Sonar Members Club No.36

Since July 2013

病み上がりのダンディー 

2019 DEC 7 7:07:05 am by 西室 建

 やれやれ、と何とか癌をやり過ごしてみたものの、これから再発におびえつつ体と脳に相談しながらやっていくしかないことに思い至った。要するに一人前ではなくなって、ちょうどそのタイミングで前期高齢者になったのだ。
 今から考えてもまずかったのは、昨今の医療事情により手術前にあらゆるリスクについての説明があり、うんざりした僕は『先生、それではこのままほったらかした場合と手術した場合で5年後の生存率はどっちが高いのですか』と大バカな質問をした。これは先生の自尊心を痛く傷つけたようで、その後の対応が大変に丁寧ではなくなってしまった。
 癌による死亡は直前まで意識がしっかりしていてあまりひどいボケにならずに死ねる、という怪しげな情報もあって、一瞬手術をためらった。
 手術そのものはやはり大仕事でもあり、長期に入院すると年齢もあるのでガタガタに体力は落ちている。今のところスノボとかゴルフとかヨットどころではなく、ましてや仕事もクソもない。いやそれはチョットは働きますよ。
 しかし考えようによっては、これから華麗な人生の秋をむかえるとも言える。
 そんなこの頃だが、ヒマにまかせているうちに次の言葉に出くわした。
『優雅の他には職業を持たない』
『壮麗で熱を欠き憂愁に満ちている』
 なんだこれは、今後はこうすればいいんじゃないか。ネタはフランスの詩人ボードレールの言葉である。かの詩人が上記表現で表した対象が何かと言うと『ダンディー』とはいかなる人間か、の定義である。とするとこれから私は『ダンディー』に振舞わなければならん、ということなのか。
 ボードレールは優れた詩人であるが、母親の再婚によるエディプス・コンプレックスに悩み続けて放蕩し、生涯困窮したことになっている。困窮は困る。
禁治産者として法定後見人から相続遺産より、月に200フランの暮らしだった。
 しかしながら余談であるが当時のパリの一般労働者の稼ぎが1日2フラン程度だったことを考えると、せいぜい極端な贅沢と高価な物が買えない、といった『困窮』だったのだろう。

ジョージ・ブランメル

 因みに『ダンディー』の元祖と言われるイギリス人、ボゥ・ブランメル(イケメンのブランメルの意味)ことジョージ・ブランメルは、平民ながらイートン校からオックスフォード大学を出たエリートで、ジョージ4世の友人でもある社交界の花形、今で言うファッション・リーダともいうべき伊達男だった。
 高級貴族クラブでトランプや知的賭博(ナポレオンが凱旋するか否か、といった賭け)で大勝ちしていたが、最後の最後でワーテルローの戦いでナポレオンの勝ちに賭け全財産を失いフランスに去った。負けが確認された際に、シガーに火を付けさせてゆっくりとサロンを出て行ってその足で渡仏したとされている。
 ところが実際には最後の賭けに負ける前から借金まみれだったらしく、フランスに渡った後には借金で投獄され、悲惨な老衰状態に陥ってくたばった,
要するにキザなハッタリ屋だった可能性が高い。これでダンディーもないもんだ。
 ところで、この時準備していた高速船でいち早く勝敗の情報を得て、株式市場を巧みに操作し巨万の富を手にしたのがロスチャイルド家の三男、ネイサンである。
 上記事情により、ダンディーは英国発祥なのだがその時代にはそれに当たるフランス語がなかったそうだ。そこでdandyをそのままフランス語で使うかどうかをフランス学士院で厳密に審査し、認知に至ったそうだ。現在は当時ほど外来語に対するアレルギーはないが、当時は違った。

 さて病後の暫くは養生するとして、特別に何もしないでボードレール流のダンディーになるにはどうしたらいいのか考えてみた。七カ条のご法度でどうだろう。

1.まず喋り過ぎるな 口数を減らせ
 長年の悪行はすでにバレているはずだから、今更取り繕ってもダメ。おまけに自慢話はみんな聞き飽きている。おとなしく人の話を聞いていなさい、だってもう年寄なんだよ。

2.吝嗇・狡猾は慎め
 あのねえ、これから稼いでももう遅いの!手遅れ。多くの成功者はこれで終わり感を持っていないので、もっと稼いでもっと贅沢がしたいとばかり、とかくズルに走る。それでいて実際にはケチということに成り果てる。これがいけない。その逆を行け。

