ヴァインベルク 弦楽四重奏曲第2番 Op3/145
2022 APR 16 17:17:14 pm by 西村 淳
ヴァインベルクの弦楽四重奏曲第2番を先日のライヴ・イマジンで演奏した。まだまだこの人の作品の全容が見えてこないが、抒情性がそのベースであることに異論はないはずだ。演奏で気付き、個人的な発見もあったので記してみる。
ワルシャワ音楽院で作曲とピアノを学んでいたヴァインベルクは1939年9月1日のナチスドイツのポーランド侵攻の直前に祖国を抜け出し、徒歩でベラルーシのミンスクに辿り着く。さらにミンスク音楽院で作曲をリムスキー=コルサコフの弟子ヴァシリー・ゾロタリョフに学んでいた。またここではミャスコフスキーと知り合う。弦楽四重奏曲第2番は1941年にナチスが独ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連に侵攻するつかの間の1939年11月25日から1940年3月13日に作曲され、まだ故郷にいるはずの母と妹に捧げられている。(この時点で二人はすでにトラウニキ強制収容所で落命していたが、知る由もなく)初演は1941年12月2日に次の逃避先のウズベキスタンのタシュケントでレニングラード音楽院弦楽四重奏団により行われた。
一方、この曲は1987年に第1楽章の見直し、第2楽章後半と新たな第3楽章を改編して作品145の弦楽四重奏曲および室内交響曲第1番とし、選考者が知ってか知らぬか皮肉にも若造の作品が晩年に国家芸術賞を受賞してしまう。
第1楽章は今の季節にふさわしい春のそよ風が吹き抜ける爽やかなト長調で開始されイメージはモーツァルトのハイドン・セットのK384とつながる。ライヴ・イマジン終演後のアンケートにもあったように初めて聴いた誰もが一気にこの主題に引き寄せられる。第2楽章の仄暗い情緒と情熱、第3楽章の諦観、そして第4楽章の爆発的な推進力を持つ。
ところがこの曲、最後の小節に置かれた不協和音に続く最後の音はGではなくC。練習している時にはこの終結にさほど違和感を持たずに弾いていたが田崎先生(古典四重奏団のチェロ奏者)のレッスンで「どうしてここの音がGじゃないんだろう?」と疑問を呈せられ初めて意識することになった。
随分とその「どうして?」に対する答えを探し求めていたが、ハ長調の曲がそうであるようにCの響きによる肯定感が欲しかったとしか考えられなくなった。Gでは弱い、どこかに行ってしまう。ここはCだ。まだ若干20歳の青年がどのような状況であれ故郷に家族を残し一人逃亡したことへの後ろめたさ。お母さんどうか無事でいて欲しい、また逢いたい・・そんな「希望」を最後に全員で鳴らす「C」の音に篭めたのではないか?
弦が駒から外れんばかりに渾身の力でCのピチカートを鳴らし終え、ふと見ると珍しく弓の毛が一本切れていた。確かにヴァインベルクの心に触れた瞬間だった。
どこかおかしな話
2022 MAR 5 21:21:28 pm by 西村 淳
ロシアのウクライナ侵攻により、平和の使者たるべきロシアの音楽家たちも大変な迷惑を被っている。ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団は首席指揮者ワレリー・ゲルギエフを解任、カーネギーホールでのコンサートも降板させられた。またアンナ・ネトレプコはニューヨーク市のメトロポリタン・オペラ(MET)の公演に出演しないとニュースがあった。
この状況は第二次大戦のあと、戦犯法廷に立ったとはいえナチ党員ですらなかったフルトヴェングラーを拒否したアメリカの態度と同じだ。彼だけではなく、つるし上げられた音楽家はとても多い。ウィレム・メンゲルベルク、ヴァルター・ギーゼキング、アルフレッド・コルトー、ヴィルヘルム・バックハウス、ジャン・フランセ。権力をもつ政府に対して、「友人」だったから、反対して亡命したりしなかったからと言って地位から追放したり、烙印を押して激しい個人攻撃を行う。ロシアだけではなく我が国ですら芸能の世界に生きる人たちの立場は弱く、政府の言うことに反論することは即死を意味する。そんな中で一体彼らに何ができようか。
ゲルギエフがプーチンに近い、そこにいただけで罰を受ける。真っ当な音楽も文化も評価できないようなカウボーイに足払いを食らわせられたのだ。微妙だがチャイコフスキーの「1812年」を演奏するのはマズいんじゃないか、などとささやかれ始めているという。それともショスタコーヴィチのカルテットを音が漏れないように炬燵の中でこっそり聴かなければならない世界がすぐそこまで来ているのだろうか。
初春の言葉遊び
2022 JAN 19 10:10:07 am by 西村 淳
We look before and after
And pine for what is not:
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
さあ、この英文詩を見てどう訳すだろう?
