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スポーツを科学の目で見る(ソチで日本選手活躍)

2014 FEB 16 18:18:58 pm by 中村 順一

羽生選手は素晴らしかった。フィギュア男子初の金メダルである。ショートプログラムが完璧で、安心してフリーも見てられると思ったのだが、フリーは結構ミスしてしまった。羽生の次に滑るチャンに完璧に滑られたら逆転されてしまう、やばい、とちょっとビビったが、チャンもミスの連続で羽生の勝利だった。羽生は金メダルを取ったのに、インタビューでは、まず「すみません」とはにかみ、同時に「オリンピックの魔物、すごい緊張を経験できたのは今後に繋がる」、と大物感たっぷりのコメント、基本的にはプレッシャーに強いタイプだと思うし、カナダに住んで、海外への対応もできている、次回の平昌でも連勝できるのでは。たいしたものだ、日本人の誇りです。

葛西もすごかった。やっと7回目の五輪挑戦で、調子をピークに持ってくることに成功した。でも飛距離では一番なのに、どうして銀なの、と思ってしまう。ストッホより着地が美しくない、とは素人目には思えなかった。41歳男に金を取らせてやりたかったねえ。いや41歳ならまだまだ大丈夫。最近のスポーツ界は体のケア技術の進歩により、従来よりオジサン、オバサンが活躍できるのだ。陸上、水泳、野球どの競技にも当てはまる。次の平昌でもいける、韓国という日本から近い場所なのも有利かも。是非家族も会場に呼んで晴れの舞台を見せてやってほしい。執念の個人種目金を。いや、その前にソチでのジャンプ団体(17日)がある。日本は4選手とも好調そう、もしかすると長野に続く団体金がありうるかも。盛り上がりますねえ。行け葛西。

ノルディック複合男子ラージヒル(18日)、女子フィギュア(19日、20日)、スピードスケート女子団体パシュート(22日)でも金を是非期待したい。真央ちゃんが緊張してしまうのが心配だが、羽生が金を取ってくれたんだ、別に負けても、日本フィギュア界は大丈夫、伸び伸びと滑ってほしい。複合の渡部暁斗は前半のジャンプでフレンチェル(独)とシャプイ(仏)を引き離せればチャンスはある。本人は絶好調、期待できる。

今回のソチ五輪では競技の解説にかつてのメダリストが活躍している。スケートの清水、岡崎、ジャンプの原田、複合の萩原、等である。いずれも自分の経験を踏まえながら解説してくれるので、実に聴き甲斐がある。実績のある人たちの存在感を再認識しました。努力した人の昔を見つめる表情はいいですねえ。

日本選手頑張れ!

 

スポーツを科学の目で見る(ソチ五輪開幕、日本選手イマイチ)

2014 FEB 10 14:14:55 pm by 中村 順一

ソチ五輪が開幕しました。

まず最初のびっくりは、開会式で、日本選手の入場が最後から2番目で、開催国のロシアの前だったことでした。ロシア語のアルファベット順での入場で、「日本」はロシア語ではそんなに最後の方なのか、と再認識。1964年の東京オリンピックでは、USAの米国とUSSRのソ連が開催国の日本の前で入場していた。それ以来何となく、大選手団の国は後ろの方で入場というイメージがある。まあ開催国の前で入場するのも目立っていいかも。しかし、日本選手の入場は日本時間午前2時を超えてしまい、ちょっと寝不足になってしまった。

早くも期待の日本選手登場だが、現時点ではちょっとイマイチの結果です。

まずは、スノーボードの男子スロープスタイルの角野友基(17)、スノーボードの採点基準など筆者には全くわからないが、日本時間土曜日の午後の競技で、外は凄い雪で自宅に閉じ込められたこともあり、じっくりとテレビ観戦して応援した。W杯の優勝経験もあり、ちょっと期待したが、予選は失敗。実質敗者復活戦の準決勝でギリギリの4位で決勝進出。決勝では、バックサイド・トリプルコークとかいう技を決めたとのことだったが、8位入賞がやっとだった。でも今後のこの競技の国内での盛り上がりを考えると、ビリで決勝進出でも大いに意義はあったと思う。

次はおなじみモーグルの上村愛子(34)。決勝は3回の勝ち抜き戦。2回目をギリギリの6位で突破、最終3回目はばっちり決まったガッツポーズの滑りだったが、残念ながらバンクーバーに続き4位。タイムは早かったのに、エッジを使いつつ雪を切り裂いていく上村のターンは現在主流ではないそうで、高評価は受けられなかった。これも筆者には全く採点基準がわからず、納得感は無かった。上村はとうとう五輪でメダルが取れなかった。応援していたけど。残念です。

フィギュア団体は、男子の羽生結弦(19)は本当に素晴らしかったが、浅田真央(23)は予想外に全然ダメ。ソチに入って絶好調と伝えられていたが、突如緊張に襲われ、トリプルアクセルが全く決まらなかった。結局団体5位。おいおい真央ちゃん、個人戦大丈夫?

