Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 列伝

続・街道をゆく 落人のみち

2024 FEB 5 19:19:07 pm by 西 牟呂雄

 筆者の勝手な造語に『日本三大落人』というのがある。出雲族・物部・平家である。人目を避けて山中にひそかに暮らし、時の権力者の追求をかわしながら生き延びた人々のことだ。
 筆者の知り合いにその名も『平』さんという人がいて、鹿児島と沖縄の中間あたりの島の出身者だが、筋金入りの平家の落人なのだそうだ。大っぴらに平姓を名乗ったのがいつからかは聞かなかったが、酔うと目を据えて壇ノ浦の無念を語っていた。時を経てそれほどまでに伝わった無念とはいかばかりか、筆者は仰ぎ見る思いで聞き入った。

 さて、今回の旅は多摩川の水源のあたりから始まる。中山介山の大菩薩峠が見渡せる武蔵の国の奥まった所である。これから追うのは三大落人ではないものの、平家のゆかり平将門の足跡である。藤原秀郷に追われた将門は実際には茨城県で戦死するのだが、西多摩あたりには多くの将門伝説が残っている。おそらくは抵抗を続けた弟たちや子供達が流れて来たものが伝承されたと言っていい。その一つに将門が五日市の勝峰山に立て籠もり藤原秀郷軍と対峙し、戦況利有らずと勝峰山を下り青梅に下ったと。そして金剛寺で手に持っていた鞭代わりに持っていた梅の枝を地面に突き立てると梅の枝は立派に根付き、その梅の実がいつまでたっても青いので青梅と称された、と。ご丁寧に藤原秀郷が将門の霊を鎮めるため阿蘇神社に手植えしたシイの木も残っており、樹齢1000年を超えると伝えられる。将門の長男良門が亡き父の像を刻んで祀って社号を平親王社とした社も奥多摩の棚沢にある。
 いずれにせよ、将門のゆかりの人々がこのエリアまで落ちてきたことは事実と思われる。この地は分水嶺から見ても武蔵の国なのだが、現在では甲斐の国山梨県になっている小菅村で、かつてはバスも奥多摩方面しかなかったが、ようやく道路も整備されて上野原あるいは大月へも運行されるようになった。そのことから、この村も落人にとっては安心できる所ではなかった。
 史実で確認できる将門の息子は長男が上記良門、次男将国まで確認できるが、伝承では三男に常門という者がおり、ここから峠を越えて行ったと伝わる。その峠が武蔵の国と甲斐の国の分水嶺になっていることからその険しさが知れる。筆者は峠越えの道を行きたかったが、どうやら整備されておらず通行止めになっていて断念した。代わりに通ったのは距離3066mもあるトンネルだ。一般道のトンネルとしては長く、しかも緩く勾配があって直線にもかかわらず視界は遮られている。このトンネルを通過することにより十分険しさは想像できた。その峠の名は松姫峠という。
 抜けて視界が広がると上和田集落に行きつく。

五輪塚

 将門の愛妾である芙蓉の前が落ち延びた青梅で将門の子を産み落とし、将門の幼名が相馬小次郎であることから相馬治郎丸と名付けられた。冒頭の青梅の将門伝説はこの男子誕生から派生したものかと推察される。
 治郎丸一行はここ上和田に落ち着く前は甲斐の国側の下流である駒宮・瀬戸地区にも居住したようだが、最後はこの地で没した。墳墓跡とされる場所に通称常門塚、五輪塚があった。常門には七人の男子が生まれそれぞれ相馬姓を名乗って今日に至っていて、家紋は将門ゆかりの九曜紋である。

卯月神社

 ほとんど平地のないこの集落の僅かな場所には廃校になった小学校があった。無論過疎地で相馬姓の他に卯月姓が多い。そして卯月家は常門の従者で後から追ってきたという。世を憚るように斜面の僅かな土地を切り開いて相馬神社と卯月神社があるが、両社とも御岳神社・一宮神社とその名を変えていることが落人の歴史を物語っていた。
 相馬家では各代に一人は生涯髪を切らずに修験者のような総髪にする男子がいた、或いは現代にいたっても相馬の血を引く者は成田山新勝寺には参らない、等この辺境にふさわしい話が残っている。新勝寺は将門の乱の際に朱雀天皇が高雄山神護寺の不動明尊像を寬朝上人に託し、成田山にて21日間の護摩行をすると結願の日に藤原秀郷に打ち取られた、とあるからである。

 さて、分水嶺をこえているのでこの幽谷を流れる葛野川は甲斐の国へと向かい桂川に注ぐのであるが、その流れはご覧の通りの深々とした山中にある。下って行くと先程記した瀬戸・駒宮といった集落があるにはあるが、いずれも日当たりも心細いような所に家がへばりつくように点在するばかりで、それは逆に言えば身を隠すには都合がいいに違いない。
 今日整備された道路によって大月・上野原までバスが通るが、かつては猿橋方面に細い道があるのみであった。その猿橋に近い集落は下和田としてかすかに上和田との縁を感じさせるが、交流などはなかったものと思われる。その道は一車線のみの道なので今回は通らなかった。
 途中、コンビニとかガソリン・スタンドの類は一切なく、釣り客用の鉱泉旅館があったのみである。その旅館は『松姫旅館』といい、敷地内には松姫神社がポツンとあった。峠・神社、今回の旅ではノー・マークだった松姫とは誰なのか。

 しかしその神社は社殿もなく朽ちた老木が楼の下に祀られているだけで、由来も何も表示されていない。御神体のつもりの老木は中が空洞になっていて何やら打ち捨てられた感が否めない。旅館に付随した観光施設のようだった。
 だが、松姫は実在の人物で、武田信玄の四女として生まれ、信玄西上の以前には信長の嫡男信忠の許嫁だった。信忠11才松姫7才の縁組である。
 ところがその後、信玄は死去。勝頼は織田方に滅ぼされてしまう。戦乱の最中を松姫は武蔵の国へ落ち延びていく。どうやらその際に超えて行ったのが松姫峠であり、すると今までたどって来た常門のルートを逆に登って行ったことになる。図らずも落人が行き来したみち、それほどに山深い隠れ街道と言える。
 史実によれば、松姫一行は八王子まで無事に逃れていたが、それを聞き知った織田信忠から迎えの知らせが来た。この時代に何と心温まる話か、打ち滅ぼした敵の一族ではあるが落ちて行った元許嫁を改めて迎えようとは天晴な心掛けである。松姫も旅支度にいそしんだであろう時に、無情にも本能寺の変が起きたのだった。
 この過酷な運命にもかかわらず、八王子心源院で出家し信松尼と称した。この時期の八王子は小田原北条氏の支配下にあり、ひたすら祈りの生活を送ることとなる。そのうちに寺子屋のように近在の子供たちに読み書きを教え、機織りなどを生活の糧にしていたようだが、小田原を制圧したのちに江戸入りした家康が、西の守りを固めるために旧武田の遺臣を八王子千人同心として大量に雇い入れた。やって来た彼らにしても旧主の姫は大きな心の支えとなり、松姫もようやく心静かに暮らせるようになったはずだ。険しい峠越えから八年が過ぎていた。
 そして晩年には将軍秀忠公がよそに産ませた子が正室お江の方にバレることにビビったため、異母姉である見性院(けんしょういん、武田信玄次女)とともに育てた。その子は一時八王子にも滞在したと言うが、後の会津松平家の祖となる保科正之である。

岩殿山

 この落人が行き来した道は大月市に至り、中央線の駅から必ず見える巨岩の岩殿山のふもとをかすめる。武田勝頼を最後の最後で裏切ったとされる小山田信茂の砦があったところである。小山田氏はこの大月から富士吉田に至るいわゆる『郡内』エリアの覇者で、初め北条に仕えた後信玄旗下として数々の武功を上げ武田二十四将と記録される。その足跡はまた後稿に譲りこの旅は終る。