3.病気と付き合う 闘うな
 闘う?負けますよ。治療はします。だけどあなた後何年生きるつもり?永遠には生きられませんよ。あと30年?無理無理。ビビッて怯えて見せるのは以ての外。

4.一人でやりなさい 簡単なことを人にやらせるな
 周りに頼むな、自分でやれ。その際分かっているフリをするのは禁物。要するにそれぐらい自分でやれ、に尽きる。ついでに『孤独』も重要なキーワードだ。

5.怒らない 嘆かない
 ただでさえ頭は悪くなってきているから、自分が悪いとまず考えて威張り散らさない。過去に渡って悔やんだり嘆くのもダメ、自分のせい。ついでに大袈裟に悲しむのもヤメ。

6.反流行 真似をするな
 一般的に流行とは音楽・ファッション・小説等、どれを取っても若い人のモノ。オジサンは取って付けても絶対に様にはならない。これからは頑固一徹。

7.身だしなみに無頓着になるな
 ですがねえ、入院していてよく分かったのはオジサンはだらしなくなると見られたものじゃない。なるべくフォーマルがいいのだが、私としては明るい色を選びたい。それに足元。

 これでダンディーじいさんになれるかな。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

ヒョッコリ先生宇宙を造る

2019 DEC 1 7:07:29 am by 西室 建

吊り橋

『よう、しばらく』
『あっ、どうも』
 喜寿庵の崖下を流れる川の改修工事が始まったので様子を見に行くと、ふた月ぶりか、ヒョッコリ先生に出会った。
『ここも護岸だけじゃなくて橋もそろそろ改修だな』
『そうですか。まだ大丈夫に見えますけど』
『そうか。君はこの吊橋になってからしか知らないんだな』
『はぁ。ズーッとそうじゃないんですか』
『この鉄骨吊橋になる前は木の橋が架かっていて、その頃は車なんか通らなかったから人がすれ違えるくらいの幅しかなかったんだ』
『ほう、そうですか。』
『それが伊勢湾台風の時の増水で流されちゃって、今みたいな吊橋に架け替えたんだね』
『知りませんでした』
『ここまで上がってきた』
 先生が指し示した先はほんの足元という高さで、川幅一杯にまで水が来たことが分かった。これじゃ木製の橋なんかひとたまりもない。当時の治水技術では仕方がなかろうが、ここから下流まで何億トンもの水量が移動したエネルギーを想像して恐くなった。
『その少し後にあそこの八幡様の高い木に雷が落ちて、全く人が行かなくなったから僕の実験室ができたんだな』
 エッ、研究室??
『しまった。言ってしまった。どうも君には口が滑ってしまうな。秘密の実験室を作ったんだ』
『また何を研究しているんですか』
『宇宙を造ってみたんだ。ただ偶然だったけどね』
『はあ?』
 またこの先生の不可解な話に乗せられちゃ堪らない。僕は黙っていた。
『ははあ、疑ってるな。よし、特別だ。おいで』
 とスタスタと橋を渡る。

怪しげな上り坂

 しょうがなく付いて行った。僕は橋の向こうの上り坂へ行くのはかれこれ40年振りだろう。相変わらず舗装も何にもされていない道だ。
 するともう無くなったかと思っていた八幡様があった!
 そしてその隣にくすんだ社務所のような掘っ立て小屋があり、先生はあたりを見渡すとおもむろに鍵を取り出して扉をギーッと言わせながら開けた。
『ところで言うまでもないが撮影厳禁だよ。あくまで秘密の研究だからね』

