Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 伝奇ショートショート

竜馬パシる

2026 OCT 1 6:06:46 am by 西 牟呂雄

 無謀にも京都に進軍し、のちに『禁門の変』として知られる長州藩の暴挙は、御所を守る会津と急遽出動した薩摩の両藩によって鎮圧された。ここで大きな働きをしたのは京都にいた一橋慶喜、そして島流しから復帰した薩摩の西郷隆盛であった。
 勝海舟は唸った。一端調子づくとやたらと大騒ぎする一橋公とは(まだ将軍ではない)ソリが合わなかったが、西郷とは一体どういう人物なのか。聞けば一介の側用人でありながら軍賦役として薩摩藩兵を指揮し、あの来島又兵衛率いる長州勢と会津の間に割って入りこれを鮮やかに撃退している。
 さて、どうしたものか。この時、勝は幕府軍海軍幹部の要職にありつつ、列強海軍に対する備えのために神戸海軍操練所の運営に当たっていた。いきなり西郷に会うわけにもいかない。
『勝先生、京の話は聞いたが。西郷ゆう薩摩の大将が加勢して長州を追っ払ったちゅう話』
『何だ、竜馬か。早耳だな、女にでも聞いたか』
『長州はいきなり御所に大砲を打ち込んだそうぜよ』
『おう、そうらしい。で、どうした』
『・・・先生、どうしたもこうしたもどがいにするがじゃ』
『あのな、おまえさんが熱くなろうが世の中は関係ねぇ』
『何をいうとる。長州は天子様にも幕府にも弓を引いとる』
 勝は例によってせせら笑っていたが、ハッとした。そうか、こいつがいた。やけに明るくモノもわきまえないくせに妙に度胸が良くて腕も立つ。頭は大したことはないが計算はできるし、こいつがいた。
『なあ、竜馬。おまえさん紹介状を書いてやるから一つその西郷に会ってこいや』
『西郷は薩摩の大将じゃろ。先生は幕臣ぜよ。時局柄外様の大藩の者と大っぴらに文のやりとりをしたら差し支えるがじゃ』
『おまえさんの頭じゃそうなってるがな。おい竜馬。それじゃ幕府とか藩とかそりゃいったい何だ。第一それが面倒になったから脱藩浪人になったんだろう。そんなお前さんが会いに行くのなら不思議でも何でもない』
『それは・・・』
『ふふふ、ところで藩も幕府もなくなったらどうなるんだ。おまえさんは一体どこのどなたさんなんだい』
『土佐脱藩浪人・・・』
『だから藩がなくなった日には脱藩浪人なんざ名無しの権兵衛だろ。ただの唐変木か、クククク』
『先生はどうなるぜよ』
『おいらは、にっぽんじん、・・・だ』
『にっぽんじん!』
『いいから京に行って西郷に会ってこい』

 薩摩藩邸でも勝安房守の使いであれば無下にもできないが、西郷は京都での軍事上のトップである。型通りの挨拶を交わし竜馬が懐中から出した勝の手紙に目を落とした。
『こいは・・・』
 西郷の額から脂汗が浮き上がった。
 この時分、託された手紙を盗み見ることはまずありえないから竜馬は何が書いてあるのかは知らない。
『坂本さあ、勝先生はどんなお方な』
『時々何を考えてるのかわからん時もあるがじゃ、にっぽんじんだそうぜよ』
『ほう。半次郎、聞いたか』
 傍らの男に話を振ったが男は答えずに竜馬をじっと見つめた。竜馬は北辰一刀流免許皆伝、かたわたの中村半次郎のちの桐野利秋は別名人切り半次郎。初対面の武士同士の緊張感は張りつめっぱなしだ。西郷は言った。
『坂本さあ。いかい承知しもしたと勝先生に伝えったもんせ。こん吉之助は勝先生と志は同じごわんど』
『わかったがじゃ。その通りを伝えてええがですな』
『そいでよか。文をしたためるまでもなか』
 竜馬が帰った後、西郷は半次郎に問うてみた。
『おはんはあんお人をどう見た』
 元々口下手な半次郎は低く呟いた。
『腕は立ちもんそ、スキがなか。じゃっどん考えは分かりもはん』
『わはは、そいはよか。おいはあん人を使うてみっと』
『何に使うと。あれでは密偵には向きもはんど』
『まあよか』
 勝の書状にはこう書いてあった。『長州の事、宜シク御高配或ル可シ』
 実際、西郷は密偵を使うのが上手く、江戸・京都・大阪には藩を問わず多様なネットワークが張り巡らされていた。半次郎はそのことを言ったのだが、西郷はそのつもりはなかった。まず密偵として使うには目立ちすぎる。おまけにやたらに人懐こく明るいのは、相手に警戒感は与えないだろうがそれとなく腹をさぐるなどという芸当は無理だろう。そうではない、秘密の交渉にせよ情報の収集にせよ相手の懐に飛び込んで単刀直入に切り出すタイプだ。西郷はそこに気付き、以後勝との手紙のやり取りなどに竜馬を縦横に使った。それだけではない、海援隊結成後は宿敵長州との連絡にも大いに用立てた。
 その見立ては勝も同じ。勝の本音は今もって謎が多いが、相当思い切ったことを竜馬に吹き込み、リエゾン・オフィサーとして松平春嶽・横井小楠・三岡八郎といった草莽の士と面談させた。すると、次第にただの脱藩浪人風情から国事を一人前に語る志士という評判が広がっていった。
 西郷との面談の後に勝は竜馬に尋ねた。
『どうだった』
『先生と志は同じ、承知仕ったそうぜよ。一体何を承知したか知らんが』
『そうじゃない。どんな奴だったかを聞いてる』
 竜馬は少し考えて言った。
『う~ん、よう分からん。西郷は少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口じゃきに』
 勝はせせら笑った。
『それじゃお前さんみたいな野郎かい』

 その後、竜馬はあちこちで培った人脈を元に、更に西郷を通じた薩摩藩からの出資を受けて亀山社中、後の海援隊を組織し、今でいうビジネスの世界を切り開いていく。竜馬の実家は才谷屋という質屋を皮切りに、酒屋や呉服商と手広く商意を手掛ける豪商である。竜馬もその血を引いていた。
 その白眉は薩摩藩名義で調達した武器を長州に転売し、長州から薩摩へは米を回送するという掟破りの奇策であった。更にはグラバー商会から数千挺の銃を同様のルートで長州藩に斡旋した。このことが後に薩長秘密同盟にまで進展し、そこに立ち会うまでになった。竜馬の虚像が独り歩きを始めるのである。
 海援隊は蒸気船いろは丸を運用していたが、この船が紀州藩の明光丸と衝突し沈没する事故が起きた。その際に万国公法を盾に難癖をつけ、しまいには土佐藩の後藤象二郎、薩摩の五代友厚までを担ぎ出し、積んでもいない銃火器・金塊・陶器などの賠償金7万両を紀州藩からふんだくる。
 一人悦に入る竜馬だったが、大金を自在に動かし諸藩を斡旋する不気味な存在となっていった。
 思想的には穏健な公武合体派であり、要は稼げれば勤皇だろうが佐幕だろうがお構いなしの竜馬に対し、第二次長州征伐の後の薩長は武力討幕の意思を固めつつあった。

 慶應3年、ついに将軍徳川慶喜による大政奉還がなされた。幕府側からも薩長からも用済みの竜馬は邪魔者である、暗殺まであと一月。
 結局紀州藩から巻き上げた7万両を竜馬が見ることはなかった。支払日の前に見廻り組によって殺されてしまったのだった。

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皇軍未ダ屈セズ Ⅱ

2026 SEP 23 17:17:18 pm by 西 牟呂雄

皇軍未ダ屈セズ

 に書いた話は例によって私の妄想の賜物だが、敗戦処理のため天皇陛下の勅使がマニラのマッカーサー元帥の元に飛んだのは史実である。陸軍参謀本部次長河辺虎四郎、外務省の岡崎調査局長外1名、陸軍少将天野参謀本部作戦課長外6名、海軍少将横山軍令部出仕外6名の陣容だった。
 この海軍の随員『外6名』の中に実にユニークな文官が二人いた。
 一人は溝田主一、海軍省の嘱託。1930年のロンドン軍縮会議での通訳として大活躍した。日本側の参加者は若槻禮次郎首席全権、財部彪海軍大臣、松平恒雄駐英大使、永井松三駐白大使にアドバイザーとして海軍少将になったばかりの山本五十六といったメンバーだ。その中にあって、流暢な英語と立ち振る舞いから他国の海軍関係者からは『ジョージ・ミゾダ』と称されしばしばアドミラル扱いを受けた。
 余談であるが、海軍はアドミラル(提督)の乗船時の栄誉礼は各国とも共通で、まずタラップを上がってくる際に「カンカーン、カンカーン、カンカーン、カンカーン」と鐘(船鐘)を8つ慣らし、館内放送で『アドミラル〇〇、アライヴィング』と伝え、礼装に身を包んだサイドボーイズが8人で迎える。この鐘の数とサイドボーイズの人数が階級を表していて、大佐となると4つ・4人になるという明確な違いがある。
 山本五十六とはこの時以来、長きに渡るブリッジ仲間となった。
 スタンフォード大学の出身で、当然アメリカ通だから日米開戦には大反対だった。したがって真珠湾以後は海軍省お構いという身分で蟄居閉門の扱いとなっている。しかし面白いことにそれなりに高い給料は出続けていて、負けて激ヤバの交渉であるマニラ派遣団に加えられた。
 もう一人は杉田主馬海軍書記官、中尉待遇の文官であった。東大卒業後なぜか海軍に国際法顧問として取り合えずの就職をしたわけだ。そしてケンブリッジのトリニティ・カレッジに留学して英語と国際法に磨きをかけることになる。現地では、まぁ勉学にも勤しんだのだろうが、ケンブリッジ大学管弦楽団でチェロを嗜み、ゴルフを楽しみ、車の運転に熟達した。
 先の溝田氏も大変なゴルフ好きであり、晩年まで1ラウンド70台のスコアで回った達人だったが、杉田氏もまた帰国後に海軍省に勤務しつつ盛んにやったらしい。土曜日にはフォードの愛車にクラブを積み込んで海軍省に当庁し、昼過ぎにはプレイに行った逸話が残っている。
 実は帝国海軍はロイヤル・ネイビーを範としたためゴルフに関する話は多い。日本人で初めてゴルフをやったのは水谷叔彦海軍機関少将で、英国王立海軍大学へ留学した際にロンドン近郊のブラックヒースでプレイしたのが日本人のプレイの最古の記録である。大正10年、昭和天皇の皇太子時代の訪欧の際、英国アディントン・ゴルフクラブで皇太子がゴルフをプレーされる場に随行したのは海軍中将小栗孝三郎だった。