ジャンプの葛西紀明(41)もノーマルヒルは期待外れの8位。今後のラージヒルと団体に期待だが、自身のブログによると着地時に腰を痛めたとのこと、過度の期待は禁物か。せめてメダルは取ってくれ。

ところで競技を見ていて気付いたことがある。冬季五輪の種目はスノーボード、モーグル、ジャンプ、フィギュア、すべてに言えることなのだが、こちらとしては日本選手を応援しているので、ついついライバルの失敗を期待してしまう。「頼む失敗してくれ」と祈る感じだ。味方の成功より、敵の大失敗の方が望ましいのだ。これはあまりフェアではない感じがします。夏の五輪では相手の失敗を祈るケースはあまり多くはないのでは?体操競技なんかは同じかも知れないが。

またモーグルとかジャンプとか、すぐルールが改正される。ヒガミ根性かも知れないが、どうも日本選手にはいつも不利になる感じがする。ジャンプ陣が長野五輪の後、絶不調から立ち直れないのも明らかにルール改正のせいなのだ。やはり冬季五輪は、一部のヨーロッパ諸国と北米の為の競技なのだろうか。

いやいやまだ五輪は始まったばかり。これからに期待しましょう。

 

 

 

 

スポーツを科学の目で見る  (ソチ五輪で日本選手頑張れ)

2014 JAN 30 11:11:34 am by 中村 順一

いよいよ2月7日に開幕するロシア、ソチ五輪が迫ってきました。日本選手への期待が高まるが、果たして日本選手は活躍できるのだろうか。選手団長の橋本聖子参院議員は、1月20日の東京都内での日本選手団結団式で、何と、「活躍間違いなし、長野越えも可能」と宣言した。これは凄い宣言である。ちょっと嬉しかった。

もともと冬季五輪での日本選手は、出場した五輪では必ず金メダルをとっている夏の五輪とは異なり、あまり活躍できていない。最初のメダルは、1956年のイタリアのコルティナ・ダンペッツオ五輪での猪谷千春のスキー回転での銀メダルである。その後は札幌五輪(1972年)の日の丸ジャンプ飛行編隊の金銀銅メダル独占、アルベールビル五輪(1992年)とリレハンメル五輪(1994年)でのノルディックスキー複合団体の金、などはあったが、基本的に冬の五輪は北欧、ヨーロッパアルプス近隣諸国、ロシア、北米が圧倒的に強く、それ以外の地域は参加するのみで、時々活躍、といった歴史だったのである。ところが1998年の長野五輪は日本選手が大活躍、金5、銀1、銅4の合計10個のメダルを獲得した。長野五輪は、日本中が大いに盛り上がっていた五輪だった。その長野を超えると言うのだから、これはなかなか凄いのである。

本当ですか?と聞きたいところ。

じゃあ、どの選手が金メダルを取るの?と皆が期待する。まずは女子ジャンプの高梨沙羅(17)ですね。沙羅はW杯で圧倒的な強さを見せている。文武両道の凄い女性で筆者も大ファン、是非是非勝たせたいが盤石だろうか、ライバルは怪我から復帰のヘンドリクソン(米)と急成長のアバクモア(ロシア)あたりだろう。沙羅が飛ぶ瞬間は怖くてテレビを見ていられないかも。

フィギュアは女子も男子も期待。女子はもちろん浅田真央(23)、男子は羽生結弦(19)と高橋大輔(27)。浅田のライバルは金妍児だが、公平な審判をお願いしたい。金妍児の国の審判もいるんだよな。どうもサッカーW杯のスペイン戦、前回バンクーバー五輪のフィギィア等、この国はいろいろ噂があるのだ、まったく面倒くさいお国柄である。男子のライバルはチャン(カナダ)で、冷静に見ればやや劣勢。

次は男子ジャンプの葛西紀明(41)、今季W杯で史上最年長で優勝した。もともと絶対的なエースなのだが、どうも従来は五輪直前になると調子が落ちる傾向があった。今季は、規定の改定による新型のスーツが葛西に合っているようで絶好調、メダルは十分期待できそう。

ノルディックスキー複合の渡部暁斗(25)はメダル有望。モーグルの上村愛子(34)も頑張ってほしい、長野五輪の時は地元大町高校の高校生だった、その後どうしてもメダルが取れないが、今度こそ。運も必要かも。応援したいです。

筆者には馴染がない種目なのだが、スノーボードハーフパイプも有望。平野歩夢(15)と平岡卓(18)。特に平野は、五輪3連覇を狙う絶対的な王者のホワイト(米)が「凄い才能、回転のスピードが自分より早い」と最も警戒する存在らしい。

スピードスケートも頑張ってほしい。男子短距離陣は加藤条治(28)と長島圭一郎(31)に期待、2人ともバンクーバー五輪のメダリストで経験があり、本番で強そう。女子はバンクーバーで惜しくも銀だった団体追い抜き(パシュート)が狙える。田畑真紀(39)と菊池彩花(26)が好調。

この選手が全員メダルを取ったら(是非、金を期待したいのだが)、確かに「長野越え」になる。いやあ2月7日の開幕が楽しみですねえ。寝不足になりそう。

 

靖国問題

2014 JAN 14 16:16:41 pm by 中村 順一

東氏の「安倍首相の靖国神社参拝について」の投稿を読ませてもらいました。確かに近隣2か国にギャーギャー言われる必要はない。ただ筆者が1978年の突然のA級戦犯合祀以降、複雑な気持ちで靖国神社を見つめてきた経緯を書いてみたい。

靖国神社の前身である「東京招魂社」は明治天皇の命により1869年に創建された。西南戦争を経て、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼するための施設・シンボルとして、存続してきた。大東亜戦争後、時間が経過した現時点で、国に殉じた先人に、国民が感謝の念を捧げ、平和を誓うのは当然、という意見の一方、政教分離の議論、あの戦争は侵略だったか自衛だったか、という歴史認識、日本軍が進駐し犠牲者も出したアジアの国々への配慮から、政治家の参拝を問題視する見解もある。なかなか日本国民の中で、意見の一致を探るのが難しくなってきている。特に東京裁判でA級戦犯とされ刑死した7人が、靖国神社の祭神として合祀されてから問題が大きくなった。

