、とても疲れてしまうものなのだ。なによりも、気が散ってしまう。開演前に演奏者が自分でレクチャーをすればさらに集中力が高まる、と思う人もいるかもしれない。でも実際は逆効果で、演奏そのものに対して、言葉では表現しにくいが、距離感みたいなものが生まれてしまう。コンサートそのものはあまり重要ではなく、曲目解説のために実演をしているような気持になってしまうのだ。コンサートでは、音楽そのものが一番大切であるべきだと思う。でも、「音楽」よりも「言葉」のほうが人間に直接的に訴える力があり、理解しやすい。だから主役が「言葉」にとってかわられてしまい、「音楽」がわき役に甘んじてしまうのである。

🍀(私):ライヴ・イマジンでは演奏を始める前に、ご挨拶としてわたしがプログラムのことを中心に5分ほどお話をさせていただく。またライヴ・イマジン37でやったように(初めてのことだが)東さんに「さよなら、モーツァルト君」というプログラムに沿った興味深いお話をしていただいたこともある。ピアノも弾いてこれは20分。また音楽指導をしていただいている古典四重奏団の田崎先生はプレトークと称して、15分ほど開演前にメンバーの演奏を交えてレクチャーをやることがよくある。スーザンが指摘していることは事実であるし、本来であれば「俺の音楽を聴いてくれ」ですまされるはずであるが、実際にはレクチャーという形は好評を得ることが多くお客様は楽しみにしていることのほうが多いようだ。聴衆のひとりとして参加してみるとやはり「言葉」のもつ直接的、直感的なパワーは具体的で直接心に届く。だからこそ言葉はえらばなければならない。あり方としては演奏をする人とレクチャーをする人が同じであるよりは、別の人のほうが全体の水準は高まるような気もするが・・なかなか企画するほうは苦労しそうだ。

西洋音楽の受容について

2019 NOV 16 20:20:51 pm by 西村 淳

吉田秀和氏の「時の流れの中で」(中公文庫)を手に取った。今までこの人の文章は正直すぎて痛いところがあって多くを読んでいるわけではないが、日本人の西洋音楽受容のありかたについてと気になっていたことが書いてあった。ホロヴィッツのモスクワでのリサイタルDVDのことで、以下のような文章である。
「どうしてあんなに落ち着いて、ピアノをとっくりときいていて、しかも感激性を失わない聴衆が、あすこには大勢いるのだろう?いくらモスクワでも、何十年ぶりかのホロヴィッツのリサイタルだというので、センセーショナルな事件として受け取られたのだろうから、あの聴衆の中にもそういう異常な出来事に対する好奇心というか、やじうま根性で集まってきた人々がいなかったはずはない。だが、全体の雰囲気はとてもそんな上っ調子のものではなかった。・・とにかく、モスクワにはじっくり音楽を聴く聴衆の層が存在する」
ドイツでもポーランドでも留学したりそこに住んだことのある人であれば異口同音に「生活の中に身近なところに音楽がある」と言う。それは家庭であれ、教会であれ、路上であれ、生きることと表裏一体になったものとして存在することを実感するのだろう。
日本には音楽に限らず、人生そのもの愉しもうとする人がとても少ないのではないか。たとえばクラシック音楽の愛好者は全人口の1%だそうである。その1%の人たちの音楽の楽しみ方はこれだ。コンサートに行けばお行儀よく咳払い一つに気を遣い、ほんのわずかの物音に過剰な反応をして日ごろのストレスを発散するどころかストレスを溜め込んでしまう。ただこれとて恵まれた都会の住人たちの話。生演奏は田舎に住む人間にとっては人生とは無縁の物なのだから。一時期、この状況に騙された外来演奏家が日本の聴衆のレベルの高さを云々する話をよく耳にしたが、吉田氏の外国での体験にあるような反応は日本にはない。なんと哀しき精神構造か。
先生に言われたことを1mmも外れることなく徹底的にやり抜く態度はいわゆる芸事にあって芸術ではない。なぜなら芸術とは学ぶことではなく生きることそのものだから。ドビュッシーが言ってるではないか・音楽は人に教えられるものではありませんと。日本において音楽は芸術ではなく芸事であり、その精神がピアノやヴァイオリンの技術を磨くことに反映している。だから何某の門下いった派閥が派生し、外国でいくら素養を磨き、極意を習得しても帰国してからは○○大学の△△門下でない人には何一つとして仕事が回ってこないし、仮にそれの突破を図ったところで一時的なもので、ネグレクトされてしまう。無視されるということは村八分であり、相当にきつい。要は日本の家元制度の音楽シーンでは生きていけないということ。さらに加えて閉鎖社会の中での音楽家たちの社会的な地位は低い。
チェロの鈴木秀美さんの師匠でもある、井上頼豊さんの「井上頼豊 音楽・時代・ひと 」(外山雄三、林光(編集)音楽之友社刊 )という本に彼が戦後シベリアに抑留された時、ロシア人から「日本では音楽家も戦争に行くのか?我々の国では音楽家は戦争には行かないよ」と言われたことがショックだったと書いてあった。必ずしも現実はその通りではなかったにせよ、音楽、芸術を大切にしている社会とそうでない社会の違いがそこにある。最近はよくフラッシュ・モブという形態でクラシックの音楽家たちが外に出て行って皆を楽しませるような催しが世界各地で行われている。例えば最初はコントラバスが一人で何かのメロディーを弾き始め、徐々にほかの楽器が加わってみたいな、あれである。道行く人たちの小さな幸せを拾った喜び、柔らかな表情がとても良く、ああ、同じように音楽を感じ受け止め、楽しんでいる・・私と波長が一緒だ!みたいに。こんなのを観たり聴いたりしていると、昨今のこの閉塞した日本の社会から脱出して同じ呼吸をして価値観を共有する人たちのところに行ってしまいたい、などと感じてしまう。