左側 八幡様

 別に撮るようなものは見当たらない。ところが先生が埃だらけの床をゴソゴソと片付けると、アメリカの家屋にあるような地下室への扉が出現した。その蓋のような扉をギーッと開けて中を確かめると
『早く入口を閉めろ、誰にも見られてないだろうな。それからここからはスマホも使うな』
 と言って真っ暗な階段を降りて行く。中の方でパッと電気が付いた。
『うわあっ!』
『静かに!』
 そういわれても、この不気味な物は何なんだ。電機の付いたぼうっとした部屋の真ん中あたりに、黒っぽい凝ったような、あるいはそこだけ透けているような空間が浮いているのだ、漂っていると言った方が近いのかもしれない。
 かといって、その何かは物体ではなく、また漂うようにも見えたが動いてはいない。空間の裂け目なのだろうか、奥の方にチカチカするかすかな光が見えた。
『これがその宇宙なんですか』
『良くわからないんだがね。フラスコで真空実験をしていたら何故かできちゃったんだ。超真空を作ってそこにヘリウムを打ち込むっていうコンセプトなんだけど』
『それをするためにこんな所に勝手に実験室をつくったんですか』
『キミィ!勝手にとは何だね勝手にとは。アノ大木に雷が落ちて大騒ぎになった後、心優しい私が密かに管理してやっているのだぞ』
『だけど、いくら何だって宇宙じゃないでしょう』
『まあ、その呼び方はワシが適当にそう名付けたに過ぎないのは確かだ』
『そもそも、これは物質なんですかねぇ。只の目の錯覚とか光の反射の具合とかじゃないんですか』
『いい質問だ。まず、フラスコ実験の時からそれは問題でこの宇宙は全体として質量がない。しかし内部に細かい発光現象が見られて、ある程度のエネルギーが内包されているはずなんだが、全く外に仕事をしない。ところがこいつは成長していて、フラスコを突き破ってしまったのだよ。これが破片だ。ある程度の密度はあって成長すると外部に仕事をする』
『良く分かりませんが、その”宇宙”というのは何でできているんですか』
『そこだよ!そこなんだよキミ!初めは真空実験だったと言っただろう。それにへりウムを打ち込むということは、まぁ後で気が付いたのだが複雑な経過を経て アルファ線照射のようなことが起きたのかと推測しているんだ』
『アルファ線って放射能ですか、まさか』
『だからさっき言った落雷で巨大なエネルギーがここで消尽したことと関係があるのかもしれない』
『確かに雷が落ちたあの大木の上の方が真っ黒になって裂けてましたね』
『ところが私の能力ではエネルギー計算もできないし仮説の域を出られない。ともかく、質量はないので地球の重力の影響を受けないからこうして漂っているのだと思ってる』
『あのー、それでこれは宇宙ができたことに』
『このゼロ質量も良く分からないが、何かの拍子に反物質がこの宇宙の中の原子の質量を相殺するのだろうが、ウーム』
『それで何でこれが宇宙なのですか』

こんな感じだった

『宇宙というのは138億年前に生まれたことは推定されていて、ビッグ・バンから膨張するのだが、この実験宇宙の膨張を観察していると、我々の宇宙の10億年くらいに当たるのじゃないかと思うんだ。何しろ最初はシミみたいだったのだから。その後加速度的に膨張するとして、あと10年もすれば今の我々の宇宙の規模に追いつくはずなんだ。10年後にはこの宇宙でキミと僕がこんな風に話してるのかと思うと、ウシシシシ』
『狂ってる。あのー、本当にそうなら大発見ですよね。発表するとか誰かに相談するとかした方がいいと思いますが』
『だれかに相談して特許でも取られたらかなわんしねぇ』
『それは・・・・、すいません。ちょっと気分が悪くなってきて。帰っていいですか』
『あっそう。ここのこと誰にも言わないでね』
 当たり前だ。この人が言うことは今まで殆んどが嘘だった。第一『宇宙を作った』などという話をしたらこっちまで狂人扱いされるだろう。
 
 それ以来八幡様には行っていない。いや、恐くていけないのだ。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

二次元の彫刻 切り絵の福井利佐さん

2019 NOV 30 0:00:06 am by 西室 建

 今月の厳選動画(各ページの一番下)にアップしたのは切り絵作家の福井利佐さんです。
 この人の作品は人の表情の捉え方に独特のものがあります。勿論「切り絵」という手法を用いるからですが、最初に見ると、これが顔?というほど細かく曲線が掘り込まれています。
 絵画を鑑賞する作法に、その背景となる時代・思想・歴史といったものを作品を通して「見る」という姿勢が望まれます。従って描く側もそれなりの気迫といいますかコンセプトを背負っていることになりますから、創作者と作品の間にはある種の緊張感があってしかるべきです。
 人の顔を描くとは、それはその人の人生でもあり、作者の方は時間的・立体的に、被写体(または創造体)の個性・歴史の厚みを2次元に表現していく。
 切り絵にも幾つかの手法があるらしいので、一概には言えませんが、福井さんは掘り込むように表情を造り上げているようにみえました。

モデルは?