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続・街道をゆく 無生野のみち

2023 DEC 19 21:21:53 pm by 西 牟呂雄

 中央本線の駅を降りると、見事なまでの河岸段丘が眼前に広がっていた。かつては水田だったであろうそのわずかな平地に現在では家屋が整然と並ぶ。地名はその風景のままに上野原といった。中央線が山梨県に入った最初の駅だ。
 その河岸段丘の下を川が流れているが、戦後に建設されたダム湖に通じるためにすでに緩やかな流れとなり満々たる水を蓄えていた。数万年の時を経て大地を削った後が見て取れるようで、思わず覗き込まずにはいられなかった。
 近年の開発により、東京西部のベッド・タウンとして発展したのは後背地の方で、長いエスカレーターが設置されている。その奥は甲斐・相模・武蔵の国が接する山間である。従って湖の名前は相模湖でありそこからは相模川が神奈川を潤すがそこまでは桂川と呼ばれている。武蔵野の国からも甲斐の国からも峠を越えなければならず、戦国時代は武田・北条の接点としてしばしば戦場となる緊張感を孕んでいた。
 そのため、関東もしくは鎌倉から西へ下る際の隠れ道の役割を果たした、まことに心細いような街道をこれから辿ることになる。
 橋を渡りしばし山中の曲がりくねった道は、歩けばさぞ険しかろうと思えるほど山が両法から迫り、更に今日ではトンネルも整備されているがために進んでいく距離が、往時は大変な時間と体力が必要だったか想像すると絶望といった言葉がさほど大げさに響かない。先日放映された『ポツンと一軒家』に今たどっている道を山側に登ったところにある川魚を供する食堂が取り上げられたほど、山深い。

 突如、視界に巨大な観音像が現れた。
 あまりに唐突なのでそれが観音像であると気づくのに少し間が開いてしまうほどだった。但し近隣には宗教施設はない。台座には『道教観音』と彫り込まれてあるが、観音菩薩は般若心経の冒頭に出て来る菩薩の一人である。それが道教と結びついた例を筆者は知らないが、媽祖信仰と混合した新たな女神だとでもこじつけたのだろうか。付近に由来も案内もない。
 その先に温泉施設があり、その道標として建立したとすればむしろその商魂の逞しさに驚く。
 我々はこれより無生野(むしょうの)という誠に侘しい場所を目指しているが、この街道に沿うように一山超えた東側を道志道という街道が走っていて、その相模原寄りの地名が秋山である。山中湖あたりを起点とする道志川が津久井に流れており、ここは横浜市の水源となっている。行政上は山梨県であるが、むしろ隣接する相模原市や神奈川県とのつながりを思わせる地域であり、また、住民の距離感も甲斐の国府である甲府への帰属意識は少なかろう。
 明治以降の開国にあたってはこの山間で盛んであった養蚕によって基幹産業である絹の輸出は横浜港に直結していた。八王子を抜けて横浜に向かう絹の道を通じてである。冒険的な甲州商人が往来したことであろう。

 だが、今回その道をたどるのは、その遥か昔の悲劇をなぞっている。大塔宮護良親王は父帝後醍醐天皇に疎まれ鎌倉に幽閉されたが、滅亡した鎌倉執権北条高時の一子時行が信濃から旗揚げした『中先代の乱』のドサクサに暗殺される。親王の首は打ち捨てられたが、愛妾雛鶴姫(ひなづる)によって拾われる。姫はその首を洗った後、大切に携えながら京都を目指した。筆者が今進んでいるのはそのルートだ。
 北条方からも足利方からも追われる身であり、ましてや姫は懐妊していたとされるのでこの山塊の中をさまようのは心細かったに違いない。ついにかの地で宿泊を断られた挙句に産気づき母子ともに落命してしまう。そこを無生野と呼んだ。無情にかけた地名とされている。

 寂しげな祠が見えてきた。山間部ゆえに日当たりは悪くひっそりとしつらえられていた。雛鶴神社である。かの姫と亡くなった皇子を憐れんだ地元の人々が祀ったという伝承の神社だ。
 更に驚いたことにもう一つの伝承が被さっていた。大塔宮の遺児である葛城宮綴連王が後年この地に流れ着き、この伝承を聞き不思議な縁に導かれるようにとここで天寿を全うした、というのである。
 葛城宮綴連王とは地元での言い方であり、正史においては護良親王と北畠親房の妹の間に生まれた興良親王と比定される。建武の体制瓦解の後、後醍醐天皇の後の後村上天皇の元で征夷大将軍(南朝の)となり、東国で・四条畷で・山陽道で戦い抜き、消息を絶った悲劇の皇子である。ただ、墓と伝わるものが兵庫・奈良にはある。

土塚

 ここにも墓と称する土塚がある。諸説入り乱れてでさすがに興良親王とは言い難いが、無生野の人々が雛鶴姫・綴連王を供養したことは確かであり、それがゆえに伝わる無形文化財までが残っている。無生野の大念仏である。
 かつては空也上人や一遍上人が広めた念仏踊りが上記伝承と結びついて病気平癒なども込められた独特の形態をとるものとしてユネスコの無形文化遺産となった。
 白装束を纏い太刀、締太鼓、棒を振りかざしながら経典を唱える。さらに鉦・太鼓を打ち鳴らしながら踊る。広く一般で行われる盆踊りの原始的なものであり、辺境であるがゆえに残ったのではないか。山間の渓谷において、おそらくは雑穀を食し炭を焼きあるいは狩猟で生計を立てていたであろう人々がかたくなに守り伝えてきたものが文化遺産と評価されることは誠に喜ばしいが、それを機に『村興し』を展開するとなるといささか違和感を持たざるを得ない。辺境にあるがゆえに残った文化はそのままにしておいてやりたいと思うのだ。

悪路

 ところで物語はここで終わらない。この場所は行政上は上野原市になるのであるが、もう一つ峠を越えるとそこは都留市になり、不思議なことにそこにも雛鶴神社があるのだ。こちらは雛鶴姫の終焉の地という触れ込みで、舗装道路から更に600mほどの悪路を登った奥に、無生野のそれよりもなお一層人目を避けるように佇んでいた。傍らの姫の墓と称する供養塔が氏子の手で建立されていた。
 かつての峠越えはこの参道よりも険しかったに違いなく、いくつかの伝承を組み合わせるとおぼろげに浮かび上がるのは、鎌倉から落ち延びて来た高貴な血統を宿した女性が峠を越えた所で男児を生み絶命、生まれた子はしばらく養われたが不幸にも短い生涯を終える。その墓所が峠をはさみ同じ社名で秘かに祀られた、という想像が成り立ち、恐らくそうであったろう。都留市側の社伝には一緒に落ち延びてきた武士の名前が『菊地三郎武光』『馬場小太郎兼綱』『竹原八郎宗規』と記され、没後百箇日に臣下の木枯太郎並びに馬場正国等が殉死した、とある。

供養塔

 殉死した彼らの墓には墓樹を植えたとされ、2本の松が残っていたそうだが、惜しくも1985年頃松喰い虫の被害により枯れたそうだ。

 ところで、舞鶴姫が携えていた大塔宮の首はどうなったのか。無論史実は何も語っておらず、神社に伝わる伝承も記されていない。ところがその首と称するものが実際にあるというのだ。
 峠を越えて、都留市朝日馬場に出ると夕刻に近くなり西日が射して一気に視界が広がった。戦国末期は徳川の重臣鳥居元忠が納めたエリアで、江戸初期は谷村藩として秋元家の所領であった。その街道沿いに入船神社がある。社伝によれば後醍醐天皇の御代、延元二年(1337)に住吉三神と言われる水の神、底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)を祀った。

ホントかよ

 そしてどういう経緯かは分からないが護良親王の御首級を奉っている。頭蓋骨に金箔を施し、梵字を墨書きした上から漆に木屑を混ぜたもので肉付けし複顔した首級が御神体として現在も保存されている。両眼には水晶をはめ込んでいたが片方は失われた。調査によれば作成時期は江戸初期とのことが判明しているが、ツラツラ綴って来た伝承が滴って来て氏子の信仰を集めたものだろう。こういった伝承の流れにはなにやらいじらしさと力強さが感じられ、筆者の顔は思わずほころぶのである。

石船神社全景

 尚、この神社の堂々たる大木には今でもムササビが生息しており、飛翔する姿は確認されている。
 また向かって左側には4本の柱に支えられた屋根の元、土俵がしつらえてあり、奉納相撲も行われているらしい。硬く突き固められた土俵に登ろうとしたが、靴を履いたままなのは憚られる空気が流れていた。
 この先は冨士みち、浅間神社への表参道につながる。