DeepL翻訳ツール(無料):
私たちは、前と後を見る
そして、そうでないものを切望する。
私たちの心からの笑いは
何らかの苦痛を伴う。
私たちの最も甘い歌は、最も悲しい思いを語るものである。
この翻訳だと意味は通じても何の感興も感激もないが、普通の人がやると似たり寄ったりだろう。この詩は、大好きな夏目漱石の「草枕」の一節に出てくるもので少々長いが引用する。
『春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある。
(冒頭の英文詩挿入)
私たちの最も甘い歌は、最も悲しい思いを語るものである。
「前をみては、後を見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」
なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よくばん万斛の愁などと云う字がある。詩人だから万斛で素人なら一合で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。』
格調高い。漱石好きだなあ。到底こんなふうには訳せないし、只々感心あるのみ。自動翻訳機がAIを搭載してもこうは絶対にならない。新たな創造なんだから。
私が音楽に対してこだわり、表現しようとしているものを言葉に持っているのが詩人であろう。彼の言葉に対する半端ないこだわりは理解できる。チェロの練習はきれいな音を出そうとして指遣い、弓の速度、弓の圧力、弦の選択と場所を見つける。そこから伝えたい音が出た時のよろこびはきっとα波が大いに放出されているに違いない。手段、手法は違っても同じようなことが詩人の創作にも当てはまるのだろう。
表現手段としての言葉の力はイメージを直接的に伝えるものだけにそのエネルギーは音楽を圧倒する。そこに歌手がいるだけで総ての器楽奏者はそのしもべになってしまう。なるほど歌手のギャラは高いはずだ。リヒャルト・シュトラウスの最後のオペラ、「カプリッチョ」では音楽か言葉かをめぐる大論争を軸に展開するがその結末は闇の中で終わってしまう。類稀な作曲家としてリヒャルト・シュトラウスは音楽に軍配を挙げたかったに違いないが、そうもできなかったわけだ。
久しぶりの初詣
2022 JAN 6 18:18:36 pm by 西村 淳
1月3日。いつもと違い少しコースを変えた散歩の途中、浅草橋は江戸通りから少し入ったあたり。黄昏時だったせいかライトアップがなかなか趣のある神社があった。もともと初詣をしようという積りで出たわけでもなかったが、しっとりとした雰囲気にお正月気分が醸し出されスルーするのも気が引ける。お詣りしていこうか。と、階段を上がり本堂の前、大きな鈴を鳴らしてちょっとだけお賽銭、手を合わせたがここでしまった!咄嗟の事で準備が足りない!何をお願いするのか決まっていないじゃないか。まあいいや、コロナ終息、周りの人たちの健康を・・月並みすぎてこれじゃあ何のご利益はありそうもない。
神社、なまえは榊(サカキ)。もちろんポケモンGOにでてくるロケット団の団長のことではないが、そう思ってしまうところが何かねーといった感じ。何々、HPによると、
