Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 藤の人

明治甲州奇談 逃避行編

2017 SEP 1 19:19:02 pm by 西 牟呂雄

 相馬部隊は寄居に進出し早朝『血眼一家』を攻撃した。それは戦闘というより出入りに近いもので、困民党部隊が一気に押し潰した。血眼の周五郎は初め殴りこみかと思ったがそれどころではない。
 雪崩れ込んできた者の中に丈太郎の顔を見つけると『テメエ!一宿一飯の恩義を忘れたか』と叫ぶうちに銃弾を浴びて死んだ。
「相馬さん、これで引き揚げましょうや」
「いや。警官隊は更に増援されるだろうから、ここを最前線として固めよう」
 丈太郎は秘かに脱走を決意した。

 翌朝、目が覚めると周りは既に新たな武装勢力に包囲されていた。業を煮やした政府は正規兵を投入したのだ。
「オイ!皆起きろ。囲まれてるぞ!」
 前日の戦勝気分が抜けていない寝ぼけた連中は、事が良く分からないうちにいきり立った。
「ここまで来たついでだ、やっちまえ」
 物陰から覗いた丈太郎は異変を察知して権蔵と地蔵に『あれは警官隊じゃない。鎮台兵だ』と囁いたが、威勢よく飛び出した先鋒の後に歓声を上げてついて行ってしまった。
 しかし鎮台兵の一斉射撃を受けて壊滅する。そして銃剣突撃を受けるとあっけなく総崩れした。血まみれになって地蔵が必死に逃げてきた。
「地蔵!オイッ大丈夫か。クソッ」
 銃創を負った地蔵に丈太郎が声をかけるが返事はない。
「退け!早くしろ。ズラかるぞ」
 困民党軍は次々と撃たれ、突かれ、切られた。いちいち声など掛けていられない。
 そもそも寄せ集めの農民兵が正規兵にかなう訳もない。丈太郎は引き返すと台所に飛び込み、すぐ裏の納戸から女の着物を引き摺り出して羽織った。そして束ねていた髪をほどき頭頂のあたりで結い直した。得意の女装で化けるのである。
 そこに権蔵が顔を出した。
「兄貴」
 とだけ言うとゴホーッと血を吐いて倒れる、もうこと切れたのだろう。
 ふいに袖を掴まれたので丈太郎は懐から例のピストルを付き出すと小さな体が見据えていた。
「お光坊、早く逃げろ」
 キッと瞳を開いてはいるが体は震えているのが袖から伝わってくる。
「いいか良く聞け。そこで倒れているオッサンの血を顔に塗りたくれ。それで誰かに何かを聞かれたら『おっかさん、大丈夫かい』とだけ言ってオレにしがみついて泣け」
 そう言うなり丈太郎も権蔵が吐いた血を顔と着物にベタベタと塗った。お光は黙って言う通りにした途端、鎮台兵が踏み込んできたのだった。
 さすがに鎮台兵も哀れな母娘と見たらしい。誰も構う兵隊はなく、そのまま隊列を組みなおして秩父に向かって行った。

 結局困民党は決起以来わずか10日も持たずに崩壊し、幹部は次々に捕縛された。
 丈太郎とお光の二人は東京を目指さずに鎮圧された秩父の奥深い雁坂峠を越えて落ち延びていった。困民党の生き残りと疑われるのを避けたのだ。
 途中、暴徒化した困民党の残党に襲われかけたが、お光が絶妙の演技でしのいだ。意外に度胸が座っていて全く怯まない、丈太郎は感心した。そして雁坂峠では山賊まがいの追いはぎにも会ったが、こちらは丈太郎がピストルで撃退し、何とか甲府盆地の石和に辿り着いた。

 日露戦争が終わった頃、北都留郡の谷村では機織のバタンバタンという音が鳴り響いていた。景気がいいのである。この町では生糸の川下産業である機織・染色といった業種が発達し、賑わいをみせていた。

お八朔 宵宮の山車

 江戸初期にここの大名だった秋元家が改易になった際に、参勤交代装束の一式を残していったため、秋の八朔祭では地元の連中が大名行列を模したお祭りが盛んである。
 染物は紺屋(こうや)と呼びならわされ、それぞれ得意な色染めに腕を磨いて、藍染め・紫染め・紅染め・茶染めが盛んだ。その中で一軒だけ黒染めを専業とするところがあった。
 まるで内側から黒光りするような鮮やかな艶は『甲斐黒』と呼ばれ、その染付は秘伝だ。実際には一度藍染めを下地にし、それから紅・黒染めをするらしい。
 そして更に工夫を重ねて紋付の家紋を染め抜きする技法を編み出した。
 主人は細面の眼光の鋭い顔立ちで、普段は物静かな男。そして20才くらい若い『お光』という美人の女房と二人で切り盛りしていた。実はお光の実家はここの出で、その昔秩父の方に奉公に出たことがあったという。
 苗字は『藤(ふじ)』と名乗っていたが、主人、藤逸(いつる)の背中に鮮やかな般若の刺青が入っていることを知る者はいない。屋号は『般若屋』といった。

 その後店は繁盛し、この家系は今日まで続いているが、三条の家訓を固く守っていた。

ひとつ まつりごとにかかわるな。おかみはいつもかってにころぶ。
ふたつ ぜいきんとりたてるがわにけっしてなるべからず。おかみにつかえるはもってのほか。
みっつ ばくちにふけるはみのもちくずし。にょしょくにおぼれるもしかり。さけはいくらのんでもよし。

おしまい

幕末甲州奇談 博徒編

幕末甲州奇談 横浜編

明治甲州奇談 秩父編


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藤の人々 (戦前編)

藤の人々 (昭和編)

藤の人々 (終戦編)

喜寿庵紳士録 ピッコロ君

2017 JUN 11 11:11:01 am by 西 牟呂雄

 ある日の昼下がり、門の前の道を掃いていたら『やあやあやあ』と声が掛かったので顔を上げるとあのヒョッコリ先生が子供を連れて歩いて来た。
「どうだい。ジャガイモくらいは蒔いたのかい」
「ええ。ピーマンとナスも苗からやってます。その子はお孫さんですか」
「いや、孫じゃないんだけどチョット面倒見ているんだ」
「ボクはお名前は何ていうの」
 すると学童前くらいのその男の子は先生の後ろに隠れてしまった。恥ずかしいのか恐いのか。
 上目遣いになったその子は小さい声で言った。
「ピッコロ」
「ピッコロ君なの!」
「ハッハッハ。自分で『ピッコロ』って言ってるんだよ」
「へぇー、自分で考えたのか。すごいねピッコロ君」
「あっ調度いいや。僕少し用事があるんでこの子と遊んでてくれないか」
「・・・いいですけどどれくらいですか」
「いやほんの30分くらいだよ。すぐ帰ってくるから頼むよ」
「は・・・・い」
 先生はそのままスタスタ行ってしまった。ピッコロ君は不安そうに見送っていた。

「じゃあピッコロ君、お庭に行って見ようか。おいで。お花が一杯咲いてるよ」
 しょうがなくて二人で門をくぐって庭に廻った。
芝生を張った前庭に連れて行って『ほーら、これはつつじの花だよ』と教えてやると、いきなり花びらを掴んでちぎってしまい慌てた。
「コラコラ!そうやって取ってしまったらお花が死んじゃうじゃないか。ダメ」
 ピッコロ君はムッとした顔になってトコトコ走って行く。
「オイオイ!そっちは崖になって落ちたら大怪我するよ」
 今度は鬼ごっこのつもりか『きゃー』などと言ってはしゃいで芝生に転がって見せた。どうも躾けのなってないチビだな。そして腹ばいになってジーッと地面を見ている。丁度いいやとほったらかしておいた。
 ところがそれっきり動かない。どうかしたのかと行ってみると、小さい芋虫をたくさんの蟻が運んでいるのを見つめているのだった。そういえば僕も子供の頃に蟻の行列をずっと見ていた記憶がある。
 そこで割り箸をたくさん持って来て
「ピッコロ君、オジサンが時間を計ってあげるからこのお箸を蟻さんがいる辺りにこんな風に立ててごらん。するとどういう風にどのくらい運んだか分かりやすいだろう」
 と地面に刺してみせた。俄然ピッコロ君の目が輝いている。
 それから僕は本を読みながら(ついでにビールも飲んで)10分おきに『はい10分経ったから刺して』と声をかけた。
 しかし1時間近くなってもヒョコリ先生が帰ってこない。ピッコロ君が地面に刺している割り箸が5本になった。驚いたことに蟻はこの時点で数メートルも移動しているではないか。一方ピッコロ君の集中力も凄い。冷たいお茶をコップに入れてあげるときに『ずうっとおんなじ蟻さんが運んでるのかい』と聞いても頷きもしない。
 と、そこにやっとヒョッコリ先生がきた。
「やあやあやあやあ、お待たせ。チョット込み入っちゃってね。さあ、帰ろう」
 するとピッコロ君は困ったような悲しそうな顔になって首を振っている。帰りたくないのか。ここで遊んでいても構わないが、そもそも僕はヒョッコリ先生の家さえわからない。
「この割り箸は残しておいてあげるからまた遊びにおいで。続きはおじさんがやっといてあげる」
 と促した。ピッコロ君は名残惜しそうに帰って行った。