 尚、河辺勅使団には陸軍側からも大竹貞雄少尉・深町専治嘱託という二人が随行していた。
 この大竹少尉もまた数奇な運命に翻弄された人で、サンフランシスコで生まれた日系二世、。通称はロイである。1924年、排日移民法が成立したため一家で帰国した。その後は山梨県の父の実家で苦労したが、地頭のいい人のようで東京商大に進む。するとが左翼運動に関与し退学。再び渡米しニューヨークの同盟通信記者として活躍するようになる。
 改選前の1940年に本社転勤となって久しぶりに日本に来るが、二世だったことが睨まれたのか左翼運動が尾を引いたのか、いきなり徴兵されて中国戦線に従軍させられた。その間、同じ日系二世の高村悦代と結婚している。3年後、語学力を買われて参謀本部第2部の情報将校に抜擢された。
 因みに悦代の弟、統一郎は日本において早稲田を卒業後志願して陸軍の特別操縦見習士官となり、特攻により戦死している。ここから話はさらに劇的になる。マニラに飛んだ大竹貞雄少尉はホテルの警備に当たっていた日系二世を見かけて話しかけたところ、妻の末弟すなわち統一郎の弟高村総二郎だったのだ。ハワイで徴兵され米陸軍情報部で通訳などをしていて、義兄弟の初めての対面であった。
 大竹貞雄は戦後共同通信で記者に復帰し、1951年のサンフランシスコ平和条約締結では取材班キャップとして現地入り、記事はボーン国際記者賞(現ボーン・上田記念国際記者賞)を受賞した。
 総じて海軍はこういう時のためのキャリアを養成していたのに陸軍は付け焼刃の感が否めない。国際法の専門家はいなかったのか。
 さて、陸軍のもう一人の通訳である深町専治については、いくら調べても全くヒットせず前後の経歴も不明である。
 それでなくともこの訪問団は帰国時のトラブル等謎が多く、筆者はこの人物は秘密工作員で偽名を使っていた可能性を感じている。そうだとすれば、そのミッションとは何だったのであろう。ここから筆者の悪い癖が出て、バカバカしい妄想に取り憑かれてしまった・・・。

 真面目な読者の方は以下の文章は無視してください。
 工作を仕掛けるとすれば徹底抗戦派の妨害だろう。3つの陰謀が想定される。
➀ 米側の文書をわざと誤訳して到底受け入れられないと会談を決裂させる
➁ マッカーサー司令部の幹部が集まった際に自爆テロを決行し日本占領を遅らせる
➂ 合意した文書を日本に持ち帰らせないでもみ消す
 いずれにせよ、密命を受けた中野学校系の情報工作員あたりで、任務に失敗したためまったく表から消えていったのではないだろうか。ジャンジャン!

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覇王殺戮の儀

2026 SEP 13 19:19:19 pm by 西 牟呂雄

 ひとたび合戦の場に立ちたるや、命亡きものは覚悟の上にてことさら思うに能わず。義を守り主君を守り、敵を欺いて誅殺することこそ武士の本懐にあれ。大将首取って主君の御前に供えてこそ天晴なる振る舞いと心得る。方や将たる者は知恵を絞り策を練り味方の消耗を少なく敵に大損害を与えて勝利目指すべし。
 さりながら、将においては唯、人の死にたるをのみ喜ぶ風ありて、しばしば目を背けたくなるような振る舞いに至る者あり。かようなる者、覇王に多し。
 織田信長公に於かれては、天下布武を始めてより京に公方様を据えてより。叡山延暦寺に激怒し一山を焼き討ちにする振る舞いに至る。彼の霊山が燃え盛り逃げ惑う僧侶をなで斬りにし隠れていた郷の者までを磨り潰すように誅殺してから、些かお狂いのタガが外れたかの様子。
 一向宗門徒を憎むこと甚だしく、伊勢長島にて願正寺に立て籠もりたる二万にも及ぶ宗徒を焼き殺すに及ぶ。
 矛先は加賀にも向けられ、女子供に至るまで山狩りまでしてなで斬りに。降伏した者まで片っ端から磔・窯茹でにして死者は伊勢よりもはるかに多く五万人とか。加えて数万の男女を美濃・尾張に連行して加賀は人が尽きた如く有様となりし。
 これより先、謀反を起こした荒木村重の一族など36名を京の町を引き回した末に六条河原で斬首。有岡に残された女・子供を百人ほど磔に、残り数百名は家屋に閉じ込め火を放ち焼き殺す。
 また、安土より竹生島に参拝し帰ったところ、女房衆が桑実寺へお詣りに出かけたことに激怒し、いきなりこれを成敗したとは狂気の沙汰なり。
 あとを継し太閤殿下も又、戦の振る舞いはさておき晩年の行いはかくも似たり。まるで思い付きのようにかつての家臣を追放し切腹させる。
 文禄三年には見せしめなのか石川五右衛門とその家族を油で茹で殺し、一味20人程を三条河原にて磔。
 猜疑心の塊に成り果て老醜を晒すに似たり。大和大納言秀長亡き後は千利休に切腹を命じたるはさしたる理由も明らかならず。挙句の果てに甥の秀次を謀反の疑いで切腹させ、秀次の妻妾・子女ら39人が三条河原で処刑される。秀次の家臣たちも片っ端から斬首の憂き目に。利休・秀次の件については寝物語に淀君の讒言アリやナシや。
 ついに何のためか皆目分からない朝鮮への出兵で禍根を残した。人たらしは表面だけと見た。

 真打東照大権現神君家康公は上記二人より益しかと言えば、若い時分に正妻を粛正し長男を切腹させているものの、晩年に至っても『思い付き』や『突然の激怒』で人を殺しまくった印象は少なし。大阪冬・夏の陣への執拗な豊臣家への挑発はあるが、天下取りのための戦と見れば当時は当たり前すぎて異を唱えるほどの事は無し。むしろ関ケ原で敵対した毛利・島津への処置は寛大とも言うべし。それともいずれも遠すぎてもう億劫になったのか。
 その両藩が維新の原動力となったのならば目出度し目出度し。誠に本邦覇王はかの二人を置いてほかに無し。良き国と知れ。

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暗黒徳川実記 後家殺し

2026 SEP 5 21:21:41 pm by 西 牟呂雄

 慶長八年、都の東山高台院はようやく春めいてきたところだった。
 さて、秀吉は没し関ケ原も激闘の内にかたづき、最早天下は手中にある家康の最後の詰めである。家康は二条城を築城し征夷大将軍の宣下を受けるために京都にいた。そして舌なめずりをするように大阪城に乗り込む算段をするのだった。
 巨大な大阪城にはいまだに莫大な金銀があり、秀頼は健やかに成長している。更に何よりもやっかいなのはあの”おふくろ様”が控えていた。さて、次の一手は。

北政所

 北政所は灯火の前に座し、秀頼と千姫の婚礼の儀式次第を静かに読み返していた。そこへ、侍女がそっと告げた。
「内府様がお見えでございます」
 突然の来訪にいささかたじろいだ。こんな時間に無礼であろう。家康の魂胆は北政所自身を利用するためなのは自明のこと。苦々しくも相手は次の天下人、追い返すこともできない。
 家康は静かに座した。
「高台院様。秀頼様と千姫の婚礼、滞りなく進めたいと存じます。お力添え頂きとう存じます」
 北政所は賢い女だ。戦国の世の荒波を夫である秀吉がくぐり抜けたのをつぶさに見てきた。家康の言葉は丁重ではあったが、その裏にある計算は透けて見える。この男は主人秀吉と虚々実々の駆け引きをしてきた、いずれ大阪を我が物にしようと考えるに違いない。
「秀頼はまだ幼く、内府様がお支えくださるなら安心いたします」
 家康もまた北政所の内心の憤懣を見抜いてていた。秀頼が秀吉の実子ではないという噂も耳に入っていることも。
「お寂しゅうははございませぬか」
「あのような戦の明け暮れを味あわずにすむと思えば心安らかな今ほど幸せな日々はありがたし」
 北政所はふと家康の横顔を見つめた。戦乱を生き抜いた男の逞しさと深い孤独が刻まれていた。
 一方、家康は北政所の手元の儀式次第を見た。近づきすぎたと北政所が後ずさりするとさらに進み出た。
「太閤殿下は内府様を最後まで便りにしておいででした」
「そうでござったか。ならばそれにお応えせねばなりますまい」
 北政所の胸が騒いだ。この男も秀吉とは違った趣味の女狂いなのだ。後家好みの狸親父と巷でささやかれている。秀吉の名を口にする家康の声は、静かではあるが不気味に響く。
「内府殿は太閤殿下とは違う方です」
 北政所は崩れ落ちそうになるところを気を振り絞って留まった。すると家康は狡猾な笑みをたたえて続ける。
「違いますとも」
 家康は北政所の目を見た。

