Sonar Members Club No.31

since February 2013

とうとうモーツァルトのお父さんが教えてくれた

2019 SEP 8 21:21:38 pm by 西村 淳

ソナーの吉田さんのブログにある通りショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲は、それこそとてつもない傑作だ。これを知るや、ブラームスの野暮ったさは胃にもたれる。口直しにと思って聴いたアシュケナージとメータ/ロンドン交響楽団の演奏が悪かったわけではあるまい。ブラームスの印象はその性格そのままなのか「言いだしかねて」といった風情が漂う。
さて、タコタコ。その中でもその五重奏曲の第4楽章の透徹した哀しみに心がシンクロする。雪の冷たさ、長い冬と待ち焦がれる春の声。北国を経験したことのない人にはちょっと無理だろうな・・きっと無縁だから相当違ったイメージが出てくるかもしれない。
楽譜にあるように初めはファースト・ヴァイオリンとチェロの2重奏である。ここでチェロは♩=72で淡々とウォーキング・ベースのようにリズムを刻まなければならない。ところが言うは易し行うは難し。29小節に渡ってこの四分音符を弾いているうちに、72のテンポが怪しくなり、ちょっと早くなっているかもしれないと不安になってくる。事実そうなっているのかもしれない。こんなことを書くとお前の弾くコンサートなんか行かないから、と言われてしまいそうだが、だから「ただ」ほど高いものはないと言ってるじゃないですか・・などと開き直るのもどうしたものか。実際にテンポをメトロノームのように正確に維持することは至難の業なのだ。心臓の鼓動だって機械のように正確には動いていないわけだし。
そんな時、たまたま読み始めた有名なレオポルド・モーツァルトの「ヴァイオリン奏法」にその練習の仕方が書いてあるではないか!恥を忍んで告白するなら私はこれまでこの本を読んだことがなかったのだ。その存在を知るだけなら、何の役にも立たない学校の授業で教わるのと一緒だ。ところが最初のページをめくった時から天才・アマデウスのお父さんの博識と教養に圧倒される。今からでも遅くはない、もう一度、一から始めて弦楽器奏法の奥義を学ぼう。
「・・・そこそこ弾ける多くのヴァイオリン奏者でも、同じ長さの音符が終始流れている音符を弾くと、ついつい急いでしまって、たった数小節であっても、四分音符ひとつくらいは速くなってしまうものだ。このような弊害を避けるためには、最初はゆっくりと弓を長く保ち、いつも弦に付けておき、急がずに抑え気味に弾くのである。特に同じ長さの4つの音符の後半の二つを、短くしすぎないことである。」
やってみた。上手く行ったりいかなかったり。でも確信を持って言えることは速くはなっていないことの実感だ。
イチローがいい事を言う。「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。」そう、ライヴ・イマジンを通じて小さいことをまた一つ積み重ねたぞ。

スニーカーから考えた

2019 AUG 13 17:17:54 pm by 西村 淳

スニーカーのリセール市場が活発と、テレビで放送していた。2025年には全世界で60億ドル(!?)のマーケットとか。そういえば電車に乗っていてもスニーカーを履いている人が男女を問わず8割くらいはいる。これ、革靴業界は苦しいだろう。履き心地を求め海外旅行をするたびに、やれオールデンだ、チャーチだと買いまくっていた時期があった。 そこには惚れ惚れとするようなこだわりの品質と個性があったし、今でも大切に履いているものもある。
一方スーツ業界は絶滅危惧種の筆頭らしい。IT業界の人たちでスーツを着ている人なんかいないし、Tシャツ姿。昔は暑い夏でも我慢してスーツを着て頑張っていた人たちは絶滅危惧どころじゃない絶滅寸前だ。当然Tシャツに合わせるのはスニーカーしかない。これをファスト・ファッションと呼んでいる。この業界の大様はユニクロ。そういえば20世紀にたくさんいたファッション・デザイナーなる人たちもどこに隠れているんだろう?
これは衣食住の「衣」の部分だが、さて「食」はどうだろう?勿論、ファスト・フードと言えばマクドナルド。紆余曲折、浮き沈みがあろうと体にいい悪いがあろうと王様だ。さらにコンビニ弁当からスーパーの弁当などなど流れはそちらに傾いている。やはりここでもフレンチだのイタリアンだの高付加価値高級店は相当に苦しいと見た。
「住」は?ファースト・リビングなるものが出現しつつあるのだろうか。不動産にはさすがにファストはなさそうだが、仮設住宅みたいなものがそれにあたるかもしれない。
衣食住すべてがこうなると、なーんだ生きることの楽しみなんかこれっぽっちもないじゃないか。
アナログの時代にあった高品質、高付加価値製品が軒並み姿を消しつつ、一方でデジタル(勝者はたった一人)の申し子たちはグローバル化を推し進め個性を認めない世界が出現する。老いも若きも、貧乏人もお金持ちも、ビル・ゲイツもTシャツにスニーカー、マクドナルドをパクついてiPhoneをいじる。
でもこれって偉い学者さんが言わなくてもそういえばどこかに書いてあった・・そうだ、19世紀末に書かれたあの本に!20年前に読んだ時にはそんなことが起きるわけがないと思っていたが、その予言通りの世界になりつつあることに気が付いて慄然としてしまった。
ここにきてトランプさん、プーチンさん、エルドアンさん、そしてアベさんたちが知ってか知らぬかこの流れに負けてたまるかと頑張っているけれど所詮流れに棹させば窮屈だ。