 この項終る 

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坂の上の霧

2023 OCT 1 0:00:15 am by 西 牟呂雄

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は明治日本の勃興を正岡子規と秋山兄弟を軸に描いた名作である。
 秋山兄弟は二人とも華があるので、物語を一層引き立てたのだが、明治期は二度の対外戦争があったこともあり、同じように兄弟で戦った人材は多いはずだ。
 そう思って調べてみたらやはりいた。こちらは陸軍の田村3兄弟。

田村守衛

 上記坂の上の雲で、日露戦争の激戦である黒溝台の会戦の描写がある。数万の敵中に孤立する秋山好古の元に総司令部からただ一騎でやってきた参謀がいた。様子を尋ねる騎兵中佐に好古は「見てのとおり、無事だ」と答える。この一騎の中佐参謀は騎兵科で好古の後輩に当たる田村守衛中佐であった。
 この人は陸士(新)5期、陸大は首席で卒業した秀才で、大正時代に陸大校長となった陸軍少将(没後中将)なのだが、長兄は田村怡与造というやはり陸軍中将だ。

田村 怡与造

 怡与造は学制の整う前の私塾で学び、明治の学制施行後にいきなり小学校の校長となった経歴の持ち主で、その後に陸士(旧2期)に進んだ。更に普仏戦争によって軍制がフランス式からドイツ式に変わるタイミングでドイツに留学し、帰国後参謀本部にて『野外要務令』『兵站勤務令』の策定に多大な功績を残した。クラウゼヴィッツの『戦争論』の翻訳を旧知の森鴎外に勧めたのも怡与造である。
 日清戦争でははじめは大本営の兵站参謀、後に第一軍参謀副長として指導に当たった。切れ者として有名で実務能力も高かったため、出身地の山梨にちなんで『今信玄』と称されたことが『坂の上の雲』にも記述がある。ドイツ駐在武官を経て、いよいよロシアとの関係がヤバくなってくると参謀本部次長として作戦立案に勤しむが、あまりの激務に開戦前年に死去してしまった。
 怡与造が長男で守衛は確か四男と記憶するが、その間の3男沖之甫も陸士(旧10期)陸大(13期)を卒業し砲兵科を歩んでいる。日露戦争においては火力を充実させた第四軍の砲兵参謀として従軍。戦後は陸軍砲工学校長・中将に昇進した。
 田村家は武蔵七党をルーツに持つ家で、兄弟の父義事は神職をしながら養蚕に功績があった人。更には刀工・一徳斎助則として刀剣を鍛えたとある。多彩と言うか不思議な系譜の一族と言えよう。
 思うに勃興する明治とは地方の草莽に埋もれていた宝石のような人材が、ごくごく真面目に支えた国家であり、どの辺境にもこの田村家のような物語はあるであろう。

田村義富

 そしてその行きついたところはどこかと言えば、田村家にもオチがある。兄弟のなかで唯一実業の道に進んだ次男、濤二郎の息子、田村義富は伯父・叔父達の後を追うように幼年学校・陸士・陸大と軍エリートの道を進む。陸大は恩賜組という優秀な人材だった。
 このジェネレーションは当然のように先の大戦に巻きこまれる。真珠湾前の昭和13年には 北支那方面軍参謀として大陸に派遣され、開戦直前には大佐となって悪名高き関東軍の参謀であった。最後は終戦時に南方戦線第31軍参謀長の陸軍少将であり、任地グアムの激戦中に戦死する。グアムではその作戦能力と胆力で『カミソリ参謀』と称されていた。
 即ち、田村一族は近代日本の勃興と挫折を、対外戦争の始まりから終焉に軍人として足跡を残したことになる。
 司馬遼太郎は名作『坂の上の雲』で秋山兄弟とその時代を、坂の上に見える雲を目指して登って行ったことになぞらえたが、田村一族の目には坂の上に何が見えていたのだろう。確かにスタート時点では白き雲が輝いて見えたかもしれないが、登り切った時点で、そこには濃い霧に覆われていたに違いない。
 田村家は山梨県の一之宮から、2ジェネレーションで4人の陸軍中将を出した。一族のその後を知らないが、平和な戦後には子孫が経済界で活躍したことだろう。

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革命のエッセンシャル・ワーカー 

2021 OCT 10 0:00:38 am by 西 牟呂雄

 コロナ禍により、エッセンシャル・ワーカー以外はテレ・ワークを、との掛け声。働き方改革も一段と進むだろう。長短いずれもがあぶり出されていいことづくめのようだが、例えば医療関係者や自衛隊・警察のように絶対にテレ・ワークにならない職業は必ずある。
 ここで突然話が変わるが、子連れ狼という漫画の原作者である小池一夫原作・小島剛夕作画の『首切り朝』という作品に熱中していた。これは山田朝右衛門という幕府の死刑執行人である公儀お様(ため)し役を主人公としたもので、今でいう実にクールな作品だった。山田朝右衛門のモデルは実在の山田浅右衛門で、代々世襲の御様御用(おためしごよう)を務めた。
 それはそれで面白い話はたくさんあるが、興味深いのは体制の変わった明治維新後も「東京府囚獄掛斬役」という役職で、別にクビになるわけでもなく死刑を執行し続けたことだ。山田家は8代目になっていた。そして刑法が死刑は絞首刑と定めたことにより、明治14年に最後の斬首をもってなくなる。しかし体制がどうなろうが役職は残ったのは、誰もやりたがらないポジションだったのだろうか。新政府もさんざん人切りはやっていたくせに、どうにも解せない。穢れた仕事だとの偏見があったのかもしれない。
 そしてそれは洋の東西を問わない。ドイツ人ヨハン・ライヒハートはワイマール共和国からナチス・ドイツを経て戦後の1949年まで死刑執行人であり続け、彼もまた偶然8代続いた執行人の家系であった。
 ナチ党員であったため、戦後は逮捕されランツベルク刑務所にいた。ここはミュンヘン一揆でヒトラーが収監され『我が闘争』を口述させたところでもある。ところが、連合国は裁判を行い、結果不思議なことに「死刑執行人としての義務を遂行したものである」として無罪になる。そして大勢のナチス戦犯を処刑するために連合軍に再雇用され、連合軍が表向き去った後の1949年までその職にあった。3千人を超える執行をしたというから世界記録ではなかろうか。この人もどんな体制でも職務に忠実だった。ただし市民からは嫌われていたらしい。気の毒では、ある。
 そして、ライヒハートの記録に迫っていた、いや彼の出現まで処刑数世界1と考えられていたのは隣のフランスのシャルル・アンリ・サンソン。
 こちらはフランス革命の真っ最中にその職にあったので、彼にクビを刎ねられたのは有名人がザクザク。ルイ16世とマリー・アントワネットをやったのはサンソンである。
 御承知のように革命政府はその精神は別にしてもやたらと内部闘争に明け暮れ、特にロベスピエール・サン=ジュストのコンビは対立したジロンド党のコルデーや、同じジャコバンのダントンまで片っ端から殺しまくった。あまりに死刑執行が多すぎて、従来の大型で鉈のような剣を使っていては間に合わなくなって発明されたのがギロチン台である。従ってサンソンも途中からはギロチンの縄を引っ張るだけで済んだ。挙句の果てにロベスピエールもサン=ジュストもサンソンの手によって断頭台行きとなる。
 死刑執行人はムッシュ・ド・パリという肩書なのだが身分は低く、これまた世襲なのだ。やはり好んでその役職には就くものではないのだろう。シャルル・サンソンはサンソン家の4代目に当たる。同じように山田浅右衛門も公儀お抱えだが、正式な幕臣ではなく浪人の扱いであった。
 ただしその分ギャラは良かったようで、おまけにサイド・ビジネスで大儲けしていた。サンソンはやや怪しげな医者のようなことをし、山田家は人丹を売っていたという。

 彼らはあの激しい革命を潜り抜けてサバイヴした。革命も後片付けは必要ということか。

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名槍物語 異相なり結城秀康!