 慶長八年のこの時期、北政所も家康もともに京都に滞在しており、北政所55歳、家康60歳である。家康は秀吉没後から廟所(豊国社)参詣の帰りなどに、北政所を見舞っていた。手紙も残っており秀吉の追善供養に関する相談や、彼女の体調を気遣う丁寧な時候の挨拶、また贈り物に対するお礼を述べている。関ケ原直前には自分こそが豊臣家(秀頼公)のために戦っている」という根回しを盛んに訴えた。北政所の心中はいかばかりだったか。いずれにせよ男と女が互いを利用し合って化かし合いの技を繰り出す様を想像するのは一興。北政所にすれば、家臣共がいがみ合う様を静かに見下していたとすれば、それもまた一興。

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暗黒太閤記 外典

2026 AUG 15 11:11:33 am by 西 牟呂雄

『遅いぞ猿!播磨攻略はにいつまでに終る』
『上様。それがしにお任せあれ』
『その先に控える毛利や目障りな鞆の御所の公方様がしきりにあちこちに書状を送っているのじゃ。わかっておるのか。何か手立てはありや』
 藤吉郎は頭を下げたまま、だまって右手を差し出した。そして掌をゆっくりと開いたり閉じたりしてみせた。
『それがしのこの右手のごとく』
『この六つ(むっつ)めが』
 と言いつつ信長も苦笑せざるを得なかった。次に表情を引き締めるといつものごとく渋面になりどなった。
『直ちにかかれー!』
『心得てそうろーう』
 ほうほうの体で下がるとニタリと笑った。実際手立てなどありはしない。
 播磨は土豪・地侍の跋扈する難治の地で、いちいち攻め潰していては味方の消耗も多い。調略し・騙し・脅し・なだめてじっくり攻めるのが上策なのだが、果たして時間はかかってしまう。そこは信長も承知の上の叱責である。
 信長の苦笑にはもちろん理由がある。藤吉郎の右手は親指が2本生えた奇形で、これを見せられると相手は一瞬怯み、あるいは恐れあるいは笑い、時に気味悪がるのが常であった。
 ところが信長はこういった異形の者を好んだ。広く知られたように、モザンビーク出身で身長180cmはあった黒人の弥助を従者にして面白がった。その弥助を連れてきた宣教師ヴァルニャーノも大柄でお気に入りだった。

 藤吉郎は竹中半兵衛を幕僚に招き入れた際にもこの手を使った。半兵衛の稲葉山城奪取の手腕に恐れ入った藤吉郎は、あらゆる裁量を任せると言い切った後、右手を見せたのである。臣従するつもりなどサラサラなかった半兵衛も、あまりの厚遇に心を動かされそうになった時点で六本の指の奇怪な動きに我を失い、以後軍師として仕えることになる。
 天下一の人たらし、と言われた藤吉郎の奥の手であった。だが本能寺以後、頂点に駆け上がる間はそのようなふるまいを見せずとも、ひれ伏さないものは捻り潰して事足りた。女もである。しかし3人だけ、例外があった。

 淀君は床に招き入れられたときに初めて見せられて失神する。以後、病的な贅沢に浸って過ごした。

 もう一人は千利休。
 初めて見せられた茶室で眉一つ動かさず、わずかに唇を動かしただけだった。
 藤吉郎はいささか不満であるとともに、その唇の動きがある種の哀れみを含んでいたことを悟った。
 今の自分という者は人から恐れられ敬われるべき存在のはず、それが・・・。心の中に暗い情念の残り火が燻ぶった。

 3人目は徳川家康。出会った時は藤吉郎の方がはるかに小物だったため、長く見せる機会がなかった。小牧・長久手の後の天正14年ついに家康が大阪にやって来ると、登城前夜に突如家康の宿舎を訪問。手を取って奥座敷に招き歓待する。
 その時、満を持して右手で酌をした。家康は大いに驚き『さすがは太閤殿下。天下に二無き吉相にござれば』とお世辞を言った。
 翌日、大坂城にて臣下の礼をとり藤吉郎への臣従を天下に知らしめることになる。
 実は家康はとっくの昔に藤吉郎の右手の事情は承知の上だった。無論、それを見せて相手の度肝を抜くことも心得ており、むしろいつその場が来るのかを探っていた。読みは当たった、家康はこの時を待っていた。そして、大げさに振る舞い心のスキをこじ開けたのだった。

 実際に一次資料には記述はないが、宣教師の記述、朝鮮の使者の謁見記録に右手の親指が二本あると書かれている。

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六兵衛 維新語り

2026 APR 23 13:13:17 pm by 西 牟呂雄

 目が覚めた。夜が明けてきたようで山鳩の鳴き声が聞こえるわい。
 さて、今日も一丁稲刈りの指揮に精を出すかいな。秋の刈り入れ時というわけだ。
 ワシは甲斐の国〇○〇村の大庄屋である小森家の六男、六男だから六兵衛という。百姓だから表向き苗字はないことになってるから小森という名前ではなく屋号で呼ばれる、『酒屋』とな。通称サカヤの六兵衛だ。
 甲斐の国は甲府55万石、谷村3万石で米なんざあまり採れない。だが信玄公亡き後は徳川様の天領で、年貢は二公八民と軽い。もちろんお上に対しては食うや食わずの顔をしてみせるが、余程の飢饉でなけりゃ食べるにゃ困らない。しかも年貢は村全体で納める量が決まっているから大体こんなもんだ、ってオレッチの親父達がお代官様と決めるだけ。田んぼにしたって大雑把な境界線は畦道くらい、広い狭いは違うけどな。そんないいかげんなもんだから、時間が限られる田植えとか稲刈りみたいな仕事は大勢で片っ端からガーッとやる。それで普段は特に争いごとはない、お互い顔見知りだし親戚も多い。
 そりゃウチは庄屋だってことでデカい家をオッ立ててるけど女中だのなんだのと人数は多いから、六男のワシは身の置き所なんかない。オマケにヤレ水が出ただの道が崩れたのといっちゃ親父なんかがあれやれこれやれと口やかましく使うから、養子にいくアテもない次男以下は要するにタダ働きの人手でしかない。長男以外は嫁もとれねえ。ワシなんかの暮らし向きは水飲み百姓とそうは違わねえよ。
 ただ、抜け駆けだの勤めそこなったりすりゃ村八分はきついよ。ワシが知ってるだけでもこの10年で夜逃げはいくらもあったさ。それがねぇ、ここだけの話この辺は田んぼが少なくて年貢の石高はたかが知れてるけどどこもお蚕もやるんだよ。これはいい小遣いのつもりで地道にやる分にやソコソコ稼げる。だがお蚕の上りは糸を引いて機織りして染付して、とだんだん商いが大きくなっていく。すると中には大きな博打を張ろうとする輩は必ず出てくるが、そういうのが上手く行ったって話は聞いたことがないね。必ず相場が動いたり蚕でデキが悪かったりしてひっくり返る。 
 何しろ山深い所だから狭い世界に暮らしていて、これがズーッと続くのがいいのさ。そもそも今よりいい暮らしってのが想像もつかねえ。お武家さんは石和と谷村の陣屋にはいるけど、この辺りはその境目にあるから滅多に来るもんじゃない。谷村陣屋は韮山代官の配下でもあるしな。
 そうそう、参勤交代の行列がたまに通るけどここには本陣がないから素通りだ。あれもな、土下座してるのが面倒だからみんな隠れちゃってのぞき見してるんだ。行列だって誰も見てないとダラダラ歩いてるよ。
 嫁も貰えねえワシらのことは通称「オンジイ」ちゅうんだが、体のいい居候で置いてはもらえるが一人前には扱ってもらえない。女ぁ?まあ、小さな村といえどもそれなりにね。特にウチなんか住み込みの女中もいるし、そこいらにゃ後家さんだっている。もっといえばあそこの赤ん坊はひょっとしたらってのもいないわけじゃない。秋祭りの時なんかはそりゃね。
 ところで田んぼや畑の境界線なんかは村内で揉めることもないんだが、隣村との村境じゃ時々大喧嘩にもなる。特に山の中なんか目印も何もないから大きな大木や岩で見当を付けるんだけど、鉄砲水で岩が動いたり木が倒れたりすると双方で『昔から村境はここだった』と言い合って大変な騒ぎだよ。こっそり岩をずらしたりするのを「追い込む」と言ってね。鎌とか鍬や鋸を持ち出せば怪我人だって出るんだ。陣屋のお侍さんは面倒だから庄屋連中を集めては『何とかしろ』と言うだけ。ナニ、下手に騒がれて一揆にでもなったら自分の経歴にキズが付くから大概のことはお目こぼしさ。

 嘉永のご時世から安政にかけて、世の中は随分と騒がしかったらしい。ワシの生まれた頃に黒船が来たって大騒ぎになったそうだが、物心ついたのは文久の世で、そん時分はワシもあとあとこんな厄介者になるとは思ってなかったから、のんびり寺子屋で読み書きを教わったりして字も読める。
 街道沿いだから行ったこともない都やお江戸がやれ開港したの攘夷だので騒いでるのは知ってた。
 この頃からお武家様は何だか物入りでひどく景気が悪くなっていった。ワシらはお蚕をやるから商人とも付き合ってるんで分かるんだが異人さんとの商いが始まるにつれて物が高くなっていった気がする。ところがお武家様は百石取りとかあてがいぶちが決まったままなんで御大名様から旗本までみーんな借金だらけになったみたいだ。
 えー、時は流れて慶應のご時世。一挙に世の中はゴタゴタし始めた。将軍様が都まで上洛したらそのままお隠れになって、名望高い一橋様が15代目になられた。そしたら長州をお仕置きしたっちゅうんでこれで安泰か、なんて話してた。
 そうしたらいきなり将軍様が政りごとを返上したそうじゃない。いやたまげたね。ワシだって都には帝(みかど)がいて暦を決めたり官位を授けてたのは知ってたけど、まっお上の方は良く分かんないがね。
 それで将軍様と都にいた薩摩・長州が戰をやって、アッという間に幕府が負けたって。イヤ驚いたのなんのって天地がひっくり返るような話だよ。おまけに将軍様は舟で江戸に帰って来たなんてホントかね、と思った。
 それが本当だってわかったのは慶応4年が明けたら江戸から甲陽ナントカ隊っちゅうお侍達が大砲引きずって鉄砲担いでゾロゾロとやってきて甲府を目指して行った。その数200人くらいだったけど半分はとてもお武家様には見えないような連中で、聞けば都で散々人切りをしてた新撰組が化けた幕府の軍だった。あれじゃちょっとした大名行列の方が見栄えがいい代物だったね。例えばワシがのぞき見してた尾張様の大名行列はあの倍以上だったよ。
 ワシ等は八王子あたりは親戚もいたから新撰組はあの辺の道場の奴らだってのは聞いてたんで、百姓上りが大したもんだとは感心したね。