もしかするとオーディオファンかも

2019 JUL 9 20:20:33 pm by 西村 淳

レイボヴィッツと言う名前が出てくるとどうしてもシェーンベルクにつながり、実際多くを作曲しているようだがまったく認知されていない。ただ指揮者としても活躍した人でベートーヴェンの交響曲全集はそれなりの評価を得ている。ベートーヴェンのメトロノーム指定を守って演奏しているとか、ちょっとエキセントリックに捉えられ誤解されているかもしれない。またこの全集の「録音」がいいとも聞こえていた。先日、アメリカCheskyにより復刻された第4と第7を組合わせたCDが某音盤組合の店頭にあったので手に取ると録音に何とあのケネス・ウィルキンソンの名前があった。合点!何の迷いもなく購入したが、当初はリーダース・ダイジェストのLPとして発売されたもので巨大なアメリカ市場に浸透したはずである。余白のトルコ行進曲をワクワクして楽しんだ。
録音エンジニアのケネス・ウィルキンソンの名前はオーディオ好きにとっては神様のように崇められている。なるほど、このレイボヴィッツのベートーヴェンもヌケの良さ、ダイナミックレンジの広さ、明るい生き生きとした音作りだし、ティンパニの音程まで意識できる。ショルティとの録音は一時代を築いた。またそれがジュリーニ=ニュー・ニューフィルハーモニアのモーツアルトの交響曲第40番、第41番やアシュケナージ=ショルティのベートーヴェンのピアノ協奏曲であっても答えは一つである。
ウィルキンソンは「録音」技術を職人技から一つの個性を持った芸術家肌のものに昇華させている。ただ、誤解してはいけないのはコンサートホールでは決してこのように聴こえないし、このマルチマイクのテクニックによる各楽器の分離の良さが必ずしも音楽に奉仕するとは言えないことだ。だがどうだろう、もしかすると実際に作曲家の頭の中で鳴り響いているものはこんな風なのかもしれない。
この音が好きなのか、嫌いなのか?媚薬を一度味わったら止められるわけがない。それがオーディオ好きということだし、ましてCDでこれだけの音が聴こえるのだからLPだったら、さらにオリジナル盤だったらと・・ああ想像しただけで身悶えしてしまう。
そんな訳でウィルキンソン録音のジュリアス・カッチェン=ショルティのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の英国オリジナルLPを買い、こっそり持ち帰ったりしている。いつかしまってあるリンのLP12を現役復帰させる日のために。

通勤が楽しくなった

2019 JUN 13 21:21:13 pm by 西村 淳

よくもまあ30年以上にわたって満員電車に揺られ続けているものだと、我ながらその勤勉さに驚くが、どういう訳かその混み具合が最近とみにひどくなってきている。人様に迷惑をかけずに過ごすいい方法はないかと考えてみたが、やはり音楽が聴ければそれに越したことはないと結論付けた。以前はイヤホンを音漏れで注意されてしまったし、こんがらかるケーブルに辟易して止めてしまった。そんな折、ワイヤレスイヤフォンが徐々にその地歩を固めつつあることを知り試してみた。B&Oの音の良さは群を抜いているし、ルイ・ヴィトンなんてものもある。だが、いきなり高級路線よりもまずBluetooth初体験でその実力を知ろうと某中国製のものを手に入れた。まずパソコンのituneにCDの取込みを実行。iphoneと簡単にペアリングしてそれなりの音が聴こえてきたときには感動してしまった。周りが静かなところで聴くと細かなニュアンスまでよく浮かび上がるし、これでいいや、となりそうだ。