 蛇足ではありますが、絵画というのは画風は変わらないもののテクニックやテーマの変遷に従って、あれっ同じ人の作品? となるような変貌を遂げることがあるそうです。
 御覧の作品などは顔の切り絵ですが大分趣が違いますね。もっとも、案外ご自身がモデルなのでしょうか・・。
 インタヴューとオリジナルの作品をお楽しみください。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

令和の新日本プロレス

2019 NOV 24 5:05:48 am by 西室 建

 プロレス・シーンのトップ・コンテンダーとしてのポジションを得ていた親日も、多くのインディーズ団体の乱立とその他格闘技の興隆を経てその姿を変えて今日に至っている。
 先般、さるプロレス識者から、ジェイ・ホワイトについてのコメントを即されてつくづく思う所があるので筆を取って自分の考えを整理してみたい。
 実は筆者はジェイについてはいささか苦々しい思いで見てきた。
 それは、日本における外人ヒールの立ち位置の変遷に大きく係っている。

ジェイ 結構ダイナミックだが

 言うまでもなく小生はかつてはゴリゴリの全日派で『馬場式プロレス』をこよなく愛してきた。ランニング・ネックブリーカー・ドロップやスピニング・トゥ・ホールドが好きで、ブッチャーの地獄突きや和田京平レフリーのアクションを好む、かなりの研究者を自称している。昭和の全日のヒールは凶器を使うという古典的な怪物的扱いだったのだ。
 平成時代には、以前のようにのめり込まず、三沢・武藤あたりに注目しつつ大日本やFMWと派生していくゲテモノ路線を楽しんでいた。即ち、アングルにせよヒールには独自のファイト・スタイルが不可欠で、その勢いでゲテモノ路線も支持していたのだ。
 たまに観る親日では、例外的に天山に声援を送った。あのモンゴリアン・チョップが好きだったからである。
 このあたりでヒールがややコスプレ化したと言うべきか。反則は減り、憎憎しげに振舞う演技力のみが求められるようになったのだろう。ここまではいい。
 平成中頃に新日はゲーム・ソフトのブシロードに買収された。僕はオカダ・カズチカ、棚橋あたりに注目したが、じきに離れる。社長がオランダ人のハロルド・ジョージ・メイに代わってエンタテイメント路線が目に余るようになったからだ。この人は子供の頃日本にもいたことがあり日本語もうまい。タカラトミーを立て直した辣腕事業家である。
 そのせいかどうか、観客の見方までが以前と変わって来たフシがある。
 上記プロレス識者はそこを鋭く指摘され、最近のジェイ・ホワイトの台頭には批判的な立場とお見受けした。
 確かに、ジェイの売り出し方は僕も大いに気に入らない。
 イギリスでデビューした後、新日の入門テストをパスしてきたニュージーランド人。いわば叩き上げだが、親日としてはあの『片翼の天使』ケニー・オメガの後として育成する営業戦略のようである。
 ところがヒール(悪役)で行こうということでバレット・クラブ軍団のリーダー格に押し上げ、邪道・外道を従えたアングルを作った。
 これはいかがなものか。少し安易に過ぎないか。
 何しろまだ30前の若者だ。本来ヒールはいいかげん年を喰ったオッサンがズル賢くやるか、本当に頭がおかしそうなアングルか、たとえ若くてもベラボーな不気味さを持て余しているくらいじゃなきゃ勤まらない。これは会社の方針だろうが、WWEスタイルのつもりだったらこのヒール路線はいささか甘い。そもそも周りのレスラーも、WWEのスーパースター達のようにキャラが立っていない。
 更に結構体が充実している割に組技とのコンビネーションが少なく全体がヘビー級の動きになっていない。
 やはりベビーフェイスの王道を歩ませるべきではないのか。このままでは伸び悩んでしまう。今のジェイは全日本に初めて来た時のブルーザー・ブロディのぎこちなさが被る。ブロディはその後キャリアを重ね、ハンセンとの超獣コンビをきっかけに大成した(性格は悪かったが)。
 上述プロレス識者が警鐘を鳴らすようにケニー・オメガの貫禄をこえられないであろう。第一ケニーはバレット・クラブではあったが、日本のファイト・スタイルに馴染むひたむきさが感じられたものだ。