土佐の赤熊

 そう思ったのに2~3日したらバラバラになって逃げて来るじゃないか。どうも官軍の方が先に甲府に着いてたもんで、勝沼あたりで戰になり、これがまたあっさり負けたらしい。街道を避けたのもいたらしくて人数もだいぶ少なかったよ。
 するとすぐ後に今度は官軍が江戸を目指してやって来た。それが変な赤い被り物をしているのが大将だったんで驚いた。その大将は信玄様の武田二十四将の板垣様の子孫らしく、甲府のあたりではみんなそっちに御味方したそうだ。この辺りは信玄公の時代はその下の小山田様のお下知だったからあんまり関係ないんだが、そこはそれ、勝ちにはすぐ乗る習いなんでワシも炊き出しに行ってみた。だけどあの被り物の連中が喋ってる言葉が分かんない。『キニ』とか『ゼヨ』とか言うのは何なのかね。
 ところがワシの気働きが気に入ったのか谷という一隊を指揮していたお武家さんが「人手はいくらあっても足りないキニ。おまん一緒に江戸まで来るがいいゼヨ」とか言うじゃない。まだ3月で暇だしここにいても厄介者だから話のタネについていくことにした。良く聞いたら土佐藩兵で作られた官軍だそうだ。

中段左から二人目 谷干城

 その谷様という隊長はおっそろしく厳格なお人で、自分にも下にも厳しい。だがワシには『こりゃ、サカロク』と気さくに声をかけてくれた。ワシは屋号が『酒屋』だったからサカロクっちゅうわけだ。若い頃に江戸で勉学に励まれたんで関東訛りに慣れてたからワシも一行の中では話しやすかった。正式名称は東山道先鋒総督府迅衝隊(じんしょうたい)だってさ。
 小仏峠を超えれば武蔵の国で八王子宿。ここは幕府お抱えの旗本格である千人同心が守っていたから戦の一つもおっぱじまるかと楽しみにしていた。いや、ワシは戦なんかできないよ、見物だけど。ところがこれが大歓迎だよ。そんなに幕府は評判が悪いのかと思ったら何のことはない。千人同心はモトモト信玄公の遺臣の子孫だから、隊長の板垣様のご威光だ。さっきも話した武田四天王と言われた板垣信方様の十何代後だからって有難がってんだけどねぇ。
 ワシも一緒になって酒飲んだりしたけど、ここいらは親戚づきあいもあるんで面が割れやしないかとヒヤヒヤした。
 この官軍ってのも面白くて先頭に細長い『錦の御旗』ってのを掲げた後に笛を吹く奴が二列に並ぶ。で揃ってピーヒャーラピッピッピとやると全員が同じ歩調で歩き出すんだよ。おまけに節が付いていて『ミヤサンミヤサンオンマノマエニ』ってな。ワシ等はその節に従って『トコトンヤレトンヤレナー』って音頭を合わせてた。
 府中から調布五宿を抜けて高井戸・内藤新宿を通り四谷の大木戸を過ぎればお江戸御府内で半蔵門に着いた。その間大名行列に勘違いした連中が土下座したりして面白かったが、戦なんか何にもない。江戸だって、聞けば官軍の西郷という大将と幕臣の勝っちゅうのの間で話が付いたとかで拍子抜けしたさ。
 その後迅衝隊はもっと北に進むって言うからそんな遠くは御免とばかりに隊長には黙って脱走した。聞いた話じゃ会津まで行って大いくさになったそうだ。
 ほうほうの体で村に帰ったけど、そのうちに帝が京都から江戸に行幸されて江戸は東京なんて名前になった。東の京都ということらしい。
 それから先は藩が廃止されたりしたんだが、ワシ等がたまげたのは地租改正ってやつ。廃藩置県とか言って甲斐の国も山梨県になった。ワシ等は元々将軍様の天領で藩なんかないから全然関係ないけど、今まで村全体で年貢を米で納めればよかったのに、田んぼの土地ごとに銭で払えっちゅうんで参ったよ。それまで自分の年貢米はどの程度か、なんて考えもしない、ましてや銭なんぞ普段さわってもいない五反以下の小百姓はどうすりゃいいのか分かんない。お代官様は鷹揚なもんだったが、新政府の役人になったらやれ土地を測れのお前の田んぼの価格はこうだといちいち杓子定規なことこの上ない。ワシ等は田んぼを売り買いしたことなんかないから値段も何もわかんない。そしたら値段はお上が勝手に決めるんだとさ。
 困り果てた百姓共は終いにはうちの親父に『大旦那、訳わからんからウチの田んぼを引き取ってくりょうよ。ワシ等はそこで小作にさしとくれ』って頼み込んでくる始末。親父は親父で『なんだよ。それじゃワシが金とられるばっかじゃねえの。まあしょうがない、預かっとくわ』ってなもんで、おかげでウチは金にもならない土地ばっかり抱え込んで一人で税金を払ってる有様になった。
 もっと驚いたのは徴兵令。廃刀令とか言ってお武家様が二本差しをしなくなるんでビックリだったが、まさか百姓が戦をすることになるなんて想像もつかなかったな。二十歳になると体の丈夫な奴は兵隊になってお勤めを果たせって。そんなもんが役に立つとはとうてい思えないんだが、これからは刀を抜いて切りあうことはなくなるっちゅうんだ。働き手を取られるから初めはえらく評判が悪かったが、子供が多い小作人にとっちゃ口減らしにもなると次第に定着した。

前列中央 谷干城陸軍少将

 西の方では食い詰め士族が反乱を起こし、しまいにゃ官軍の大将だった西郷さんまでが戦を仕掛けた。今度は自分が朝敵になるなんてどういうこった。おまけにその徴兵で取られた兵隊が薩摩の士族に勝っちゃったから妙に納得したね。この時、熊本城で薩摩軍を止めたのが、ワシがくっついて江戸まで行った時の谷様だった。あの人は偉いんだね。
 それから20年も経つ間に支那とやるは挙句の果てに露西亜とやるはでいつのまにかすっかり戦争づいちまった。
 何しろ戦争やりゃ勝つもんだから軍人さんたちは偉くなるし、ワシのような門外漢も日本が強い国になった気がしたよ、軍人さんや兵隊さんは凄いねってね。ここいらでも兄弟が日清・日露の両方で死んだっていう家はいくらでもある。
 東京じゃあれよあれよという間に政党じゃ議会じゃが始まり、小学校はここあたりにもでき、鉄道もワーワーと引かれ、親父は地域の電灯会社の発起人になりすまし、何だか百姓でもほかにやることだらけになって、世の中は便利になってくるけどその分やたらとせわしなくなるばかり。四民平等とかいわれてもなァ。選挙なんかもあったけどありゃお祭りみたいなもんで、そもそもワシなんか投票もできないのにあいつじゃなくてこいつにしろ、とか終いには村同士の喧嘩だ。
 喧嘩といえば、鉄道を敷いた時にゃ土方が大勢いたから組同士の大きい喧嘩があったなぁ。ありゃ面白かった。

 往時茫々、東京においでなさった帝も身罷りなさったらしい。これからは大正の御代なんだと。
 ワシはもういい年になっちまったが、オンジイのまんまで嫁も子供も何にもない暮らしに不足はない。親父も代替わりして、跡取りが大旦那になってる。
 御維新の前と後でどうかだって?そりゃ将軍様のご時世の方が良かったに決まってる。気楽だったんでね。
 さて、と。稲刈りの仕切りでもやりに行かなくちゃ。

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南蛮倭国盛衰記 旋風そして維新

2026 FEB 21 0:00:04 am by 西 牟呂雄

 少年達が銛を手にして次々に小舟から飛び込む。小舟は現在のアウトリガー・カヌーで、もう岸からは見えないほど遠くに出ている。シャム湾は浅瀬が続くため湾内の潮の流れは早いが、舵取り役を残し数十人の若者は長く・深く潜り、獲物に銛を突き立てる水練をしているところだった。
 やがて息が続かなくなった者から海面に飛び出してくる。早いものはやはり手ぶらだ。現在は乾季のため、チャオプラヤー川から流れ込む茶色がかった水は少なく、ここまで沖合に出れば透明度は高い。未だに潜っているのは二人ほどだがその動きは船上からも良く見えた。一人は獲物を突いて上がって来たが、もう一人はまるで魚のように泳ぎ大物を追っていた。その魚はそう早い動きではなかったものの、獲物がより深い方へと逃げて行こうとする刹那、一瞬大きく体をしならせたかと思うと重そうな銛を一閃させて仕留めた。

