オリンピックへの道、ベルリン五輪、「前畑頑張れ」
2013 OCT 29 16:16:18 pm by 中村 順一
オリンピックへの道、というタイトルへの投稿として、過去のオリンピックで活躍した選手のエピソード等を描いていきます。一回目は前畑秀子(結婚後の名前は兵頭秀子)です。
前畑秀子を知っている人はもう少なくなった。しかし、「前畑ガンバレ」の実況放送の話を聞いたことがある人は多いだろう。世界が戦争に向かいつつあった1936年のベルリン五輪、前畑秀子は二百メートル平泳ぎで金メダルを獲得した。当時NHKラジオアナウンサーの河西三省の、前畑ガンバレ、前畑ガンバレ、の絶叫に日本中が熱狂した。日本の女子選手初の金メダル。最近のオリンピックでは日本は女子選手の活躍が目立つが、当時は事情が異なっていた。その後の女子の個人種目金メダルは、1972年ミュンヘン五輪百メートルバタフライの青木まゆみ、まで無かったのである。レースはドイツのゲネンゲルとのデッドヒートだった。結果的には前畑は3分3秒6で3分4秒2のゲネンゲルを振り切った。地元選手だけに会場の応援は当然ゲネンゲルだった。観衆だけではない、ヒトラーも会場に姿を見せてドイツ選手を応援したのである。現在のように「楽しんでオリンピックに参加できれば良い」などという考えは当時はありえなかった。ナチが国威発揚のために利用したベルリン大会、ドイツ選手には勝つことが求められており、それは日本でも同じだった。「死んでも勝ってこい」との言葉に送り出されて、前畑は日本を出発したのである。
前畑は1932年のロサンゼルス五輪にも出場している。同じ二百メートル平泳ぎで前畑はオーストラリアのデニスにタッチの差で敗れて銀メダルだった。しかし帰国すると「なぜ、金メダルを取れなかったんだ」という声ばかり。「よく頑張った」と当時18歳の少女を讃える声はほとんど無かった。前畑は前年の1931年に両親を相次いで亡くしており、寂しい中で頑張って全力を尽くして帰ってきたにもかかわらず、である。当時の国民の対応は少女の前畑には辛かった。前畑はその後1日2万メートルも泳ぐ猛練習を重ね、ベルリンに臨んだのだった。
シベリア鉄道でベルリンへ。開会式で日本選手団はなんと戦闘帽を被って行進した。今回はどうしても金メダルを取らなければならない。「負けたら、死んで(日本国民に)お詫びしようと思っていた」と前畑は後に言っている。まさに大変な死闘だった。やることはやった。しかし勝つには運も必要だ。スタート直前に「日本の神様、なんとか勝たせてください」と何度も心の中で祈ったという。
前畑は1983年に脳溢血で倒れている。両親の命を奪った同じ病気だ。だがその後五輪を目指して練習していたころよりも苦しい、毎日のリハビリにより、奇跡の回復を遂げている。前畑は、水泳で鍛えた強い精神力がこの時自分を支えてくれた、水泳に感謝したい、と述懐している。1990年には日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれた。1995年に80歳で死去している。今でも日本選手権の女子二百メートル平泳ぎ優勝者には前畑秀子杯が授与されている。
前畑は和歌山県の現・橋本市の出身。紀ノ川で水泳を覚えた。尋常小学校5年で学童新記録、高等小学校2年で汎太平洋大会の平泳ぎで早くも優勝。紀ノ川の天才と謳われた。しかし貧しく、コーチもなく、両親も早く失った。ないないづくしの少女だった。しかし、少しでも、0.1秒でも早くなりたい、とそればかりを考え、猛練習でついに勝ち取った栄光。「前畑ガンバレ」は当時の日本国民全員に勇気と感動を与えた。前畑は正に日本スポーツ界の英雄である。
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やっぱりちょっと無理だったかー凱旋門賞観戦記
2013 OCT 9 11:11:35 am by 中村 順一
うーん、今年も勝てなかった。今年のフランスのオークス馬で3歳牝馬トレヴの圧勝、日本馬のオルフェーヴル2着、キズナは4着であった。
レース前からいやな予感はあった。ロンシャン競馬場の馬場が重そうに見えたのである。発表はやや重だったが、高速馬場に慣れている日本馬には不利な、ちょっと力のいる馬場に見えた。スタートしてからも特にオルフェーヴルは他の馬に包まれてやや行き場を失うシーンもあり、かなりエネルギーを消耗させられている印象があった。直線に入って最も警戒していたトレヴが動いた時、オルフェーヴルもキズナもついていけず、瞬間的に離されてしまった。ああ、これは今日の重い馬場とオルフェーヴルの重い斤量では、もう差し切れないと思った。その後はもうトレヴに離されるばかり、オルフェーヴルは今年のフランスのダービー馬のアンテロとの2着争いに勝つのがやっと、キズナはもっと離された4着に終わった。