筆者はこの問題は、究極的には、純粋に日本国内の問題である、と考えている。即ち「A級戦犯は戦勝国による犠牲者、とする意見」と、300万人を超える日本人の犠牲者を出し、無条件降伏という惨めな敗戦により、日本の国際的地位を無残にも落とした責任の所在から、「責任のあるA級戦犯と、国の為に戦い犠牲となった一般の軍人とを一緒に祀り、顕彰することを問題視する意見」の対立である。筆者は後者の意見の立場である。やはり国の為に戦い、無念にも帰ってこれなかった「永遠の0」の主人公のゼロ戦操縦士宮部や、戦死した筆者の2人の叔父達と、いろいろな事情があったとは言え、あの途方もない戦争を判断した男たちが同じ場所にいるのは、どうしても違和感がある。事実として日本は”自分から始めた戦争に惨敗”した。説明責任の”少なくとも一部”はあのA級戦犯にあるのだ。

靖国神社には別に遺骨があるわけではない。単に戦死した記録が残っているだけだ。筆者は以前に、二人の叔父の合祀の事実を確かめたくて、靖国神社に問い合わせたことがある。すると靖国神社社務所より、丁重な回答が手紙で来た。「御照会の御祭神につき回答申し上げます。確かにお二人は当神社の御祭神です。死亡日、死亡時所属部隊、階級、合祀年月日は以下のとおりです。」対応は極めて丁寧だった。靖国は現代及び未来の日本人が、日本の為に戦ってくれた先人を尊ぶために、もっと行くべき場所なのだ。

やはり問題は1978年の当時の靖国神社宮司、松平永芳による突然のA級戦犯合祀であろう。しかもその事実は1979年4月にA新聞が報道するまでは、国民の知るところとはならなかった。

昭和天皇がこの合祀に不快感を持っていた、という説がある。2006年になって、1988年当時の宮内庁長官だった富田朝彦が昭和天皇の発言をメモしていた手帳に、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を持っていたことを示すメモが残っていた、と日経新聞が報道したのである。確かに昭和天皇は1975年11月を最後に靖国に参拝しなかったし、今上天皇も参拝していない。日本国の象徴である天皇が何らかの理由で戦没者が祭られている場所に行かない、行けない、というのは何かがおかしいだろう。将来的には個人的には「A級戦犯の分祀」を期待したい。天皇にも参拝してもらいたいのだ。

しかし、近隣の2国からうるさく言われるのにも耐えられない。実はこの反日運動を煽ったのは日本のA新聞である。1978年の合祀から7年間弱、この2国は特段抗議はしてこなかった。抗議が始まったのは、A新聞が靖国問題を特集し、同時期に当時の社会党の田辺書記長が訪中し、中曽根首相が公式参拝を実行した1985年8月以降なのである。合祀が発表された1979年以降、鈴木善幸首相が何回も参拝したが、抗議はなかったのだ。最近、韓国の某金融機関の東京代表と話をしたが、彼の話で、韓国の財務省系の高官の話として「A新聞にも困ったものだ。まるで韓国と日本の国民が仲良くするのを阻害しているようだ。そこまで喧嘩を煽りたいか。韓国のマスコミも悪いが。」といった意見を紹介してくれた。A新聞が煽り、両国のマスコミが過剰反応する、という悪循環である。日本と近隣2か国は今後も仲良くしていく必要があるのは言うまでもない。A新聞のみではない。日本の左派マスコミは、日本サイドから両国の「反日」を作ってしまう傾向がある。これは良くない。戦争はもう69年も前に終わっているのだ。

安倍首相は今後も靖国参拝を続けるのだろうか。正月の民放テレビのインタビューで中曽根元首相が「安倍君も一回はどうしても行くという決意だったのだろう。一回行けば一応満足で、今後は行かないのではないか。」と発言していた。最近は近隣2か国だけでなく、欧米諸国からも批判的なコメントが出ているのが気になる。日本は世界の中で柔軟に確固としたプレゼンスを確保していく必要がある。日本の味方、友人を増やしていかなければならない。

筆者としては、近隣2か国にギャーギャー言われるからではなく、日本の歴史を勉強してきた日本人として、親族が靖国の祭神である子孫として、日本の首相には、在任中は、A級戦犯が合祀してある靖国に行ってほしくない。

 

 

 

 

中国はどこへ行くのか、「戦後の中国は全体主義だったか」

2014 JAN 6 18:18:02 pm by 中村 順一

毛沢東

毛沢東

劉少奇

劉少奇

20世紀は人類史上稀にみる戦争と殺戮の世紀であった。その20世紀を代表する国家指導者、怪物は何と言っても、ヒトラー、スターリン、(毛沢東)であろう。何と言っても殺した人間の数が桁違いであり(毛沢東に関してはまだ分析が不足)、日本の戦争期の指導者など、この3人に比較したら、人間を殺す戦略性に関しては幼稚園以下の評価になる。

ヒトラーのナチズムとスターリンのスターリニズムはまとめて「全体主義」と呼ばれている。

これはアメリカが戦後に言い出したことで、その正確な分析は、先般筆者が投稿し、評価した映画の主人公であるハンナ・アーレント著作の「全体主義の起源」にまとめられている。アメリカの自由と民主主義に敵対するものとして、ナチズムとスターリズムがある。アメリカは正義なのだから(イラク湾岸戦争の作戦名も「正義」だった)、第二次大戦に参加するのは正しく、冷戦でソ連に対抗するのも正しい。そうすると、第二次大戦と冷戦で対立した当時のドイツの体制とソ連の体制は似ていなければならない。ハンナ・アーレントは見事にこの二つの類似性を指摘する。似ている理由の一つは独裁政治の中での、党と政府の二重機構である。

ナチズムにはナチ党があり、国家を独裁一党支配している。同時にドイツ政府もある。二重権力であるが、政府は空洞化する。党は私的機関で完全にヒトラー個人の指揮権下にあり、党が政府を支配する体制になってしまう。ナチ党にはドイツ国防軍とは別に親衛隊という武力装置がある。親衛隊が反対者を逮捕したり、ユダヤ人を虐殺したりする。ドイツ国防軍の将軍の一部はヒトラーの無謀な戦略を正そうともしたが、うまくいかない。