 そのまま一抱えもある大物を手繰りながら海面から頭を突き出し「ファーッ」と息をつくと船に向かって泳ぎだした。
「お春が一番の大物か」
「またかよ。あいつはまるで魚だ」
 アジ科と思われる大物を片手で船に放り上げるとザバッと乗り込んできた。
 少年たちは15歳くらい、彼等は南蛮倭国の戦士となるべく訓練を受けていた。皆、頭に布を巻き付け上半身は裸で腰は褌姿、良く日に焼けている。だが、ひとり大物を仕留めた者だけは色白の地肌らしくピンク色をしていた。背は頭一つ高く手も足も逞しく太いのだが、胸元はわずかに隆起し少年のそれとは違っている、女なのだ。
 名前はお春。肩で息をしながら笑って言い放った。
「お前ら。陸(おか)の上の武術も水の中の潜りもオイに勝てんじゃろう。こんままでは大船(おおぶね)の船長(ふなおさ)にはオイがなるしかなか」
「ないごて。お春なんぞ誰も嫁とりせんから大船に乗るしかなか」
 少年たちはもうすぐに元服を迎え艦隊に乗り込むことになる。その際に厳格な能力審査の上、最初から役割を割り振られる。船長、舵取り、射手、帆方、漕方(こぎかた)、賄・荷方、といった具合である。
 そして南蛮倭国の艦隊はシャム国王の親衛隊にも序されるため、新人はラーマ一世の閲兵を受けることになっていた。

 アユタヤ王朝は既に滅び、紆余曲折を経て現在のチャクリー王朝が成立していた。それに伴い王宮をバンコクに造営し首都と定めた。南蛮倭国は内政不干渉の原則を貫き、艦隊拠点をレムチャバンに移した。ラーマ一世はその潔さにいたく感服し、親衛隊直属で海上防衛の任に当たらせることとした。言ってみればイングランドのサー・ドレイクやのような合法の海賊・傭兵である。
 謁見当日、暑い日差しを浴びながら甲冑を付けた40人の新兵が4列縦隊に整列した。両側にシャム軍自慢の像部隊が控え、正面の一段と高いところにしつらえられた黄金の玉座にラーマ一世が座っていた。その前で新兵に向かって起立している親衛隊長シーゲル王子が姿勢を正して「ワイ!(タイ語で合掌の姿勢)」と号令をかけると一同が兜を脱いで脇に置き合掌の姿勢をとった。
 王子は閲兵すべく中央を進み、戻ってくるとラーマ一世に向かい再び「ワイ!」の声をかけた。
 式典が終わり南蛮倭国の戦士が後退する時、シーゲル王子が指揮官を呼び止めた。その美貌が印象的だったからだろう。
「待て」
 指揮官はお春だった。
「ワイ!」
「お前は日本人なのか」
「チャイ・クラップ!(はい・男語)」
「少し話していけ。ついてまいれ」
 実はシーゲル王子の男色はつとに知られており直属の親衛隊は大変な美少年を集めていた。ただし、男色は今日の様な捉えられ方ではなく、特に戦乱の続いたシャムにおいては戦場での結束をもたらす絆と考えられ、事実シーゲル王子の親衛隊は無類の強さで知られていた。
 王子は衛兵の守る自室に招き入れるとお茶を勧めた。
「お前たちの艦隊は無敵と聞いている。お前たちのおかげで我らは陸の上の戦闘に専念できることを感謝する」
「コープクン・クラップ(そうです・男語)」
「お前の体を見てみたい」
 さすがに多少動揺したようだが、次の瞬間鎧を解きだした、薄く笑みを含んでいたようだったが。そして上半身があらわになるとシーゲル王子の方が驚いた。両の胸のたくましさとやわらかいシルエットに目を奪われた。
「待て!お前は女か。なぜ男言葉を使う」
「普段より海に暮らすのに区別なし。特に我が艦隊は全員が戦士ゆえ」
「む・・・。女ともあれば余の後宮にて暮らすことも許されるが」
「おたわむれを。異民族の女戦士など。殿下なら恥辱を受けた日本人の作法はご存じのはず」
 と脇差を抜き刀身に布を巻き付けると自分に向けた。王子もさすがに慌てた。
「もうよい!・・・・お前達はラーマ一世の海の親衛隊でもある。任務を果たせ」
「カオジャイレーオ・クラップ!(わかりました・男語)」
 そのまま後ろずさりの礼法でさがった。シーゲル王子は興覚めし深いため息をついていた。

 往時茫々、10年の歳月が過ぎた。
 この時期、イギリス東インド会社は大航海時代を先行していたスペイン・ポルトガル・オランダを凌駕し、数十隻の大砲を装備した武装商船艦隊を擁して、東南アジアから清国へ進出しはじめた。なお、インドから西側はボンベイ・マリーンとして正式な海軍を持っており、まさに七つの海を支配していた時期に当たる。
 この武装商船艦隊はいわゆるロイヤル・ネイビーではないものの、組織・階級・並びに士官などはほぼ同じで、強力な戦力である。当然のことながら南蛮倭国と小競り合いが起きることとなるのは時間の問題だった。
 マレー半島で出会い頭での接触だったのだが、イギリス側は艦隊行動ではなくブリタニア号の単独航海だったことが災いした。南蛮倭国側は早い話が海賊だ。砲撃されるやサッサと逃げ回り、得意の夜襲で襲い掛かると瞬く間に制圧、拿捕してしまった.双方に若干の犠牲者がでた。倭国側の果敢な攻撃の船長は逞しく成長したお春であった。
 死傷者が少なかったのは日本側の目的が人質と船の確保だったからである。作戦を立てたのはお春だった。
 お春は既に武装商船隊の船影を目撃しており、その戦力の充実から南蛮倭国の3拠点を合わせても艦隊決戦に勝ち目はないと判断、乗っ取りを長老会に進言して了承されていた。
 武装解除されたイギリス人とインド人の水夫が甲板に集められた。
 以下、カタコトの英語・蘭語のチャンポンで会話が進む。お春が訪ねた。
「指揮官は誰か」
 ボンベイ・マリーンの制服を身に着けた細身の士官が一歩進んだ。
「私だ」
「名前は」
「コマンダー・ウィリアム・アダムス(アダムス少佐)。あなたは」
「お春ジェロニマ」
 言うなり兜を脱いだ。
 アダムス少佐の顔色が変わった。その名前と美貌に驚いたのだ。

お春

「あなたが有名な『Jager of hurdle(困難な豹)』か」
 Jager of hurdle とは東インド会社が手を焼いていた南蛮倭国の船長(ふなおさ)の呼称で、鮮やかな操船と果敢な戦闘で恐れられていた。だがイギリス東インド会社もジャワのオランダもまさか女とは誰も知らなかった。
「その通り。コマンダー・アダムス。あなた達は人質となった。手荒な真似はしない。あなたがたと交渉したい」
「何の交渉か」
「あなた方の身代金と命の引き換えにこの船をいただく」
「私に権限はない」
「権限のある者に取り次いで欲しい」
「どうやって取り次ぐのか」
 ここでお春はカラカラと笑った。
「この船で行く」
「なに!」
「わたしの指揮の元で我々とあなた方で操船する」
「ボンベイで無事ですむと思うのか」
「私は全権をもって交渉を任されている。われら南蛮倭国はこの船を買い、河内(ハノイ)呂宋(ルソン)と協力し東インド会社の商船を護衛する。ボンベイ・マリーンはその武力をインドおよびその西側に集中させるがよかろう。東インド会社への海賊行為もしない。あなた方はカンパニーだろう。損得を考えるはずだ」
 アダムスは言葉を失った。

 ボンベイの港に姿を現した武装商船には東インド会社のフラッグとともに南蛮倭国の旭日旗が掲げられている。そして初めて見る兜に甲冑のサムライが甲板に整列している様を見て、イギリス人もインド人も目を見張るのだった。
 『Jager of hurdle(ジャガー・オブ・ハードゥㇽ)』即ち、後に『じゃがたらお春』として日本に知られることになる伝説の女海賊が誕生した日である。

 彼女が指揮を執る船は右舷に『Jager of hurdle』左舷に『じゃがたらお春』と表記され、旭日旗とユニオンジャックを掲げていた。いつもの癖で舳先で水平線をみるお春の背後には金髪を風になびかせるアダムス少佐の姿があった。
 お春が振り返るとアダムスと目が合う。アダムスが聞いた。
「フナオサ(船長)どちらに舵をとるおつもりか」
「我らに行先などない。ただ漂い、打ち壊し、奪うばかり」
「そのあとは」
「生き延びることができたら・・・そうだな、ウィリアム。お前の生まれたエゲレスにでもいってみるか」
「それは・・・、あの暗い天気はフナオサに似合わない」
「ではお前たちバテレンが忌み嫌う”地獄”の入り口まで航海するか」
「滅相もない」
「フハハハハハ、どこでもよい。お前はついてまいれ」
 振り向いて言うが早いか、見上げるようなアダムスの首周りにタックルをかけた。アダムスは副長として『Jager of hurdle』に乗り込み、お春の影のように寄り添っていた。二人は笑いながら転げまわり、甲板のファーネスに引っかかると互いを見つめ合っていた。ちょうど水平線に夕日が落ちていった。 

 慶応元年、神戸海軍操練所が閉鎖され無聊を囲っていた坂本龍馬が西郷隆盛に誘われて鹿児島を訪問した。
 西郷家に逗留すると早速西郷が誘った。
「あすは枕崎まで行きもんそ」
「そこはどこぜよ」
「みせたいもんがあいもす」
 鹿児島から枕崎まで一日がかりである。粗末な旅籠に宿を取ると先客があった。
「せごドン、お待ち申し上げておりました」
「おお、お久しぶり。こん者が海軍を作ろうち奔走しちょる坂本君ごわす」
「尊王の志高き志士としてご高名は存じ奉り候。海軍伝習所が閉鎖されお困りと聞いておりもす」
「おんしは誰がじゃ。勝先生を知っとるがですか」
「拙者は蛇潟老春(じゃがた・らおはる)。勝なる方は幕臣ゆえに我らは面識はなか。ですが我らは坂本さあのやりたがっちょう海軍を持っちょいもす」
 薩摩訛りだった。
「なに!かいぐん!」
 西郷が遮った。
「蛇潟ドンはオイが島に流されていた時分に世話にないもうした。シャムを拠点に艦隊を率い、河内(はのい)、呂宋(るそん)にいる日本人の子孫たちと力を合わせて海軍を持っちょいもす。無論戦闘においてメリケン・エゲレスといった国の海軍に一歩も引けはといもはん」
「日本人ならエゲレスが薩摩と戦になった時はなんで助けんかったがじゃ」
 蛇潟がゆっくりと言った。
「あいはボンベイ・マリーンの船ごわす。オイたちゃその指揮下ではあいもはん。それにご存じないじゃろが、あいはすべて空砲でごわした。要するに幕府に対する見せかけ」
 西郷も続ける。
「おいたちはもうエゲレスには話をつけておりもした。後は幕府が困るように仕向けた芝居」