2020 JAN 26 9:09:55 am by 西 牟呂雄

 嘗ての日本では「犬畜生にも劣る」と忌み嫌われた双子で生まれ、尚且つ赤ん坊の頃から異相のため実父からは愛されなかった於義丸(おぎまる)は、幼少期を殆んど父親とは接することがなかった。異相と言っても別に奇形ではなく、ややタレ目だっただけなのだが、父親とは何かとそりの会わない異母兄に似ていたのが災ったのかもしれない。
 もっとも双子の片割れの方は更に悲惨な境遇となっていたのだが、会うことなく後に風の便りに消息を聞くのみだった。
 戦国時代もその膨大なエネルギーを消尽して、トーナメントの最終極面に差し掛かった時期である。今にも天下を取りそうだった織田信長が倒れ、その後継を巡って名乗りをあげた豊臣秀吉と実父は微妙な関係だった。
 慎重な実父は大仕掛けは早急と見て、軽く小競り合いめいた戦闘の後に和解策として子供のいない秀吉に於義丸を養子の名目で人質として差し出す策を考えた。もっとも秀吉の方も早くにかたづいていた妹を離縁までさせ、正室のいない実父に差し出すのだから、狐と狸の化かし合い。実父徳川家康45歳、新妻の朝日は44歳である。
 於義丸、当時11歳は「羽柴三河守秀康」となる。天下人の養子となった少年は何とか養父に認められようと心に誓いを立て精進するにつれ、逞しく育っていった。ただ、人前に出るときに遠慮する所があった。
 初陣は秀吉の九州征伐で、この戦闘は言ってみれば島津潰しである。最前線の豊前田川にある岩石城を先鋒で乗り込んで一揉みで抜き、日向では島津本体と激戦の後に追い払うという功績を挙げた。秀吉もこれを喜び豊臣の姓を与えた。
 それよりも、この戦の前後に若き秀康に目をかけてくれた秀吉の軍師、黒田官兵衛とは生涯の仲となった。官兵衛からすれば主君の養子であるが、遠慮がちな少年が、戦場においては鬼神の働きを見せるのがいじらしい。また父親の愛情薄く育った秀康にしてみれば師匠のような存在に懐いた。秀康の前途は明るく開けていたのだ。
 ところが小田原征伐の直前に秀頼が生まれたことで、多くの人の運命は狂う。時に秀康16歳。
 家康は関東240万石の大大名として国替えになり、そのオマケのように結城家の婿養子に出される。実は行く末を案じた官兵衛の斡旋でもあった。
 羽柴結城少将となって関東に下る秀康の心中は穏やかでない。天下人の養父の捨て駒か、新たに関東の支配者となる実父の押さえか、なぜオレ一人アチコチにやられるのか。一層無口になるとともに表情は暗くなった。

名槍「御手杵」レプリカ

 無聊を持て余す秀康の心を慰めたのは天下の名槍、御手杵(おてぎね)の槍であった。養父、結城晴朝から譲り受けたのは後に「天下三槍」に数えられる。刀身(槍の部分)だけでも1.4mと大太刀ほどもあり、小兵では扱うことすらできないバケモノのような槍であった。
 天下三槍とは、福島正則から母里太兵衛が譲り受けた「黒田節」の逸話にある「日本号(ひのもとごう)」と、本多忠勝が愛用した「蜻蛉切(とんぼきり)」である。
 断面正三角形の穂先を眺めながら酒を飲むと、特徴のある目が裂ける如く拡がり異相が益々不気味さを増してくる。
「おやじ殿は何故にワシを憎むか。太閤殿下は何故にワシを邪険にする」
 酔いが廻ると御手杵を軽々と従えて庭に出る。庭には稽古用の巻き藁がいくつもあちこちにしつらえてあり、ハァッ!という裂帛の気合と共に片っ端から突いて一つも外さない。家人達は震え上がり部屋に篭って主が鎮まるのを待つのみであった。
 上がってきてふと鏡を見ると我ながら凶悪な表情に自ら驚いた。腹を切らされた兄、岡崎信康にそっくりだった。
 
 さて天下人秀吉もついに寿命が尽きた。すかさず家康は伏見城に入り様々な工作に着手するが、その際にはお気に入りの三男秀忠ではなく秀康を伴った。秀忠には江戸を磐石にする大役が命じられていたからだが、秀康は素直に喜んだ。
 伏見城下で二人で相撲見物に臨んだ。この頃の相撲は庶民も含めて大変な人気で大いに賑わった。だが、場が盛り上がりすぎてやや騒がしい。そして西方に摂津出身の大兵と、東方に山科の小兵が対決する段になり、互いの贔屓筋が大声で喚き会った。何度か仕切りをするのだが歓声に煽られて立ち会えない。終いには土俵近くで掴み合いまで始まると、家康は不快感を浮かべた。
 すると秀康がゆっくりと立ち上がりあたりを睥睨した。異相は鬼瓦のようで、その左手には金梨地鞘糸巻拵えの外装をしつらえた愛刀「童子切」の鞘が握られていた。童子切は源頼光が酒呑童子を切ったとされる足利将軍家が所有していた大業物で、秀吉ー家康ー秀康と伝わった名刀である(家康から二代将軍秀忠に渡ったという伝承もあるが誤り)。騒ぎは一瞬にして静寂に収まった。
 このあたりで家康は秀康に対し更に認識が変わり、むしろ警戒感すら持ったようだった。

 丁度、豊臣恩顧の大名達の間にも亀裂が入りだした。無理押しをした朝鮮出兵のしこりに端を発した石田三成と武闘派の対立である。
 そしてついに七将と言われた福島正則・加藤清正等が三成を襲撃しそうになり、三成が伏見に逃げてきた。家康は笑いを噛み殺しながら両者を調停するのである。更に手の込んだことに、三成を佐和山に送り届ける役目を秀康に託した。二人は秀吉の養子と側近という間柄なのだ。
 三成は余程心強かったのか、秀康に正宗の大刀を贈っている。

 家康は手始めに陽動作戦として上杉征伐を仕掛けた。上杉景勝はともかく、その傍らに控える直江山城守がきっかけである。野心を見透かすような怜悧な眼差しと高い教養、更には戦場に於ける際立った武者振り、全ていけ好かなかった。そこへ持って来てかの「直江状」を送りつけられて激怒する。「内府様」などとは書いているが、端々に「左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事(内府様に表裏あり)」とか「天下に不似合の御沙汰と存じ候事(天下人には似合わない振る舞い)」と小憎らしいことを付け加える。
 怒り狂った後に、内心これは豊臣方を分断するいい口実になる、と考えた。武闘派の福島正則、細川忠興、加藤嘉明を引き連れて下向する。その際にも秀康を従えて行く。秀康は勿論かの御手杵を携えていた。
 すると狙い通り三成が挙兵するのである。有名な小山評定で武闘派を手なづけると、関が原での決戦に挑んだ。
 ところが秀康は居残りを命じられた。更に、中山道を進ませ途中に真田の上田城を潰させる役割を弟の秀忠にまかせることに。戦の経験など碌にない秀忠に花を持たせる腹かと、秀康は憤怒のあまり例の異相を険しくした。  
 家康はその夜密かに秀康を呼んだ。
「のう、秀康。その顔を見た所不満か」
 秀康は返事もしない。
「会津の上杉がこの期に乗じて来たならば何とする。抜かれれば我が軍は挟み撃ちじゃ。秀忠で防ぎきれると思うか」
 無理に決まっている。だが、それがどうした。オヤジは弟に継がせるな、秀康は父の腹を読み切っていた。そしてこううそぶいた。
「そうまで御心配することもありますまい。引き受け候。我に御手杵あらば」
 互いに笑うこともなく、物も言わずに分かれた。
 
 果たして上田責めの不手際により、秀忠は関ヶ原に間に合わなかった。
 しかし本戦の方は謀略を駆使した家康が大勝利し、結果として豊臣は一大名になり果てた。
 戦後の論功行賞では諸侯の中で唯一人50万石を加封された。だが秀康に喜びなし。

 いよいよ天下取りの仕上げである。そしてそれは後継者を正式に決める事である。息子の中に三人の候補がいた。結城秀康もその一人であった。他に秀忠、秀忠と母が同じの弟、松平忠吉である。この弟は関ヶ原で福島正則と先陣を争い、捨てがまり戦法で退く薩摩軍を追い副将・島津豊久を仕留めた剛の者である。
 慎重な家康は家臣に尋ねた。本多正信は秀康を推した。井伊直政は娘婿であの松平忠吉、大久保忠隣が秀忠と意見は割れた。無論、家康は自分の思いを採用した。戦はもうすぐ無くなる。これからは文治の時代になるのだ。
 弟の秀忠が徳川将軍家を継ぐことが決まると、秀康は出雲阿国の歌舞伎を見物した。
「艶やかなり、お国。天下一の女なり。我は天下一の男となることかなわず無念」
異相のためか、妾腹のためか、はたまた双子で生まれたせいか愛情薄く育ち、また、家康の下に生まれたため運命を翻弄された。わずか34歳で没する(梅毒説がある)。
 慰めたのは名槍「御手杵」の冷たく光る輝きのみであったと。