 ゴルフをやって帰ってくると門の前に小さい子が二人で覗いている。ピッコロ君だ!
「ピッコロ君、どうしたの?おじさんを待ってたの」
 ピッコロ君はニコニコしていた。一緒にいるのは同い年くらいの女の子だ。
 しまった、『おじさんがやっといてあげる』をコロッと忘れていた!
 しょうがない。庭に入れてあげると二人は昨日ピッコロ君が立てた割り箸の列を見に走って行った。子供に向かってはこういう時に嘘をついてはいけない、すぐに見抜くからだ。
「おじさん、きのうピッコロ君が帰った後にビール飲み過ぎて蟻さんの行き先が分かんなくなっちゃったんだよ。ゴメンネ」
 ピッコロ君は眉をひそめて割り箸の列の先をジーッと見ている。いたたまれない気分だ。
「お嬢ちゃんはお名前は何ていうの」
「マリリン」
「へー、マリリンっていうんだ」
 と、ピッコロ君は僕がほったらかしにした蟻がどこまでいったかを割り箸の列の先まで探そうと地面を見続けた。マリリンちゃんも何にも分からず一緒に見ている。参ったな。どこに行ったか確かめようと奥に行ってしまいそうなので慌てて声を掛けた。
「そうだ。チョコレートあげる。一緒に食べよう」
 僕はウィスキー・ロックのつまみに板チョコをかじるのでいつも切らしていない。二人に声を掛けたがキョトンとしている。さあ、おいで、とベランダから家に入ってチョコレートを冷蔵庫から出して来ると不安そうな顔で覗き込んでいた。
「上がっておいで」
 と手招きすると、驚いたことに靴のまま入ろうとしたので『あーダメダメ、靴脱いで』と止めた。この子達は一体どういう暮らしをしてるのだ、畳だぞオイ。何考えてんだ、僕の方から外に出てチョコレートを剥いてあげた。
 ハッとしたが、この子達は自分の名前(本当かどうか分からないが)以外一言も喋らない。どういうことだろう。可愛らしいのだが、ひょっとするとこの子達は日本語が分からないんじゃないのか。
 この前も変態がかわいらしいヴェトナム人の女の子を殺したし、世間の目はオッサンと少年少女の組み合わせに厳しい。しかもああいう事件は何故か田舎でも起きる。ましてや保護者(と思しき)ヒョッコリ先生もいない。だいたいあのオッサンだって何者なのか知らないし、どうしたものか。
 そうすると、子供には相手の動揺が直ぐ分かるのか。二人はコッチを見上げてソワソワしだした。そして手を繋いで小走りに出て行こうとするのだ。僕は慌てた。
「おーい、待って」
 こういうチビは以外と早い。もう門まで行ってしまってる。必死で声を掛けた。
「又、おいで。友達になろう」
 門を出た時にはもう見失っていた。しかし僕はチビちゃん二人の行方よりも大声を上げた自分にビックリしていた。そういえばここにいる限り友達はできない。地元の大学生と付き合いはあるが彼らは彼らの世界があって”友達”にはなれない。せっかくの仲良しを作るチャンスを潰してしまった。
「やあやあやあやあ」
「ウワッ」
 ヒョッコリ先生だった。
「なんか”友達がどうした”とか叫んでいたようだが」
「いや、何でもありません。ピッコロ君とマリリンちゃんが遊びに来てたんです」
「誰だい。その変な名前」
「いやっ・・・・この間つれていた子供さんが・・・・」
「ピッコロとマリリンって僕が飼ってる犬の名前だぜ」
 先生は笑いながらスタスタ歩いて行ってしまった。
 あまりの事に一瞬気が遠くなった。僕は幻視したのだろうか。いや待てよ、もっと聞きたいことがあったのだが飲み込んだ、『あなたはこの世の人なのですか』の質問を。
 ヨロヨロと庭に戻れば割り箸はちゃんと立っているではないか。僕は二人と遊んで友達になったのだ。 

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喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生 Ⅳ

喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生Ⅱ

喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生

花盛りの喜寿庵 八月の花

喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生 Ⅳ

2017 APR 25 20:20:34 pm by 西 牟呂雄

 北富士総合大学も新入生を迎えた。
 喜寿庵に遊びに来てくれる学生グループも二人の新入生がいて、ささやかな入学祝いの宴を設けた。みんながお鍋を作ってくれるので、僕は祝辞を述べつつガバガバ飲んだ。
『皆さんの未来は明るい。実は日本の景気は良くなってきているんだ。ただ一部の大企業の物凄い赤字とか不祥事が報道されるのであまり明るいニュースは出ない。それでも皆さんは着実にやっていけるレヴェルではあるだろう。イヤナニ真面目にやっていれば道は開けるよ』
 何と意味の無い祝辞だろう。
 卒業生は地方出身なので就職は地元に帰って行った。業種は公務員・教員が多い。地元にそんなマトモな民間企業がないからだ。そもそも地元で真面目にやってきてこの田舎で学生生活を送ったのだから、全くすれていなかった。これからたくさんの経験を積んで大きく羽ばたいて根を張って欲しい。 

奥でふんぞり返っているのがヒョッコリ先生

 と、いい気持になっていたら何故かいつの間にか例のヒョッコリ先生が話の輪にいるではないか。来たことに気が付かなかったのは酔いが回ったせいだろうか。
 先生は学生のサークルについてエラそうに講釈を抜かしていた。そして目が合うといきなり『こう見えても僕は左翼だからね』などと言うではないか。ご存知の通りコッチは右翼だ。ただしこういう場所で不毛な神学論争などしない。
 ところが先生がいきなりこっちの方に話を振った。
「どうだろうね、今日的な意味での左翼と右翼の違いって」
 えっこのオッサン僕が保守派なのを知っているの?一瞬呆気にとられたがかろうじて取り繕った。
「そうですねえ。強いて言えば伝統を守り新しいものには懐疑的に接するのが右。破戒してでも新しい体制を目指すのがリベラルでしょうかね」
「違うな。社会の改革・平等を目指すのが左翼。社会の安定・固定化を目指すのが右翼だよ」
「いや、今日的なイデオロギーとしての対立はそうじゃないでしょう。理論としてのマルクス主義は実際にはもう不可能であることが明白です。大きな政府で福祉を充実させるか新自由主義で規制緩和するくらいの違いでしょう」
「ははは、流行りのリベラルとコンサバに持って行くつもりだな。その手は何度も経験してる」
「結局アプローチの違い程度じゃないですかねぇ」
「ニシムロ君、まだまだ青いな。新自由主義は思想的な定義では右翼的ではない。恩恵を享受したヴェンチャーの旗手は右翼でもなんでもないだろう」
「それはお互い様でしょう。先生の仰る左翼というのだって『中央集権的な独裁国家』は目指すわけにはいかないでしょう」
「それは常識だよ。僕は政治家ではないし、純粋の左翼は国家を運営するノウハウは持っていない」
「すると国家運営そのものは現在の民主主義で充分ですよね」
「当たり前じゃないか。それは右も同じでお互い片翼では飛べない。右翼と左翼は共存しなければ国家は羽ばたけないに決まっているじゃないか。ハハハハハ」
「ハハハハハ」
 気が付くと先生は僕と肩を組んでいて、僕と一緒になって二人で笑いながら羽ばたく真似をしているではないか。こんなバカな会話を学生達はどう思うだろう。いたたまれなくなって僕はトイレに行く振りをして庭に出た。
 見上げれば満天の星。全くせっかく学生さんがいるのにあの先生ときた日には、今時流行らない話を振ってメチャクチャにしやがって。だんだん腹が立ってきたが、気を取り直して一服した。
 すると家の中がやけに静かになったような気がして勝手口から上がる。
 えっ、もう片付いてしまっているではないか。新四年生がテーブルを拭いていたので聞いてみた。
「先生はもう帰ったの」
「誰の事ですか。そんな人いませんよ」
「いや、ボクと肩組んでたおっさんだよ、あの」
「何言ってんですか。酔っ払ってウトウトしてたじゃないですか」
「・・・・。」
 何だと、それじゃあれは。僕には肩を組んだ感触がまだ残っているのだが。
「ウトウトしながら『片翼の天子は飛べない』って寝言言って受けてましたよ。新入生は飲まないから素面でしょ。みんな喜んでましたよ」
 