「110年、景行天皇40年、日本武尊が東国鎮定のため下向した際、皇祖二柱の神を鎮祭したのを創建とする。主に関東圏で祀られる第六天系神社の総本宮とされる。」
とあって何と2000年の歴史!由緒ある所のようであった。縄文文化といい、なかなか関東も奥が深そうだ。
健康メニュー
2021 DEC 7 8:08:12 am by 西村 淳
サラリーマンを卒業、半年過ぎてようやく新しい生活のリズムが出来上がりつつある。何をするにもまず健康、日々のメニューが定着してきた。
まず一つ目。免疫系を強化するのには「歩く」ことが大切と教わった。コロナに限らず免疫はあらゆる疾病に役立っているわけだし、まず実践ということで一日10000歩を目標にしている。これを続けるには「ポケモンGO」が大いに助けになっている。沢山歩く、ということがシルバー世代をも取り込んだ大人気ゲーム。これだと歩くことそのものが目標にならないので続けるには最高のパートナーだ。道すがらポケストップをまわし道具を補充、ジムをバトルで乗っ取ったり、レイドバトルでは特別なポケモンをゲットしたり、ふと気づくともう5000歩だ。さらに強力なサポートにワイヤレスイヤホン。伴侶に今練習中のヴァインベルクの第2四重奏曲を。20歳の時にナチスのポーランド侵攻で一人逃れた白ロシア共和国、ミンスクでの作品。晩年1987年にOp.145として室内交響曲第1番として再構築している。新たに加えた第3楽章の曲想は夜の帳が降り始めた頃にふさわしく、もう済んだこと、哀しいけれど遠い過去のことと、作曲当時収容所で亡くなった姉と両親を偲ぶ作曲者の心情が偲ばれる・・・おっとっとクルマや自転車に轢かれないように気を付けよう。さらに週一度の遠出散歩。両国から御茶ノ水あたりまで京葉道路、靖国通り沿いに神保町、御茶ノ水界隈に繰り出す。この辺りが我がオアシスであることは言うまでもない。ササキレコードはコロナから再開できたのであろうか。
二つ目は筋力トレーニング。朝5時から6時の間にすぐ近くの公園に出かける。今の時期はまだ真っ暗。手ごろな高さの鉄棒があるので、最初は「ぶら下がり健康器」代わりにしていたが、いまは懸垂(ただしまだ一度も首が鉄棒より上に到達していないが)も加えている。こんな最低限の運動すら「仕事」をしていた時にはできていなかった。運動する暇どころかものを考える時間、本を読むことすら新幹線の中(といっても池波正太郎だったが・・)でしか出来なかった。まして日々のチェロの練習(朝、出社前に!)、「ライヴ・イマジン」のプロデュースもやっていたわけだから、猶更のこと。最近は読書量も増え、地元の図書館を大いに活用。これだと積読なんてことにならないし悪くない。
もともとテレビはほとんど見なかったが、この1年はマスコミの大本営発表がそれに輪をかけてしまった。極東のガラパゴス、誰もが内を向き、臆病になってしまい目の前の保身に走る。国のトップがサラリーマン化し、今そこにある危機を正しく認知し、行動判断をできない不幸。一切の責任感もモラルのかけらもない。昨年某ピアノ発表会をお手伝いした時、舞台に上がる子供たちを見て素直にああなんて可愛いんだろうって心から思った。これが人としての最低の想いだろう。それすら危ういこの日本、一体どうしてくれるんだ!?ぶつぶつと想いを巡らしながら大川端、川面に吹く寒風に晒され今日もせっせと歩く。
アンコールやるの?