青柳亮生 青柳優馬 

 一方の全日を見ると、後楽園ホールでの少ない観客にも拘らず、諏訪魔や石川修二のボテ腹ズブズブのラフ・ファイトや、若手の青柳兄弟の一途な試合展開をみていると、いつの間にかストロング・スタイルが甦っている(UTAMAROとヨシタツの試合はショボかったが)。たまたま見た試合では青柳弟が片海老固めでギブ・アップを取っていた。
 親日がWWE路線を目指しているうちにカラーが入れ代わったかのようだ。 WWEはテレビ観戦はそれなりに面白いのだが、それなりに分厚い役者が揃ってなければ成り立たない。かつて高田延彦の『ハッスル』がその路線を目指したが、チープな筋書きと選手層の薄さで失敗に終わっている。

 今からでも遅くない!もうちょっとタメをつくれば一皮剥けるはずだから王道を行け、ジェイ・ホワイトよ。新日本プロレスよ。

昭和プロレスの残像 (祝 馳浩文科大臣)

10.21横浜文化体育館

棚橋弘至の『パパはわるものチャンピォン』

歩く火薬庫 来島又兵衛のラリアット

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

 

不思議な子供の目線

2019 NOV 19 0:00:05 am by 西室 建

 随分見ていなかった喜寿庵の近所に住んでいる謎の友人ピッコロ君とマリリンちゃんにバッタリ会った。大分背も伸びて、恐らく学齢に達しているはずだが、保護者であるらしいヒョッコリ先生の奇怪な子育てでチャンと学校に通っているのかどうかもあやしい。今日はウィーク・デイで今は午前中だ。しかも僕は未だにこの子達が喋ったのを聞いたことが無い。日本語ができないのかもしれない。
「ひさしぶりだねぇ。元気かい」
 一応声をかけてみた。こっちを大きな目で見ているが表情はない。
 この子達と同じくらいの野生動物(まだほんの子供と言える時期のこと)は警戒心と好奇心の塊だ。警戒心を持ちつつ好奇心でオジサンの顔を見上げているのだろう。以前に僕が遊ぼうとしても、土足で家に上がってきたり手づかみでモノを食べたりと、存分に野生ぶりを発揮した。ひょっとしたら言葉の問題で廻りとコミニュケートできず、遊ぶこともできないのだろうか。

 ニューギニアの未開民族デアルベーリング族には全く文化が存在しない、という研究がある。その退屈さはフィールド・ワークに行った人類学者が二人もうつ病になったことでも知られる。そこでは子供は遊ぶことを禁じられ大人と一緒にひたすら働く。神話も宗教も思想もない。しかも全くの平等な社会なのだと言われている。
 一見理想郷のようで、遊んでいるオトナ(支配階級)もコドモ(次の世代)もいないという社会は、かくのごとく殺伐とする。
 そして私はフト考えた。目の前の日本語も怪しいために閉鎖されたような幼年時代を過ごしたこの子等も、そのうち一足飛びにいきなりスマホを手にしたらどうなる。今の世の中でしきりに言われる、SNSでの安直な繋がりが人々のコミニュケーション能力を下げているとしたら・・・。思うに高校卒業くらいまではスマホは持たせてはいけないのではないか。残念ながら手元にそれなりのことを言える統計的数字がない。

 話は戻って、相変わらず一言も喋らないピッコロ君とマリリンちゃんを芝生の庭に連れて来た。色々言っても理解しているかどうかも確認できないので(全くコミニュケートできない)特に何も言わずほったらかして、落ち葉を掃いていた。
 黄金色の夕日が射しこんで来て紅葉が美しい。
 二人は、と見るとしゃがみこんでいる。何してるんだと覗き込むと、カラカラになった落ち葉で遊んでいた。
 そして二人の足元にはケッタイなモニュメントというか何というか、枯葉のピラミッドのようなものを丁寧に積み上げている。それも一枚一枚丁寧に拾ってはソーッと乗せていて、何か目的があるようでもなくひたすら重ねている。