 秀康はその後越前に転封となり、松平の姓を名乗る。幕末に活躍する松平春嶽が出る(もっとも田安家からの養子)。
 「御手杵」の槍は結城を継いだ川越松平家にて所蔵されたが先の戦争で焼夷弾の直撃を受けて消失した。現在レプリカが見られる。
 ついでながら愛刀「童子切」の方は秀康の子孫、津山松平家が現代にまで至らせ国宝である。
 尚、双子の兄は母親の実家永見家で育てられた永見貞愛で、知立神社の神職を勤めるも秀康より3年早く死去する。

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痛快 脱藩大名  Ⅱ

2019 NOV 2 0:00:30 am by 西 牟呂雄

 江戸に送られた後、忠崇は唐津藩預かりで謹慎の後、特赦を受けた。しかしながら脱藩による改易処分(大名の改易処分は歴史上最後)を受けたためにまさに無一文で全てを失った。
 原部建之助もまた江戸での周旋に失敗し、失意のうちに旧居に戻って無聊を囲っていると、近隣の百姓である石渡金四郎が通りがかりにいきなり土下座した。
『原部様』
『おう、そちは』
『へえ、請西の百姓、金四郎でございます』
『む、息災か。御維新以来我が藩は改易扱いで苦労をかけておる。その方等はどうじゃ』
『いや。それが、一つお聞きください』
『いかがした』
『へえ、実は、手前共の離れにお林様が寓居されておりまして』
『ほーう、・・・なに!殿がだと。バカなことをを申すな』
『それがまことにございます』
『東京の忠弘様の所におられるのではないのか』
『突然お見えになられて、開墾する、と言い出されたのでとにかく家の離れにご案内致しました。そこでお過ごしで』
『しかし何をしておいでだ。殿に百姓ができるのか』
『とても見ちゃいられませんや。お手伝いします、と申し上げても「その方等に迷惑をかけとうない」と取り合ってもらえません。そりゃ土台無理ですよ。何も採れないからあれじゃ冬は越せません』
『何と・・・。お助けしなければ』
『お助けって、まさか一緒になって百姓をやるのは是非お止めくださいよ。私等やりづらくってかないませんや。しかも百姓の合間に何のつもりか竹竿を振り回していらっしゃいますが、近所のガキ共が面白がって真似すんですよ。お林様はたいそうお喜びで、ウチのガキを筆頭に大勢集めて一緒にやりだしたんです。こないだなんざその竹の先に鎌を括りつけてました』

宝蔵院流槍

『それは宝蔵院流の槍だ。殿はその槍の達人だ』
『えっ、ありゃ武道ですか。益々冗談じゃない。そんなもんに夢中になられてうちのガキが戦に取られたらどうしてくれるんですか』
 慌てた原部は八方手を尽くして東京府の下級役人の職を探しだし、渋る忠崇をとにかく説得した。
 ところが明治8年に東京府権知事として楠本正隆が赴任して来る。楠本は大村藩士で、後に衆議院議長・男爵にまで上り詰める切れ者だ。当時は大久保利通の腹心であった。改革派として辣腕を振るうのだが、その強引さに反発し10等級も下の忠崇は楠本と衝突して辞職する。
 周りは慌てるが、忠崇は意気軒昂であり「これからは商(あきない)も分からなければ」と何故か函館に渡り、仲栄助商店で番頭となってみせた。律儀に務めるが、仲商店は破産、忠崇も再び一文無しになる。
 しばらく神奈川県座間で水上山龍源寺に住み込んだ後、次は大坂において西区の書記に奉職した。
 このドタバタの間、華族制度が施行され旧大名は尊王・佐幕の別なくことごとく爵位を与えられる。旧勢力の懐柔が目的で、武士を潰す際の数々の内乱を二度と起こさないための方策だった。
 ところが、維新のドン詰まりの脱藩で、新政府によって改易された林家は全国でただ一藩爵位が与えられなかった。林家そのものは士族として甥に当たる忠弘が継いでいた。
 忠崇は転々としながらも嘆くでなく、後悔の念を表すでもなく、慎ましくはあるがその時その時の境遇において花鳥風月を楽しみつつ暮らした。

 明治26年にもなって原部等の奔走・嘆願で、林家当主の忠弘は華族になる。そして忠崇もまた復籍し、宮内省東宮職庶務課に勤めたり日光東照宮の神職となったりして昭和16年まで生きた。
 死に当たって辞世は、と尋ねられると「明治元年にやっている」とだけ答えた。それは仙台で降伏したときのものらしい。
『真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ』
 切腹の覚悟を持っての辞世であろう。
 墓所は港区愛宕の青松寺だが、実はこのお寺は禅宗の名刹で、忠臣蔵の赤穂浅野家の菩提寺でもある。世間を憚って浅野家の墓所は現在でも空きにされている。赤穂浪士は初め青松寺に来たが、難を怖れた寺が入れなかったため泉岳寺に行ったのが実態なのだった。
 その浅野本家筋にあたる旧広島藩主・浅野長勲が昭和12年に没したが、それにより忠崇が元大名のただ一人の生き残りとなった。
 当時の新聞は最後の大名として幾つかのインタヴュー記事を載せた。本人の言葉が残っている。
「いや浮世は夢の様なものです。私共若気の至りでやつた事も今考へて見ると夢です」
 若き日の前代未聞の藩主の脱藩についても。
「武士道、武士道と言って鍛へられた私です。そして300年俸禄を食(は)んでいる。どうも将軍の取り扱いが腑に落ちなかった。徳川には親藩・譜代もかなりある。私が蹶起(けっき)すれば応ずる者があると思ったのが私の間違いの元です。世の中を知らなかったのです」
 志叶わず敗北したこと。
「私は私の考えで行動したいと思い、そして降参しました。降参すれば斬罪になると言ふ事は覚悟して居りましたが、自殺する気にはなれませんでした。自殺すれば誰も私の心事を弁解して呉れる人はないと覚悟して、泰然として東京に送られたのであります」
 赤心誰ぞ知るや。新体制はかくの如く清々しい武士を役立てることは出来なかったが、しかし仕掛けた側も同じように多くの血が流れなければ革命はできるものではないのだ。
 令和の平和な時代に、内なる錬磨が必要とされる所以である。