スターリニズムも共産党と政府の二重構造である。党が政府を指導する。そして親衛隊はないけれども、秘密警察がある。秘密警察は簡単に容疑者を逮捕し、裁判抜きで処刑してしまう。粛清である。1930年代には秘密警察内部での粛清も当たり前で、党や政府はあってもないのと同然で、秘密警察は強力で党中央、すなわちスターリンに絶対に歯向かわないようになっていた。

じゃあ中国はどうか。確かに似ている。ドイツやソ連の様に公然とアメリカに敵対したわけではないので、「打倒すべき邪悪な全体主義」とは定義されていないが。似ている点は党と政府の二重構造である。ちょっと異なる点は文化大革命の時には、党が優位に立てず、党が人民大衆によって攻撃され、党が革命委員会というものに置き換えられたりしたことである。この人民大衆は毛沢東に直結していた。ナチズムの親衛隊やスターリンの秘密警察の役割を、毛沢東の体制では一般の人民が担ったのである。

この三つの体制を比較してみたい。ナチズムの排除の対象はユダヤ人と共産主義であり、一般のドイツ人では無かった。すなわち、あのナチ体制でも自分が普通のドイツ人であれば排除される心配は無かったのである。排除の対象が人種的に限定されていたのがナチズムの特徴である。スターリニズムは誰もがよくわからない理由で「お前はスパイだ」と嫌疑をかけられ、拷問の末、自白させられ粛清されてしまう。党の中の人間でも安全ではなく、ナチズムにある限定性がない、だから怖い。

毛沢東の体制はもっと凄い。スターリン体制は党の内部の人を粛清したが、攻撃したのも党の内部の幹部である。しかし、毛沢東は人民大衆とか、まだ物事がよくわかっていない若者集団の紅衛兵に党の要人を襲撃させたのである。大衆とか紅衛兵の方が党の幹部よりも毛沢東に近い、という発想である。こうなるともう誰でもいつ攻撃の対象になるかわからない。スターリニズムと同様の、限定性がわからない恐怖である。

文化大革命は1966年に始まり、1976年迄続いたとされる。しかし、あれはいったい何だったのか、謎である。どうしてあれだけ大規模な破壊を実行したのか。当時毛沢東は大躍進政策の失敗で影響力を喪失しつつあった。その毛沢東が劉少奇一派を打倒するために、大衆を動員して党中央の権力闘争に勝利することが目的だった、とされるが、それだけであれだけの破壊を実行する必要がどうしてあったのか。

「全体主義の起源」は文化大革命以前に書かれており、中国の文革の分析は無い。また、中国の現指導者も毛沢東を尊重しており、文革の歴史的分析は、まだまだ先の話になろう。ソ連の指導者もスターリンを批判したが、中国では今でも毛沢東批判は一種のタブーなのだ。

しかし、毛沢東の体制が、ハンナ・アーレントの定義による「全体主義」の体制に近かったのは確かだろう。

 

 

 

中国はどこへ行くか、「中国は覇権国になりうるのか」

2013 DEC 27 11:11:39 am by 中村 順一

上海の摩天楼

上海の摩天楼

僕が中国に初めて行ったのは1992年、それから後、前の会社で国際関係の仕事に長い間携わったこともあり、駐在の経験は無いものの、相当の回数訪れている。出張はやはり北京、上海、(香港)が中心になるが、プライベートでは旧満州、旧関東州、新疆、福建、敦煌、西安、雲南、広東、等、いろいろな場所に行ってきた。

おそらく中国ほどこの20年で変化した国もないだろう(地域で言うなら、正確には首都北京と沿岸部の大都市の変化と言うべきだが)。90年代初頭の北京、上海はまだパッとしない田舎都市、かなり貧しい発展途上国、という印象だったが、今では、高層ビルの立ち並ぶ上海の迫力は東京をも凌ぐ、と認めざるを得ない。ものすごい経済成長でGDPも日本を抜き去り、中国の政府関係機関や金融機関の連中は今や自信に満ちている。20年前は自信なさげに下を向いていたのに。

 

さて政治や経済の関係者では、中国がアメリカに変わって21世紀の覇権国になるかどうかが議論の対象になってきている。国際関係論では、「覇権国の移動」ということが重視され研究されている。

16世紀の後半あたりからの覇権国は、短期間だったがオランダ、次がイギリス。イギリスの覇権は極めて長く継続、フランスはナポレオンが挑んだが敗北、19世紀ビクトリア女王時代にイギリスは世界を制覇。19世紀後半から新生統一ドイツが挑戦するものの第一次大戦で敗北。20世紀は疲弊したイギリスに変わってアメリカが覇権国になり、第二次大戦後の世界をコントロール。しかし21世紀に入って疲弊気味、変わって中国が台頭してきた、という分析である。今の中国の台頭、アメリカへの挑戦は、19世紀後半のプロイセン主導のドイツがイギリスに挑戦した歴史に似ている。世界は再び覇権を争う大国同士の戦争に突入するのでは、といった議論である。

では中国はアメリカに代わる21世紀の覇権国になれるのか。僕としては、「なかなか難しいのでは」と言いたいところだ。ある国家が覇権を持っているというのは、パワーについて、あらゆる基準で、その国家がほかの国家を圧倒している、ということである。このパワーとは軍事力、経済力、人口等のハードパワーだけでなく、他の国を引き付ける文化や価値観といったソフトパワーも含まれる(アメリカの民主党系の政治学者である日本びいきのジョセフ・ナイはこのハード・パワーとソフト・パワーを合わせたパワーをスマート・パワーと定義している)。覇権国は軍事的に強いとか人口で圧倒する、というだけでなく、いわゆる国際公共財を他の国々に提供しなければならない。今の世界では、これは自由な貿易秩序を維持するのに貢献している、ということであり、基軸通貨を提供したり、いろいろな方法で他の国々に世界にとって必要なルールを守らせたりすることである。それで覇権国は最も大きなメリットを享受するが、他の国もメリットを得る。覇権国をしてこれを可能ならしめるためには、覇権国が持っている価値観や規範に他の国々もコミットしてくれることが必要になる。