日本競馬界の夢は果たせなかった。昨年はゴールの寸前で逆転を許し、悔しい思いをしたオルフェーヴルにとってはリベンジの舞台で、前哨戦のフォワ賞も圧勝し、体調も万全、圧倒的1番人気だったのだが。池江調教師もレース前はかなり期待している雰囲気で、我々ファンからも、「今年こそは行けるのでは」と思わせたのだが。もう一頭のキズナは前哨戦のニエル賞を英国ダービー馬を破って快勝し臨んだが、いつもの末脚が全く不発だった。
やはり世界の壁は厚いのだろうか。凱旋門賞は1920年の創設だが、創設以来欧州馬はただの一度もトップの座を譲っていない。いや、日本馬には是非再度挑戦してほしい。ロンシャン競馬場の馬場は日本の馬場よりは重く力が必要だが、それでももっともっと重く、急な坂が多くて、日本馬には全く向かない英国の馬場よりは戦いやすい筈。僕も英国の競馬場の馬場に入ったことがあるが、あまりの日本の馬場との違いにびっくりしたことがある。またアメリカはダートのレースが多く、芝のレースを主体に使う日本の一流馬には、アメリカの馬場に適応する為の訓練が必要になる。これも時間がかかる。やはり、ロンシャンで世界一を狙うべきなのだ。凱旋門賞は馬の負担斤量が3歳馬に優しい。これは3歳馬重視の欧州の伝統である。日本からも今年のキズナの様に、3歳時の挑戦が理想である。しかし3歳馬はまだ若駒で、精神的に長期の遠征に耐えられるか、という課題はあろう。
今後日本馬が勝つための条件を考えてみた。
1:凱旋門賞の開催時のロンシャンの馬場が良で固いこと。天候はコントロールできないので、これは運のみ、2:日本からもダービー馬かオークス馬の3歳馬が理想、挑戦馬には菊花賞等の日本の秋のG1は断念させる。4歳馬か5歳馬でもいいが、圧倒的に強く、重い斤量に強い馬、3:早めに遠征して環境に慣れておくこと、ロンシャン競馬場での前哨戦も当然使っておくこと、4:騎手はやはり欧州の競馬界を熟知した欧州人、特にフランス人を使うこと。フランス人騎手なら、ある程度、欧州騎手の談合による日本馬勝利阻止の動きを遮断できる。日本人騎手の起用は1回日本馬が勝利した後に考える。等々であろうか。
いやいや条件が多すぎて大変ですね。来年に期待したいです。
凱旋門賞で日本馬頑張れ
2013 OCT 1 15:15:21 pm by 中村 順一
競馬には長い間興味を持ってきた。最初に自分で追いかけた馬は今となっては伝説の馬になりつつあるシンザンである。シンザンは昭和39年、東京オリンピックの年に日本の競馬史上2頭目の三冠馬になった馬である。競馬にのめり込んだのは、僕が小学校5年になった次の年の年末の有馬記念でシンザンの大外強襲をテレビ中継で見てからである。あの時の迫力は凄かった。中山競馬場の外ラチにぶつかりそうになるほどの超大外を強襲したシンザンは、圧勝して五冠馬になり、その後の競馬ブームの火付け役になった。その後、中学、高校と僕の周りには競馬狂いが何故かいつも結構いて、僕は競馬が好きになっていった。特に高校時代は毎週毎週競馬の雑誌を買って、いろいろなおじさんとも友達になって、競馬を研究していた。当時は馬の血統、レースの結果等、すべて暗記していたような記憶がある。
今の競馬は、当時の昭和40年代の競馬とは全く違う。まず、競馬場が明るくなった。スタンドがきれいになり、女性の姿も増えた。馬場の整備技術が洗練され、雨の日でも不良馬場になってしまうことは稀になった。レースの体系も少しずつ変わってきたし、馬券の種類もすごく増えた。騎手と調教師、馬主の関係もすごく変わった。この辺のことは再度書きたいと思っています。でもおそらく一番変わったことは、日本の馬が強くなったことだと思う。昔は稀に海外に遠征する日本馬もいたが、いつも惨敗を繰り返していた。海外への馬の輸送が現在ほど易しくなかったことや、海外の競馬場の馬場の研究が不十分だったこともあろうが、それにしても、海外のレースでは、いつもビリに近い惨敗だったのである。
ところが最近では海外の競馬で日本馬が勝つことも見られるようになってきた。今週末、10月6日の日曜日にパリ郊外のロンシャン競馬場でヨーロッパ競馬の年度総決算レースとして定着している凱旋門賞が行われる。凱旋門賞は1920年に創設されたレースで、1780年創設の英国ダービー、1836年のフランスダービーより歴史は浅いのだが、今では世界中の競馬関係者が最も勝ちたいレースになっている。(ちなみに日本ダービー創設は1932年)