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喜寿庵紳士録 ピッコロ君

喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生Ⅱ

喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生

花盛りの喜寿庵 八月の花

喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生Ⅱ

2017 FEB 18 12:12:58 pm by 西 牟呂雄

 喜寿庵で庭を掃いていたら『やあやあやあやあ』と声が掛かったので振り向くと、例のヒョッコリ先生がニコニコしながら入ってきた。
「いや寒いね。落ち葉、これどうするの」
「せっかくだから畑に埋めてます」
「ナニッここに畑なんかあるのかい」
「はい、こっちですよ」
 すると『あーそう』とか言って一人でスタスタと行ってしまった。面倒なので放っておいたら直ぐに戻ってきた。
「良く落ち葉を入れてあるね。だけどあのままじゃダメだ。土壌の酸度が上がっちゃうんだよ。春先に石灰でも混ぜてやらないと野菜は大きくならんよ」
 へえ、そういうもんか。
「良く分かるんですね」
「土の色が黒すぎるからね。舌先でもピリピリしてる」
「えっ舐めるんですか」
「いや違う。舐めちゃダメ。舌先にちょっと付けて吐き出すんだよ。下手に噛むと破傷風になるよ」
 この人は農業従事者なのかな。それにしちゃ学者みたいな口ぶりだ。
「肥料は入れてるのかい」
「面倒なんで何もやってません。正真正銘の無農薬野菜ですよ」
「ハハハ。それじゃロクなもんはできないな」
「物凄く低い生産性ですよ。別においしくもないし」
 ちょっとムッとしたが毎日やれる訳じゃないから仕方ない。先生は崖下の渓流を覗き込むようにして一人で喋りだした。
「戦争中タカシさんがこの崖の下に防空壕を造るって言い出した時には僕やめろって言ったんだよね」
 等と訳の分からないことを言い出した。
「ところがここは岩盤の上だからとても手で掘れるような場所じゃない。そうしたら削岩機を買ってきてワシが掘るって言いだして、みんなあきれ返ってほったらかしたんだ」
 そりゃこの崖に防空壕なんてバカなことを考えるやつは少しアブないんじゃないかな。
「防空壕ってこんな何も無いところに空襲なんかあったんですか」
「あのね、あの時分いくらアメリカだって飛行機全部にレーダーなんか載せられないよ。B-29は有視界飛行でくるから高高度で目印になるのは富士山だけなんだ。そこから旋回して東京を爆撃した。帰りも同じコースで帰るからこの上あたりは良く飛んでたね。ある時帰りの際に落とし残した爆弾を捨ててったらしいんだがそれが隣の町に落ちて何人か亡くなったんだよ」
「えぇ!こんな所で戦災者がでたんですか」
「そうなんだよ。それでタカシさんがやたら張り切っちゃって・・。あの人は何でも自分でやってみて懲りないとやめないから」
 タカシさんって誰の話をしてるんだろう。
「山登りだってそうだよ。正月にご来光を見るって言い出して暮れの忙しい時に行っちゃったら八合目あたりで50Mくらい滑落したことがあってね。裏立山の時も一週間くらい連絡が無くて遭難したって大騒ぎになった。山仲間が捜索隊を作って探しに出発する時に電報が入ったんだ」
「裏立山ってなんですか」
「立山を富山県側から登るルートのことだよ。ザイルだピッケルだって外国製の高いモン揃えて自慢してたな」
 どうでもいいけどタカシさんて誰だ。先生ももうあっちの方を見ながら喋っているし、僕も勝手に箒を使い始めたがそれでもズーッと喋り続けていた。この人は少なくとも僕より年上だが、もしかすると20才以上年をとっているんじゃないか。そうなると80を軽く超えているはずだ。
「それでこの街にも進駐軍が来たよ。そうしたら中学(旧制らしい)の英語の先生が通訳しようとしたけれど聞き取れないし喋っても通じないんだ」
 僕は背中を向けていたが、声が震えているのを感じた。何故かは知らないが先生は泣いているのだ。相槌も打たずに手許を動かした。
「タカシさんも張り切っちゃって通訳を買って出たけどダメで、その時に曲がりなりにも会話できたのはこの町じゃタカシさんの奥さんだけだったんだよな」
 何の話しをしているのか、何に感極まったのかさっぱりわからないが、余計なことを尋ねるのも憚られて黙っていた。おそらく自分の若かった頃を思い出し、そのタカシさんだかその奥さんの話にかぶせて色々な思いがこみ上げてきているのだろう。オレ、こういうの弱いなぁ、と参った。
 箒を掃く音だけがシャッシャッと聞こえていた。
 そういえば名前も聞いていない。だけど何回もあっているから今更何て訪ねればいいのか、ド忘れした振りでもしようか。
「あのー、そういえば最近は何をなさってるんですか」
 振り返ったら姿を消していて、カラカラと枯れ葉が転がった。又名前を聞きそこなってしまった。
 

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喜寿庵紳士録 ピッコロ君

喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生 Ⅳ

喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生

花盛りの喜寿庵 八月の花

突然変異的血脈

2016 DEC 13 4:04:05 am by 西 牟呂雄

夢野久作(大正十年)

夢野久作(大正十年)

 怪奇小説『ドグラ・マグラ』を読んだことはお有りだろうか。
 夢野久作が戦前に書いた、実に読後感の悪い小説である。九州帝国大学の精神病科に入院している記憶喪失の男が殺人事件のカギを握っている、という気味の悪いモノで、独白の文体も古く大変に読みづらい。是非、読まないことを勧める。
 ただ、こういう小説を書くような人間の頭脳は常人の及ぶ所ではないだろうと作家には興味があった。
 一方で僕は右翼の思想史を研究しているが、この作家が右翼の巨魁、あの杉山茂丸の息子だということをある本で知った。
 杉山は一代の怪人。帰農した福岡藩士の息子だが、上京して山岡鉄舟の門人となる。その後伊藤博文の暗殺を企てるが失敗して全国を逃げ回った後、頭山満と福岡に帰り例の玄洋社を作った。いわゆる自由民権運動から大アジア主義の理想に燃えて香港・台湾・満洲と縦横無尽に暴れ回り、陸軍・政界・財界に人脈を広げて黒幕となる。
 この人の事跡だけでブログどころか本何冊にもなってしまう。
面白いことに珍しい出会いをして喜ぶ風があったようだ。良書『行雲流水』石山喜八郎の生涯 にこういう記述がある。
『喜八郎は一瞬その場に立ちすくんだ。先方は刺客でも来たのかと思ったらしかった。だがすぐに丸腰なのに気づいてホッとしたようだった。すると奥のソファーに寝ころんでいた人物が「お前達座れ」と声をかけた。それが杉山茂丸だった。・・(中略)・・。こんなことまで初対面に近い若造にしゃべっていいのかと喜八郎は思った。噂のとおりおもしろい人物だった。』
この喜八郎という人も奇人だが、当時は一介の書生である。
 
 誠に不思議な親子というべきだが、この血脈には続きがある。その夢野久作の息子に杉山龍丸というのが出る。陸軍士官学校を卒業し先の大戦に従軍した軍人で兵科は航空。
 兵員輸送船『扶桑丸』でフィリピンに向かう途中で米潜水艦の攻撃を受け漂流。運よく救助されマニラには着いたものの、その後は内地勤務を経てボルネオに赴任した。そこで胸部貫通の重症を負い生死の境目を彷徨って終戦を迎える。とこれだけでも大変な人生なのだがそこで終わらない。
 戦後ふとしたきっかけでインド人と知り合い(それからも色々あって)インドを訪問した際に見たパンジャブ地方の貧困と荒廃に衝撃を受ける。
 その後3万坪とも4万坪ともいわれた祖父の残した農園を売り払い、私財を投げ打って基金を作りインドのユーカリ植樹事業に一生を捧げる。まるで祖父の大アジア主義が乗り移ったかのようだ。国際環境会議の出席の旅費が無く友人に借りたというエピソードも残っている。
 現在パンジャブ地方からパキスタンに至るまでの道路のユーカリ並木とその周辺の耕地は杉山の功績で、インドでは『グリーン・ファーザー』と敬われているそうだ。龍丸が家庭も何も顧みなかったので、息子さんは苦学され学校の先生をされている。