落ち葉のピラミッド接写

 面白いので接写したら御覧のようなただのゴミの塊にしか映らなかった。
 しかし、どうもこの子たちの中には何かのルールのようなものがあって、自分達の中には規則性のある積み上げ方があるようだ。
 掃き集めた枯葉をネイチャー・ファームに埋めて(天然リサイクルのつもり)戻ってくると、例によって二人は姿を消していた。
 後には枯葉のピラミッドが残されていた。
 それも、良くみると正確には正四面体を作ろうとしたらしく、底辺が正三角形にしてあり、各辺が同じになるように一枚一枚重ねていった物なのだ。
 これは面白いと写メに納めようとした瞬間、残酷な木枯らしがサーーッッと吹いてきて飛び散ってしまった。あ~あ。
 凄く惜しい気がしたが、チョット考えるとあの子達はデキがいい・悪いに関係なく、楽しく遊んで飽きて帰ったのだ。そしてもう一度やってきたところで惜しんだり悲しんだりはせず、また新たに全然違う落ち葉の遊びをするだろう。
 こういう子供たちをいい方向に伸ばす教育は、一体いかなるシステムがいいのだろうか。ただ、ほったらかしにしておけばいいという物ではなかろう。そのうち飽きて後には何も残らない。
 こういう童心を忘れずに体系立てて行ければそれはいずれ文化になると思える。上記デアルベーリング族のような事にはならない。ひょっとして大昔、こういうマインドのまま大人になったヒマ人が宗教とかを思いついたのかもしれないぞ。

 よし、この子等に僕がプログラムを組んで、独自の文化を情勢できるように教育してあげよう。ええっと、まず言葉からおしえるのかな・・・・。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

 
 

フリースタイル・バスケットボール BUGさん

2019 NOV 13 0:00:43 am by 西室 建

 バスケット・ボールを使ったブレイク・ダンスです。
 競技もあって、ステージで音楽に乗せて互いに時間内でパフォーマンスして競い合うバトルです。
 今月の動画(各ブログの一番下の厳選動画)はその日本チャンピョン、ピエロの仮面BUGさん。ただ、インタヴューの前に『ウリースタイル・バスケットボール』或いは『BUG』で日本選手権の迫力を鑑賞してからの方がインタヴューの味わいが出ますよ。
 中学卒業後、偶然出会ったフリーバスケにのめり込みます。そして腕が上がるにつれ、夢も行動も『世界へ羽ばたく』という方向にスケール・アップ。
 いきなりほぼ無一文でパリに飛んで行き、ホームレスをやっていた、というのも私達NEXTYLE好みのエピソードですね。
 ももいろクローバーZのステージに呼ばれて3万5千人の前でパフォーマンスした時、新たな境地に至ったと語ります。Bリーグのハーフ・タイム・ショウでもパフォーマンスし、選手達と交流を深めました。
 いずれはNBAへ、東京オリンピックへと夢は広がります。
 印象に残ったBUGさんの一言を。

 フリースタイル・バスケは ボールを通した自己表現。
「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

J・D・サリンジャー先生の謎かけ

2019 NOV 9 1:01:40 am by 西室 建

 大変人気のあるアメリカ人作家J・D・サリンジャーがしばしば目に入るこの頃だ。名作『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はいまだに良く売れているし。
 さる所でサリンジャーについて、英文学者が考察を加えながら自身の翻訳を朗読するイベントがあったので聞きに行った。
 サリンジャーは1919年生まれで、1940年に作家デビュー。この時期世界は大変な事になっていて、先の大戦に巻き込まれ陸軍に志願入隊した。そして史上最大の作戦、ノルマンディー上陸に参加している。
 終戦後に作家活動を再開。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を発表する。
 グチャグチャに焼け野原にされた東京と違って、全く無傷で戦勝国のニューヨークではこういった青春の葛藤がベスト・セラーになっていた。東京エリアでそういった波が盛り上がるのは更に5年ほど経った(作風は違うが)『太陽の季節』まで待たなければならなかった。
 イベントでは、僕が未読の短編が紹介され翻訳が朗読された。
 サリンジャーにおいて顕著なのは、無垢なるものへの愛情と憧憬という、ある意味アメリカ文学の主流の流れである、と言った解説があった。ストーリーはともかく、若い人たちの会話の描写が見事である、と。
 これはイベントの参加者がほとんど原文で読んだことのある人達の集まりだから、スムースに受け入れられたようだ。しかし僕程度の読み手ではこのニュアンスは解説抜きにはわからない。いやむしろイノセンスを映し出しているはずの若者も10代後半の学生なのが引っ掛かる。アメリカ人の10代後半と言えば肉体的には既に成熟してしまい、もはや無垢でも何でもなくなっている。となると・・・。