2021 OCT 5 20:20:19 pm by 西村 淳
ようやく街に楽器を携えて歩いている人たちが戻ってきた。このまま忌まわしコロナが収束に向かってくれるなら一気に音楽も息を吹き返すだろう。まだまだ音楽は死んでなんかいない。
このところライヴ・イマジンではアンコールをやらない、というかやれないでいる。この会を始めた時から常にアンコールまで含めたプログラミングを工夫していたし、実際、アンコールでは出演者全員が舞台に再度立てるように、ということを試みていた。要は○○ちゃんが出ているから・・というスタイルの上にあったわけだが、やれない理由は出演者よりもプログラムの一貫性に重きを置くようになってきたことが大きい。
アンコールを含めたプログラミングの成功例として「ライヴ・イマジン46」を挙げる。このプログラムは曲の持つ意味と出演者のPRの両面を生かしたものである。この時のアンコールはソプラノの髙山美帆さんに再登場を願い、リヒャルト・シュトラウスの「明日!:Morgen!」を前半のピアノ伴奏とは別にヴァイオリンの前奏が泣かせるピアノ五重奏編曲の別ヴァージョンで企画。時節柄コロナの終息を願い、明日につなぐという願いを込めて。この美しい歌曲は大変良い評価をいただいた。
【ライヴ・イマジン46 プログラム】
:2020年12月27日 豊洲シビックセンターホール
リヒャルト・ワーグナー(1813~1883)
■ 楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死(弦楽四重奏版:コーエン・シェンク編曲)
リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)
■ 歌曲
・ セレナーデ Op.17-2 Stänchen
・ 献呈 Op.10-1 Zueignung
・ 夜に Op.10-3 Die Nacht
・ 若い魔女の歌 Op.39-2 Junghexenlied
・ 明日! Op.27-4 Morgen!
セザール・フランク(1822~1890)
■ ピアノ五重奏曲 ヘ短調
では、本来アンコールはどうあるべきなのか?アマチュア、プロの違いはお客様からお金を頂いているかどうか。人の心は弱い。お金が絡んでしまうと、「NO」は演奏者の側からはなかなか言えなくなる。“アンコールは是非「ラ・カンパネラを!」”そう、この決定権は奏者というよりはプロデューサーにある。
ウィーン・フィルが来日すると、必ずヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」をアンコールにやっていた。皆が待ち望んでいるものだし、それがベートーヴェンのあとであってもウィーン・フィルの名刺代わり。無論、指揮者が望んでいたとは思えないが。一方、奏者も大物になると口を挟めなくなることもあるようで、キーシンは興が乗ると10曲以上1時間を超えるアンコールをするし、ルドルフ・ゼルキンはバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を全部弾いたとか。一方、偏屈な人もいて、アファナシエフやリヒテルは上手く演奏できなかったからそれをもう一度なんてこともあるようだ。もしかするともっと下手になるかもしれない。だったら3回目をやるのか?阿呆な奴だと思う。
いつもお世話になっている田崎瑞博先生の古典四重奏団はアンコールはやらない。どうして?と尋ねると全身全霊を込めた演奏の後は、その響き、「想い」を持って帰ってほしいからと。これは目が覚めた発言だった。アンコールが一貫性のプログラミングの延長線上に置かれたものであればさらに「想い」は強く届けられるかもしれないが、「想い」を打ち消してしまっては何にもならず、企画者の腕の見せ所である。
日日是楽日
2021 AUG 11 17:17:24 pm by 西村 淳