おしまい

痛快 脱藩大名  Ⅰ

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痛快 脱藩大名  Ⅰ

2019 OCT 31 23:23:56 pm by 西 牟呂雄

 房総半島の上総の国は、ちょうど江戸湾を括るように対岸の三浦と富津岬が太平洋の防波堤となり、波穏やかな土地であった。全域に渡って浅い海が隆起した場所であるため高く峻険な山はないが、山間は濃い緑の森林が深々と横たわっている。平野部もそう広々としてはおらず、江戸期を通じて旗本の領地がまばらに広がって大藩は置かれていない。
 この海峡を渡ったのは日本武尊が著名である。中央に従わなかった豪族の阿久留王(あくるおう、悪路王とも)が成敗され、現代でもその塚が祭られている。浦賀水道(走水の海)の海が荒れた際に弟橘媛(オトタチバナヒメ)が入水して鎮めると、日本武尊はショックの余り何日も立ち去れなかったので『君去らず』が『木更津』の語源とされる。隣りの地名は『君津』である。某製鉄会社がかの地に進出した際、地元全体に巨額の固定資産税が行き渡る様にと行政の合併が検討されたが、候補に挙がった地名は『君更津(きみさらづ)』だった。
 他にも、出だしでコケた源頼朝が真鶴から海路で落ち延びて来たが、上陸したのはもう少し南の鋸南町竜島である。
 江戸中期に三河譜代の旗本、林忠英が11代将軍徳川家斉の覚え目出度く加増され1万石の請西藩主となり、一文字大名と呼ばれた。
 一文字大名という呼び名は、三河時代の先祖の功により年頭の賀宴において将軍から一番に盃を受けることに由来する。
 その三代目林忠崇は幕末の荒波をモロに被る運命であった。
 倒幕の官軍が上京して来ると、当然藩論は真っ二つに割れた。三河以来の将軍家に忠誠を誓って戦おう、いや既に将軍は蟄居謹慎中であり、これを騒がすのはいかがなものか、領民を巻き込んでの戦ともなれば混乱は必定、ここは自重すべし、万が一の際はお家取り潰し・・・・。
 忠崇は長身で眉目秀麗の20才。宝蔵院流槍術を良くする英邁な文武両道の若者は迷いに迷っていた。
 江戸城の無血開城に行き場を失った主戦派の遊撃隊が近隣の大名に助力嘆願にやって来た。彰義隊が上野で壊滅する直前である。
 藩主に対座したのは、御徒町の練武館で”伊庭の小天狗”の異名を取る心形刀流の達人、伊庭八郎であった。
『殿。この難局にあたり天下をみすみすと薩長に席巻されたとあれば、武士の一分は立ちましょうや。恭順の意を示された上様に領地召し上げは何たる無礼。一文字大名の殿が誠を尽くさず何の面目が立ちましょうや』
 八郎の火を吹くような弁舌と射るような視線に若き藩主は奮い立ったものの、その後の家臣団との協議は一層揉めた。
 主戦・恭順双方譲らず。領民の安堵には人一倍気遣ってきた忠崇に腹を決めさせたのは次席家老である原部建之介(ばらべけんのすけ)の諫言だった。
『恐れながら、成程忠義を尽くすのは武士の本懐。我等命を惜しむものではありませぬ。さすれども城を持たない我が藩は真武根陣屋(まふねじんや)で敵を迎え撃つは短慮至極。みすみす官軍に蹂躙される民百姓は迷惑千万』
 古株の建之助には何かと頭が上がらない。しかも原部の話は常に長いのだ。おまけに飲み込みが悪くオッチョコチョイでもある。
 忠崇は静かに目を閉じて聞いているうちに、カッと刮目して言った。今でいう切れたのだ

『のう建之助。儂が藩主であるから戦えぬと申すか』
『滅相もない。いざとなれば無論お伴致す所存にて』
『・・・・しからば・・・・余が自ら脱藩いたす
『それはまことに・・・・はぁっ?今何と申されました』
『脱藩いたす』
 家臣団は言葉を失った。かろうじて建之助が絞り出した。
『と、殿。脱藩は天下の御法度。お家はどう』
『もうよい。脱藩するのは余一人なのだ。そこもと等、おのおの好きに致せ』
 言い放つとサッサと奥に引っ込んでしまった。
 大騒ぎになった。
『原部様、これは如何なることに』
『ワシに解る訳がない。もうこうなったらメチャクチャだ。みな勝手に致せ』
 翌日、武装した忠崇が下僕を一人連れて陣屋を出ようとすると、異様な光景に目を見張った。
 原部以下藩士70名、足軽人足100名が出陣準備をして待っていた。
『殿、お伴致しますゆえ御下知を』
『建之助、このバカ者。こんな大勢の一斉脱藩があるかぁ!』
『はて、確か好きに致せと申されましたが』
『あれは残ってまつりごとに励め、という意味じゃ』
『今更二言はありますまい。好きに致しております』
 軍資金5千両、洋式訓練のライフル400丁、二門の大砲まで引きずっていた。更には「お林様」と呼び忠崇を慕った領民がこぞって沿道で土下座して送る。忠崇は高揚し、勢い余って陣屋に火まで放ち出陣した。
 遊撃隊と合流した一行は江戸を目指さず、館山から海路にて真鶴に上陸した。ちょうど古の源頼朝の逆ルートである。
 官軍を追い詰めようと伊豆韮山で戦端を開き、彰義隊の上野戦争の折には援軍を押さえようと箱根の関所を占拠した。
 ところが突如、気脈を通じていたはずの小田原藩が寝返り敗走する破目になってしまった。
 この戦闘の際に伊庭八郎は左手首を切られた。これより隻腕となるが、得意技は精気に満ちた『突き』だったために戦闘能力が落ちることはない。
 伊庭はその後函館の五稜郭まで戦うのだが、北上中の船中において医師より失った手首の先端の骨が飛び出してくる恐れを診療されると、有無を言わずに肘から先を自ら切り落とした。
 関東における戦いに見切りを付けた忠崇も幕府海軍とともに北上した。
 ところで新政府としては藩主自らの脱藩を重く見て、廃藩置県前の最後の改易処分とし、これが維新後の困窮の原因となる。

 小名浜に上陸した遊撃隊並びに林忠崇の一行は、磐木・平、会津、米沢を経て仙台入りし、伊達藩と共に新政府軍を迎え撃つ準備にとりかかった。
 伊達藩は、乗り込んできた官軍奥羽鎮撫総督府下参謀という長い肩書きの世良修蔵(長州藩士)を暗殺した後、奥羽列藩同盟を結成して戦意はすこぶる旺盛である。世良はこういった革命時に権力を握ると必ず現れる一種のクズで、人間の業の深さはかくも醜いのかという所業により天誅を下されたのである。
 慌しく合議がなされるが、その席では見かけない黒装束の部隊が忠崇の宿舎にしている旅籠の周りに朝帰りしては解散する。屯しているのかと思うと直ぐに姿を消してしまい、誰が何をしているのか忠崇は訝った。
『建之介。あの黒装束は何者ぞ』
 と聞きにやった。方々聞き込んで戻った原部は言上した。
『どうやらあの者達は武士ではなく、無頼の徒でござる。烏(カラス)組と称して暴れ廻っておるとか』
『ほう、そのような者達に戦ができるのか』
『はっ、それが夜討ち専門で、大層な武功を挙げているようござります。率いているのは仙台藩士の細谷十太夫』
『成程。人は使いようだな』
『こんな歌まではやっております。「細谷烏と十六ささげ 無けりゃ官軍高枕」と』
『十六ささげ、とは何じゃ』
『棚倉藩の誠心隊のことでござる』
 事実、この黒装束に一本刀の烏組は夜襲ばかりをかけ続け、散々官軍を悩ませた。ゲリラ部隊だから敵地に留まらず、ヒット・アンド・アウェイに徹したため、単純な勝敗の判定は下しにくいものの、全て成功させている。
 しかしながら、正規軍の昼間の戦闘は銃の性能の差も大きく、奥羽列藩同盟の戦況は利あらず。次々と降伏していった。
 そこに徳川家存続の沙汰が下り、伊達藩まで恭順の意を示すに至って忠崇も覚悟を決めた。転戦三月、原部等の表情にははっきりと疲れが見て取れた。

つづく

痛快 脱藩大名  Ⅱ

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私家版 日本カン違いセレクション

2019 JUL 23 0:00:10 am by 西 牟呂雄

 さんざん日本史上の人物をブログ・ネタにして思いつきを書き連ねているが、好き嫌いは別として、自分を大きくカン違いしている人がおり、そして本人が最後まで自覚できなかった人、というのが見られる。
 この機会に残しておきたくなったので、以下10人を挙げてみよう。

源義経
 この人は兄貴を怒らせて悲劇的な終わり方をした。そのため人気は高く『判官贔屓』なる言葉まで生み出した。とにかく戦闘には強かったようだ。
 しかし、一言でいって『田舎者』だったのだろう。
 相手が悪いと言えばそうなんだが、何しろ平家から木曽義仲から次々と手玉に取った大天狗、後白河法皇にコロッとやられて頼朝の反感を買う。
 法皇の曲者ぶりは論を待たないが、おそらく京女の洗練された手練手管に溶けまくったのに違いない。有名なのは静御前だが、それだけじゃないはずだ。京女というのは(実際の知り合いはいないが)相当な根性があるので、こんなクソ田舎モンが転ぶのも無理はない。カン違いだよなー。
 兄貴の不興を買った後、少人数で落ちのびていくのは人望そのものが無かったのではないか。転がり込まれた藤原秀衡・泰衡はさぞ困ったことだろう。