 しかしこのテの特殊なDNAがこの血脈に流れていて、それぞれの代で思想家になったり作家になったり篤志家になったりするのだろう。ウチじゃなくてよかった。

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喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生

2016 DEC 6 13:13:50 pm by 西 牟呂雄

 喜寿庵の側には桂川が流れていて、ちょっとした渓谷の風景が楽しめる。ザーザーと流れる川瀬の音は絶えることはなく、はじめて来た人は雨音と間違えるくらいだ。
 とある日、渓谷の方に歩いていった。川にはつり橋が架かっている。
 半世紀前の伊勢湾台風が上陸した時。大増水した桂川で当時の橋が流されてしまい、その後に鉄骨ワイヤー製のつり橋になった。極めて不確かだが、橋が無くなったのを見に祖母と二人で傘をさして見つめていた記憶がある。何故か白黒の映像のような記憶だ。
 そのつり橋から(見飽きた風景ではあるが)川面を覗いていると人が歩いて来たのが分かって顔を上げた。目が合う、どうも見たような顔だな、と思ったら
「よう、元気かい」
と声をかけられた。ウーン、名前は出てこない。
「ええ、まぁ」
と返事した。年は少し上だろうか、オレより背の高い痩せた品のいいオッサンで髪は薄い。するとそのオッサンは何故か僕と一緒に欄干から川面を覗くではないか。話しかけられたら面倒だと思った。
 ところが2~3分くらい何も言わずに一緒に見ているだけ。おもむろに、
「だけど亡くなった奥様は大変に品のある人だったね。」
などと言い出した。奥様?死んだお袋のこと?
「僕は茶器のことで時々相談されたけどとにかく大した人だった。お一人で暮らしておられたがいつもキチッとした方だったな。」
 えっ、お袋はお茶なんかやらなかったぞ。一体何の話だろう。『はぁ~、その節はお世話になりました』等と相槌を打って歩き出そうとすると、オッサンはヒョコヒョコ一緒に来てしまった。
坂を上りきったところに喜寿庵はある。
「それじゃ、また」
と言って帰ろうとすると向こうも
「じゃあね」
と振り返りもせずに行ってしまった。

 落ち葉を掃きながらハタと気が付いた。『奥様』というのは僕の母親のことではなく、40年近く前に逝った祖母のことなんだ!確かにここで一人で暮らしていてお茶を熱心にやっていた。するとあのオッサンはその頃はまだ若造で婆ちゃんのパシリでもさせられていたのじゃないだろうか。
そうだとすればその頃の僕を覚えていて懐かしがったのかも知れない。
するとオッサンは僕より10才くらい上だ、随分若く見えるな、ふーん。

お茶室から見た喜寿庵の庭

お茶室から見た喜寿庵の庭

 その後、不思議な事に菩提寺に花を供えに行ったらこのオッサンにまた会った。この人の家のお墓がどこかは知らない、こっちが上がって行くと(本堂の裏の高くなったところに我が墓所はある)『やあやあやあ』と言いながらスタスタ降りて来た。
「誰かの命日かい」
「いや、そうじゃないんですがたまには花でも供えようと」
「いや感心感心」
という会話をしたらヒョコヒョコ行ってしまった。今更『お名前は』ときけなかったので、その後姿を見てこの人をヒョッコリ先生と名付けたものだった。

 北富士総合大学の学生がやって来てくれて鍋料理を造った。この辺りは10月後半にはもう暖房を入れる。11月末で珍しく雪まで降った(東京でも)。
 話をしていて驚いたが彼らはボブ・デイランを知らない。うっすらと名前が分かるくらいだと言う。聞いたことはほとんど無いそうだ。
 既に『伝説』になってしまっているようで、今年も日本に来てやってたことは誰もわかんなかった。もっとも、今の20代は志賀直哉も芥川龍之介も三島由紀夫も読まないらしいので、おじさんは寂しいやら情けないやら。既に書いたが彼等、北富士総合大学の学生はは殆どが真面目で良く勉強する学生にもかかわらずだ。
 するとチャイムが鳴ったので遅れた学生さんが来たのかと思いきや、ヒョッコリ先生が『ヤアヤアヤア』と言って入って来た。何なんだこの人。ところが学生たちはヒョッコリ先生と顔見知りのようでもっとビックリした。
 そして彼はビールではなく図々しくも『日本酒がいいな~』などとほざき、冷酒をグイグイ飲みだした。
 ヒョッコリ先生は頭は薄くなっているが話し方は元気はいい、良く喋る人だった。おまけに恐ろしく博識だ。ボブ・ディランのことも知っていた。
「本名ロバート・ジマーマンだね。ユダヤ系だけど途中でクリスチャンに改宗してるんだよ」
へぇー。
 学生さん達は純情で真面目。僕の拙い国際経験を目を輝かせて真に受けている。するとヒョッコリ先生は相槌を打ったり『それはね』と言いながら歴史的解説を加えたりする。話は大統領選挙のことになった。
「要するにアメリカという国はね」
 などと言いながら面白い事を言った。
「ナマのアメ公を定点観測してみりゃ分かりやすいよ。半分以上の奴等は時間も守らないしロクに勉強なんかりゃしない。その手の連中がエラソーなヒラリーが大嫌いで大挙して投票しちゃった結果がトランプ大統領だってこと。アメリカはこれからモメ続けるよ」
「先生はアメリカに行ってたんですか」
「いや、行ったのは観光だけ。でも戦後来てた進駐軍の兵隊の中にゃ足し算引き算だってアブネーのがウジャウジャいたのさ。今だって下院議員っているだろ、あいつ等の半分はパスポート持った事ないんだよ」
 この人は進駐軍を見たことがあるんかいな。

 名調子と酒に酔っ払って名前を聞くのを忘れた。一体何という人なんだろう。うっかり僕まで『先生』などと呼んでしまった。

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喜寿庵紳士録 ピッコロ君

喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生 Ⅳ

喜寿庵紳士録 ヒョッコリ先生Ⅱ

花盛りの喜寿庵 八月の花

藤の人々 (終戦編)

2014 SEP 14 12:12:45 pm by 西 牟呂雄

 ある日聡子は父親から呼ばれた。
「空襲も酷くなってきた。お母さんと弟を連れて疎開せい。」
「お父様はどうなさるんですか。」
「ワシが東京を離れる訳にはいくまい。陛下も皇居に居られる。」
「何処に行くのでしょうか。」
「なまじ東京に近いと里心がつく。新潟の造り酒屋に行く所を手配した。ところでお母様は妊娠中だ。」
「まぁ!」
母親はこれまたどうしようもないお嬢様育ちで、聡子とは逆に実務能力は皆無であった。
「すまんことだがお母様はあの調子だ。頼りになるのはお前しかいない。ここはひとつ頼む。」
「わかりました。」
実は聡子の実母は早くに死別していて現在の母親とは血のつながりはない。慌しく身の回りの物を取りまとめ引越しさながらに疎開先に向かった。無論敗戦などは考えもしない。

 江田島の兵学校で腕章を巻いた週番生徒が叫び声を上げた。広島の方で物凄い光が走ったのだ。続いて轟音、猛烈なきのこ雲が目視された。兵学校は騒然としたが、陽は敗戦まではまだだ、これから一戦と思っていた。
 しかし、15日には終戦の詔がはっきり聞こえた後、兵学校は粛々と解散を決める。生徒は各々郷里へ帰っていった。省線のダイヤは正常だったのである。広島を通過しているが放射能の危険性は喧伝されておらず、駅舎の水道水も平気で飲んだ。

 貴が普請道楽で心血を注いだ隠居のための喜寿庵は、戦時統制の様々な制約を受けてしまい、本来の広さを確保できずに一応の完成を見ていた。ここで終戦の詔を聞いたことになる。既に企業統制に戦時協力して家業を継続する気がなかった貴は玉音放送を聞いた後、女学校に通う長女の知(とも)、小学生の行(いくえ)と泰(やすし)に言った。
「日本は戦争に負けたようだ。」
 貴は庭に面した部分に大きく藤棚をせり出させて、家紋でもある藤の花を楽しんだのだが、この日に鞘が一房ポトリと落ちた。
 丹精込めた庭を眺めながらつぶやいた。
「これからは、もはや余生だな。」
一口、お茶を啜った。46才であった。
 幸い、神田の店は焼けなかった。下町は文字通り焼け野原になったが、当時は銀座エリアには多くの川があり、火は山手線の内側まで拡がらなかったのだ。
 