今回の凱旋門賞には、日本から2頭、オルフェ―ヴルとキズナが挑戦する。オルフェーヴルは2011年の日本の競馬史上7頭目の三冠馬であり、その年の有馬記念も勝っている。昨年も凱旋門賞に挑戦、直線先頭に立ち、ほとんど勝ったと思わせたが、惜しくもゴール寸前にソレミアに差されて2着だった。キズナは今年の日本ダービー馬である。他にももちろん強力な馬は何頭も出走する。今年の英国ダービー馬、ルーラーオブザワールド、フランスオークス馬のトレヴ、英国でキングジョージ6世&QESを勝ったノヴェリスト、フランスダービー馬のアンテロ等である。ところが何と現在の英国ブックメーカーのオッズによると、オルフェ―ヴルが堂々の1番人気、キズナが4番人気であり、かなり勝つことが期待される雰囲気になっている。凄いことだ。日本競馬史上最大の世界一のチャンスなのである。海外でも最近の日本馬の実績を高く評価するようになってきたのである。
発走予定時刻は10月6日のフランス時間16時15分、日本時間の23時15分です。もちろんライブでのテレビ中継があります。皆さん是非テレビで日本の2頭を応援してください。僕も相当に興奮しそうです。
ポルトガルに行ってきました
2013 SEP 24 15:15:34 pm by 中村 順一
ちょっと遅い夏休みをとってポルトガルへ行ってきた。ツアー会社最大手のJ社の「ポルトガル8日間」ツアーに参加したのである。旅行は自分でアレンジすることが多いので、J社のツアーへの参加は初めてだったが、なかなか良かった。行き帰りともパリ経由、エール・フランスのビジネスクラス、エール・フランスの食事のレベルの高さを再認識した。リスボンに夜に到着、次の日からバスにて北へ向かい、オビドス、ナザレ、ブサコ、コインブラ経由にてポルトへ、ギマランイスとポルトをじっくり観光した後、汽車でリスボンに戻り、リスボン観光の後、帰国という6泊8日のスケジュールであった。ホテルや食事の水準も高く満足できた。自分で旅行アレンジすると自分の好きなところに自由に行けるメリットはあるのだが、やはり全部自分でセットするのは面倒である。あまりツアーが行かない秘境や、ロンドン、パリ、ニューヨーク等の大都市への旅行は自分でアレンジする方がいいが、パッケージツアーもなかなかいいな、と今回再認識した次第。
さてポルトガルは日本人が初めて接したヨーロッパの国である。1543年に種子島に漂着して鉄砲を伝えたのはポルトガル人だし、その後も宣教師フランシスコ・ザビエルの来日、日本からの天正遣欧少年使節の派遣と続いた。日本人にとって馴染みやすい面を数多く持っている国といえよう。
僕は学生時代も行っており、今回は約35年ぶりの訪問である。ヨーロッパの国は最近の観光ブームで、ずいぶん変貌してきているが、この国は昔のイメージのままだった。ポルトガルは、金融の中心ロンドン、花の都パリ、情熱のフラメンコの国スペイン、と比較すると、寂しさの漂う哀愁の国である。15~16世紀に大航海時代を築き、アフリカ、アジア、南米に数多くの植民地を保有、第二次大戦後もイギリスやフランスが植民地を独立させた後も、最後までアンゴラ、モザンビーク等の植民地保持にこだわった。ポルトガルは「近代の最初にして最後の植民地帝国」なのである。本国が小さすぎ、植民地が広大過ぎたために、植民地の維持費用がかさみ過ぎ、本国の経済は発展せず、19世紀以降は完全にヨーロッパの田舎に甘んじている国、そんなポルトガルには、人生の悲しみや郷愁の想いを奏でる民俗歌謡の「ファド」が似合うのである。
でも日本人には向いている国だと思う。魚介類を多く使う食事は日本人の口に合うし、ワイン(ポルトワイン、マデイラワイン等)も美味しい。全般的に清潔な国で、きれい好きの日本人に合っている。イタリアみたいにゴミゴミしていないし、フランスみたいにプライドで突っ張ってもいない。日本人がのんびりできる雰囲気が満ち満ちているのである。リスボンで会った日本人の女性は、もう20年もポルトガルに住んでいるとのことだったが、彼女曰く、「ポルトガルでは何もしないのが、お勧めなんです。この国に来た初めのころは、毎日のんびりして12時間くらい寝ていましたよ。何故か寝れるんです。」とのこと。
昨今、経済危機が言われており、ギリシャの次に破綻するのはポルトガルだ、などと騒がれているが、街の繁華街からは、そんな悲壮感はあまり感じられなかった。ただ財政難で、リスボンの新空港やテージョ川に掛ける新しい橋の建設は断念したそうであるが。