2021年3月31日をもってサラリーマン人生が終わった。最後の五年間は鉄鋼関連の会社だった。しばらくリモートワークだったのですんなりと新しい環境になじむことができたが、同じように家にいると言っても仕事をしているのとしていないのは天と地ほども違う。
小さい頃から協調性のない奴(と言われていた)だったがそれを第一に求められる社会で30年余り。そんな中にいてもやはり同調性なんか全くなかったし、すべて自分で判断して結論を導いてきた、というかそうしかならなかった。とにかく会社という小さな世界の中での歓びは仕事の達成感であり、それが世の中のためになるという自負があってのこと。これがあったからこそじっと我慢も出来た。その一方で手柄は横取りされるわ、出る杭はめり込むほど打たれるわ・・止めておこう、愚痴ったところできりがない。
最近は如実に足腰の衰えは感じられ、時々思考が止まっていることがわかる。外見上はごまかせても歳相応というべきものは絶対にある。つまらぬ努力はせずに自然を受け止めよう。爺は突然やってくるらしいからそれまでにやるべきことをやっておこう。
チェロの練習も日頃やれなかった基礎練習を再開。指ならべ、スケールと音程確認。今になってその大切さを思い知る。
そういえばライヴ・イマジン47のヴァインベルクのピアノ五重奏曲の練習だって平日昼間にみんな集まってできるようになったのは、私の足の鎖が解かれてからだ。1日24時間のうち12時間働いて、7時間睡眠。残り5時間で飯を食い、風呂に入り、資料原稿を探りながらなんとか練習時間をひねり出す。これほどの時間制約の中でよくライヴ・イマジンを継続できたと思う。
一方、家にいることが多くなって半径500m圏内でしか生活していない。当然他人との接点もなくなるし近視眼的にモノの値段に敏感になったりする。お、水が2Lで75円。買いだな~んちゃって。行動半径が狭くなった分、本を読み、歴史を語り、はたと膝を打つ。知らなかったことばかり・・そう、今からだって遅くはない。
「知らなくてはならないことを、知らないで過ごしてしまうような勇気のない人間に、わたしはなりたくありません」いかんいかん、気が短くなってテレビに向かって文句を言うガミガミ爺さんにならないように自戒すべし。
さて、秋も立ったことだし昔から気になっていた漱石の「自転車日記」でも読もう。
静けさの中から (14) 脳細胞
2021 MAY 19 20:20:09 pm by 西村 淳
☘(スーザン):頭の中で音楽を想像している時と、実際に音楽家が音を出しているのを聴いている時。どちらの場合もまったく同じ脳細胞が働いているのだという。
おもしろい。必ずしもピアノの前に座っていなくても、有効な練習ができる、ということにつながるではないか。躍起になって楽器を弾くばかりでなく、頭の中で想像をすることで学ぶという方法は、現代の音楽教育にもっと取り入れられるべきではないかと思う。最近、音楽学生や、音楽家たちは、RSI(反復運動過多損傷)と呼ばれる身体の痛みに悩まされている人が多い。頭で考えている時にも実際の音を聴くのと同じ作用があるのなら、黙って楽譜を見ているだけで、たくさんの勉強ができるはずだ。
私の知り合いにも、黙って楽譜を見つめることで、大いなる喜びを得る人たちが実際にいる。彼らは楽譜やスコアをじっと見ているだけで、音を想像することが出来、まるで音楽会で生の音楽を聴いているかのように感じるらしい。ケンブリッジ大学時代の先生、フィリップ・ラドクリフ教授もそのひとりだった。彼は生演奏の音楽会を聴きに行かない。業を煮やした学生が、やっとの思いで教授を引っ張り出しても彼が感じるのは頭の中でなっていた音楽との比較と再確認だけだった。
実際の音楽を聴いている時と頭の中で音を相応している時。どちらも確かに同じ脳細胞が働いているのかもしれないが生演奏は脳細胞以外に、体全体を刺激する。そして体全体がそれに応える。決定的な違いがある。