 9月になって、江田島から陽が帰ってきた。多少の遅れはあったが、電車は概ね正常に運行されていたという。
「おお、無事だったか。」
「ただいま帰りました。無念ながら兵学校は解散となりました。」
「広島はどうなった。」
「駅は爆心から離れていましたので列車は運行されましたが、焼けただれた市街地は見えました。」
「やはり新型爆弾だったのか。」
「長崎もそうです。針生分校の連中が同じようにキノコ雲を見たようです。」
「ウム。これからどうする。」
「2号生徒なので、卒業資格がありません。募集のある高校を受験しないと。」
「ああ、それならM高にでも行け。ワシはチョッと神田の店を見に行ってくる。幸い静さんの姉さん達の嫁ぎ先から米だけは何ぼでも手に入るから。」
 ともあれ無事を喜び、一家は記念撮影をした。深刻な状況はまだまだこれからだったのだ。
「何もかもこれからやり直しか。」
陽は妹弟達に目をやって呟いた。しかしこの家系は不思議としたたかで、弟達はニコニコしながら『まだ、僕達は負けてない。』と言い張った。一族郎党に戦死者が出なかったせいかも知れない。

 同じく聡子の実家も焼失を逃れていた。敗戦とともに帰京を促す手紙が来る。しかし、乳飲み子の末っ子が生まれていたのだ。母親は赤ん坊の世話で手一杯で、なおかつ例によって実務能力はなくオロオロするばかりだ。ジリジリしながら生まれたばかりの弟の首が座るのを待った。
 ようやく目処がついて年末には帰京した。未だ復員の大混乱のちょっと前だったが、頼りにならない母親を連れて幼い上の弟の手を引き、汽車の座席にはマナジリを決して乗り込んだ。
 帰ってみると父親は戦後処理でこれまた手一杯で家族を構う余裕はない。通っていた女学校は戦災で焼け、移転して仮校舎の有様。大人達は建国以来の敗戦・占領に一様に我を失い、食うに困る有様だった。
 ところが、占領は思ったほど暴力的ではなくGHQは暫くは融和的な姿勢にさえ見えた。実際は巧妙な統制が施されていたのだが・・・。
 しかし、聡子の実家は経済的には苦しくはなった。もっとも日本中が贅沢のゼの字もなくなっていたのだ。海軍兵学校一号生徒だった兄も帰ってきて旧制高校に編入したが、一家の稼ぎは無くなった上に父親は公職追放となる。しかしまだ若かっただけに切り替えも早い。元々外国文学が好きだったこともあって、英語への抵抗はあまりない。聡子は更に闘志を燃やす。
 しかし世間はそれどころではなかったのだ。まずはインフレ、そこへ持ってきて新円切り替えで資産の殆どを失いとどめを刺された。闘志は別の形で発揮された。
 先祖伝来の鎧兜、名刀『備前長船』を売り払い家計をやり繰りする、17歳の娘がである。この備前長船兼光は数代おり、いずれも室町・南北朝時代の大業物のうち天文年間の兼光モノだった。同時代の兼光モノで現在重要文化財になっている物が現存している。一振りで一家は三年食えた。

 大幅に売り食いしたのは藤家も同じだが、貴が最後に建てた喜寿庵のみ残った。そしてたわわに下がる藤棚の花の下で、陽と聡子は長男穣(ゆたか)を抱いていた。敗戦から数年が過ぎていた。
「しかしオヤジがこの喜寿庵を売りとばしてヨーロッパに行く、と言い出した時は慌てたな。」
「お父様そんな事仰ってたの。」
「ああ。オレとお袋で必死に止めさせたんだ。」 
 二人は結婚したのだ。ただ、スタートは前途多難だった。両家共々落ちぶれかけていたのだが、結婚の段取りの流儀が違いボタンが掛け違った。双方体面を重んずるあまり当主は前面に出ず、叔父に当たる者同士が話し合い大喧嘩となってしまったからで、きっかけはどちらも『そっちから来い。』と譲らなかったというつまらない理由のようだった。結局結婚式はあげられなかった。しかし我儘一杯の貴も昨年父親と同じ脳溢血で他界、その後の整理がやっとついたので実家への出入りは自由となった。
 風が吹いて藤の房が揺れる。この花が大好きなクマンバチが飛んでいる。穣が幼い声を上げる。
「ハチ、ブンブン。」
 世相は慌しく、サンフランシスコ条約は成って占領軍は帰ったものの、吉田総理の政権は安定しているとは言い難い。陽の学生時代もそうだったが、左派勢力は社会の一角に根付いた。米ソの対立が言われ、先は読みづらい。誰もが不安を抱えながら生活に追われた。
 フト穣のあどけない表情をみて二人は同時に同じ事を考えた。『この子の代までこの藤の色は同じだろうか。』と。
 
おしまい

 ちなみに、この家系は一代おきに真面目と遊び人がかわるがわる出るが、2014年時点でもその循環を繰り返している、穣(ゆずる)から剛(つよし)へと。

藤の人々 (戦前編)

藤の人々 (昭和編)


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藤の人々 (昭和編)

2014 SEP 11 19:19:27 pm by 西 牟呂雄

  貴の長男誕生と逸の急死がその前触れとなった。
逸は本当にあっけなく逝ってしまった。大酒飲みで血圧が高く脳溢血だった。この病は当時は倒れてからは早い。遺言も何もない。陽(あきら)が生まれ逸もたまに神田に顔を見せてかわいがっていた。ともあれ貴は三十前に当主になってしまったのだ。当時は旧民法で、貴は順調な家業を一人で相続した。妹節はとうに陸軍将校と家庭を構えていた。
父の死という現実も、こうも唐突だと現実感からは遠い。しかも後世と違い人の死というものが、戦死・病死等日常事であり、従って細々とした葬儀の手続きも事務的に行われるうち、悲しみが引いていく。特に藤家は淡々としていた。