 突然話がかわるが、先日病気療養中に近所の公園に散歩に行ってベンチに座っていた。そこへ保育園の先生が、10人くらいの園児を引率して来た。あれは3~4歳だろうか、チビ供がピヨピヨといった感じで一列に歩いて来てこれから遊ぶところ。
 揃いの上っ張りと帽子で他の親に連れられた子供よりも目立つようにしてあった。チビ達は勝手に走ったりどこに行くか分からないので、先生は3人かかりだ。
 しばらくして鬼ごっこか何かをするのだろうか、二人一組になり始めたが、中に一人なかなか相手が決まらない子がいた。男の子だ。困って行ったり来たりしている。それでも決まらないでいると、先生が気付いて相手を選んで組ませた。
 わかった。その子は新参者だろう。引越しかなんかで最近この保育園に入ったのでまだ仲良しの仲間がいないのだ。どうもぎこちないのはそうに違いない。
 チビでも集団の中にはヒエラルキーと相性があって、どうしても初めて見る顔には警戒感がある。新参者の方も今までと違うということは瞬時に分かって、その集団に戸惑ってしまう。昔であればすぐケンカだ。
 その二人一組のお遊びが終わって自由時間にでもなったのか、三々五々と固まりになって隅っこに行くなり鳩を追いかけるなりと、3つのグループに分かれた。すると案の定例の子はどこにも属せず一人で走って行ったりこっちのグループを遠くから眺めてみたりとウロウロしている。チョット佇んでは走って移動する。表情はどうかとジッと目で追いかけて見ていると、何とニコニコとしていた。
 しかし、あれは楽しいんじゃない。泣き出したいくらいだろう。あの子はあの子なりに、自分もみんなと同じに遊んでいる、というアピールをしているのだ。一人でポツンとしていれば目立ってしまう。なるべく風景の中に溶け込もうとしているのに違いない。変に先生から構われたくないという思いが伝わってくる。『ボクも入れて』の一言がすぐに言える程コミニュケーション能力がまだ備わっていない。周りに知っている顔がいない恐怖感。心細いのを笑って誤魔化すような気持ちは想像に難くない。
 このチビのいじらしい振る舞いは、はたしてイノセントなのだろうか。うがった見方をすれば、無い知恵を振り絞って必死に世間との折り合いを探っている、いやな言い方をすれば打算・媚が無いとは言えないのではないか。

 関係ない話を長々としたが、サリンジャーは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で主人公に語らせた守る対象も、あるいはそう語る主人公ですら、実はインオセントな存在ではない、ということに気が付いてしまった、という仮説はどうだろう。
 サリンジャーが一生懸命に、『ほら、そっちは崖だろ』『こっちでは道に迷う』と助けようとする者達が、既にっ助ける対象でなくなっていて、そんな行為そのものがバカバカしい事に過ぎないとすれば(1940年代で既に)、自分の作品が真実ではないことの上に成り立っている、という疑問に耐えられなくなって隠遁生活に逃げ出した。有り得ないか?イベントで聞いていると、サリンジャーという人は直ぐに激怒するような激しい気質、今でいうプッツン・オヤジだったらしい。すなわち、自分のプッツンして引っ込んでしまった、とかね。
 隠遁と言っても街の人とは結構いい付き合いをしていたようで、知り合った若い女性と暮らしたりしていた。
 洋の東西を問わず、あまりに『青春』を追求し過ぎる作家は他のテーマに乗り移れないで、所謂『文豪』という終わり方にならないようだ。酸いも甘いもかみ分ける、とはいかず、つまらない女や男に引っかかって自殺するケースも多い。

 ところでもう一つ。
 今更であるが、なぜ『ライ麦畑でつかまえて』なのだろう。より正確には『ライ麦畑で捕まえる』とか『ライ麦畑で守る人』だと思うので、質問コーナーで聞いてみたかったが、他の人達があまりに面倒な質問をしていたのでやめた。
 時代は変わる、と良く言われるが、それどころじゃない、自分も年を取って変わっていくのだ。すると同じ音楽・文学に対しても、自ずと昔とは違った感想を持つことになる。特に青春小説を読み返したという評論を寡聞にして知らない。これは一つ村上春樹訳でももう一度読んでみようか。