 南蛮倭国はオランダ軍を退けた後、一時的にヨーロッパが革命騒ぎで東洋進出が小康状態になった時点で周辺の制海権を握った。そして幕府が鎖国政策を取ったことを逆手にとって交易を発展させた。なに、交易といえば聞こえはいいが、実態は密貿易と海賊行為である。それによって莫大な富を蓄えたのだが、日系3国は内陸での帝国経営には一向に興味を示さず海洋独立国家であり続け、3拠点の総称である南蛮倭国が定着したのだ。
 一つには現地人との宗教観が違いすぎて通婚がほとんど進まず、また日本から受け入れられる女の数も限られるため人口は増えるわけではない。第一、暴れまわるのが生業なので陸の領土を広げて帝国を経営するノウハウも資質もない連中だったからである。
 時代は進み、ヨーロッパから産業革命が起こった。
 資本はダイナミックに躍動し動力革命・軍事革命を牽引する。勢いのついたヨーロッパは海洋を制覇し、アフリカ・アジアの分捕りあいが時代の趨勢となり、英国がその覇権を握りつつあった。
 イギリスはインドを飲み込み、清国を侵食し始める。その際に南蛮倭国と歴史的な接触があった。そして倭国勢は伝説の女海賊お春(じゃがたらお春)に率いられイギリス海洋進出の一翼を担ったのは前述の通り。
 その操船能力と戦闘技術の高さは大英帝国をしてもなお魅力的だった上、そもそも領土的野心はない。更に異常ともいえる識字率の高さ、同調圧力、好奇心、義侠心とアジアの国にあっては極めて特殊な連中だったのだ。また周辺国は非常に恐れ、実際に戦闘が起きると無類の強さだったため、英国も薄気味悪がって懐柔しようとしたのだった。
 倭国艦隊は英国商船を保護しつつ南シナ海から沖縄・薩摩まで自由自在に(時に)暴れまわった。
 おまけに新技術に対するチューン・アップは日本人のお手の物であり、動力を学び大艦に砲を載せ反射炉で製鉄までした。元々日本は鉄砲大国でもあったため武装艦隊は手が付けられない存在になりおおせていたのである。

 時は流れ、ペリー艦隊が日本に砲艦外交を展開したことも南蛮倭国は知っていた。しかし幕府の開港後も政治に巻き込まれるつもりはなく、英国の先兵に甘んじていた。ところが密貿易のパートナーである薩摩が急速に政治の表舞台に出たことによりそうも言っていられなくなったのだ。
 倭国は長年の友好関係と島役人への多額の賄賂によって沖縄ー枕崎ルートは庭も同然、そこで沖永良部に流されていた西郷を物心両面で支え、その復帰後も影に日向にサポートしていた。西郷が龍馬に蛇潟老春を引き合わせたのはその時と縁のなせる運命だった。尚、南蛮倭国の日本人が交流したのは密貿易相手の薩摩藩のみだったので今では老春たちは京言葉も江戸言葉も喋れず薩摩弁が標準語だった。
「坂本さあは今更海軍などつくらんと、おいたちにまかせておればよか」
「なにい!」
「おいたちは海禁をした幕府とは相いれもはん。しかも幕府はフランスに肩入れしちょいもす。おいたちは一度義を交わせば必ず守る」
「西郷さん、ホントか」
「相違御座らん」
「むむッ・・・。手の込んだ仕掛けは西郷さんの絵図かの。ほいじゃあわしはなんをすればいいがじゃ」
「かんぱにーをつくられればよか」
「かんぱにーじゃと」
 西郷が引き取って言った。
「坂本さあ、こん老春どんとおいたち薩摩が金を出す。坂本さあはそいを預かり日本と世界を相手に大あきないをすればよか。海からの援護でごわす」
「海からの。そうか!海援隊じゃあ」

 その後の維新回天の歴史は読者のよく知るところである。
 維新後の倭国海上勢力は2つに分かれて存続した。簡単に言えば龍馬派と西郷派に分類され、龍馬派は岩崎弥太郎率いる九十九商会の商船グループ、即ち今日の日本郵船の礎である。それに対して西郷派はのちの帝国海軍に吸収されていく。帝国陸軍が長州系なのに対し、薩の海軍と言われたのはこのグループのことを指す。倭国の日本語は全員薩摩弁だった。

 現地の日本人ソサエティは戦前まで国家の体裁は取らなかったが存続し、タイ(バンコク)・河内(ハノイ)・呂宋(マニラ)はそれぞれ日本軍に協力していた。ところが負けてしまったためさすがに居心地が悪くなり300年近く住み慣れた土地を離れた。タイからはインドネシアに移住し、戦後の独立戦争に参加した後はジャワ島の山地にいるらしい。ハノイは台湾の花蓮(ファーレン)に住み着き密かに存続し高砂族の一派に溶け込んでいる。この一派は強力な民進党支持者だと言われている。マニラの連中は戦中に山下兵団とともに北上し、バギオに潜伏した。その後、密かに山下財宝とも称される金塊を山中に隠し持ってフィリピンの世論を裏から操っているという噂が絶えない。
 上記3か国の親日ぶりの遠因ではないだろうか。
 尚、今日の歴史研究では南蛮のニシーム・ローザエモンと河内(ハノイ)の室西僧正、呂宋(ルソン)のアントニオ・オエスタは同一人物と考えられている。蛇潟老春は言うまでもなく英国人アダムス少佐とジャガタラお春の子孫であった。

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南蛮倭国盛衰記 シャム湾海戦から鎖国へ

 
 
 

南蛮倭国盛衰記 シャム湾海戦から鎖国へ

2026 FEB 15 0:00:16 am by 西 牟呂雄

 1630年、和暦では寛永七年、メナム川河口にある南蛮倭国の長老会トップであったヤーマ・ナーマサが死去した。壮大な葬儀にはタイのアユタヤ王朝・ベトナムのフエ王国・バタビアのオランダ東インド会社総督といった近隣の国家から弔問の特使が参列した。式典は神道式で神官の短い祝詞が日本語であげられた。
 南蛮倭国は人口約1万人、誠に奇妙な都市国家である。成人男子は全て武士で構成され、ごく少数の両替商と大工がおり、両替商は日本からの銀の交易を手掛け、大工は船大工だった。要するに傭兵集団が独立した海洋国家で、かつては倭寇と呼ばれた日本人達なのである。それでも長老会という議決機関を頂き大将を選任しそれなりの国家の体裁を整えてはいた。
 世界史に類似例を求めると、ヴェネツイアやマルタ共和国が近い。ただ、この集団の場合は領土的野心も通商概念もほとんどない不思議な国家だった。
 これ以外にも同じような日本人軍事国家がヴェトナム北部の河内倭国(河内は現地語でハノイ。はのいわこく)とフィリピンの切支丹呂宋倭国(きりしたんるそんやまとこく)の二つがあった。
 このうち前者は公用語である漢文(当時のヴェトナム王朝は漢文を公文書とした)との親和性が高く、また僧兵崩れが多かったせいで兵士全員は僧衣を纏った仏教国の体裁だ。
一方後者は大阪夏の陣で敗れた浪人達を吸収して成立したキリスト教国で、成立当初の中心人物がキリシタン大名の高山右近だったからである。そして当時の現地を支配していたのはカソリックのスペインだったので、キリシタンであることは都合のよい隠れ蓑となったのだった。
 三国は巨大ガレオン式帆船である大安宅船を数隻所有し周辺の制海権を握っていた。そういえば聞こえはいいが、普段日常的にやっていることは海賊である。

 時は大航海時代。やや遅れて東洋に進出したオランダ東インド会社は、ジャワ島を拠点に先行したポルトガル・スペインを追うように勢力拡張を図っていた。当初は香辛料の交易のみだったが、バタビア(ジャカルタ)に要塞を築き現地勢力を懐柔するなどして次第に植民地経営を強化していた。
 タイ・およびマラッカの諸国はこれを警戒し、南蛮倭国に海上防御を要請。ヤーマ・ナーマサの後に長老会の評議により大将に選出されたニシーム・ローザエモンはこれを受け、シャム湾を往来するオランダの帆船を片っ端から襲いだした。要するに本性をむき出しにして暴れまわったのだ。
 これに怒ったオランダは大砲を積載した艦隊に正規兵千人と現地兵千人を乗せてシャム湾を威嚇封鎖した、一触即発の艦隊行動だった。
 ニシーム大将は長老会を招集して言った。
「ジャガタラの紅毛人ども、ついに我らがシャムを脅かさんとす、我等はアユタヤのプラサートトン様の要請によりこれを撃滅せん」
 おおっぴらに思う存分暴れられるのだ、戦士達は奮い立つ。既にヴェトナムの河内国とフィリピンの呂宋国の日系二国に応援を要請してある。二国といってもやっていることもその生業も同じで、総称としては南蛮倭国と言って差し支えないだろう。
 河内(ハノイ)の最高指導者の僧侶である建僧都室西(たけるそうずしっさい)、通称室西僧正(しっさいそうじょう)は謎めいた人物で滅多に人前に姿を現さない。年に数回大きな会葬に出てきては良く通る声で一喝していた。
 呂宋では現在アントニオ・オエステと名乗る日本人がリーダーとなっていた。アントニオは日本語を話すが、自分はキリストの生まれ変わり、などと胡散臭いことを言い募る怪しげなことこの上ない人物なのだが、用兵は巧で個別海戦には滅法強かった。