毎日の通勤でよく聴いているのは、先のブログに聴かずして知らずして死んでしまうのは勿体ないと書いたシューベルトの歌曲。マティアス・ゲルネの歌だ。そしてユリアーネ・バンゼのドビュッシーとモーツァルトの歌曲。ゲルネは驚嘆すべき美声の持ち主。いい声だなあ、そっと優しく包んでくれて惚れ惚れと。きっとシューベルトが入れ込んだフォーグルの声もこんなだったんだろう。バンゼのほうはピアノがアンドラーシュ・シフ。これほど歌と伴奏が混然一体となったものは他に知らないし、ドビュッシーとモーツァルトを続けて聴いても何の違和感もない奇跡的な演奏だ。ドビュッシーの「忘れられた小唄」の妖艶さに続き、突然始まる「春へのあこがれ」K596にドキッとする。次の春を迎えることが出来なかったモーツァルト。そして最後に置かれた最高傑作、死後の世界を先取りした「夕べの想い」K523に至る。日頃ライヴ・イマジンを通してプログラミングに腐心している者にとってこの凝ったプログラムがいかに素晴らしく、そして成功しているかがよく分かる。なるほどシューベルトを含めたこの三人の作曲家は神にいちばん近いところいる人たちだっけ。

おかげで毎日の通勤がギスギスしたものから柔らかな微笑さえ伴ったものになったし、どれほど混んでいても音楽の美しさはその苦痛を和らげる。そして何より他人にとても優しい気持ちを持てるし、大指揮者ブルーノ・ワルターも同じようなことをどこかで発言していた。当面この小さな丸いワイヤレスフォンは手放せそうもない。さあ明日も元気に出社しよう。

オッペルのCDついに登場!

2019 MAY 20 20:20:32 pm by 西村 淳

前掲、前田氏渾身のオッペルの録音がとうとうCDリリースされた。

ラインハルト・オッペルの試演

教会でのライヴ一発録りではなく、丁寧なプロセスを何度もやり直しを繰り返し製作されたものだけに音の分離も良く、この作曲家の再評価の一翼を担うに不足はない出来となっている。
最近ではめっきり減ってしまったクラシックCDの販売店だが、銀座・山野楽器の店頭に並んでいるそうである。メジャーレーベルも、自費出版のものも同じ棚に並ぶ。
ここまで来るには大変なご苦労があったに違いない。それをすべて引き受けるには心が折れそうになることも、難しい人間関係もあったろう。
同じく音楽を人生の伴侶としている者として心からおめでとうと、快哉を叫ぶ。

ひのまどかさんのシューベルト

2019 APR 30 21:21:43 pm by 西村 淳

著者ひのまどかさんの著作に初めて接したのは「戦火のシンフォニー:レニングラード封鎖345日目の真実(新潮社刊)」だった。ここで描かれた交響曲第7番出生の苦難は胸を打つものがあったし、意外にもドイツの包囲網の中、生死の狭間で行われたショスタコーヴィチその人のレニングラード初演に至る過程での冷淡な態度や、その後の指揮者エリアスベルクの恵まれない扱いに憤慨したりもした。ロシア大使館で行われたひのさんのレクチャーからは徹底した現地取材による借り物ではない彼女自身の想いがストレートに伝わってきたのを思い出す。
その後「作曲家の物語」シリーズという図書館では児童書のコーナーに置かれている著作を目にするたびに「ドヴォルジャーク」「モーツァルト」「バルトーク」などなど夢中になって読み進め、とうとう「シューベルト」を手にした。どれもが現地に足を運び掬い上げたものと歴史に刻まれた事実とが交錯し、まるでそこに作曲家本人がいるように生き生きとしたひのさんの言葉で語られる。