?(私):ギーゼキングの伝説的な話を思い浮かべたが、天才と比べることは無意味。私の場合は、室内楽のスコアがあっても入るタイミング、ほかの人がやっていることの確認、和音の確認などの作業であって、スコアがそのまま頭の中で音楽として鳴る、というような才能は埋もれたままだ。確かに慣れると響きとして頭の中では鳴っているようだが、全曲を適切なテンポで読み‥聴き続ける・・ことはできないし、ましては初見であればお手上げだ。ヴィオラ記号は変換する訓練が必要だけど、他のことも訓練で行けるなら勉強法の一つとしては認めなければならない。ピアニストやヴァイオリニストは過度な練習で「局所的ジストニア」を発症する人も多い。レオン・フライシャーやゲイリー・グラフマンもその活動を中断された。その悲劇的な状況が少しでも救われるなら。
スコアをカバンに入れて持ち歩き、出張の新幹線の中で見ていた時、名古屋から隣に座った紳士が音楽関係の人だったことがあり、もしやその黄色い本はオイレンブルクのスコアではありませんか?と来たことがあった。ブラームスのピアノ四重奏曲だったが、話の内容はあまりよくは覚えていない。でも音楽談義で東京までがあっという間だったことを想い出す。
ヴァインベルク覚書
2021 MAY 12 21:21:39 pm by 西村 淳
ヴァインベルクという作曲家については未だに日本では馴染みの薄いものだ。この20年ほどの間にすでに欧米ではヴァインベルク・ルネサンスが花開き、17曲ある弦楽四重奏曲のツィクルスがダネル四重奏団によって世界中の主要都市(台北でも!)で行われているしオペラ「パサジェルカ」は舞台上にアウシュヴィッツ収容所が出現することで話題になっている。(NHK・BSで放映されたようだが残念ながら見逃している)
国内では交響曲 第12番 作品114「ショスタコーヴィチの思い出に」を下野竜也指揮・NHK交響楽団が2019年に取り上げたものくらいしか見当たらない。世界の潮流をスルーしているのは我がニッポンくらいか。
そんなヴァインベルク・ルネッサンスを味わいたいとピアノ五重奏曲を6月5日(土)に豊洲文化センターで採り上げる。アマチュアの新交響楽団が芥川也寸志の指揮でショスタコーヴィチの第4交響曲を世界初演から25年(!)後、1986年に国内初演を行ったように、ピアノ五重奏曲ももしかするとアマチュアによる日本初演の栄誉が与えられるかもしれない。
ヴァインベルクについてはまだ書いたものが少なくD.Fanningの「Miecztslaw Weinberg: In Search of Freedom」が唯一のものである。唯、Amazonで70,000円以上もするのでちょっと躊躇してしまう。この他には断片的にショスタコーヴィチの関連図書やCDのライナーノーツ、ダネル四重奏団が来日した時のインタヴュー記事があるくらい。1980版のGROVEの音楽事典にも記載はない。
そうは言ってもコンサートのプログラムには何かを載せなければならないので、拾い読みしたものを整理しておくのも悪くないだろう。
ヴァインベルクが無名だった理由は、第二次大戦前、多くのユダヤ人音楽家が西に逃れたのに反しヴァインベルクは東へ向かったことで、ソヴィエトが解体する前の鉄のカーテンと冷戦による情報伝播の遮断が最大要因と見る。当時、東へ逃避したユダヤ人がどれくらいいたのかは不明ながら、少なくとも彼等にとってロシア支配地域は多くの同朋が住む場所だった。結果として身に危険が及ぶほどのことがあったにせよ、ソ連国内では多くの賞賛を得てしばしば演奏される作曲家の一人としてかなりの成功をおさめることができた。周囲にはコーガン、ロストロポーヴィチ、ギレリス、コンドラシン、ボロディン四重奏団などの超一流の音楽家がいたし、彼らが積極的にその作品を演奏し録音したことは西側に逃避した連中より音楽的にはよほど恵まれた環境だった。レコードは昔、神保町にあった新世界レコード社の棚で見かけたような気もする。そして何よりこの人にはショスタコーヴィチとの厚い友情がある。2台ピアノでよく遊び(ショスタコーヴィチの交響曲第10番は二人で演奏した録音もある)お互いに多くの音楽的な剽窃を楽しんでいるのである。