 シャム湾に大型帆船のオランダ艦隊が姿を現した。潰すべきは南蛮倭国の本拠地で現在のバンコクだ。浅瀬の湾口を包囲するような布陣から自慢の大砲を撃ち始めた。陸上をかき乱した後上陸する作戦である。
 ローザエモンは不敵に笑った。
「紅毛人ども、わざわざ波頭を超えて鮫のエサになりに来おって。望み通り切り刻んでやれ」
 その頃艦隊後方から大安宅船の艦隊が北上してくるのが見えた。戦闘前に沖合で待機していた南蛮倭国の船である。
 するとこのまま割って入られ陸との挟み撃ちにされるのを避けるため、オランダ艦隊はいったん上陸を諦め回避行動を取った。そして現在のカンボジア方面を目指しパッタヤー半島を回ったところに停泊した。何故か追って来るはずの南蛮倭国の艦隊は半島の反対側あたりで追撃をやめていたのだった。
 真っ赤な夕日が落ち闇に覆われると、その漆黒の夜半に大安宅船から手漕ぎ小型舟が十数隻ほどヒタヒタと半島を回って行く。得意の夜襲である。
 ヨーロッパでの戦闘は通常ヌーンデイ・タイムに行われるものだったのだが南蛮倭国は知ったこっちゃない。大安宅船による追撃は申し訳程度で、日没後を待っていたのだ。
 音もなく寄せると直上に向けて火矢を放ち、手鉤縄を船側に絡ませては次々と乗りこみ全員無言のまま抜刀する。撃ち込まれた火矢に気づいたオランダ兵の当直が大声をだそうとするのを一瞬で切り捨てた。帆にも放火する。
 騒ぎが大きくなり甲板に兵士が上がって来て白兵戦になった。倭国兵は全員夜目が利く上に日本刀はこういった乱戦では無類の殺傷能力を持っている。縦横無尽に暴れまわると各々衣服を脱ぎ捨て褌に大刀をぶち込んで次々と海面に飛び込んだ。
 見ればオランダ船は数隻に火の手が上がりパニックに陥っていた。
 結局、消火できなかった3隻を放棄し、他のオランダ軍は艦隊行動をとることなくバタビアに引き上げていった。南蛮倭国の完勝である。
 これよりオランダ東インド会社は倭国と友好条約を結ぶ。オランダ船の安全航行を保証するために金をふんだくるという一方的な条約で、同時に南蛮、河内、呂宋の日系3国家に適用された。とりあえずオランダは南シナ海を北上する航路を確保し台湾・日本のルートを抑えることとなった。

 激震が走る。寛永十年(1633年)、江戸幕府はポルトガルとの断交とキリスト教禁教のために鎖国令を出した。海外からは自由に帰国することが叶わなくなったのだ。さすがに動揺が走った。今のうちに何とか故郷に帰りたいと言いだす者、故郷のメシが食いたいと言う者、こんな暑いところはもういやだと泣き出す者までいた。
 しかし今更日本に帰ってもすることないから構わない、と開き直る者の方が多かった。なんとなればこの荒くれ者たちはほぼ全員が土地も家族も持っていなかったのである。
 ローザエモンは長老会を招集した。
「海禁令が出て何やら騒がしいが、お江戸の将軍様も今や三代目じゃ。余程キリシタンとポルト(ポルトガルをこう呼びならわしていた。オランダはホランド)がお嫌いと見える。ホランドの奴らめ丸儲けじゃの」
「我らは今後いかようになりましょうや」
「まあ、しばらくは様子見よ。帰ったところで誰が迎えてくれる。ホランドは長崎で交易が認められる。ということは裏で舌なめずりしている大名がウヨウヨしているに相違ない」
「ローザエモン様、それはいづこの国や」
「まあ待て。関が原で裏目に出たやつらに決まっておろう。交易の旨味を知り尽くしているところよ。ワシは河内(ハノイ)の室西僧正と呂宋のアントニオに話しに行く」
「よろしくお頼み申し上げまする」

 僧形の一行が密かに薩摩の坊津に上陸した。一人だけ頭を丸めているが、他の者は僧形ではあるが全員背中まで伸ばした髪を結ぶこともなく風になびかせている異形だった。
 浜で待ち構えていた薩摩藩の役人達に向かいこう告げた。
「河内(はのい)の建僧都室西(たけるそうずしっさい)である。薩摩の太守、島津家久公にお目通り願いたい」
「こころえて候。まずは長旅の疲れ癒されたく」
「あいわかった」
 扱いは大名並みの待遇だった。だが、薩摩側の心づくしの接待にも室西以外のものは終始無言。また室西の受け答えも型通りに終始し、宴席は盛り上がらない。だがこの連中、酒は一人一升以上飲んだ。
 翌日、薩摩側は駕籠を用意していたが室西はこれを丁寧に断り徒歩で鹿児島に向かった。仕方なく駕籠には土産物を載せて移動したのはご愛敬であるが、南国由来の色鮮やかな珊瑚、めずらしい象牙の装飾品などとかなりの重量で、駕籠かきは苦労していた。
 表立っての訪問ではないためか、鹿児島に到着した後しばらくは城下に留め置かれ数日を過ごした。鶴丸城は関ケ原後の築城だが、全く防御を想定していない不思議な構造で、天守のような建築物はない。誠に薩摩らしいといえば薩摩振りの武骨な城である。
 数日後、島津家久との会見が成った。面を上げよ、の声とともに端座した室西の眼光に家久はいささか違和感を感じた。やや赤みがかっている。
「お目通りかない恐悦至極に拝し奉りまする。ご機嫌麗しゅう」
「苦しゅうない。此度の来薩、誠に喜ばしい。南方の暮らし向きつつがなきや」
「常夏にて、至極」
「して、件の話に相違はござらぬな」
 海禁政策により幕府直轄領である長崎の出島でのみオランダが交易できる新体制になったのだが、倭国勢も島津家もオランダに一人儲けさせるつもりなどサラサラなかった。南蛮倭国は自慢のガレオン船も新たに進水させ自ら密貿易に乗り出し、相手として狙いを定めたのは薩摩と東北の伊達藩だった。オランダ船から荷物を強制的に抜いては売り捌き、代わりに物資・銀を調達、更には人材をスカウトする目論見である。
 薩摩側も琉球を勢力下に置くことで密貿易の味は知っていたし、伊達藩も遠く支倉をローマに派遣したりと海外展開をすすめていたので、両藩とも渡りに船だったのだ。
 その頃の東南アジアでは、フィリピンを支配していたスペインは国王フェリペ二世の死去による混乱の中にあり、徐々に勢いを増した英国がインドから虎視眈々と中国大陸を狙うという状況で、海上の勢力が変わりつつあった。ところが日系の三倭国の評判があまりに悪く、日本人とは下手にちょっかいを出して暴れられると面倒な奴ら、との認識が広まったお陰で矛先は日本に向かなかったのであった。

 話は終わり、御酒くだされ、の宴席となった。家久は上機嫌で一献下げ渡すと言った。
「室西殿、我が薩摩は勇武をもって聞こえた国柄。河内(はのい)の武芸者も腕が立つであろう。軽く手合わせはどうじゃ」
「我らの得物は鉄砲にて」
「ふはは、供の者たちの金剛杖は仕込みであろう」
「これは。座興でござりましょうや」
「そうよ。座興も座興。狂乃介、これへ」
 一座の末席に端坐していた屈強そうな若者が呼ばれた。室西はその若者を見据えると傍らの小柄な僧侶を即した。二人は庭先にて名乗りを上げた。
「示現流、立花狂乃介」
 ごつく太い樫の木刀を持っている。
「大悟坊峻海」
 右手で金剛杖を地に突き立てた。
 両者は後ずさりした。狂乃介は「チェース」と猿叫の気合を発して切先を天高くつきだすトンボの構えに入るや「きゃー!」と突進した。俊海は自然体。次の刹那、大地を割らんばかりに振り下ろされた木刀が地面にめり込んだ。俊海の体は毬のように転がり狂乃介の背後にスッと立ち上がる。体制を立て直した狂乃介の眼前に金剛杖が突き付けられていた。
「そこまで!」
 声を発したのは室西であった。
「さすがはお留流。われらの杖では受けること敵わず。太刀筋をかわすしかできませなんだ。更に戦えば大悟坊は真っ二つ必定、呵々」
「薬丸示顕流、飛田隼人!」
 コケにされたかといきり立つ次の若者が名乗りを上げる。だが今度は家久が言った。
「下がれ、隼人!盛んなるかな薩摩武士。こいは戦場ではなか。座興でごわ」
 薩摩弁が飛び出したので一同静まった。
 以後、坊津は密貿易の港としてオランダ船や明船、更には朝鮮の交易も含めて大いに賑わうのであった。

 然しながら流石に大っぴらにやりすぎて、享保八年幕府による手入れが強行され、薩摩藩は大いに面目を失った。俗に言う『唐物崩れ』である。
 だが、元々アウトローの寄せ集めの倭国側は痛くもかゆくもないとばかりに、枕崎にその拠点を移し幕末まで密貿易に励み続けるのである。
 余談ながら伊達藩に密貿易を持ち掛けたのは呂宋のアントニオ・オエステ率いる船団で、伊達藩士である支倉常長が洗礼を受けたことを知っていたからであった(禁教令によって失意のうちに仙台で没した)。更に伊達政宗の長女で一度は徳川家康の六男・松平忠輝と婚姻した五郎八(いろは)姫がキリシタンであったので、その知己を得られたのである。
 現在の石巻港においてしばらくは盛んに密貿易をしたのだが、五郎八姫の没後に幕府の詮索を恐れた伊達藩によりこのルートは廃れた。