この国で僕が興味を持つ歴史上の人物は独裁者のサラザールである。サラザールは1930年代に権力を確立し、1968年に引退するまで、独裁者として君臨した。サラザールは1930年代にヒトラー・ユーゲントを模して「ポルトガル青年団」を組織しており、第2次大戦中は中立を保ちながらも、少なくとも当初はドイツ・イタリア陣営に好意的だった。しかしサラザールをファシストとして定義するのには無理がある。サラザールにはファシズムの必要条件である、革新性、反ブルジョア性、指導者への熱狂的支持、大衆動員等の要素が欠けているのである。最近、ポルトガルのテレビ局が企画し、多くの国民が参加した「あなたはポルトガルの歴史上の人物で誰が一番好きか」という投票で、サラザールは建国時代や大航海時代の英雄を抑えて圧倒的な大差で1位だったそうである。30年以上も権力を保持した圧政遂行独裁者がどうして今でも人気があるのか?サラザールは神、祖国、家族、といった農村的な伝統的価値を擁護し、民族主義の高揚は掲げても、ヒトラーやムッソリーニのような領土拡張主義はとらず、むしろ多民族国家を建前とした植民地維持のための防御的な姿勢によって、ポルトガルを破滅から救ったことが評価されているのだろう。日本の第2次大戦前の指導者にもサラザール的に立ち回って欲しかったものである。
今回はいくつかの街へ行ったが、街の雰囲気ならポルトガル誕生の地であるギマランイス、景色ならドウロ川の橋が印象的なポルト、ゆっくりしたり、食事、買い物はやはり首都のリスボン、がそれぞれお勧めである。ゆっくりできた旅行だったが、奮発してビジネス・クラスにしたからかも知れない。ビジネス・クラスのツアーも昔よりは安くなっている。
こんな嬉しいことがあるだろうか
2013 SEP 8 17:17:28 pm by 中村 順一
2020年東京オリンピック開催決定。大袈裟ではなく、僕にとってこの十年間で一番嬉しいニュースだった。生きている間に2回の夏季オリンピック、札幌と長野の冬季オリンピックも入れれば、4回ものオリンピックを日本で見れるなんて、僕はなんという幸せ者なのだろう。
この前の東京オリンピックは1964年、僕が小学校4年の時だった。僕は生まれも育ちも東京の都心なので、あの時東京の風景が力強く変わっていったのを鮮明に覚えているし、10月10日開会式の晴れた青空、入場行進等、忘れられない。あのオリンピックは、僕みたいな子供にとっても、自分の国である日本への「自信」を持てるようになる大変なイベントだったのである。思えば日本が飛躍し、世界の先進国になっていくスタートだったのだ。アベベ、ヘイズ、ショランダー、女子バレー、体操の遠藤、ヘーシンクと神永、ヒートリーに抜かれた円谷、思い出は挙げればきりがない。
嬉しいのは、僕たちが味わった感激を今の若い世代や子供たちに味わってもらえることである。東京はどんどん変わっていくだろうし、経済効果も大いに期待できるだろう。そしてこの”失われた20年”から脱却していく道が見えてくるならば、こんなに素晴らしいことはない。
オリンピックに関しては、これからもどんどん寄稿したい。今日はまず嬉しくてしょうがない、自分の今の気持ちを表したくて、まず寄稿します。
お勧めの日本の戦争関連映画
2013 SEP 5 15:15:35 pm by 中村 順一
先日、映画の「終戦のエンペラー」を見た。第二次大戦直後の日本の戦後処理を描いた米国製作映画である。米軍の知日派ボナー・フェラーズ准将と日本女性の”あや”との恋愛を絡ませるフィクションが入っているが、全般的には、日本に対しても昭和天皇に対しても、好意的な映画なので、ほっとした。皆さんにも是非見ていただきたい映画である。
ところで、以前ヨーロッパの戦争関連映画のお勧め作品について書いたが、日本の関連は書いていないので、今回「終戦のエンペラー」以外で、私のお勧めする映画を挙げてみます。
1:「硫黄島からの手紙」
クリント・イーストウッド監督の2006年公開の米国製作映画。昭和20年の2月から3月末までの硫黄島に於ける日米激戦を、日本軍の指揮官、栗林忠道陸軍大将(演ずるのは渡辺謙)を中心に描いている。米軍は、硫黄島への上陸前に「作戦は5日間で終了する」と豪語していたが、栗林の地下陣地を活用する持久戦に悩まされ、戦闘は36日間続き、結果的に戦死者6821人、負傷者21865人を出し、死傷者の数の合計では勝者の米軍が敗者の日本軍を上回ってしまった。栗林は米国駐在の経験がある戦略家で、当時、突撃玉砕を繰り返した日本軍にあって持久戦を導入、米軍上陸部隊司令官のホーランド・スミス海軍中将は「硫黄島は、過去海兵隊が出会った最も苦しい戦闘の一つ、栗林は太平洋で戦った敵の指揮官中、最も勇敢であった。」と戦後回想している。