ミチェスワフの父シュムドはモルドバの首都キシナウでのポグロムにより父・祖父を失い彼が生まれる10年前にワルシャワにやって来てイーディッシュ劇場でのヴァイオリニスト、指揮者として生計を立てていた。当時300万人を超える欧州最大のユダヤ人口を抱えていたポーランドはワイマール文化の爛熟期においてその牽引をしていたに違いなく、クルト・ヴァイルのキャバレー・ソングなどはアメリカに持ち込まれボードビルやミュージカルとなって大衆化していった。
父の音楽活動はミチェスワフに最初の実践的な経験をだけでなく伝統的なユダヤ音楽を植え付けた。当時カロル・シマノフスキが指導していたワルシャワ音楽院での8年間は音楽理論のみならず、Tutcqynskiの下で示した際立ったピアノの腕はレオポルド・ゴドフスキ、イグナーツ・フリードマン、さらにイグナーツ・パデレフスキに続く輝かしい伝統に加わり、ヴィルティオーゾの道も拓けていた。
ところが第二次世界大戦の勃発は約束された未来を覆し、ヒトラーの機甲師団がポーランドを蹂躙する直前、ヴァインベルクは1939年にワルシャワを徒歩で発ち東に500km離れた白ロシア共和国のミンスクに逃避、さらに1941年6月、「独ソ不可侵条約」を破棄したドイツ軍がソ連になだれ込むと、モスクワ経由の列車で3200km離れたウズベキスタンのタシュケントに逃げ込んだ。タシュケントでは幸いオペラ劇場で職を見つけたが、シベリヤ抑留者が建設に参加させられたナヴォイ劇場はまだこの時には完成していない。その後、ショスタコーヴィチの援助により1943年からモスクワに在住し、1996年に亡くなる迄、この地に留まった。ショスタコーヴィチはヴァインベルクの才能を最大限の賛辞を惜しまず自分と同レベルの作曲家と認めていた。彼がモスクワに到着した時にはすでにショスタコーヴィチは作曲家としての名声を確立し第8交響曲にとりかかっており、1943年のピアノ五重奏曲はスターリン賞を受賞していた。
ヴァインベルク:『ショスタコーヴィチは新しい音楽を紹介し、12歳の年齢差とその名声に係わらず先生と生徒というよりは寧ろ平等に接してくれました。彼はモスクワの同じブロックにあるアパートに住んでいて、定期的に顔を合わせ互いの作品を2台ピアノのためにアレンジして演奏しました。』この言葉を裏付けるように、ショスタコーヴィチの交響曲第10番の二台ピアノ版の録音と、「アレクサンダー・ブロックの詩による7つのロマンス」Op.127を病気療養中の作曲者に乞われ初演、1967年10月23日モスクワ音楽院大ホールでのヴィシネフスカヤ(ソプラノ)、オイストラフ、ロストロポーヴィチとの共演も録音が遺されている。またショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第10番は茶目っ気たっぷりにその数を競い、ヴァインベルクの数字を追い越した記念として彼に献呈されていてショスタコーヴィチの微笑ましい一面を伝える。
1948年のジダーノフ批判により作品のいくつかがショスタコーヴィチやプロコフィエフの同様、演奏禁止リストに載ったとき、作曲家同盟に属さず、フリーランスの作曲家として活動していた彼の経済状態は悪化する。イデオロギー、文化、科学の責任を持つジダーノフはコスモポリタニズムと形式主義の特徴を有し特にユダヤ人の芸術家や思想家によって作られ、西側の音楽的発展と関連した作品の消去を目的としたキャンペーンを開始した。それらに代わって、ジダーノフが望んだ作品は容易に大衆に溶け込み、ソヴィエトの栄光を輝かせる作品だったが、ヴァインベルクはその命令に従わなかったし、自身の音楽について以下のように発言している。
『私の作品は戦争に関連しています。ただこれは私が意図したものではなく、私や家族の悲劇的な運命によるものなのです。私たちの生きた時代に人類に降りかかった恐怖、戦争について書くということがモラルの責任を果たすことと考えています。』