静けさの中から (11) 旬を過ぎた書込み

2019 OCT 31 21:21:18 pm by 西村 淳

☘(スーザン):音楽家が楽譜に約束事を書き入れるとき、音符の上にぐにゃぐにゃと波線を欠くことが一番多いと思う。これはそこの部分のテンポが「少し揺れる」という意味だ。そこの部分を、ほんの少し時間をかけて演奏することによって、音色のうつろいをはっきり示す余裕ができる。
とくに約束事が混雑するのは、曲の中で、一つのセクションが終わって、次の段階に入る「変わり目」に来たところ。ほとんどの奏者が、意識的に入れ込んで弾きたくなる。たとえば楽曲のなかで重要な位置を占める「第二主題」。曲が展開する大事なところではあるけれど、作曲家がこの「第二主題」が出現するときにテンポ表示を変えることは、まずない。でも「第二主題は第一主題に対して全く異なる雰囲気を持つもの」と決まっているから、奏者にとっては大切にしたい「変わり目」なのだ。だからこの部分をどうやって演奏するか、どの奏者も頭を悩ます。

🍀(私): 私の場合音符の上にぐにゃぐにゃを書き込むのはどうしてもヴィヴラートがほしい、忘れずに、って時が多い。書いておかないとすぐに忘れるのはあたりまえとして、こぐにゃぐにゃを書いても見えない(!)ことさえあるのだ。お休みが沢山ある(休符がたくさんある)ところの他の人の旋律などもよく書き込むし、あとは指示、例えばErsts ZeitmaBには「初めのテンポで」とやる。こんな作業をしているとドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の指示がドイツ語で書かれているのを見つける。おお!生粋のフレンチマンだと思っていたのに、標題はフランス語なのになぜかドイツ語で指示が。じゃあ彼のほかの曲は?とどんどん好奇心の渦に溺れていく。人生足りないわ。
さて、スーザンが指摘しているこのあたりの表現の仕方をどうするか、これにはアマチュアもプロもない。「第二主題」の処理の仕方については、いい音楽家であればあるほど、実際にテンポが揺れているにもかかわらず、気づかれないようにそしてきわめて自然にやっている。とても先生が教えられる領域ではなく、「才能」が処理の分かれ目となる。
もしこういったことを勘違いしてテンポを変えようとする人が演奏するメンバーにいたら大変だ。そう、第二主題が出現してもテンポはそのままが原則なのだ。自信たっぷりにテンポ変更をやられるとそうかなとは思っていても、だがしかし・・その対応次第では友達が、いや人生を失ってしまうかもしれない。