 黒紋付きの染抜き技法はいくつかの専売特許に守られほぼ無競争であり、宮内庁にまで納入していた。菊の御紋章は工場総出で水垢離をし、隅々を塩で清めてから全員白装束を付けての仕事であった。無論黒染めであるから一回で汚れてしまい使い捨てだから、大した儲けにはならなかったが貴はお構いなしである。
 長男陽はどちらかといえば静に面立ちが似ていて、よく笑う子供だった。二年後長女知(とも)が生まれる。このあたりから貴のタガが外れだした。静と子供達を工場のある地に母ひろと住まわせ、自分は神田・京都・工場をまさに神出鬼没といった風に渡り歩き、住所不定状態になっていた。
 神田の店には新たに、お気に入りで帳場を任せていた生真面目な沼田を番頭にし「支配人」と呼ばせた。ある日沼田が算盤を入れていると円タクが停まり、中から大きなバッグを担いで貴が裏口から入ってきた。振り返ると目が合った。
「おかえりなさいまし。何ですかその大きな物は。」
「うん。これはな、ごるふ、というスポーツの道具じゃ。」
「ごるふ。何ですかそれは。野球のようなものですか?」
「そんなアメリカ人がやるような野蛮なもんじゃない。歴とした英国貴族のたしなみじゃよ。」
 話しぶりまで貫禄をつけているつもりである。当時は東京も新宿を越えれば十分田舎であり、生活圏は山手線の内側だけで足りる。ゴルフなど、ちょっとした遠足気分でいくらでもやれた。ただ、上達はしなかった。
 その点山登りは競技ではないので、一人で満足感に浸れる。こちらの方は生涯の趣味となった。貴の周りには取り巻きのような遊び仲間が始終出入りするようになり、「旦那」とか「大将」などとチヤホヤし出す。思いつくままに突然『よし、山に行くぞ。』となるとたちまち装備一式が用意され、全て貴持ちで出発することも頻繁にあった。
 昭和初期は色々と事変も起きているが、いわゆる読書階級は平和なもので、悪いことに静の姉たちが嫁いだ先の大庄屋、造酒屋といった輩は誰も働いている者はいない。それぞれ鉄砲撃ちだの弓だの、挙げ句の果てには自分は何もしないでクルーを集めヨットに乗る者までいた。貴の性格からして、人がやっている面白そうなものには手を出さずにはいられなかった。
 次男行(ゆくえ)が生まれた。狂喜した貴は高価な帯を買い与える。実は前年に双子を死産させてしまい、その後の精神的落ち込みに手を焼いていたからだ。こういうときの貴はまるで役に立たず、それは悲しいに違いないのだが掛ける言葉もなくオロオロするだけだった。
 大陸での事変は手を変え品を変えとさっぱり終わりが見えない。しかしながら藤家周辺では兵役に行く親族もおらず、さしせまって慌てることはなにもなかった。むしろ昭和八年は好景気に沸いた。ヒマを持て余した貴は現地調査と称して満州旅行に出かけてしまう。
 陽は学校帰りにブラブラと大通りを歩いていた。小学校では図抜けた秀才だったが、それもそのはずで、東京のど真ん中ならいざ知らずこのあたりでは百姓の子供は勉強することはまずない。中学受験をすること自体が地域ではエリートと言える立場であり、更に農地解放以前ともなれば小作農が大多数を占めていた。秋風が感じられる涼しい午後だった。遠くの方から大通りをこちらにくる大柄な男を見てギョッとした。一目で貴と分るシルエットが支那服を着てよせばいいのに満州国皇帝のような丸い色眼鏡をしながら歩いていた。この前満州旅行に行った時に新京で仕立てさせたと言っていたが、まさか町中を着て歩くとは思わなかった。あわてて横道にそれて家に帰った。すれ違う人は皆下を向いたりして、とにかく顔を合わせないようにしているのだが、貴はニコニコしながらむしろのぞき込むようにゆっくり歩いていた。暫くして貴が帰ってきた。
「おい静さんや。陽、陽、あきらー、ともー、どこにいる。」
大声で家族を呼んだ。陽は話の内容が容易に想像がついて舌打ちしながら階下に降りていった。
「どうだ、町中で誰もワシだと気が付かなかったぞ。」
「あれまあ、そりゃそうでしょうが、まあおよしなすって。」
 かろうじて静が取り持った。しかし既に町で噂になっていることを知っていた。陽が耳にしたところでは、『また藤の大旦那のおふざけが始まった』であった。すれ違った人々も下手に気が付いたことがわかれば、大げさに驚いて見せなければならず、バカバカしくて知らん振りを決め込んでいるのだった。
 暫く面白がってその恰好で喜んでいたが、さすがに町の人々もすれ違う際には挨拶をするようになってしまったら貴はもう飽きて以後見向きもしなくなった。
 ところが、今度は真っ赤なブレザーに乗馬ブーツに身を固め、拍車の音をチャラチャラさせながらウロつきだした。英国紳士の嗜みとでも思ったのか、手には乗馬鞭を持っている。しかしながら本当に乗馬しているのを見た人間は皆無であった。大体そういった奇抜な恰好をするのは地元に限られていて神田や京都では決してしない。周りは自然に飽きがくるまで放っておくしかなかった。
 三男泰(やすし)が生まれる。
 この頃から風向きは変わった。まず昭和八年が暮れると不景気が襲った。世情騒然とする内に二・二六事件が起きる。
 貴は気質としては、はっきり保守派であり大の共産主義嫌いであったが同時に役人も嫌いであり、今日の言い方を持ってすればノンポリもいいところ。事件のときには折しも神田にいたが、わざわざ野次馬根性まるだしで反乱軍を見にも行っている。そして世間に背を向けるように、今度は普請道楽に凝り出した。
 まずは材木の手配から始め、渓谷の崖の上の土地を物色し、庭の設計を始めた。場所については、富士の裾野のちょうど冬場の夕日が遠景の谷間に落ちるポイントを見つけて狂喜した。
「門前の小僧習わぬ経を読む。骨董の目利きはいい物を見て磨かれる。」
と称し出入りの大工の腕利きを二人、京都の支店に半年も神社仏閣を見るように居候させた。二度ほど顔を出しては自ら案内するように「このたたずまいをマネできるか」「庭から見上げたときに同じように日が入ることを考えて見ろ」等と言いながら連れ歩いた。
 大石を川から運び上げ、家相に凝り、挙げ句の果てには庭からの景観に気に入らない人家があったのでわざわざ大枚をはたいて樹木を植えさせた。相手にしてみれば酔狂にも金まで払って人の家に庭木を植えてくれるのだから有り難い話である。
 更に一角に父逸の業績を記した記念碑を建てることを思いつき、デザインからブロンズのマスクに文案まで自作した。そして母ひろの喜寿を記念して喜寿庵と名付けた。
 言ってもどうなるものでもなく、静はほったらかしにしていた。工場は五十人程度の人間が居り、面倒見が良かったので工員の相談事に乗ってやったりしていたが、周りの方も大旦那に言ってもロクに取り合ってもらえないので静の方に行くようになっていまい、そのうち帳簿のやり繰りから経営全般は静がやっているような状態になった。
 陽は中学生となり、知と行は小学生、よちよちしていた泰を従えて、夏は沼津の海水浴に冬は赤倉のスキーにと一ヶ月以上も逗留する有様で、その間の切り盛りは全て静だ。静は利口に全てをこなした。

 一般人にとっては、寝耳に水の十二月八日、後の運命を暗転させることになる対米英蘭戦争が真珠湾攻撃で始まった。負けるなどとは夢にも思っていない国民は初戦の成果に狂喜した。
 貴はというと、喜寿庵の仕上げに水をかけられた恰好になりどちらかといえば不機嫌だったがまさかふて腐れる訳にも行かず無聊を持て余した。
 ミッドウェーの大負けを知らされない国民は2年程「勝つぞ勝つぞ」のいさましさに酔いしれていたが様子がおかしくなってきた。
 工員にも神田の店にも徴兵が来だして統制色が色濃くなる。さすがの貴も慌てるかと思いきや、工場統制が始まり染め物どころでなくなると、これ幸いとお国のために協力とばかりに工場を閉じた。兵隊に教師がとられた女学校の英語と化学の教師まで買って出て、一方で弓に凝り出す。
 しかし成績抜群の陽が海軍兵学校を受験する意思を固めると人ごとではなくなった。海軍兵学校は苛烈な教育を持って知られるが、戦局が厳しくなってくると拍車がかかるように厳しさが増す。実態は下級生を殴ってばかりで些か粗製濫造の感が拭えなくなるが、ともあれ陽は合格し呉の江田島に行った。
 ガダルカナルは撤退。サイパン陥落。アッツの玉砕で国民にも敗戦という言葉がちらついたが、口に出す者はいなかった。一方の中国戦線では連戦連勝の記事がまだ新聞紙上に踊るのである。
 工場(こうば)のある街に学童疎開がやってきた。首都空襲があったからだ。

 この頃、東京の山の手で一人の少女は元気一杯だった。
 少女の名は聡子。父親は高級サラリーマンで、家系は御維新でやや傾いたが源氏に連なる名家。戦前のサラリーマンは給料も税金も平成の今日とはケタ違いで、団体役員クラスは特権階級化していた。恐い物なしのやりたい放題だ。普通は単なる我儘お嬢さんとなるところが、何でもトップに立ちたがる性格がいい方に出て、勉強でも体操でもガムシャラにやるのだ。名門女学校に合格してみると、周りの同級生も大体似たようなものでお山の大将だらけだ。世間知らずの女の子同士は俄然意地の張り合いが始まり、聡子は猛烈にがんばる。おかげで一方の旗頭になる頃、戦争が始まった。
この一族は官吏、海軍軍人、裁判官、といった一族でいわゆる平和な時代のアッパー・ミドルを構成していた。それぞれ一家を成していたが叔父・伯父達は例外無く酒好きで、法事等の集まり事があると物凄いことになった。全員愉快に酔っ払い、集まった大勢の従兄弟たちは子供同士で遊んでいる。
「聡子、聡兵衛ー!こっちへ来い。幾つになった。」
「十四です。もう女学校ですよ。」
「オォ、もうそんなか。それじゃ酌の一つもせい。」
「はいはい。おひとつどうぞ。」
「うお、なかなかやるじゃないか。わははははは。」
頭を撫でようとしたが酔い過ぎて手元が狂った次の瞬間、聡子は細身の身体ごと床の間まで吹っ飛んだ。子供達は息を飲んだが、大人は余興とばかり笑う。聡子はこの時のことを後に思い出しては『首がもげるかと思った。』と語る。当の伯父は講道館柔道三段の猛者だった。
 兄が海軍兵学校に進んだ頃から戦況はおかしくなってくるが、聡子は逆に闘志を燃やしていた。アメリカ何するものぞ、負けるものか、と。同級生にも同調者が多くエスカレートする。ある日身内を亡くした一人さめざめと泣きだした。
「やさしいお兄様が戦死なさったの・・・。」
悲しみは伝播しその後高揚する。と、一人の優等生がスックと立ち上り。
「いいこと!うちのお兄様は海兵を恩賜で卒業なのに(上位5番以内のこと)戦死されたのよ。そんなに泣くもんじゃありません。」
今では大問題と言うべき発言だが、聡子はもっともだと思った。他の同級生も「さすがね。」という反応だった。