クリント・イーストウッドは、絶海の孤島で孤立無援、しだいに追いつめられていく日本の男たちを「日本だけでなく、世界中の人々に彼らがどんな人間であったかを是非知ってほしい。」という考えで映画を製作しており、軍人である前に、家族思いの夫であり、子煩悩な父としての栗林を描いている。
2:「二百三高地」
ちょっと古くて1980年の東映映画。出演は仲代達矢(乃木将軍役)、あおい輝彦、夏目雅子、丹波哲郎(児玉源太郎役)、森繁久彌(伊藤博文役)等である。日露戦争の旅順、203高地の日露両軍の攻防戦を描いた作品。東京での、あおい輝彦と夏目雅子の恋愛、出征したあおい輝彦の演ずる一兵卒の死、テーマソングの「愛は死にますか」が
印象的である。乃木を手厳しく描写しており、司馬遼太郎の「坂の上の雲」からの引用が多い。
伊藤博文が、金子賢太郎(天地茂)を、米国が日本に対し好意的になってもらうべく交渉させるために米国に送り出す場面、児玉が乃木を説得して第3軍の攻撃主要目標を203高地に変更させる場面、などはかなり感激的。僕は、この映画のビデオを何回も見て結構泣いています。最近NHKで放映された「坂の上の雲」に繋がる映画で、今は亡き夏目雅子も本当に綺麗でした。
3:「太平洋の奇跡の作戦 キスカ」
これはもっと古く、1965年の公開の東宝映画。昭和18年(1943年)に日本海軍によって行われたアリューシャン列島、キスカ島からの撤退作戦を題材にしている。当時、アリューシャン列島は日本軍が侵攻していたが、昭和18年5月には米軍は大挙してアリューシャン列島のアッツ島に上陸、日本軍守備隊は玉砕していた。アッツ島の傍にあるキスカ島の日本軍は孤立、制空権は完全に米軍、キスカ島の玉砕も時間の問題となった。海軍はキスカ島守備隊5200名を撤収させる為、木村昌福少将率いる第一水雷戦隊をキスカ島に派遣、見事に全将兵の救出に成功する。木村少将役は映画では三船敏郎であったが、僕が、太平洋戦争時の海軍で最も好きな司令官の一人である木村少将をリアルに演じていた。私事だが、この映画は今はいない僕の親父と一緒に見に行ったのをよく覚えている。僕の父方は海軍一家で親父も海軍の大尉だった。親父とはほとんど映画に一緒に行ったことなど無いし、厳しい親父だったのだが、この時はキスカ湾に入港する日本艦隊を見ながら、親父が泣いていたのを鮮明に覚えている。
親父は、海軍士官だった兄も弟も戦争で失っており、万感迫るものがあったのだと思う。
太平洋戦争は、日本軍が負けていくシーンばかりなので、元気が出ないが、この映画は作戦が成功することもあり、後味はいい。僕にとっては親父の思い出という特別な意味がある映画なのだが、円谷英二による霧の中を進む艦隊のリアルな特撮や、団伊玖磨による音楽も当時評判になっており、皆さんにもお勧めできる。
戦争は、ある意味で人間の究極の状態であり、人間の良さや浅ましさが露骨に出てきやすいのである。我々が生きていくうえでも参考になることが実に多い、と常々考えている。その人間の究極の姿を描くものとして、戦争関連映画は見るに値する、と僕は思っている。
ゴルフ上達はなかなか困難
2013 SEP 1 14:14:51 pm by 中村 順一
思えば、もう30年以上ゴルフとつきあっている。まったく凄い年数である。始めて5~6年でゴルフに熱心な上司に引っ張られたこともあり、まずまず順調に上達し、80台が出るようになった。当時の銀行の同期の中でも、一応上位に位置していた。ところがその後はどうもうまくいかず、英国という極めてゴルフには恵まれた環境にも長期間滞在し、そこらじゅうでプレーしまくったにもかかわらず、どうも腕前の方は停滞気味になった。ぎっくり腰による腰痛に悩まされたのも痛かったのだが、平均スコアは悪化し、いわゆるイップス(僕の場合はアプローチのイップス)にもなってしまった。
みずほにいたころの最後のころはアイアンはひどく引っ掛けるし、アプローチはイップスだし、ラウンド中もネガティブ思考ばかりで、100をしょっちゅうたたく下手ゴルファーに転落していた。ところが、みずほを2年前に退職してから、少しずつだが、なんと僕のゴルフが改善傾向になってきたのである。
何故改善傾向になってきたか?