シューベルトのサブタイトル、「孤独な放浪者」はまさに正鵠を得たものだ。作曲のためにあらゆる束縛を嫌い、父の命じた代用教員の職を拒否したことから勘当され寝泊まりは友人たちのところに転がり込む。ただこの仕事はたったの年に45グルデン、年収45万の仕事だった。ホームレス、ただこのホームレスは落ちてなったものではなく自から自由の代償として選んだ道であり境遇に不満も迷いもない。一方でこんなシューベルトの才能を信じ生きることをサポートしてくれた多くの友人達がいたし、先日ライヴ・イマジン42で演奏した「八重奏曲 D802」はクラリネットの名手でもあったトロイヤー伯爵(ベートーヴェンのパトロン、ルドルフ大公の侍従長)からの依頼も彼らの成果だった筈だ。シャイなシューベルト。そっと後ろからついて歩いても声すらかけられなかった尊敬するベートーヴェン。人生の終わりを迎える直前にシントラ―の要請でベートーヴェンに会いに行く。その作品を「この若い作曲家の中には、神の火花が散っている!私はどんなにこの青年の才能を尊敬していることだろう!」とまで評価していたベートーヴェンが病床からシューベルトにくれた眼差しは、そこに神の姿を重ねたに違いない。そして翌年。死の直前に「ここにはベートーヴェンがいない、ぼくはベートーヴェンがいるところにかえりたい」と訴えたシューベルト。ウィーンの中央墓地。大好きなベートーヴェンの隣で彼に何を話しかけているのだろう。
ひのさんの本を読んで、シューベルトの人となりが明確な焦点を結んだ。前回のライヴ・イマジンの冒頭の挨拶で、モーツァルトとシューベルトを預言者とした。ベートーヴェンが見抜いたようにこの二人は間違いなく神に一番近いところにいて、神の声を私たちに届けてくれた人たちだ。モーツァルトはさておき、もっとシューベルトのリートを楽しまなきゃ人生洒落にもならない。

メロ・ハマヤ再び

2019 APR 4 21:21:41 pm by 西村 淳

今年の1月に小樽の可否茶館にコーヒーを注文しようとネットショップを見ると、メロ・ハマヤがない・・・・。そういう時期もあるかとも思いつつ電話をかけてみるとメロ・ハマヤは終わりましたとのすげない返事。以前に注文したモカを仕方なく飲んでいたがやはりメロ・ハマヤの味が恋しい。この名前をダメもとでググってみると同じ小樽で喫茶店をやっているじゃないか!?カフェ・ミ・カーサという名前でハイチの絵を飾っている。おお!ここだここ。素人っぽいHPながらきちんと豆情報も載っているし、地方発送も。そうか、小樽から見ると東京は地方になるわけだ。喜び勇んでその足ですぐに電話。ハマヤさんの奥様が電話口に出られて大変丁寧な対応をしていただいた。そうなんです、可否茶館さんとは契約が切れました・・でも直接注文が勿論できます。との言葉に選べる4種類の焙煎から2番と3番をそれぞれ400gと600gをオーダーした。
メロ・ハマヤのクオリティの高さは少し入りの浅いNo.2、慣れ親しんだ味のNo.3とも十分すぎるほどの魅力がある。アラビカ種のティピカとはコーヒーの原種の一つで病気に弱く生育にはとても気を遣う物らしい。ただ、原種が交配を重ねて病気に強いものを作ることに成功しても大切なものを代償として差し出さなければならない。それはどんなものでも同じことかもしれないが、メロ・ハマヤを口にして雑味のない、ほとんど完璧ともいうべきそのバランスの良さに感動しながらそんなことを考えてしまった。そして何とネットカタログの一番下にピーベリーが載っている!!ピーベリー、普通コーヒーの種子は半分に割れておわん型なのに対し、何かの拍子に丸い形のままで生まれてくるものがわずか数パーセントあるらしい。球形なので焙煎時の熱の伝わり方が均一になると説明されているが、その味はメロ・ハマヤ‐ノーマルフォルムに比べ一段と洗練されたものとなっている。透明感という言葉がふさわしいかもしれない。

この経験は特別な喜びを、人生に刻む。ああ、コーヒー党のベートーヴェンに是非飲ませてあげたかった。
19歳で海を渡りドミニカの地でこの宝石のようなコーヒーを生み出したハマヤさん。濱谷さん、決して若くはないでしょうし今がもしかするとこのコーヒーを入手できる最後のチャンスなのかもしれない。そして原種としてのティピカそのものも近い将来地球上から消えてしまうのかもしれないのだ。
小さな出会いかもしれないが、私の残された人生に一筋の光明を与えてくれた。北海道に行く時には何を措いてもカフェ・ミ・カーサを、ハマヤさんを訪ねずにはいられない。