同年、ショスタコーヴィチの交響曲第8番が批判された時、彼を擁護した義父・ミホエルスがKGBに暗殺された。1953年の初頭にはスターリンの反ユダヤ主義による医師団陰謀による破壊活動が流布され、ヴァインベルクは2月7日にとうとう逮捕されてしまう。ショスタコーヴィチは内務大臣ベリヤへ働きかけ、妻は自身の逮捕を予測し彼に子供の養育を託すメモを準備したがここで幸運が舞い込む。3月5日のスターリンの突然の死。捕らえられていた人々は解放され、逮捕前の名誉が回復された。
巨大な作品群はあらゆるジャンルに亘っている。歌劇「パサジェルカ」は何とアウシュヴィッツ強制収容所がその舞台だし、「レクエイム」には日本の原爆歌人・深川宗俊の作品が使われている。何と、私たち日本人ですら忘れかけていたものを、遠く離れた地で想いを寄せてくれた人がいることに素直に感動する。全体像を知るためには多くの作品と接しなければならないが、ピアノ五重奏曲の他にはベートーヴェンと同じように生涯にわたり書かれた弦楽四重奏曲から手始めに聴き始めている。
音楽の特徴として抒情性が挙げられる。時々気味が悪いほどショスタコーヴィチの作曲技法に近いことが指摘されるが表現方法は驚くほど新鮮。稀に内容が人の受容を越えた感覚を持つこともある一方、ポーランド、モルドバなどの民謡を積極的に採り上げている。この辺りの個人的見解はまだまだ書けるレベルにはないので別の機会に譲ろうと思う。
クローン病との長い闘いの後、ロシア正教に改宗し1996年に亡くなった。
アンサンブル・フランのコンサート
2021 FEB 8 21:21:18 pm by 西村 淳
演奏行為は自己表現の一つの手段だとするなら、オーケストラの団員として弾くのははどうしても窮屈である。なぜなら指揮者という絶対的な権力者への忠誠を求められるから。私はあまりオーケストラの活動が得意ではない。その理由は自分でやることは自分で決めたい、この一点に集約される。すべての責任は自分で負う、というやり方。アブナイのは独りよがりになりがちでよく言っても孤高の人、悪く言えば奇人変人となる。究極はバッハの無伴奏チェロ組曲だけを弾いて一生を終えることなのかもしれないが、まさに奇人変人。自分で決めたくても私はそこまではなれない軟弱な人なのでなんとか浮世に居場所を確保できているようだ。
前置きが長くなったが、第一生命ホール(晴海トリトンスクエア)で行われた「アンサンブル・フラン」の演奏会を聴いた。
この団体はアマチュア合奏団の中ではトップクラスの実力を持ち、特にこのコンサートではライヴ・イマジンに参加しているメンバーが3人も弾いているし、高名な指揮者が振っている。プログラムは以下の通り。
指揮・高関健
曲目
・ ブリテン:フランク・ブリッジの主題による変奏曲 Op.10
・ ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 Op.127(弦楽合奏版)
・ アンコール:ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 Op.130 ~ 第五楽章 カヴァティーナ
メイン・ディッシュは勿論Op.127。ライヴ・イマジン45で演奏した記憶はまだ生々しく、弦楽合奏でやるとどんな演奏になるのかワクワク感もあった。プログラムによればヘンレ版のパート譜にピアニストのマレイ・ペライアがコントラバス譜を付加したとのこと。なぜペライアがこの曲に拘ったかは不明ながら弦楽合奏とするにはこのバスパートの補強は必須で実際その効果はコントラバスは2名であってもとても力強いものがあった。逆にこれ無しに弦楽合奏は無理じゃないかとも感じた。
一方、指揮者がいることで、冒頭に書いた通り弦楽四重奏としての自主性、自在性が希薄になる面は否めない。バーンスタインがウィーン・フィルを指揮した第14番の録音があるがここでも同じような印象、つまり違う音楽になっている。得るものもあり、失うものもある。この形態を良しとするのは指揮者がいることで見通しの良くなる「大フーガ」くらいかもしれない。