つづく

藤の人々 (戦前編)

藤の人々 (終戦編)


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藤の人々 (戦前編)

2014 SEP 9 12:12:24 pm by 西 牟呂雄

 
 大正の中頃である。
 京都駅頭に小柄な男が降り、長旅のトランク数個を赤帽に持たせて歩き出した。やや小柄な体躯を前のめりにするように早足で歩き改札を抜けると、当時は改札からやや離れた所にあった人力車を用立てて深々と乗り込み行き先を告げた。
「千本通り高辻下る、じゃ」
東京にはタクシーがあったが、ここ京都は路面電車こそ通っていたものの荷馬車も往来していた。
間口四間の店の前で停まると小僧達が一斉にそちらを見て客かどうか、そうならば『おいでや~す』と頭を下げなければ、と目をこらした。
 短躯の男、名は藤(ふじ)逸(いつる)という。帽子の下の両眼が良く光るが普段はわりと愛嬌のある表情だった。しかしその姿を認めた古手の小僧があわてて店の奥に駆け込むと、入れ替わりに番頭の田原は飛び出してきた。
「これは大旦那様、電報を頂ければお迎えに上がりましたのに。又突然どうなさいましたですか。」
「気が向いたので紅葉を見に来た。」
「そうでしたか。」
二人は京都では目立つ関東弁で喋った。元より逸は口数は少ない。
「貴(たかし)は。」
「あぁッ、それはー今出て居られます。」
「いつ帰る。」
「遅くとも夕方には。」
「遊びに行ってんじゃねぇだろうな。」
「そりゃ・・・。まあお茶を入れますから奥の方へ。」
 この時代はフラリと紅葉を見に京都に来るのは普通ではない。が、それ以上の説明もなく田原も聞かなかった。そういう男なのは承知しているのだが少し慌てた。理由はある。
 逸はお茶を飲みながら田原をじろりと見ると思わず立ち上がった。例によって前屈みでツカツカと店先にまで歩き、その年にでも奉公に来たと見える箒でせっせと掃除中の小僧に声を掛けた。田原はあわてて逸の後ろに立った。
「名前はなんてぇんだ、おめーは。」
「しょうきちだすぅ。おおだんはん。」
 逸は直ぐにここの主人であることを察知した小僧の賢さに好意を持った
「そうか。それで正吉、若旦那はどこだい、えっ。」
「わかだんはんは、でんしゃ(しゃの所が上がる)に乗らはってテエダイいうところに行ってはりますぅ。」
京都言葉でゆっくり喋った。この時代方言はすり減っておらず、逸には意味が分りかねた。
「正吉よ。テエダイっちゅうのは何でぇ。」
「わかりまへん。」
後ろの田原が青ざめて姿を消した。

 藤(ふじ)と言う変わった名前は、今では東京近郊の車で直ぐ行ける清流の里となっているが、その昔は山間の一角に開けた盆地の古い宿場町にのみあり、いくつかに分家してそう広くも無いあちこちに点在している。氏は藤原を称していたが歴史上に登場した人物なぞおらず、この地域にへばりついて細々と営みを続けてきたと思われる。この地域は江戸期を通じて養蚕が盛んであり、その関係で染物も行われた。
 幕末の動乱もこの地では伝承もなく、官軍が通り過ぎて新時代を迎えたが、しばらくして一族の一人、逸が黒紋付の染め抜きで新技法を編み出した。逸は進取の精神を持っており、本来秘伝とすべきその技法を新たに定められた法律の下『専売特許』を取得した。以降逸の一統の家業として順調に発展していくことになる。逸は一族の連枝からひろと言う娘を娶り一家を成し、その時代では少ない方であるが三人の子供を得た。貴(たかし)と玄(くろし)が息子で、この家系は代々一文字の名前を付けた。その下の妹は節(せつ)という。
 日露戦争が終わってみると世の中は忙しく体裁を整えた。都市部は今日の面影がほぼ想像できる程度にインフラが整備され、社会制度といった類いは一通り揃った。地方は大都市ほどにはならないものの、今日のような一極集中ではなくそれなりの文化が息づいている。藤家の家業も大きくなり、黒染めの現場は工場(こうば)と呼ばれるようになった。大正になり、染物の本場京都に店舗を構えてこれも当たり、関東から京阪に出た珍しいケースとして知られた。
 長男、貴と次男、玄(くろし)は対照的な兄弟で、貴は六尺豊かな大男。一方の玄は小柄。貴は理系で勉強家ならば玄は詩人。それでいて性格は兄貴はおっとり、弟は几帳面と言った具合だ。が二人は仲良く、特に貴は弟思いのやさしい兄貴だった。
 父としての逸は概して子煩悩というわけでも無い。むしろ殆どの発明を独学で行い、研究に集中するあまり他の関心を吸い取られているような風情だった。当時のことであるから食事は膳で取ったが、何か閃いた時にいきなり下げさせて分厚い本を取り出したりして家人を唖然とさせたりしていた。

 さて、夜も更けた頃、夕食も食べずに待っていた逸の耳に軒先の騒がしさが聞こえた。京の町屋は奥に細長い。喧噪が近づくのがわかり、段々と声が近くなってくる。貴の帰宅であろうが、逸の突然の来訪を告げているに違いない。
「やあやあやあ、オヤジ殿。」
「ばかものー!」
 大音声であった。あわてた誰かが物を落とした。
 順調に商売をしているはずの貴は、知らぬうちに京都帝大の学生となってしまっていたのだった。その噂を耳にした逸は怒り狂って京都まで突進してきたのだ。
 元来真面目で勤勉でもあった貴は、家業を継ぐべく逸の強い勧めもあって旧制工業高等学校に進んだ。その間も知的好奇心は旺盛で夜間には外国語学校でドイツ語に励んだ。
 卒業後には京都に出した店を任されはるばるやってきたのだが、京都では先に来ていた田原が一切を卒なくこなしており取り急ぎすることもない。田原は幼い頃から見知っている上、若旦那若旦那と呼ばれているうちに勉学の虫が騒ぎ出し、京都帝大の選科生として工学部化学科に通い出した。そうなれば元々商売なぞやる気もなく、流行の有機化学に熱中し瞬く間にマントを羽織った学生になりおおせた。又、酒は強く、軽く二升酒飲んでも酔っ払って我を忘れることは無かった。
 逸は滞在中怒り続け十日程の滞在で帰って行ったが、二つの事を約束させた。帰ってくることと結婚である。逸にすれば跡取りと頼む長男が居心地の良い学生風情でいることに我慢がならず、折しも神田にも出店したのだが怒りのあまり伝え忘れた。
 渋々約束はしたものの自由気儘なこの境遇をすぐさま捨て去ることにいかにも未練が残り、舞子遊びなどをしているうちに一月が過ぎた。年末には帰って見せなければと思っていたところに電報が届いた。
『クロシケッカク』
第八高等学校在学中の玄が何と言うことだ。この時代では一刻を争う事態である。
 