21世紀半ばには中国のGDPはアメリカを上回るだろう。しかし、中国には現時点では友人がいないのである。どちらかというと世界中から警戒されている。「文明の衝突」という名著を書いた、アメリカの政治学者ハンティントンによれば、中国一国とアメリカ一国を比べるより、中華文明圏(ほぼ中国のみ、ハンティントンによれば台湾、朝鮮、韓国、ベトナム、シンガポールが含まれるが)とキリスト教文明圏で比較したほうが、国際社会の力学をストレートに反映できる、という分析になる。アメリカの他にヨーロッパ諸国を加えて、その全体のGDPを中国が追い抜けるか、というとちょっと難しい。無理である。過去、キリスト教文明圏の国々は一貫してヘゲモニーを握ってきた。覇権の移動といっても、ハンティントンの定義では同じ文明圏の中での移動に過ぎない。日本も含めて世界中の国々がそれに慣れている。

世界の国々がぶつぶつ言いながらもアメリカの覇権を認めているのは、アメリカの行動は予測可能だからだと思う。アメリカは、一応説明責任を果たそうとするスタンスは保持している。しかし中国の行動はそうではない。共産党の事情もあり、予測が簡単でない。説明責任という発想がない。そもそも長い歴史の中で、政府が自分の人民に説明する習慣がない。

やっぱり、いやだな、付いていけないよ、と皆が思ってしまう。そうなると、世界中の国々がハンティントンの言う中国文明圏の国々も含めて、中国が覇権を握らないようにアメリカを結局はサポートする。インドも日本もアフリカ諸国も。イスラムだけは微妙だが。すなわち、アメリカ一国の力は落ちていくが、おそらくは当面はアメリカを中心とする集団覇権体制が続くのである。中国は覇権国家にはなれない。軍事力や人口で圧倒しようとしても、ソフトパワーの強化や説明責任の貫徹が無ければ、アメリカと並ぶG2にもなれない。世界中の国々がイヤだからである。

ハンティントンによれば、日本は2世紀から5世紀に中華文明から派生して成立した独自の文明圏で、中国文明圏には属さない。日本独自のプレゼンスをキープしつつ、アメリカを中心とするキリスト教文明圏についていく、という戦略が基本になろう。

 

 

 

 

映画、「ハンナ・アーレント」

2013 DEC 1 21:21:02 pm by 中村 順一

アイヒマン

アイヒマン

ハンナ役のバルバラ・スコヴァ

ハンナ役のバルバラ・スコヴァ

いい映画である。

主人公は20世紀の思想家、哲学者、ユダヤ系ドイツ人のハンナ・アーレントで、実話である。ハンナは1906年、ドイツのハノーファー生まれ、傑出した頭脳と美貌を持ち、ハイデッガー等の、時の錚々たる哲学者に学び、彼女自身の哲学体系を構築していった。ハイデッガーは、極めて難解な、中国の老子の「道」の思想の本質を、西洋で唯一理解した哲学者だが、ハンナはこのハイデッガーを尊敬し、一時期愛人関係にもなっていた。ユダヤ系のハンナはナチスの台頭により、フランスに脱出。ヴィ̪シー政権により収容所に送り込まれるが、運よく脱出、アメリカに亡命する。1951年には名著「全体主義の起源」を執筆する。

映画の舞台は1960年のニューヨークから始まる。ナチスの親衛隊で、何百万人のユダヤ人を強制収容所に移送した責任者のアイヒマンが、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルのモサドに逮捕されたところからだ。イスラエルで行われたこのアイヒマンの裁判をハンナは傍聴、その時の記事を1963年に雑誌「ニューヨーカー」に発表する。その記事が当時大論争を巻き起こしたことは有名だが、この映画は焦点をこの時の論争に絞っている。ハンナは、アイヒマンは凡庸な市民であり、あの悪行は単に命令に従っただけと主張、また第二次大戦当時の「ユダヤ人評議会」の果たした役割についても述べ、ユダヤ人で構成されたナチの出先機関が、アウシュビッツを助長した、と結論づけているのである。正論かも知れないが、第2次大戦後の世界ではタブーの世界であり、現在でもこの考え方は、ユダヤ人の大半の人々にとって認めがたいだろう。

ハンナを主人公にした映画ができる、と聞いてかなりびっくりした。「ドイツ人であり、同時にユダヤ人。天才的哲学者でものすごい美貌、あのハイデッガーの愛人、名著”全体主義の起源”の著者、今でもユダヤ人が敵視する、難しい怖い思想家」、だいたいこんなところが僕のハンナのイメージだったのだ。このハンナを主人公にした映画の作成はかなり難しいのでは、と思った。

ただ、岩波ホールで上映されているこの映画は人気で満員が続いている。ドイツ人のトロッタ監督は天才ハンナ・アーレントに敬意を込めて、うまく難しい映画を感動的にまとめている。ハンナが、いつも煙草を吸っていたのが印象的だった。

ところが、映画の上映中、観客の一人が、「この映画は許せない。この映画を単に興味だけで見ている日本人のあなた達も犯罪者と同罪だ。」と叫んで、上映中のホールから退出していった人を目撃したのにはびっくりした。よくわからなかったが、日本人だったとの印象だ。ユダヤ人の歴史を研究している人なのだろうか。

微妙な世界である。ユダヤ人の歴史を理解することは本当に難しい。僕もイスラエルに行った経験もあり、勉強だけはしているがーーー。日本人にとっては、本質の理解は無理なのかもしれない。歴史が違いすぎるのである。