後醍醐天皇
 一種の誇大妄想だったと思われる。
 加えて初っ端に鎌倉が不甲斐なく負けたのが拍車をかけた。
 帝にとっては武士なぞ犬コロ程度に見えていた。
 大体あの冠からジャラジャラ下がっている飾りはナンだろう。筆者はあのような物を被っている天皇を他に知らない。
 隠岐の島から脱出しての復活はいかなる魔力を使ったのか知らないが、名和長年とか楠正成等は、会ったこともないのに天皇に操られているのは何とも不思議。
 しかし、帝の頭は平安時代のそのまた前まで飛んでいて手が付けられなかったものと推察する。みんな持て余したせいか、いい側近が見当たらない。楠正成や北畠親房らは実際の政権奪取戦略(個別戦術ではない)は描けていない。
 吉野に行ってまで『天皇』でありつづけるところはいい根性であるが、時流を見誤ったことはその後を見れば明らか。

上杉謙信
 結局ナニがしたかったのか不明。生涯ほぼ無敗だったにもかかわらず、領土を増やすでもない。
 毘沙門天の化身だと思い込むくらいだから、尋常な神経じゃない。
 謙信=女性説は、作家の矢切止夫が最初だと言われているが、あのエキセン振りはひょっとすればと思わせるものがある。
 一方で領国経営の方はどうだったのか。佐渡の西見川や鶴子で金・銀が取れたというが、江戸期の佐渡金山ほどではなかった。
 上杉憲正に泣きつかれては関東にしばしば出兵して暴れまわるが、農繁期には越後に帰ってしまう。当時の兵站の考え方でいくと雪深い時期は関東を食い荒らしていたのじゃなかろうか。その後の領土欲の無さは異常だ。特にわざわざ小田原まで行ったのは全く意味不明。武田信玄に塩を送ったのも作り話らしい。
 後世では″義”のためだったとされたが、カン違いだったとしか思えない。

明智光秀
 来年の大河ドラマではその一生をつづるのだが、あの本能寺をどう描くのか楽しみだ。諸説いまだに定まらないところが『史実を消された』感にあふれている、秀吉に。
 しかし、あの決断の時に『天下はワシの物』と思わなかったはずがないが、後処理のマズさはマヌケそのもの。秀吉やイエズス会黒幕説、朝廷糸引き説、更には光秀=天海僧正説等が取りざたされる所以である。
 白紙で考えてみると、細川あたりを巻き込んで磐石の構えを作ってからでないと成功は覚束ない。
 消極的ながらも一応様子見だった筒井順慶をどうして事前に引き込まなかったのか。
 松永久秀・荒木村重と信長に叛旗を翻した人物は多数存在したし、何よりも反信長の勢力は全国にいた。
 また、秀吉配下のそれなりの人物、或いは大勢いる信長の息子のうちの誰かを寝返らせておくべきだと考えるが、よほどのカン違いなのだろうか。

世良修三
 官軍の威光をバックに行く先々で狼藉を働いた維新史上最低最悪カン違い男。人格下劣な急進派が権力を握ると必ずこういうのが現れる。ジャコバン党でもここまでひどくはないだろう。
 醜悪なのは酒に女。このあたりが何とも情けない。異常かもしれない。おまけに当時は平気で人を殺す。
 幕末のドサクサで優秀なのが殺されてしまい、こんなカスばかりが残ったゆえにのさばった例は多い。コイツは仙台藩士に切られたからこれで済んだが、生き残った酷いのは枚挙に暇がない。

桐野利明
 最終階級は陸軍少将だった。実は維新当時の階級編成は陸軍大将の次は少将で、しかも陸軍大将は西郷隆盛ただ一人だけでスタートした。そこで自分はNO2であるという錯覚に落ちたフシがある。
 余計な事をしなければ胸のすくような薩摩隼人だったはずだが、政府高官になるだけの器量は持ち合わせていなかった。
 結局西郷が下野してしまうと何をやっていいか分からなくなって、鹿児島について行き、挙句の果てに先頭に立って西南戦争をおっぱじめる。することがなくなってもう一暴れ、のノリだ。ここまでいくとカン違いを通り越して戦争マニア。

帝国海軍
 名将綺羅星のごとくと言われる誉れ高いエリート達だが、オール海軍となると筆者の点は少し辛い。中にはヤバいのもいた。
 無論、三国同盟反対の見識は高いのだが、最後の最後で山本長官は『2年は暴れてみせます』と言ってしまった。諸藩の事情から無理もない、気の毒ではあるが、この名将にしてカン違いをしたのは何だろうか。ドイツの快進撃もあっただろう。
 真珠湾が際どかったのは第二次攻撃を発令しなかったため。ミッドウェーではモロさが露呈する。
 ゼロ戦の美しさは芸術的ですらあり、大和の圧倒的な迫力は冷静な判断力を奪う。
 いずれも高性能・高機能の最強戦闘機ならびに不沈艦なのだが、これが精一杯とも言える。
 アメリカを良く知る山本五十六でさえ、これらを見て『行ける』となってしまいあの発言になったのだろうか。

A日新聞
 GHQの御指導御鞭撻をモロに受けた後、薬が効きすぎてバカの一つ覚えみたいに今に至るまで日本を貶めることに夢中のカン違い継続中。
 ある時期まではそれなりのバランサーの役割を果たしたものの、時代が変わったのに気づかない振りをしているのか。
 先日もハンセン病被害の判決に政府が控訴する、の誤報を打ってしまった。どんな事件でも、文章の雛形ができていて『~が許しがたいのは当然である。だがしかし』と繋いで何でもかんでも安倍総理のせいにして批判する記事に仕上がるようになっているのだろう。
 そういいつつも、筆者は何年もA新聞の実物を読んでいない。ネットでまたやった、と気付くだけである。

小泉J一郎
 日本史にのこるほどの勘違いかどうか迷うところだが、この際入れざるを得ないのは、あの田中真紀子を外務大臣にしたからだ。
 そもそもYKKの時代から、Yももう一人のKも周りの見えないトンチンカンなことをやっていた。
 本来はこの人も消えたはずなのだが、対立候補の橋本龍太郎がイマイチであれよあれよと総理になった。それからは一発芸とブッシュとの関係で何とかなったのだ。オヤジがあんなに日本嫌いだったのに息子ブッシュはそうでもなかったのがポイントではないか。私自身は郵政民営化と靖国参拝は高く評価している。
 辞めてからの反原発舞い上がりなんかはカン違いの後遺症。 

旧民〇党
 これはカン違い業界のオール・スターの感がある。
 まず最初に総理になったハト。未だにみっともない言説をまきちらし、広い世界でわずかに受け入れてくれるところへ行っては土下座をくりかえす。
 ちなみにコイツの女癖も相当だが、この家系はオヤジも息子もその道はすごい。
 お次はあのカン。実際に政策立案能力はゼロだった上に、あの大危機で全く冷静さを欠いた。某JR駅前で喋っているのを聞いたことがあったが、90%が東電の悪口だった。まさにカン違い。
 これらの系譜を引く連中、期待する気にもなれない輩ばかり。また選挙で見るのもうるさい。
 そしてこいつ等を操ったつもりで墓穴を掘った〇沢。政治的には全く死に体になったが、かつての竹下派七奉行の他が全滅した現在となっては頑張った方に入る。
 筆者はこの人は本当に保守主義者なのか判断に苦しむ。
 「希望の党」で大騒ぎしたあとあっさり足抜けした小〇某知事はその点ヤバいとなった時のカンの働きはすごいが、それだけでもねぇ。