 玄はもはや呼吸も苦しそうだった。医者も気休め以外に効果的な治療方法も見出せず、ただ安静にして栄養をつけるよう言うばかりで離れに寝かされていた。
「兄さん、わざわざ申し訳ありません。」
「何を言う。もう大丈夫だ。」
「ははは、兄さんらしい。嘘が下手だ。」
「んなこたーない(そんなことはない)。嘘などついたことはない。」
「まあ、僕はホッしたところもあるんです。東京にお店を出したでしょう。オヤジさんはそれを僕にやらせようと思っているみたいなんで。いや、口には出しませんよ。でもわかります。僕は商売は苦手なんで困っていたんですよ。」
「バカなこと言ってないで来年どこの帝大にするか早く決めろ。おい、京都はいいぞ。東大よりずっといい。」
 貴は言いながら席を立った。
 オヤジの馬鹿野郎。オレに帝大を辞めさせておいて。こんな思いを玄にまでさせてたまるか。玄は今流行の『白樺』等を読んでしきりに関心を寄せているような高校生だ。玄には好きなことをやらせてやりたいとオレが跡を取ると言ってるんじゃないか。
 一瞬カッとなったが、考えて見ればそういう自分も商売はそっちのけで学生風情になっていることを思い出し、逸の前では何も言うことが出来なかった。
 玄は暫くして逝った。死後日記が見つかり貴は目を通したが、最後までは読めなかった。筆で割と大きな字の綴りだった。
『山紫水明ノ地ニ生ヲ受ク。四季折々、時ニ花ヲ愛デ、雨ヲ楽シミ、川ニ遊ビ、紅葉ヲ喜ビ、銀雪を仰グ。兎モ角モ我々人類ハ、カフイフ感情ヲ持ツニ至ッタノダ。』
 玄の笑顔が浮かんできた。かわいい将来楽しみな弟を失いこれから自分がどうなっていくのか。只、この家系は不思議と人の生死に恬淡としている気質を共有していて、それは逸もその妻のひろも同じである。ハラリと泣いた後は凜として葬儀を仕切った。
 納骨を済ませて、貴はブラブラして過ごしていた。周りが打ちひしがれているふうでもないのに、一人メソメソするわけにもいかない。この地は当時土葬である。一~二ヶ月程たつと盛っていた土がガサッと崩れる。それを見て人は『ああ、土に返ったな。』と囁くのだが、貴はそれを聞いてゾッとしただけだった。
 半年も過ぎたころ二つ目の約束の縁談を持ち込まれた。逸が八方手を尽くし近隣の名士の娘の話を探し出してきた。貴は全然乗り気でなく、日本山岳会に入り登山に夢中になっているところだった。特にアルピニストという呼称が気に入り、自己紹介の時にそう言っては悦に入っていた。
 ところがこの話は一端立ち消えになる。世に言う関東大震災である。震源地から離れているもののガーッと来た。人は歩けず、地鳴りがした。東京下町は一発目で火事を出し大惨事となったが、この地は揺れこそひどかったが家屋の倒壊や火災にまでは至らなかった。ところが三日後の余震が震源が近く死人が出た。通信・交通が遮断され、誰もがどこで何が起こっているのか分らないまま数日を過ごした。
 暫くして逸が出店した神田の店は無事とわかり、年を越した。下町一帯と言っても最も火事の被害でやられたのは、隅田川の東側で、銀座あたりはその頃川も多く流れていて、猛火はそこで止まっていた。無論長屋造りの安普請は倒壊を免れなかったが。

 寒い正月だったが、工場の出初めと初荷を終えた後に貴は逸に呼ばれ目の前に座らされて、おもむろに写真を見せられた。何だこんなもん、と目をやると大変な美人である、いや可愛らしいまだ少女のような娘だった。かたわらで母親のヒロがニコニコしていた。在来の資産家で大変な山林を持つ造り酒屋の六女だそうだ。名前を静といった。
『おめーはこの娘を貰って神田に行け。』
『・・・・まあいいでしょう。』
『「まあ」とは何だ、「まあ」をとれ。』
『・・・・いいでしょう。』
『いいです。と言え。』
『・・いいです。・・』
 神田の店は当時の流行の看板建築というやつで、二軒続きで百坪のうちの表家の一階に店舗と水回り、二階が居住スペースになっていた。新婚生活は裏屋の方で始まった。貴二六才、静十九の新婚夫婦であった。ただ、貴の家系は禿頭であり既に薄くはなっていた。
 静はミッション・スクールを出たいわゆるモダンガールでもあり、しゃれた物を身につけたりお菓子を焼いたりと楽しそうにしており、貴も満足した。神田は当時は往来も多く下町の外食文化と相まって、堅苦しい嫁仕えはやらずにすんだ。
 そして年号が昭和に変わる。時代がゆっくりと変わっていった。

つづく 

藤の人々 (昭和編)

藤の人々 (終戦編)


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ワタシのルーツ

2013 OCT 3 13:13:09 pm by 西 牟呂雄

 モンゴロイドは下戸だそうで、ネイティヴ・アメリカンも全くダメ。モンゴル系がベーリング海峡を渡ったことの証明とか。先祖が科学的にたどれるのも誠に想像量をかきたてられます。ワタシの家系は例外なく呑み助なんですがね。

 『小倉記 秋古代編』に書きましたが、宗像大社での写真、祭りの時に信者が地べたに這いつくばって神様が降臨したとされる石(磐)に向かっているのを見たときに「ああ、オレの先祖もこうやっていたんだろうな」と思ったのが遺伝子の記憶かなと実感しました。デ・ジャ・ヴ。

 ところで、私の姓は山梨県の入り口、猿橋という駅の近くの下和田(シマーダと発音する)近辺にのみ存在しています。小倉時代に歯医者に行ったら歯科技工士の女性が西室という人で、向こうから「やっぱり山梨の関係ですか?」と聞かれてビックリしました。大月市の市長が西室という人だったこともあります。ウチは本家筋ではないのですが、口伝では氏は藤原の流れと言うことになっていて、奈良のあたりから600年くらい前に落ちてきた、と言う説があるそうです。ところが同じように奈良から流れて羽後にながれた源氏の一派にも同じ姓があってどこかでこんがらがったようです。
 このエリア、なかなかレアものの地域伝説があって、桃太郎伝説もパクッています。近隣の百蔵山で桃が流れてきてから始まり、周りの地名の犬目(いぬめ)鳥沢(とりさわ)猿橋がお供という仕立てなのですが、あまりにマイナーなので、岡山、犬山、奈良といった各地の催す桃太郎サミットにも声はかかりません。私は以前この桃太郎の直系の子孫だ、と言いふらしてみましたが誰からも相手にされませんでした。もう一つは下和田から山奥に進むと上和田という山村があって、平家の落人集落と言われています。こちらの方はその後を継ぐ子孫の家が残っていて信憑性が高いのですが、平家は平家でも壇ノ浦ではなく、その又前の平将門の方です。将門が戦場で散華した後に、一子常門が落ち延びた所となっています。

 ところでこの父方は「一代跳び」の法則があって、デキのいい代と遊んでばかりいる代がかわるがわる出るというのですが、まずいことに私の代は後者の順番に当たります。まあ頷けなくもない。又、前の代は全員が例外なく禿頭(ハゲ)なのに、我が代は75%の確立で髪の毛を守りました。上の者からすれば「だからお前等はデキが悪いのだ」となるのですが、このあたりの話になるとあまりに楽屋話になるので控えましょう。

 母方は、これが面倒なのですがルーツは源氏です。武家の頭領八幡太郎義家に弟がいて、新羅(しんら、と読む)三郎義光という武将の子孫です。この兄弟は元服した神社の名前を名乗り、三郎は新羅神社(現在の大津三井寺)で元服をしてこの名乗りですが、この頃 東 仮説に影響を受けましたので何やら怪しい想像が掻立てられます。わざわざ新羅を「しんら」等と読み慣わすのが怪しい。こちらの家系はその後色々と分かれて、先祖は平賀と言いました。面白いことに甲斐武田は同族ですが、大河ドラマでも、長編時代劇でも武田信玄シリーズの第一回目に、信玄公の初陣でコテンパンにやられる平賀玄信入道という悪役がいますが、その平賀です。やられたのは正月だったらしく、余程懲りたのか平賀では餅を食べる習慣がなかったそうです。
 その後親族を頼って山陽道まで落ち延び、備前池田にご奉公となりました。広島と岡山の二系統あるのですが、広島の家系から出たのが戦前の平賀粛学(東大内で天皇機関説のケンカが起こったので両方辞めさせた)に名を残す、海軍造船中将・東大総長の平賀讓です。作家の阿川弘之の卒業時の総長ですな。東北に逃げたのもいて、白石姓を名乗ったのですが、伊達様の分家が宇和島に行くときについていったらしく、その子孫に江戸の変人、平賀源内が出ます。
 で、こちらの一族にも困った法則があって、一代に一人はヘンなのが出る、ということになっています。戦前には馬賊になると言って大陸に行ってしまった者とか、その又前にはお狂いあそばしたのがいた、とか。前述の源内もこのテかと思われます、ヘンですからね。そしてこの法則の話になると、一族は皆わたしの方を何故か見るのです。

 私には父方・母方合わせて14人の従兄弟が居ますが、両家の法則が合致するのは私と妹だけですからこれはヤバイ。東 理論の言うところの反応特性「スペック」ならば何とか人格までは矯正が利きそうですが(私と私の息子はもう不可能)遺伝子の記憶のマーカーなどというものが発見されてしまっては、我が子孫の遠い将来に絶望せざるを得ませんですな。発見されませんように。

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