それは、おそらくは時間の余裕ができてきて、ゴルフに関し、”じっくり”と”しつこさ”を持って考えるようになったからだと思う。2年前までは、ゴルフはかなりやっていても、単にプレーするだけで、自分のフォーム、球筋の特徴、等への科学的分析が全くなかったのだ。この2年間はずいぶん本も読み、ラッキーにも素晴らしいクラブのクラフトマンのK氏にも出会い、自分のフォームの特徴を良く認識することができたのだ。そりゃ、30年以上もゴルフを続けているのだから、自分なりの一つのパターンは持っていたのだ。要は自分のゴルフのパターンを理解し、そのパターンに合わせてスコアメークを考えるようになった、ということなのである。簡単そうに聞こえるが、これが今までは、どうもできなかったのである。
今年は嬉しいことに、生涯ベストの77を記録し、僕が所属している2つのゴルフクラブ(高坂カントリークラブと南総カントリークラブ)のハンディキャップも16と15.1に上げることができた。いやいや、当然ながら油断したら、あっという間にまたダメになってしまう。77を記録した後のスコアは、どうもまた停滞気味。やっぱり、もっと練習せねば。
次回は恥ずかしながら、僕のイップスの克服の体験記をご披露いたします。
女性天皇について
2013 AUG 15 16:16:29 pm by 中村 順一
今週、”小林よしのり”が書いた「女性天皇の時代」(ベスト新書)を読んだ。この著者は範疇としては”右”であり、”櫻井よしこ”の議論みたいに、女性天皇なんてとんでもない、と書いてあるのかと思ったが、実は「女性天皇を認めていくべし」、との主張だったので、ちょっと安心し、興味深く読んだ。このままでは日本の皇室、天皇家は断絶してしまう、という危機感から書かれている。女性天皇に道を開けない、現在の一部保守政治家や宮内庁を暗に批判しているのである。
確かに日本の皇室が閉鎖的で、外から入った雅子様がかわいそう、という話はよくある。今般英国が、ロイヤルベイビー誕生で大騒ぎになり、英国王室が開放的だなあ、という印象を持った人は多いのでは、と思う。英国は皇太子が高速道路のスピード違反で警察に捕まり、「その罰金は厳しすぎる。自分はそこまではスピードを出していなかった。」などと反論して、捕まった現場で警官と大喧嘩もしてしまう、というお国柄なのである。日本で、皇太子が東名高速でぶっ飛ばして捕まる、なんてまずありえないね。小林よしのり曰く、「日本の皇室は、誰から何を言われても何も反論できない。これはおかしい。雅子様も男の子を生め、とプレッシャーは掛けられるし、反論は禁止、これでは病気にもなっちゃうよ。」。 確かにその通り。
この本では、日本に過去に存在した8人10代の女性天皇と、その時代の背景を書いてある。飛鳥時代の推古(33代、在位592~628年)、皇極(35代、在位642~645年)、斉明(37代、在位655~661年)、持統(41代、在位686~697年)、奈良時代前期の、元明(43代、在位707~715年)、元正(44代、在位715~724年)、孝謙(46代、749~758年)、称徳(48代、在位764~770年)、江戸時代の明正(109代、在位1629~1643年)、後桜町(117代、在位1762~1770年)である。奈良時代末期から江戸時代初期まで900年近くに亘って女性天皇は登場しなかったが、平安時代末期にも、女性の暲子内親王が皇位継承候補として名前が挙がっている。 じゃあ、この女性天皇の中で、誰かひとり挙げろ、と言われたら、僕なら持統天皇である。持統天皇は父が天智天皇(中大兄皇子)で夫が天武天皇(大海人皇子)、壬申の乱にも巻き込まれている。天皇として自ら政策を推進し、藤原京の造営等を実行した。日本書記には、天武天皇を補佐して天下を定め、様々に政治について助言したとあり、続日本紀には孫の文武天皇と並んで座って政務を執り行ったとあるので、彼女の政治への関与は在位期間に限られていない。また天武天皇とともに「大君は神にしませば」と歌われており、天皇制強化・確立の立役者である。また日本という国名を確立(それ以前は倭)したのも彼女の時代であり、小林よしのりは、この点を高く評価している。持統天皇は、女性天皇を認めたくない一部の歴史学者が議論する「歴史上の女性天皇は、男系男性天皇と男系男性天皇を繋いだ単なる中継ぎ者」、では決してないのである。 