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深まる秋の憂国忌

2020 NOV 24 0:00:59 am by 西 牟呂雄

 コロナ第三波。おっかなびっくりが続きます。
 先日、癌の手術後1年が経過したところで検査をしましたが幸いにも異常なし。思えばコロナによる医療パニックの前に退院までこぎつけていたわけで、その後の手術待ちの患者さん達に申し訳ないような・・・。今年も秋が迎えられたことに感謝のみです。
 時系列で経緯を俯瞰すると、2年前の身体検査の結果を聞きに行くのを3か月もサボったのでポリープ除去・癌発見が遅れました。1年後に手術。術後せん妄発症。その後コロナ禍という流れでした。

自己流

 今年は喜寿庵でも秋祭りやお茶壷道中は無かったのですが、庭に野生の百合も咲きました。ススキをあしらって自己流で生け花です。
 梅雨が長引いてジャガイモは不作、ナスも小さいのしか採れなかった代わりにピーマンは大豊作。キュウリも初めてまともに収穫できました。
 そして3年前に飢えた栗の木に大きな実が。まだ私の胸の高さにしかならないのですが『桃栗三年』は本当でした。ただ、同時に植えたほかの2本は何も。栗ご飯にして食べました。特においしくもありませんが、冷えた後に海苔を巻いたお結びにしたらおいしかった。

 三島由紀夫が半世紀前の11月25日に割腹しました。彼のことですから50年目の今年に何かの仕掛けをしていて、新しい事実が発掘されるのかと期待しましたがありませんでしたね。
 あの衝撃的な死は僕にとって『強烈なイデオロギーは虚構である』というメッセージとして心に刻まれ、その後の思考形態を決定づけました。
 50年前に今日を予測することは不可能です。グローバル化の進展も中国の強烈な台頭もインターネットの普及も三島は知るよしもありませんが、自死の直前にこう言っています。
『日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう』
 『日本』とは何か。
 当時の世相は70年安保闘争があり、学生は過激になって街頭では激しい投石や火炎瓶までが飛びました。社会党が第2党で国会で一定の勢力はありましたが、自民党の単独政権が続きます。そして何よりも経済成長がまだ続いていたのです。冷戦構造はこのまま永久に続くのではないか、それどころかヴェトナムでは熱い戦いになってドンパチが続いていた。時の総理は佐藤栄作。
 三島の目には敗戦から復興したとはいえ、自らの立ち位置を模索している国家が頼りないものに見えたのでしょう。では上記の『日本』とは何か。まさか戦前に回帰することもできません。そこで固有名詞としての『天皇』を中心概念に持ってきました。
 50年後の今日まで、何が変わったのかそうでないのか。
 政治的には自民党の単独政権は続かなくなり、野党に転落したこともありました。その後は多党連立が続きます。私は政権交代が起こることは日本の民主主義の進展のためにいいことだと喜びました。ところが稚拙な政権運営と策士策に溺れた小沢一郎の暗躍でこの方向は迷走します。ガラクタのような野党ができて政治的な緊張感はなくなりました。平成の終わりになってポピュリズムの波に乗ったからっぽな状況から長期安部政権で一応の安定にたどりついたのではないでしょうか。自公連立です。
 三島が危惧した保守単独政権VSイデオロギー政党の弛緩した対立から革命による体制変換などどこにもなかった、むしろ保守単独の堕落は(現在の評価は別にしても)避けてこられたのかもしれません。
 経済は外的要因に左右されながら平成時代を通じて停滞し、富裕になるでもなく格差が広がったのです。グローバル化の行き過ぎと見ています。特にこの数年は三島の想像をはるかに超えています。人口問題など当時は兆しもなかった。
 文化的にはどうでしょうか。次々とベスト・セラーを出し続けられる力量の作家は村上春樹くらいしか思い当たりません。福田和也は言っています。現代の日本の作家は村上春樹とその他という分け方で語れると。
 昭和から二度の御代替わりを経て、今は令和の時代です。三島の言説から類推すると天皇の生前譲位など絶対に認めなかったでしょう。しばしば発言が物議を醸す次男坊殿下のおっしゃりようや内親王殿下の婚約問題などは一刀両断に違いありません。
 しかし一方で、日本の国際的なポジションはむしろ上がったとも言えます。国民を弾圧してまで遮二無二GDPを上げてきた強権国家と対峙できる国として、1億人以上の人口を持つ先進国はアメリカを除けば日本だけです。アメリカも組む相手は日本しかないのが現実です。
 三島が危惧したことは当たったとも言える部分は多い。ですが日本がその独自性を失うまでには至っていない。前安倍政権の支持は若い世代の方が高かったのです。

 三島の上記発言は事件の4カ月前ですが、すでに常軌を逸していたのでしょう。実は最後の作品である『天人五衰』の終わりはもう少し後になるはずだったと三島は語っていたのです。創作ノートのエンディングは本作とは違っていたことが分かっています。あの事件を決行するために執筆を早め、それがゆえに筆が鈍った結末にせざるを得なかったとは言えないでしょうか。
 実は事件直前、三島を介錯し共に割腹自決した森田必勝が残した言葉が残されています。元文芸春秋編集長の堤堯が酒の席で「僕は三島先生を絶対に逃がしません」と口走ったのを聞いています。
 森田は盾の会の学生長でありながら祖国防衛隊と称したグループで強烈にテロを志向していきます。それが三島の美の追求や死への憧憬と結びつき、根回しも可能性もないまま異様な事件に昇華してしまった。
 新右翼の論客であり森田と学生時代から付き合いのあった鈴木邦夫は『三島事件は森田事件だ』と喝破しました。

 あの緻密で美しい文章は後に継く後継作家を生み出すことはなく、50年が過ぎました。
 自身を振り返るのは苦手ですが、プチ右翼キッドだった私はその頃から思想の進化が止まっています。『お前のような怠け者に三島の葛藤が分かるものか』の声が聞こえます。
 ひょっとして、三島の予言は「自分が自死することによって、日本の将来はこうなっていくだろう」といった宣言だったのではないのか。巷間言われている政治的・文化的なやや右よりに安定した日本を揶揄する象徴として、50年も前にあの奇怪な行動を起こしたのではないか。だとすればあの行為は永遠に日本人への警鐘になりかねない。いや、そうでもなかろうと思いたいのですが。

昭和45年11月25日

三島由紀夫の幻影


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Categories:遠い光景

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