 更に余談であるが、密貿易船で南蛮倭国に渡ったのは物資や銀だけではない。酌婦・遊女の類も大勢やって来た。 のちの世に言われる「身売り」のような暗い話ではない。この苦しい生活を捨てて新天地に羽ばたくような気概の、多少危ない女達が海を越えてやってきた。一方で南蛮倭国の方も、ただでさえ内部でも無用の小競り合いが絶えない荒くれ者共を慰撫するためにもそれを必要としたが、統制が取れなくならないよう人数は厳しく制限した。
 かくて日本人の純血は続いたのである。

つづく

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南蛮倭国盛衰記 旋風そして維新


 
 

日本史 五つの仮説

2025 NOV 8 11:11:01 am by 西 牟呂雄

 前回、ロバート・キャンベル先生の話の中から飛躍して、茶器の逸品「付藻茄子(つくもなす)」は大坂夏の陣で粉々になったのを、徳川家康が漆塗師の藤重藤元・藤巌親子に復元させて『これが本物だ』と嘘を言い張ったのじゃないか、という荒唐無稽な想像を楽しんだ。だがひょっとすると、日本史にはそうやっていまだに騙されているような秘密はほかにもあるのではないだろうか。
 有名な噂話では豊臣秀頼は秀吉の実子ではないとか、凄いのになると孝明天皇は毒殺され明治天皇は南朝の血を引く大室寅之祐がなりすました、等々。
 面白いので有名無名オリジナルのホラ話を綴ってみた。

漢委奴国王印偽物説
 1784年、福岡県の志賀島で百姓が水田の耕作中に巨石の下から偶然発見したとされるが、昔から『あれは偽物』説が絶えない。発見された場所が江戸期という比較的新しい時代にも関わらずはっきりとしていない。
 黒田藩の儒学者亀井南冥が『後漢書』の金印であると言ったからそうなったらしい。
 そもそも志賀島には金印にある奴国の遺跡など全く無いとか『委』に人偏がついてないとかツッコミ所は満載。
 お墨付きを与えた亀井南冥が黒田の殿様にニオベンチャラを言う目的で自分でこしらえた、というのが本当じゃないかな。高くついただろうが。

藤原不比等落胤説
 藤原家の人々が秘かに伝えてきた噂だが、僕は末裔から直接聞いた。
 飛鳥板蓋宮の乙巳の変で蘇我氏中心の政治を改めて改革を始めた。のちに天智天皇と藤原鎌足コンビになるのだが、その前に中大兄皇子時代の愛妾を中臣鎌足に下げ渡し、その時に既に懐妊していた愛妾は男の子を生み、それが不比等だという話。
 事実不比等は壬申の乱の後には不遇を囲っていたが、下級官吏から次第にのし上がり、息子たち4兄弟は出世するあたり妙にイミシン。藤原家は他にも一条天皇の第一皇子である敦康親王が道長の養子となっている。臣籍降下しないで養子になるところなんかますます怪しい。『公卿補任』『大鏡』『帝王編年記』『尊卑分脈』といった文書にも記され、平安時代にはある程度知られていたことがうかがえる。
 すると天皇家男系男子のY1aの遺伝子を引いていることになるので、皇統維持の有力な候補になり得る人材がいるのではないかな。
 そう言えばウチも家系伝説では藤原の流れという事になっている、たぶんウソだろうけど。

北条一族頼朝暗殺説
 頼朝は前年末、相模川の橋供養からの帰路で落馬し、直後に体調を崩して翌1199年の1月に死ぬ。だが、吾妻鏡が死因について記述するのはそれから13年も経過してからだ。
 北条氏が鎌倉時代を通じて何やら暗い印象を受けるのは、頼朝が死んだ後次々と頼朝と正子の子供達が謀殺されていることが遠因と思う。が、実際の暗殺に関わったとは言わないが実子の死後も平然としている正子の根性を思えば頼朝の死も・・・。
 そして今度はウチの母方だが、頼家亡き後に『私も源氏の血を引くのだから次の鎌倉殿は私かな~』と大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で調子に乗って言い放ち、北条に誅殺された先祖がいる。平賀朝雅という。
 いずれにせよ源氏3代どころか有力御家人をかたっぱしから片付けて京都から将軍を連れてくるなんぞ、もし策を巡らせてやったのなら大したもんだ。

西郷隆盛龍馬裏切り説
 やったのはいまでは見廻組と判明している。しかし龍馬が死んで得をするのは幕府側だけではない。
 龍馬は船中八策に見られるように共和制を唱えてはいるが、基本的に公武合体主義者であり、徳川慶喜を新体制のトップにする構想(船中八策は後世の偽書とする説も有力だが)を持っていたようだ。
 そして龍馬暗殺時点では薩摩=西郷は倒幕の腹を固めていたと見られ、すでに龍馬は邪魔者だった。
 そこで必死に龍馬を追っていた見廻組に潜伏先をチクって殺らせる・・・。
 西郷は豪放磊落な人格者であるが密偵の使い方もうまく、人名が明らかになった者だけで三人いる。江戸で焼き討ちを実施した益満休之助、アメリカ公使館員のヘンリー・ヒュースケンを暗殺した伊牟田尚平、後に赤報隊を率いた相良総三の三人。かなりエグい仕事をやったようで、三人とも不審死した。
 誰かを使って居所を示唆した可能性はあるかな。
 この場合、見廻組にチクったとすると、なぜ新撰組を使わなかったのかという謎は残る。思うに使わずにおいて逆に『やったのは新選組だ』という噂を広め捜査を混乱させたのかも、スゲー。
 とは言うものの、プロの間では否定されているそうだ。

帝国陸軍にコミンテルンのスパイ説
 ロシアの機密文書の公開でにわかに注目を浴びた説。だが、2・26事件の背景とは言わないが、天皇親政と共産主義は相性がいい、という言説が陸軍内部にあったことは確かである。
 盧溝橋事件も日中を離反させるために仕組んだ陰謀だ、とまで飛躍するのだが。そうなると張作霖爆殺も満州事変もみんなコミンテルンの仕業と比定されるので耳障りがいいがどうだろう。
 以前チラと書いたことがあるが、国民党の秘密組織であるC・C団のトップ陳兄弟の弟、陳立夫が戦後も台湾で存命していた。歴史家保坂正康がインタヴューしていて『当時の帝国陸軍にコミンテルンのスパイがいたはずだ。こんな簡単なことが分からないのか』と言ったらしい。 
 1918年、モスクワにおいてボリシェビキの会議が開かれ、日支闘争計画案が決議されていることは史実。
 一方で開戦前のアメリカ中枢に多くのソ連スパイがいて、ハル・ノートの原案を作成したハリー・ホワイトは実際にスパイ容疑が掛ったのち不審死している。
 大本営作戦参謀だった瀬島龍三は関東軍参謀としてシベリア抑留中にスパイ訓練を受けた、との証言がある。「厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した」「これらの人物は共産主義革命のため、モンゴルのウランバートルに存在した第7006俘虜所において特殊工作員として訓練された」「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」等々。
 いっそもう一捻りして開戦前からコミンテルンと繋がっていて、海軍に真珠湾をやらせ関東軍を煽り辻政信を調子に乗せ、実はこっそりゾルゲと酒飲んだりしてた・・・。どうかな。

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ロバート・キャンベル先生の講演

2025 NOV 1 19:19:09 pm by 西 牟呂雄

 しばしばテレビに出るロバート・キャンベル先生の講演会「国内外の災害見聞記録から問う人文学の現在地」を聞きに行った。テーマがこわい。
 ところが、話しは茶器の逸品、「付藻茄子(つくもなす)」。豊臣家が所蔵していたが、大坂夏の陣で壊れてどこかに行ってしまったものを、徳川家康が漆塗師の藤重藤元・藤巌親子に探させるとカケラを探し出してきてそれを復元した、という大変な代物である。続けて、今年の夏頃に危険を冒してウクライナを訪問した際に出会ったアーチストの話になり、キーウの攻撃を受けた集合住宅で拾い集めたお皿について云々、戦火を潜り抜けた生活物資について語った後に平和について考察するというオチでした。
 まあ話は面白いのだが、僕は初めの『カケラを探し出してそれを復元した』に引っかかって集中できなかった。
 藤重藤元・藤巌親子はあまりの家康の剣幕にビビり、焼け跡のゴミを見てヤバいことを悟り、そこら辺のゴミをかき集めて『ありました』と報告したのではないだろうか。そしてそのゴミからテキトーに復元したとしたらどうだろう。おそらくブツを見たことがあったので、そういう離れ業ができたと考えてみた。すなわち付藻茄子は藤重親子のオリジナルで、来歴は嘘。一方家康もそのことは当然知りつつも『よくやった!大儀である』と誉めそやし、豊臣を倒して手に入れた、という箔を付けて見せびらかした。
 それでも名器の風格が損なわれる訳でもなく、今日でも鑑賞に堪えるのだから別にどっちでもいいか。
 まっ、それぐらいの腹芸と阿吽の呼吸でこなす配下がいなけりゃ天下を取るという大仕事はできまい。
 この話、ウクライナを訪問するにあたってお土産に能登の地震で砕けた陶磁器を元に拵えたモニュメントからの流れの話のようです。

石川県のCALC社製

 講演の間中、上述の妄想に捕らわれていて後の方はすこぶる印象が薄い、キャンベル先生ごめんなさい。
 一つだけ、戦争によって完全に価値が逆転した場合、言葉の意味は捻じ曲がり感情もそれに乗り、書き記されたり残されたりしてとどまる。例えば繰り返し襲ってくる地震(能登・東日本・神戸)なども、あまりに悲惨な映像を見てしまうと、言葉はどうあるべきでどう読み取るのか。圧倒的な逆転に対しては、ひょっとして意味すら失うのか。
 どうやら僕はそのあたりから思索を始めることになりそうだ。

 ところでキャンベル先生は、話し方からは深い教養と優しい人柄が伝わった。古き良きアメリカン・リベラルの趣があって、トランプのことはさぞ嫌いなんでしょうねぇ。

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