この映画は20世紀の歴史をしっかり描写したドイツ映画である。是非お勧めしたい。

 

 

オリンピックへの道、死闘10番勝負、その6から10

2013 NOV 25 16:16:48 pm by 中村 順一

西室氏の投稿を引き継ぎ、6から10までの勝負を僕が書いてみます。水泳と冬季五輪から選んでみました。

 

6:男子競泳自由形、山中毅とマレー・ローズ

山中毅は競泳自由形、中長距離のエースで1956年のメルボルン五輪と1960年のローマ五輪で銀メダル4個。金メダルに届かなかった悲運の男である。宿敵の豪州のマレー・ローズには五輪ではただの一度も勝てなかった。通算では5勝5敗で、実力での差は無かったとも言えるし、世界記録も20回以上記録している。しかし大舞台ではいつもローズの勝利だった。メルボルンでは米国のブリーンも交えた3選手の大接戦、山中は17歳だった。次のローマでは下馬評では山中有利で、日本国民も金を期待したがダメだった。

山中は能登半島の出身、母親は当地では有名な海女で潜水が得意だった。山中は驚異的な肺活量を母親から受け継いだのである。山中は東京五輪にも出場、ショランダーが圧勝した400Mで6位だった。この時ローズは第一線から退いており、テレビ解説者をしていた。

 

7:東京五輪女子100M背泳

1964年東京五輪の女子100M背泳はすごく印象に残るレースだった。金はアメリカのキャシー・ファーガソン、銀はフランスのクリスチーヌ・キャロン、そして日本の田中聡子が4位に入った。ファーガソンとキャロンは共に当時16歳、そして2人ともびっくりするくらいの美貌だった。キャロンはその後女優になっている。

でもやっぱり思い出すのは田中である。田中はローマ五輪にも出場し銅メダル、日本女子としては1936年ベルリン五輪の前畑秀子以来24年ぶりのメダルを取っている。惜しかったのは田中が得意だったのは100Mではなく200Mだったことだ。田中は200Mで10回も世界記録を更新している。200Mは田中が引退した直後の1968年のメキシコ五輪から正式種目になった。”もし”の議論は禁物だが、仮に200Mが田中の時代に正式種目だったなら、田中の取ったメダルがローマの銅メダル1個ということは無かっただろう。田中は長崎県佐世保市の出身、八幡製鉄に入社した。

 

8:中学2年生、最年少金メダル、岩崎恭子、本命ノールを破る

1992年バルセロナ五輪の華は何といっても女子200M平泳ぎの岩崎恭子である。沼津第五中学校2年生、14歳になったばかりの岩崎恭子は大変な偉業を成し遂げた。予選で日本新記録を出した岩崎に一躍注目が集まったが、本命はアメリカの世界記録保持者アニタ・ノールだった。後半勝負を得意とする岩崎は徐々にノールとの差を詰めていく。ノール、岩崎に中国の林莉も加えた最後の50メートルのデッドヒートは正に凄かった。タッチの差で岩崎は勝った。レース直後のインタビューで彼女は「今まで生きてきた中で、一番幸せです」と語り、一躍時の人となった。本命のノールは当時16歳、凄い調子でオリンピック開始後に記録を伸ばしてきた岩崎のプレッシャーに焦り、前半から飛ばし過ぎたレースだった。岩崎はその後2009年にラグビー選手と結婚、2011年春に女の子を出産している。幸せがあのバルセロナの一瞬だけで無かったのは喜ばしい。

 

9:伊藤みどり、とクリスティー・ヤマグチ

伊藤みどりは女子フィギュア・スケートで女子で初めてトリプル・アクセルに成功し、これを武器に1989年の世界選手権で優勝、一躍世界のトップスターの座を獲得した選手である。今では日本のフィギュア・スケートは国民的スポーツとして、オリンピックでの金メダルも期待される種目になっているが、伊藤の時代はまだ違った。戦前・戦後を通じ、日本選手がメダルを取ることは長い間の夢だった。しかし世界の壁は厚かったのである。

クリスティー・ヤマグチは米国カルフォルニア州出身の日系3世、1989年と90年の全米選手権で連勝し、伊藤のライバルとして頭角を現した。1991年のプレ五輪の大会では伊藤はフリーの演技でヤマグチを逆転、1992年のアルベールビル五輪では本命として金が期待された。しかし伊藤はオリジナルプログラムで失敗、大きく出遅れた。得意のフリーに期待が寄せられたが、最初のトリプル・アクセルに失敗、関係者の間に嘆息が漏れた。トリプル・アクセルは難しく、高いジャンプ力がいるので、競技の前半部分のみ演技が可能で、後半部分では不可能、とするのが当時の常識だったからだ。しかし伊藤の精神力は凄かった、後半部分でトリプル・アクセルに再挑戦、見事五輪史上初の演技成功を達成、日本フィギュア界初の銀メダルを獲得したのである。ヤマグチは堅実な演技だった。フリーではトリプル・ルッツを中心にまとめ、伊藤の追撃を抑え金メダルを獲得している。

伊藤は名古屋の出身、その後のフィギュア界の中心が名古屋になっていく先駆者になった。あの高いジャンプとそれを支える下半身のバネ、瞬間の驚異の精神力等は正に天才だった。ヤマグチはその後プロのスケーターとして活躍、2011年10月には東日本大震災の民間支援プロジェクトの訪問団の団長として来日、元関脇の高見山と共に福島を訪問している。

 

10:スキー・ジャンプの原田

原田雅彦は北海道上川町出身のスキージャンプ選手、長い間日本ジャンプ陣の中心選手として活躍し、ライバルも当然ながら多数存在しているのだが、僕にはどうしても原田のライバルは自分自身という気がしてしまう。