特別なトリスタン体験

2019 JAN 20 20:20:40 pm by 西村 淳

新交響楽団第244回演奏会
指揮 飯守泰次郎
二塚直紀(トリスタン)、池田香織(イゾルデ)他

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」抜粋(演奏会形式)
第1幕 前奏曲
第2幕 全曲
第3幕 第3場

2019年1月20日(日)2:00PM
東京芸術劇場コンサートホール

「トリスタンとイゾルデ」は1991年10月、サンフランシスコの戦争メモリアルオペラハウスでの公演を見て、そして聴いたのが最初で最後だ。その頃働いていた横河電機でのアプリケーション・シンポジウムで一等になったご褒美にアナハイムでのISA(Instrumets Society of America)への視察旅行があった。帰国する前にサンフランシスコまでその足を伸ばしたわけだが、緊張感に満ちたアメリカ社会の中でこの街の安全と開放的な空気がいっぺんに好きになってしまった。昼は観光、夜はコンサートと短いながら充実した日々だったし、とうとうオペラまで観てしまったわけだ。それまで「トリスタン」は「前奏曲と愛の死」くらいしか知らなく粗筋をつまんだ程度の知識しかなかったが、この時の公演は第3幕でイゾルデの「愛の死」で涙が溢れ、止まらなくなってしまった。カーテンコールが終わっても呆然として人前を憚らず泣けた空前絶後の音楽体験だった。ワーグナーに媚薬を盛られてしまったわけだ。それ以来この曲は特別なものとして常に心のどこかにあり出来れば演奏体験もと思っていたが、アマオケの雄たる新響が取り上げてくれた。自分がその場にいない残念さもあったが、私にとっての音楽は聴く楽しみ半分でもあるので弾く楽しみは先に残しておこう。ライヴ・イマジンで度々お世話になっている新響のU夫妻からチケットをプレゼントされ、勇躍会場に。アマチュアのコンサートはいいところを聴くことが鉄則である。しかしながらワーグナーのスコアは易しくなくちょっと不安もあった。ところが前奏曲が鳴り始めてすぐにワーグナーの特別な世界が拡がり、それが杞憂であったことをすぐさま思い知らされた。そう、音楽そのものに入れたし最後にはやっぱり泣いてしまった。素晴らしい。本当に素晴らしい体験だった。この公演を聴けたことは一生の思い出となるに違いない。指揮の飯守さんはじめ新響の面々、そして何よりもトリスタンの物語を真摯に伝えてくれた歌手の皆さんに心から拍手を贈りたい。ブラーヴォ!

小林道夫さん、岩国、そしてゴルトベルク変奏曲

2019 JAN 3 8:08:47 am by 西村 淳

昨年末に畏友O氏が岩国からやってきて小林道夫さんの弾くバッハの「ゴルトベルク変奏曲」の録音をプレゼントしてくれた。1980年4月27日、岩国の名曲喫茶「タキ」にはるばる東京からチェンバロをトラック輸送しての演奏会の記録だ。

O氏は食品関係の問屋を経営する一方、岩国音楽鑑賞会という名の下、音楽喫茶「タキ」にその趣旨に賛同する人々が集い毎年東京藝大の優秀なメンバーを集め室内楽の演奏会を企画・運営していた。その中には今なお現役で活躍している人たちも多数存在する。
「タキ」でO氏と意気投合し、仕事が引けた後ほとんど毎日コーヒー片手にやれティボーが、メンゲルベルクがどうだと音楽談義を続けていた。岩国音楽鑑賞会のお手伝いもする中で私が長年指導を仰いでいた小林道夫さんに弾いてもらったらどうだろう?と持ち掛けると願ってもないことと、とんとん拍子に(小林道夫さん)の演奏会を開催する運びになった。山陽国策パルプの南陽寮から小林先生に電話し快諾していただいたことを昨日のように思い出す。演奏会は岩国文化会館で2日間に亘り実現した。プログラムは1日目がJ.S.バッハ、2日目がモーツァルトとシューベルト。わずか6か月しかなかった岩国在住だがこの演奏会を置き土産にして勇払に転勤した。1978年のことだ。その後、岩国では何度も小林道夫さんのコンサートが企画され、その一環として私が去ってから2年後に「タキ」でのゴルトベルクが実現したわけだ。客席は100程度のはずで贅沢な音楽空間だったに違いない。