また持統天皇がすごいのは和歌の才能もあることで、誰でも知っている、「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山」は彼女の作である。最も、この時代の日本の女性の活力を示す和歌は他にもたくさんある。僕が一番好きなのは、持統と同じく天武天皇の妻である額田王(ぬかたのおおきみ)の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(紫草の生える野を、狩場の標を張った野を行きながら、そんなことをなさって、だめですよ。野の番人が見るではありませんか。あなたが私の方に袖を振っておられるのを。私たちの恋愛関係が気づかれてしまいますよ。)である。まったく凄い意味深長な恋愛の歌で、圧倒される。明治以降の皇室でこんなに露骨な愛の和歌など絶対無理ですな。昔の日本の女性は強いですねえ。 小林よしのりはこの本で、「日本はもともと女性が強い国だったのだ、天照大御神や卑弥呼も女性ではないか。男尊女卑の悪い伝統は大陸(シナ)から持ち込まれてしまったのだ」、と主張している。確かにシナ(中国)では長い歴史の中で、女帝は暴君の則天武后のみである。 小林よしのりは、現在の「皇位は、皇族に属する男系の男子が、これを継承する」と定める皇室典範は明治期にできたもので、日本の歴史の中では極めて短い期間の規定に過ぎず、意味がない、早急に皇室典範を改正し、女性天皇への道を開くことが、日本の皇室の安泰、日本の活性化に繋がる、可及的速やかに改正を実行すべし。と説いている。 なかなか説得力のある本です。
私の好きな欧州の街、(1) 観光にお勧めの街、その2、ウィーン
2013 JUL 17 16:16:06 pm by 中村 順一
ウィーンは現在のオーストリアの首都で、ハプスブルク家の帝都であり、何といっても音楽の都であり、ヨーロッパ有数の観光都市です。私はロンドン駐在時代、オーストリアを担当していたこともあり、かなりの回数、ウィーンを訪れましたが、この町を好きなのは今でも19世紀末の雰囲気がしっかり残っているからです。
ウイーンの旧市街を取り囲んでいるのがリングシュトラーセ(環状道路、以後単にリンクと表示)です。この道路のある場所には、かつてウィーンを2度にわたって包囲(1529年、1683年)したオスマン帝国の攻撃を防ぐために作られた城壁がありました。しかし19世紀中頃にはトルコの脅威はなくなり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、城壁を撤去してリンクに置き換え、その道路沿いに国立歌劇場、ウイーン市庁舎、美術館、博物館等を相次いで建設したのです。これらの建物は今でもすべて残っており、またリンクの内側はシュテファン寺院を中心に、中世の街の構造が温存されています。1873年には改造されて装いを新たにしたウイーンにて万国博覧会も開催されています。
しかしこの装い新たな景観になった19世紀後半のウイーンには哀愁が漂うのです。1866年にはビスマルクの率いるプロイセンに大敗し(普墺戦争)、ドイツから締め出されます。当時のヨーロッパはナショナリズムによる国家統一の旋風が吹き荒れ、複合民族国家であるオーストリアが対外的に軍事的な国威発揚を継続することは限界に達していました。
私の好きなヨーロッパの町、(1)観光にお勧めの町、その1:サンクト・ペテルブルク
2013 JUL 7 17:17:43 pm by 中村 順一
それでは ”私の好きなヨーロッパの町のご紹介シリーズ”で、まずサンクト・ペテルブルクから始めます。よろしくお願いします。
サンクト・ぺテルブルク(以下単にペテルブルク)は帝政ロシアの首都、ロシア革命勃発の地で、現在のロシアでは首都のモスクワに次ぐ第二の都市です。モスクワとは全く異なる趣きがあり、私は喧噪と大渋滞のモスクワよりも、この町の方が気に入っています。
歴史的には1703年にピヨートル大帝が西欧への窓口としてこの地に都市の建設を開始したのが始まりで、その後比較的短期間で街の輪郭や建造物が建設されました。現在でも、その時代の歴史的建物は数多く残っています。西欧に倣って人工的に建設されたことからか、街の雰囲気は西欧的、キリスト教的で、広大なロシアを象徴する土着の都であるモスクワとは好対照です。ペテルブルクは第二次大戦中、約900日にわたるドイツ軍の包囲を受け、外部との連絡を遮断されました。市民には餓死者も続出しましたが、ソ連軍は凍結していた近郊のラドガ湖の氷の上から市民への物資を輸送しました。結局市民は耐え抜き、その功績からスターリンはペテルブルクに英雄都市の称号を与えています。