原田はまず1994年のリレハンメル五輪ジャンプ団体で、よほどの大失敗ジャンプでもない限り、金メダル確実という場面で最後の一本を飛んだ。しかし失敗、銀メダルに終わった。1998年の長野五輪でもジャンプ団体で日本の3番手となった原田に一回目は運悪くほとんど前が見えないような大雪の中で行われた。降りしきる雪でアプローチの速度が落ち、80Mにも届かない大失敗ジャンプになってしまった。この時は僕を含めた多くの国民が4年前の悪夢を思い出した。しかし原田は2本目「両足を骨折してもいい」との覚悟で137Mの大ジャンプを決め、金メダルへの立役者となった。

原田のジャンプ・スタイルは独特で、踏切りの際に上に高くジャンプし、飛行曲線が他の選手に比べ高い軌道から落下するスタイルであった。それがリレハンメル五輪のような失敗ジャンプに繋がり、「本番に弱い原田」、とか「失速男」との論調になったこともあった。でも原田は内面はいたって真面目で、言い訳や不平不満は一切言わず、愛妻家の素晴らしい男であり、国際的知名度も極めて高い。長年日本ジャンプ界を支え、多くの失敗と、多くの大感動を生んだ大ジャンプから、「ミスター・ジャンプ」との呼び声もあるが、僕には原田なら当然の呼び声、と思える。

原田のジャンプはドラマチックで数々の名実況場面を生んでいるが、有名なのは長野五輪のラージヒル個人の2本目で137Mを飛んで銅メダルを獲得した時の、NHKの工藤アナによる、「因縁の2回目」「立て、立て、立て、立ってくれ、立ったー!!」であろう。数多くの日本国民を熱狂させた瞬間だった。また長野五輪団体で、次のジャンパーである船木和善への声援「ふなき~ふなき~」を覚えている人も多いだろう。

原田は、常に「失敗ジャンプの可能性」という自分自身と正面から対決し、五輪で金、銀、銅のメダルを獲得した正に国民的英雄である。

 

オリンピックへの道 (死闘10番勝負 その1から5)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オリンピックへの道、日本のお家芸、三段跳三連勝

2013 NOV 10 18:18:22 pm by 中村 順一

織田、アムステルダム五輪優勝

織田、アムステルダム五輪優勝

田島、ベルリン五輪優勝

田島、ベルリン五輪優勝

南部、ロサンゼルス五輪優勝

南部、ロサンゼルス五輪優勝

かつて陸上競技の三段跳が、「日本のお家芸」と言われていたことさえ知っている人は少なくなった。だが三段跳は、陸上競技で日本人が唯一オリンピックで三連勝し、圧倒的な強さを誇っていた種目なのである。織田幹雄の1928年アムステルダム五輪、15M21での金、南部忠平の1932年ロサンゼルス五輪、15M72,世界記録での金、田島直人の1936年ベルリン五輪、16M00,世界記録での金である。

 

織田は広島県出身、広島一中時代に全国中等学校陸上競技大会の走高跳と走幅跳で優勝。その後も順調に記録を伸ばし、広島の天才として有名になり、1924年のパリ五輪で6位に入り、日本陸上初の入賞を果たす。アムステルダム五輪の金は日本人初の偉業であった。織田はアムステルダムに出かける前、歌舞伎座に6代目菊五郎の踊りを見に行っている。「あの踊りにはすばらしい動きがある。これを跳躍に生かせないか、と考えたのです」と後に言っている。あの時代にすごい余裕、と感心させる。

 

南部は北海道、北海中学出身、雪が多く、走る環境としては適していない。しかし南部は雪かきされて雪が少ない市電の線路を、トラックのコースに見立てて練習した。後にジャンプの金メダリストで同じく北海道出身の笠谷幸生が、「冬はハンディでしたね」と尋ねると、「問題ないよ。冬はね、札幌市が最高の練習走路を用意してくれたのさ」と語ったという。南部は走幅跳で1931年に7M98という当時としては驚異的な世界記録を樹立した。この記録は相当にレベルが高く、その後も長く日本記録として残った。破られたのは東京五輪後の1970年に山田宏臣が8M01を跳んだ時である。この時山田は「南部さんの記録を超えることができた」と泣いて喜んだ。この記録なら現在でも日本選手権優勝も可能だろう。

 

田島は山口県岩国中学、山口旧制高校から京都大学に進学した秀才。ロサンゼルス五輪代表の陸上選手、十倉麻と結婚、日本初のオリンピック代表選手同士の結婚として話題になった。田島が三段跳をはじめたのは織田の影響である。田島の兄も跳躍の選手で、織田は広島から岩国に時々遊びに来ていたのである。当時、”裸足で大学生選手に勝つ天才麒麟児” が田島直人少年の体に火をつけたのである。ベルリン五輪の田島の16M00は当時の圧倒的な世界記録で、2位の日本人の原田に30センチ以上の差をつける圧勝だった。田島はベルリンでの三段跳決勝の開始前に、競技開始を待っていた際、ポカポカ陽気のグラウンドでウトウトと居眠りをしてしまった。そして競技開始のアナウンスにびっくりして目をさまし、その直後の跳躍で世界記録を樹立した。その日の調子は最高だったそうだが、正に余裕を感じさせるエピソードである。

 

この3人の友情はその後も長く続いた。織田と南部は同学年で、早稲田に進学している。早稲田を出ると織田は朝日新聞、南部は毎日新聞に進んで新聞記者になった。2人は同じ取材で時には互いにそれぞれの記事を融通しあったりした。東京五輪の時は、織田が日本陸上チームの総監督、南部が監督、田島がヘッドコーチを務めた。金メダルトリオの豪華な揃い踏みである。3人共、もちろん日本陸上界の英雄であるが、3人の特徴は異なる。南部は3人の跳躍を評して「織田は数学的、南部は直感的、田島は哲学的」と述懐している。戦前の良き時代の日本を代表する、世界に誇れる日本人、と言えよう。