チェンバロという楽器の復権が今の古楽の隆盛と無関係ではない。小林先生の薫陶を受けた多くの音楽家のみならず、刺激を受けた若きチェンバロ制作者が旅立ったことが今の日本の音楽界を下支えしている。この頃は(今だって)生のチェンバロの音を一地方都市で聴いたことのある人はまず居なかったはずだが、岩国で多くの人々の情熱が咲かせた小さな花も「失われた30年」の間にいつの間にか枯れてしまった。

さて当時の録音を聴いてなんと爽やかだったことか!いきなり小林道夫さんの楽曲解説が始まり、その声に40年も前にレッスンをしていただいたことを想いだし思わず背筋が伸びてしまった。(笑)使用した楽器は一段鍵盤のチェンバロだったため二段鍵盤を要求されている箇所は技術的に少し窮屈なところもあるが安定した技巧とピンと張った緊張感に最後のアリアでは感動で胸がいっぱいになってしまった。まだ可能性の真っただ中で自分自身を探していたその頃の空気と鮮明な記憶が蘇った。

小林道夫さん、1972年以来12月に毎年ゴルトベルクを主に東京文化会館の小ホールで演奏している。これを聴いてその年を終えることにしている人も多いようだし毎回チケットは売り切れている。凄いライフワークだが、私の中ではその歴史に新たにこの岩国ヴァージョンが加わった。

ベートーヴェンのメトロノーム記号

2018 DEC 31 8:08:51 am by 西村 淳

APA(エイパ:NPO法人アマチュア演奏家協会)の会報に都河さんの音楽エッセイに早川正昭氏(東京ヴィヴァルディ合奏団;指揮、作曲家)から教わったことが紹介されている。曰く、「昔の作曲家が意図したテンポは今の多くの演奏家が弾いているテンポよりずっと速かった。今の若い人が早く弾くのは作曲家の意図に近づこうとしていると考えてあげるべき」という言葉を紹介し「そして演奏は再演の度にほんの少し遅くなっておりメトロノームの出現前は100年で8%、出現後は3%遅くなっている。20世紀前半の演奏の平均時間が年とともに遅くなるので、グラフに表しそれを逆に伸ばしたら、ベートーヴェンの時代に彼の指定したテンポとほとんど誤差もなくぴったり一致した。鳥肌がたち、それ以降演奏の遅延化を全く疑わなくなった。」とあった。
面白い視点だと思う。一つの音符を命を削って書きつける行為がある一方で速度指示がAllegroとかAdagioだけでは曖昧すぎて我慢が出来なかったであろうベートーヴェン。メトロノームを発明したメッツエルとはすぐに懇意になったようだ。そんな彼にとって発見したオアシスともいうべきメトロノームの登場は1816年のこと。すでに交響曲は第8番までを書き終えている。しかしそれ以前の作品にもメトロノーム記号を記入し、出版社に記載を依頼していることに書かれた数字への強いこだわりを感じる。機械が壊れていたとか、精度が悪かったなどの俗説はあまりにも程度が低くすぎる。
下図は1862年に出版された交響曲第7番のBreitkopf und Hartel版。速度指示は♩=76である。因みにSteiner&Co.1816年の初版にはここにあるメトロノーム記号はない。

速すぎるとされる指示は演奏不能ではないにしろ「今」の演奏を刷り込まれた耳には馴染まないが気づかぬうちに、ということか。ずうっと昔から気になっていたことだが、まずは書いてある通りにやってみないことには前に進まないのも事実。その上での議論がなければならない。
バレンボイムはサイードとの語りのなかで「(テンポは)時には作曲家が指定するのだが、それはどうしても速すぎることになる。作曲家がメトロノーム記号を記入する時には、まだサウンドの重量がないからだ。ただ頭の中で想像しているだけなのだ。暗記している詞を心の中で反芻することは2秒でできるけれど、声を出して読み上げることは絶対に2秒ではできない。それゆえ作曲家によるメトロノーム記号は速すぎることが避けられない。」(「音楽と社会」バレンボイム/サイード みすず書房)としていることも記しておこう。

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