バルトーク・レコーズ

2019 OCT 5 21:21:41 pm by 西村 淳

バルトーク・レコーズはベラ・バルトークの息子で、録音技師だったピーターが主に父の作品を制作する目的でベラの死後、1949年に設立した会社で、その頃録音された米ピリオドの有名な録音はこの頃のものである。シュタルケルの代名詞にさえなったコダーイの無伴奏チェロ・ソナタはその圧倒的な演奏と輝かしい音で今日に至るまで全く色あせていない。
「バルトーク・レコーズ・ジャパン」の村上泰裕さんから注文したCDが届いた。少し前にソニーから復刻されたニュー・ミュージック四重奏団(NMQ)の米コロンビアに録音した全てがCDでリイシューされたのをきっかけに、バルトーク・レコーズのNMQによるベートーヴェンを探していて村上氏につながったわけである。NMQは1948年から1956年までしか活動をしなかったことと、モノラルからステレオへの変遷という過渡期だった不幸も重なりほとんど顧みられなかった団体ながら、完璧な演奏は後のジュリアード四重奏団の範ともいうべきものだ。
村上氏はバルトーク・レコーズ・ジャパンを立上げ、ピーターの録音の保全、販売などを手掛ける一方で、ここが一番凄いところだと思うが、ベラが望んでいて果たせなかった出版譜の改定をピーターと共に行っている。CDに同封されていた商品カタログと日経の文化欄に掲載された「バルトーク愛 楽譜校訂」の記事を読んで驚いた。単なるCDの転売屋さんではなかった・・。私達演奏者はどんな一つの音符であってもないがしろにすることは出来ない。常にその意味を考えているから信頼すべき校訂版の登場は本当にありがたい。本当にいい仕事をしているに違いないし、心からエールを贈りたい。
既に出版されたものは「青ひげ公の城」のスタディ・スコアなどすでに16点を数え、そのために教職を辞しまでした使命感が村上氏の中で赤々と燃えている。人としての一番大切なものが何なのかを伴って。知己を得る前に購入し未読のままだが、「父・バルトーク 息子による大作曲家の思い出」ピーター・バルトーク著 村上泰裕訳 ㈱スタイルノート刊もある。
さて、肝心のバルトーク・レコーズである。この会社を知り、係わりを持ち始めたのは「ある晴れた日に」という個人(故古畑銀之助さん)のレコード通信に紹介されたのがきっかけであった。この通信は眼を世界に向けてくれたし、おかげで多くのLPが海外から我が家に届いた。それまでとても遠い存在だったバルトークが途端に身近な人となったNo.17(1976年4月)を以下に引用する。

▶ 「バルトーク・レコード」が手に入る
・・吉田秀和「一枚のレコード」(中央公論社)のトップに出てくる「バルトーク・レコード」#916、無伴奏ヴァイオリン・ソナタは、ジュリアード四重奏団のロバート・マン若かりし頃の録音、私は前からこれがほしくてニューヨークへ行くたび、あっちこっちのレコード店で「バルトーク・レコードは」と尋ねてみましたが、「もうない(ノーモア)」と、そっけない返事。しかし、ほかのバルトーク・レコード社、ときおりセール箱にほうりこまれていて、安く入手できること、ニューヨークもシカゴもバッファローもトロントも、同じで、またシュワン‐2(モノラル・カタログ)には、いまなお全「バルトーク・レコード」が掲載になっているのです。そこで、とうとう去年、シュワン・カタログ社に問合せ、新しいあて名を知りました。早速手紙で問合せ、二つ折り四項の小パンフレットと、値段は一枚5ドル、と報せてきたので、直接注文したら、すぐレコードを送ってきました。セロの堤剛氏に、「ピーター・バルトークはどうしてるだろう、先生のシュタルケルに尋ねてみてくれないか」と、私は一度話したことがあり、堤氏は、「たしかニューヨークで今もレコード社をやっていて、欲しいという人にだけ売っていると聞いていますが」と言っていましたが、その通りでした。
パンフによると、全部で35枚のレコードがあります。みなモノラルです。しかしながら、やれステレオ、やれ4チャンと、計測器に頼って音とりし、またその音を後で加工する、というような、この頃の技師たちのやり方と違い、自分の耳だけを頼りに正しい音を残すことに努めたピーターは、このバルトーク・レコード社の設立前後にも、モノラル・ピリオド盤コダーイの無伴奏チェロ・ソナタ(シュタルケル)、先にも書きましたように、日本のオーディオ・ファンの名言「弦の松脂の粉の飛び散る音まできこえる」名盤名録音を残していますが、モノラルとはいえ、この35枚中にはやはり名録音があります。
35枚全部を聞いたわけではありませんが、特に録音でめざましいのは、#908、Tibor Serly:Sonata for violin solo(Frankces Magnes,Violin)です。このレコードは、針を落とすなり、目の覚めるようなピチカット・ヴァイオリンの音が豊かに飛び出してきますし、曲も演奏もよろしい。ピリオド盤コダーイに勝るとも劣らなぬ名録音だと思います。これに比べると、私が欲しかった上記のロバート・マンのバルトークのソナタは、演奏は素晴らしいけれど、少しふやけた音がしますし、またいかに鋭いピーターの耳とはいえ、当時の録音装置では、オーケストラやピアノ物は、現在の水準からみると不満が多いこと、やむを得ないでしょう。
また、我が国は、オーディオ・マニアの多いこと、世界一だと信じますし、ピーター・バルトークの名も、アメリカより我が国でこそよく知られているのではないかと思いますが、わが国レコードメーカーの誰か、ピーター・バルトークを日本に招き、よい録音を企画しようという人はいませんか。「良い録音」という意味は、優れた機械に頼るのではなくて、優れた音楽的な耳に頼る、ということを私は言いたいのです。