街の中心は旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー修道院にいたるネフスキー大通りです。直線的な大通りであるこの通りは帝政時代から街の中心であり、18世紀や19世紀の建物が数多く残っています。18世紀の前半にはすでに舗装された美しい並木道であったといいますが、ペテルブルク市建設の最盛期である19世紀建設の、カザン寺院、海軍省、ロシア博物館等があり、ドストエフスキーやレーニンを育てた19世紀末の街の雰囲気を感じることができます。
私が特に素晴らしいと思うのは、エルミタージュ美術館の前に広がる円形の宮殿広場です。この広場は1905年の血の日曜日事件、1917年の10月革命の際のボルシェビキの武装兵のケレンスキー臨時政府の閣僚逮捕等、さまざまな歴史的事件の舞台となったところです。広場を囲んでいる旧参謀本部のクリーム色の建物(イタリアの建築家ロッシの1829年の建造)が素晴らしく、私のお気に入りです。建物中央にはローマの凱旋門を模したアーチの上に、ナポレオン戦争の勝利を記念した6頭の馬車と騎士の像が見られます。
ペテルブルク観光にはエルミタージュ美術館とロシア美術館が欠かせません。エルミタージュは世界屈指の美術館でしょう。ロシア帝政時代に皇居として使われていた冬宮と3つの離宮、および劇場の5つの建物から成っています。19世紀前半に完成したセルリアンブルーの建物自体が素晴らしく、どの展示品にも目を奪われますが、広すぎて壮大すぎて忙しい旅人にはちょっと無理かも、ポイントを絞る必要があります。その点、ロシア絵画を集めるロシア美術館はじっくり鑑賞できますね。特に19世紀のロシア人の絵で、アイヴァゾフスキー(アルメニア系)の”第9の波”、レービンの”ヴォルガの舟曳き”等は必見です。私のペテルベルク育ちのロシア人の友人は、幼少の時からこのロシア美術館は好きで何回来たか数えられないほどだ、と言っていました。
私はペテルブルクにはソ連時代も最近も行きましたが、やはりホテル等は比べられない程良くなっています。活気も全然違いますね。最近行った際ははロシア人の友人と一緒だったのですが、そのロシア人のお兄さんがペテルブルクに住んでいて、宮殿広場の傍のアパートに招待されて夕食をご馳走になりました。すごく親切な一家で大いに盛り上がりました。その奥さんは朝鮮系ロシア人で、かつてスターリンの強制移住で、一家は故郷を捨てざるを得なくなったと言っていました。彼女はロシア語しか話せません。お兄さんは医者でエリートですが、プーチンの強権政治をかなり批判していました。ロシアへ行くと結構質問を受けるのが、北方領土問題です。お兄さんから聞かれましたが、私が、”国後も択捉もペテルブルクからすごく離れているではないか、日本人としては北海道の目の前にある北方領土はなかなかあきらめられない。” と答えました。お兄さんは ”そうだ。もともとは日本の領土だ。しかし戦争があった。歴史の例から見ても、戦争は国境も変えてしまうのだ。”と言いました。ロシア人は結構歴史を勉強しているのです。日本人もしっかり勉強しておかないと、絶対ダメですね。
ペテルブルクは現大統領のプーチンが生まれ、40数年間も生活した街です。ペテルベルクに住んでいる人を”ピーテルツイ”といいますが、プーチンはピーテルツイです。ロシア革命以降で国家の頂点に上り詰めたピーテルツイはプーチンが初めてです。ピーテルツイは矛盾する2つの側面があると一般に言われております。すなわちかつての首都としての伝統重視の保守主義、反面西欧に近いとする進取の気性、及びモスクワに対する優越感と反面の劣等感です。私にはシニカルに見えるプーチンの態度や言動はピーテルツイのイメージに重なってみえます。ペテルブルクとモスクワの関係は、何か京都と東京の関係に似ているように思えます。
皆様是非ペテルベルクへの観光をお勧めします。行き方は、私としてはモスクワからの特急列車がいいように思います。夕方にモスクワを出ると夜にはペテルブルクのネフスキー通りに面したモスクワ駅に到着しますよ。