 

ところが、その後の日本跳躍陣は振るわない。世界記録の樹立は、戦後の1956年のメルボルン五輪前に小掛照二が三段跳で16M48の当時の世界記録をマークしたのが最後である。残念ながら小掛は本番前に足首を痛め、メルボルンでは8位に終わっている。しかし、その後はいくつかの五輪の陸上監督、日本陸連の強化委員長等に就任し、陸上競技の発展や底辺拡大に大いに貢献した。

 

現在の三段跳の日本記録は、山下訓史が1986年に記録した17M15で、世界記録である英国のジョナサン・エドワーズの18M29からは1メートル以上の差をつけられている。現在では日本人が三段跳や走幅跳で世界記録を樹立するシーンを想像するのはちょっと難しい。時代が変わったということだろうか。

 

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オリンピックへの道、マラソンの円谷と君原

2013 NOV 1 17:17:33 pm by 中村 順一

ヒートリーに抜かれる円谷

ヒートリーに抜かれる円谷

君原メキシコ五輪銀メダル

君原メキシコ五輪銀メダル

今でもはっきりと覚えている。1964年、東京オリンピックのマラソン。僕は小学校の4年生だった。国立競技場に帰ってきた円谷幸吉はひどく疲れて見えた。精も根も使い果たしたという走り方だった。既に、レースの終盤は悠々と、ぶっちぎりで独走したエチオピアのアベベは、4分も前にゴールインしていた。円谷の後ろから英国のヒートリーが迫ってきた。オリンピック前までの世界最高記録保持者だ。ラストの200メートル、アッという間にヒートリーは円谷を抜き去り、あとは差を広げる一方だった。円谷は銅メダルに終わってしまった。それでもオリンピックの陸上競技のメインスタジアムに日の丸が揚がったのは、ベルリン五輪以来、実に28年ぶりだったのである。快挙だった。しかし円谷にとって3位では満足できなかった。とくにゴール直前でヒートリーに抜かれたことが大きな屈辱として心に重く残った。

 

君原健二もこのレースに出て8位だった。君原は東京オリンピックの代表選考レースでも優勝しており、最も期待されていたのだが、実力を出し切れなかった。その君原が1967年の一年後に迫ったメキシコ五輪を目指した強化合宿で円谷に会っている。円谷は競技場の中で追い抜かれたことをとても気にしていた。そして「もう一度、メキシコで日の丸を揚げることが、日本国民に対する私の約束です。」と語ったそうだ。追い込まれていたのである。この年円谷はオーバーワークが祟り、持病の腰痛が悪化、手術までしている。メキシコは近づいているのに思うように走れない日々が続いた。人には言えない苦しみに悩んだのだろう。メキシコ五輪の年の1968年1月に円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室で剃刀で頸動脈を切って自殺した。どうしてそこまで自分を追いつめていったのか。あの当時は今とは時代の空気が違う。1984年のロサンゼルス五輪で、柔道の無差別級で金メダルの山下泰裕は勝った時「自分の為に頑張りました。」と泣きながら言った。また1992年のバルセロナ五輪で銀、1996年のアトランタ五輪で銅のマラソンの有森裕子はゴール後のインタビューで「初めて自分で自分をほめたいと思います。」と同じく泣きながら言っている。時代は変わりつつあったのだ。国の為に戦うのではない、自分の為だ、時代はオリンピックを”自己愛のスポーツの舞台”に変えていったのである。でもあの時代は違った。円谷は、自分が走るのは国の為である、と固く信じていた最後のスポーツ選手かもしれない。

 

円谷は遺書を遺している。

「父上様母上様、三日とろろ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。勝美兄姉上様、ぶどう酒リンゴ美味しうございました。 (中略)  幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく、御苦労、御心配をおかけ致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」

 

川端康成はこの遺書を「美しくてかなしい響き、千万言も尽くせぬ哀切」と評した。また三島由紀夫は、当時ノイローゼによる発作的自殺と語られた憶測に対し、「傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺、この崇高な死をノイローゼという言葉で片づけたり、敗北と規定したがる、生きている人間の醜さは許しがたい」と書いている。なんという遺書だろう。ここには肉親親族への深い愛情と礼儀がある。今の核家族の時代には、これだけ並べあげるだけの肉親親族はいないだろう。しかし戦前から戦後の一時期までの農村共同体の日本社会では、ごく当たり前のことだったのである。

 

その後君原はメキシコ五輪で堂々の銀メダル、次の1972年のミュンヘン五輪でも5位に入賞している。君原はメキシコ五輪のレースで最終盤まで2位だったが、後続の選手も迫ってきていた。振り返って後続を確認すると不思議と活力が出た、そして2位を死守したのである。君原は言っている、「なぜあの時に普段はやらない振り返り確認をしたのか、きっと円谷さんが天国からメッセージを送ってくれたんです」。思えば円谷も「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直に守って失敗した。共に苦労してきた盟友の君原に「おい、後ろが迫っているぞ」と、天国から伝えたかったのだろう。

 

円谷と君原は高校時代同学年のライバルだった。円谷は福島県須賀川市の出身、高校卒業後自衛隊に入った。君原は北九州市の出身、高校卒業後、地元の八幡製鉄に入社した。

 

君原は、円谷の自殺の後、「どうしてもっと声を掛けなかったのだろう、自分なら救えた命だったかもしれない」と、ひどく悩んだ。須賀川市では毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。この市民マラソンに君原はたびたび出場している。そしてマラソンの後、円谷の墓をお参りするそうだ。

 

円谷と君原は、あの時代の日本人を熱狂させた思い出深いランナーである。

 

 

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