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わかったぞ 白隠禅師

2017 MAY 10 19:19:04 pm by 西 牟呂雄

 達磨大師の禅画で有名な臨済宗の高僧、白隠慧鶴(はくいん えかく)禅師は江戸時代・五代将軍の頃の名僧だ。それまでの禅の考案を体系化させて臨済宗の理論的流れを組み立てた。
 大変頭のいい人だったようで出家して諸国を行脚するが、誰と論争しても負けなかったらしい。しまいには『まあ、この五百年というもの我ほどの秀才はおるまい』と自信過剰になって慢心する。
 なにしろ『鐘の音を開いて悟りを開いた』、托鉢(たくはつ)に出て婆さんに竹ぼうきで追い払われて悟る、コオロギの音を聞いてまた悟る。生涯に三六回の悟りを開いたと言うほどで、ここまでくると『悟りオタク』だが、論理的思考の確かな人だったのだろう。
 ところが正受老人こと道鏡慧端という名僧の噂を聞き、信州にこれを訪ねるとボコボコにされてしまう。なにするものぞとまくしたてたところ「這?箇(しゃこ)は是汝の学得底(それはおまえがまなんだもの)。那箇(なこ)か是見性底(なにがお前の本質か)。」とやり込められて絶句する。それからというもの廊下から蹴落されたりしながら修行を積む。増長を叩き潰された。
 道鏡慧端はこれまた大変な人で、一説によれば真田の長男信之の落とし種とされる。禅僧に「自分の心の中に観音を見つけよ」と告げられてわずか16歳で悟りを得たとか。滅多に喋らなかった人で「終日咳喇不聞」とまで弟子に言われていた。そこへ自信満々の若造が乗り込んだのだからたまらない。
 白隠はハタと覚醒し、今まで本を読んで得た知識はいらんとばかりに蔵書を全部焼いたというから凄まじいというか勿体無いというか。
 白隠はその後修行のやり過ぎで禅病となってしまう。禅病とは座禅を組んで瞑想していると頭痛がしたり手足が冷たくなり具合が悪くなる。或いは今でいう鬱病のようになることを指していると思われる。面壁九年、禅宗の創始者である達磨大師のように手足が萎えるのかもしれない。
 ここから話は一気に怪しげになるが、京都洛外の山中に暮らす白幽子という仙人を訪ね禅病治療の「内観の秘法」を伝授されたと記している。
 白幽子は年齢200歳以上ということはともかく、墓碑も残っているのだが。
 白隠禅師がその秘法で修行僧を治療したのは事実で、一種の気功である。ただしそれを書き残したのは会ったとされる時から40年も経った後だ。髪は膝に届くほど伸び『中庸』『老子』『金剛般若経』の三冊を置いて端坐していたと。『中庸』『老子』『金剛経』を選んであったのが絶妙で、儒教・道教・仏教からそれぞれ最高の経典を持って来ている。”三冊”とかいうあたり実に怪しい。

 わかったぞ!若き頃に、オレほど頭のいいやつはいないと思うような人だ。いくら徳を積んだってチャメッ気まで無くなるはずはない。自分の考えた治療法に箔をつけるためにテキトーな仙人をでっち上げたに違いない。頭のいい人の考えそうなことだ。
(「内観の秘法」が書かれた更に50年後に『近世畸人伝』という書物が出され、白幽子自筆の文章の写しと墓碑を元に実在を記しているが案外白隠禅師自身の作り物じゃないか)

同時代を生きた隠者 (今月のテーマ 列伝)

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怪僧列伝 カトリック編

2017 MAR 2 20:20:32 pm by 西 牟呂雄

 以前日本史に現れた怪僧を『列伝』にしてみたが、キリスト教にもバケモノじみた人物がいる(トム市原さんに指摘された)。ちょっとやってみたくなったのでサワリを書いた。

文化を破壊したドミニコ会の修道士ジローラモ・サヴォナローラ
 フィレンツェでの情熱的な説教が次第に人を呼ぶ。勢いがついてルネサンス全盛時代を迎えたロレンツォ・ディ・メディチの独裁政治を厳しく批判しだしておかしくなる。極々真面目な人だったのだろうが、こういうのが危ない。
 堕落した享楽生活に怒ってフィレンツエの厄災を予言したところ、本当にフランス軍が攻め込んできてイタリア戦争になってしまう。
 その際に市民の代表に選ばれてから更に狂って神政政治を始める。贅沢を戒め、堕落の元凶として絵画や楽器を「虚飾の焚刑」として焼き払う。かの「ヴィーナスの誕生」の作者ボッティチェッリはビビッて華美な絵を描くのを止めている。
 しかし享楽的なイタリア人がそんなに我慢できるはずもなく、やりすぎ感から後述するデタラメ教皇アレクサンデル6世に破門される。
 そうなると手のひら返しでサン・マルコ修道院に押し寄せた市民はサヴォナローラを有罪・焚刑にしてしまった。頭に血が上らなければ結構マトモな人だったかもしれない。

同時代で最も堕落した教皇アレクサンドル6世
 そのサヴォナローラを破門したのが、本名ロドリゴ・ボルジア。スペイン人だ。名前の通りボルジア家の人である。
 当時のスペインはイスラム教やユダヤ教から改宗した人々に対する異端尋問が盛んで、王族が先頭に立ってやった。しかしひどいもので、実態は財産の没収目当て。
 しばしば異端でも何でもないと人を告発したり報奨金目当てが多く、裕福な改宗ユダヤ教徒の告発は王室が行っていた。
 これに尽力したのがスペイン枢機卿だったロドリゴ・ボルジアで、その後奸計と買収で教皇の座につく。ちなみに異端尋問所長官のトマス・デ・トルケマダは告発と拷問で2千人とも8千人ともいわれる人々を処刑した。
 その男アレクサンドル6世は教皇になった時点で数人の子供を愛人に生ませており、初めはおとなしくしていたが次第に馬脚を現す。
 「マキャベリスト」の塊のような長男チェーザレ・ボルジアが右腕となって陰謀・毒殺・戦闘を繰り返し教皇の地位を支える。こいつは宿敵フランスとも同盟するのである(ご存知だろうがマキャベリの君主論はチェーザレをモデルに書かれた)。
 まぁ当時の聖職者は多かれ少なかれ堕落しきっていたが、ローマでは強盗殺人が横行し貴族も一緒になって町をメチャクチャにしていた。教皇自らダンスや宴会に浸りきって、更にロドリゴ・チェーザレ親子で美貌の娘ルクレチアと近親相姦を繰り返した挙句に政略結婚をさせる。
 この因果な二人はほぼ同時にマラリアにかかりあっけなく死亡するが、当時から毒殺の噂があった。

出ましたラスプーチン
 シベリアの農夫の子として満足な教育も受けずに育ったが、突然神がかりになって自分で熱心に勉強したようだ。カトリック修行僧として良いかどうか迷う所だが、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院にいたことは確かだ。
 僕はこの辺りの一種”一生懸命さ”が好きで、気持ちは純粋だったと確信している。
 そして不思議な力を身に着ける。今で言えばヒーリングとかその手の超能力、気功の達人と言ったところだろう。
 サンクトペテルブルグで人々の病気を治したりして一気に名声があがり、そこから先はご案内の通り。
 ただ、シベリアの寒村での暮らしぶりは生涯抜けなかったようで、想像するに風呂なぞ入らず手づかみで食べ強い訛りで喋ったに違いない。しかしその能力で多くの女性信者に囲まれ、性的放埓さは直しようもない。
 誤解を招くと申し訳ないがこの手の気質は一部のロシア人に共通してあって、あのエリツィンも酔っ払うとウラルの田舎を思い出すらしく太目のオバサンに抱きつくようなことをしていた。

この視線

 コンスタンティノープル、パトモス島、ロードス島、キプロス、聖墳墓教会と巡礼の旅に出ているが、正確な教義の東方正教会の信仰だったのか。
 ニコライ二世の信頼も厚く揺るぎない。
 宮廷に巻き上がる嫉妬と憎悪の眼差し。
 帰省した時の暗殺未遂。
 第一次世界大戦の大混乱。
 無教養なラスプーチンに複雑な国際関係や混乱する内政への適切な指導など望むべくもない。しかしどうしてもそういったヒトに頼りたくなるのは、今日でも隣の国で女大統領がアヤシげな友達に寄り添った事を見ても有り得るだろう、ましてや100年前だ。
 彼は戦争には反対したせいもあってドイツの回し者と言われる。
 金銭にははなはだ無頓着であった。使い方も贅沢も知らなかったのではないかとも思う。入った金は皆やってしまったりレストランで支払ったりして残さない。残す、とう感覚がわからないのだ。
 そして暗殺。
 これが驚異的なことに青酸カリ入りの紅茶と食事を食べても全く効かない。銃弾を3発喰っても死ななかった。なにがしかの驚異的能力があったことは確かだったと思われる。
 最後は額を撃ち抜かれ凍った川に投げ込まれたが、その時点まで生きていたという伝説が残った。
 僕はラスプーチンがそんなに悪人だったとどうしても思えない。余計な能力が身に付いた為に結果として悪評のみ残り暗殺された気の毒な田舎の念仏オヤジに見えてしかたがない。

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