とうとうモーツァルトのお父さんが教えてくれた

2019 SEP 8 21:21:38 pm by 西村 淳

ソナーの吉田さんのブログにある通りショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲は、それこそとてつもない傑作だ。これを知るや、ブラームスの野暮ったさは胃にもたれる。口直しにと思って聴いたアシュケナージとメータ/ロンドン交響楽団の演奏が悪かったわけではあるまい。ブラームスの印象はその性格そのままなのか「言いだしかねて」といった風情が漂う。
さて、タコタコ。その中でもその五重奏曲の第4楽章の透徹した哀しみに心がシンクロする。雪の冷たさ、長い冬と待ち焦がれる春の声。北国を経験したことのない人にはちょっと無理だろうな・・きっと無縁だから相当違ったイメージが出てくるかもしれない。
楽譜にあるように初めはファースト・ヴァイオリンとチェロの2重奏である。ここでチェロは♩=72で淡々とウォーキング・ベースのようにリズムを刻まなければならない。ところが言うは易し行うは難し。29小節に渡ってこの四分音符を弾いているうちに、72のテンポが怪しくなり、ちょっと早くなっているかもしれないと不安になってくる。事実そうなっているのかもしれない。こんなことを書くとお前の弾くコンサートなんか行かないから、と言われてしまいそうだが、だから「ただ」ほど高いものはないと言ってるじゃないですか・・などと開き直るのもどうしたものか。実際にテンポをメトロノームのように正確に維持することは至難の業なのだ。心臓の鼓動だって機械のように正確には動いていないわけだし。
そんな時、たまたま読み始めた有名なレオポルド・モーツァルトの「ヴァイオリン奏法」にその練習の仕方が書いてあるではないか!恥を忍んで告白するなら私はこれまでこの本を読んだことがなかったのだ。その存在を知るだけなら、何の役にも立たない学校の授業で教わるのと一緒だ。ところが最初のページをめくった時から天才・アマデウスのお父さんの博識と教養に圧倒される。今からでも遅くはない、もう一度、一から始めて弦楽器奏法の奥義を学ぼう。
「・・・そこそこ弾ける多くのヴァイオリン奏者でも、同じ長さの音符が終始流れている音符を弾くと、ついつい急いでしまって、たった数小節であっても、四分音符ひとつくらいは速くなってしまうものだ。このような弊害を避けるためには、最初はゆっくりと弓を長く保ち、いつも弦に付けておき、急がずに抑え気味に弾くのである。特に同じ長さの4つの音符の後半の二つを、短くしすぎないことである。」
やってみた。上手く行ったりいかなかったり。でも確信を持って言えることは速くはなっていないことの実感だ。
イチローがいい事を言う。「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。」そう、ライヴ・イマジンを通じて小さいことをまた一つ積み重ねたぞ。

スニーカーから考えた

2019 AUG 13 17:17:54 pm by 西村 淳

スニーカーのリセール市場が活発と、テレビで放送していた。2025年には全世界で60億ドル(!?)のマーケットとか。そういえば電車に乗っていてもスニーカーを履いている人が男女を問わず8割くらいはいる。これ、革靴業界は苦しいだろう。履き心地を求め海外旅行をするたびに、やれオールデンだ、チャーチだと買いまくっていた時期があった。 そこには惚れ惚れとするようなこだわりの品質と個性があったし、今でも大切に履いているものもある。
一方スーツ業界は絶滅危惧種の筆頭らしい。IT業界の人たちでスーツを着ている人なんかいないし、Tシャツ姿。昔は暑い夏でも我慢してスーツを着て頑張っていた人たちは絶滅危惧どころじゃない絶滅寸前だ。当然Tシャツに合わせるのはスニーカーしかない。これをファスト・ファッションと呼んでいる。この業界の大様はユニクロ。そういえば20世紀にたくさんいたファッション・デザイナーなる人たちもどこに隠れているんだろう?
これは衣食住の「衣」の部分だが、さて「食」はどうだろう?勿論、ファスト・フードと言えばマクドナルド。紆余曲折、浮き沈みがあろうと体にいい悪いがあろうと王様だ。さらにコンビニ弁当からスーパーの弁当などなど流れはそちらに傾いている。やはりここでもフレンチだのイタリアンだの高付加価値高級店は相当に苦しいと見た。
「住」は?ファースト・リビングなるものが出現しつつあるのだろうか。不動産にはさすがにファストはなさそうだが、仮設住宅みたいなものがそれにあたるかもしれない。
衣食住すべてがこうなると、なーんだ生きることの楽しみなんかこれっぽっちもないじゃないか。
アナログの時代にあった高品質、高付加価値製品が軒並み姿を消しつつ、一方でデジタル(勝者はたった一人)の申し子たちはグローバル化を推し進め個性を認めない世界が出現する。老いも若きも、貧乏人もお金持ちも、ビル・ゲイツもTシャツにスニーカー、マクドナルドをパクついてiPhoneをいじる。
でもこれって偉い学者さんが言わなくてもそういえばどこかに書いてあった・・そうだ、19世紀末に書かれたあの本に!20年前に読んだ時にはそんなことが起きるわけがないと思っていたが、その予言通りの世界になりつつあることに気が付いて慄然としてしまった。
ここにきてトランプさん、プーチンさん、エルドアンさん、そしてアベさんたちが知ってか知らぬかこの流れに負けてたまるかと頑張っているけれど所詮流れに棹させば窮屈だ。

もしかするとオーディオファンかも

2019 JUL 9 20:20:33 pm by 西村 淳

レイボヴィッツと言う名前が出てくるとどうしてもシェーンベルクにつながり、実際多くを作曲しているようだがまったく認知されていない。ただ指揮者としても活躍した人でベートーヴェンの交響曲全集はそれなりの評価を得ている。ベートーヴェンのメトロノーム指定を守って演奏しているとか、ちょっとエキセントリックに捉えられ誤解されているかもしれない。またこの全集の「録音」がいいとも聞こえていた。先日、アメリカCheskyにより復刻された第4と第7を組合わせたCDが某音盤組合の店頭にあったので手に取ると録音に何とあのケネス・ウィルキンソンの名前があった。合点!何の迷いもなく購入したが、当初はリーダース・ダイジェストのLPとして発売されたもので巨大なアメリカ市場に浸透したはずである。余白のトルコ行進曲をワクワクして楽しんだ。
録音エンジニアのケネス・ウィルキンソンの名前はオーディオ好きにとっては神様のように崇められている。なるほど、このレイボヴィッツのベートーヴェンもヌケの良さ、ダイナミックレンジの広さ、明るい生き生きとした音作りだし、ティンパニの音程まで意識できる。ショルティとの録音は一時代を築いた。またそれがジュリーニ=ニュー・ニューフィルハーモニアのモーツアルトの交響曲第40番、第41番やアシュケナージ=ショルティのベートーヴェンのピアノ協奏曲であっても答えは一つである。
ウィルキンソンは「録音」技術を職人技から一つの個性を持った芸術家肌のものに昇華させている。ただ、誤解してはいけないのはコンサートホールでは決してこのように聴こえないし、このマルチマイクのテクニックによる各楽器の分離の良さが必ずしも音楽に奉仕するとは言えないことだ。だがどうだろう、もしかすると実際に作曲家の頭の中で鳴り響いているものはこんな風なのかもしれない。
この音が好きなのか、嫌いなのか?媚薬を一度味わったら止められるわけがない。それがオーディオ好きということだし、ましてCDでこれだけの音が聴こえるのだからLPだったら、さらにオリジナル盤だったらと・・ああ想像しただけで身悶えしてしまう。
そんな訳でウィルキンソン録音のジュリアス・カッチェン=ショルティのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の英国オリジナルLPを買い、こっそり持ち帰ったりしている。いつかしまってあるリンのLP12を現役復帰させる日のために。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

たむらあやこ
三遊亭歌太郎
福井利佐