ブログ・スペースを借りました キャッチャー・イン・ザ・ライ

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

痛快 脱藩大名  Ⅱ

2019 NOV 2 0:00:30 am by 西室 建

 江戸に送られた後、忠崇は唐津藩預かりで謹慎の後、特赦を受けた。しかしながら脱藩による改易処分(大名の改易処分は歴史上最後)を受けたためにまさに無一文で全てを失った。
 原部建之助もまた江戸での周旋に失敗し、失意のうちに旧居に戻って無聊を囲っていると、近隣の百姓である石渡金四郎が通りがかりにいきなり土下座した。
『原部様』
『おう、そちは』
『へえ、請西の百姓、金四郎でございます』
『む、息災か。御維新以来我が藩は改易扱いで苦労をかけておる。その方等はどうじゃ』
『いや。それが、一つお聞きください』
『いかがした』
『へえ、実は、手前共の離れにお林様が寓居されておりまして』
『ほーう、・・・なに!殿がだと。バカなことをを申すな』
『それがまことにございます』
『東京の忠弘様の所におられるのではないのか』
『突然お見えになられて、開墾する、と言い出されたのでとにかく家の離れにご案内致しました。そこでお過ごしで』
『しかし何をしておいでだ。殿に百姓ができるのか』
『とても見ちゃいられませんや。お手伝いします、と申し上げても「その方等に迷惑をかけとうない」と取り合ってもらえません。そりゃ土台無理ですよ。何も採れないからあれじゃ冬は越せません』
『何と・・・。お助けしなければ』
『お助けって、まさか一緒になって百姓をやるのは是非お止めくださいよ。私等やりづらくってかないませんや。しかも百姓の合間に何のつもりか竹竿を振り回していらっしゃいますが、近所のガキ共が面白がって真似すんですよ。お林様はたいそうお喜びで、ウチのガキを筆頭に大勢集めて一緒にやりだしたんです。こないだなんざその竹の先に鎌を括りつけてました』

宝蔵院流槍

『それは宝蔵院流の槍だ。殿はその槍の達人だ』
『えっ、ありゃ武道ですか。益々冗談じゃない。そんなもんに夢中になられてうちのガキが戦に取られたらどうしてくれるんですか』
 慌てた原部は八方手を尽くして東京府の下級役人の職を探しだし、渋る忠崇をとにかく説得した。
 ところが明治8年に東京府権知事として楠本正隆が赴任して来る。楠本は大村藩士で、後に衆議院議長・男爵にまで上り詰める切れ者だ。当時は大久保利通の腹心であった。改革派として辣腕を振るうのだが、その強引さに反発し10等級も下の忠崇は楠本と衝突して辞職する。
 周りは慌てるが、忠崇は意気軒昂であり「これからは商(あきない)も分からなければ」と何故か函館に渡り、仲栄助商店で番頭となってみせた。律儀に務めるが、仲商店は破産、忠崇も再び一文無しになる。
 しばらく神奈川県座間で水上山龍源寺に住み込んだ後、次は大坂において西区の書記に奉職した。
 このドタバタの間、華族制度が施行され旧大名は尊王・佐幕の別なくことごとく爵位を与えられる。旧勢力の懐柔が目的で、武士を潰す際の数々の内乱を二度と起こさないための方策だった。
 ところが、維新のドン詰まりの脱藩で、新政府によって改易された林家は全国でただ一藩爵位が与えられなかった。林家そのものは士族として甥に当たる忠弘が継いでいた。
 忠崇は転々としながらも嘆くでなく、後悔の念を表すでもなく、慎ましくはあるがその時その時の境遇において花鳥風月を楽しみつつ暮らした。

 明治26年にもなって原部等の奔走・嘆願で、林家当主の忠弘は華族になる。そして忠崇もまた復籍し、宮内省東宮職庶務課に勤めたり日光東照宮の神職となったりして昭和16年まで生きた。
 死に当たって辞世は、と尋ねられると「明治元年にやっている」とだけ答えた。それは仙台で降伏したときのものらしい。
『真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ』
 切腹の覚悟を持っての辞世であろう。
 墓所は港区愛宕の青松寺だが、実はこのお寺は禅宗の名刹で、忠臣蔵の赤穂浅野家の菩提寺でもある。世間を憚って浅野家の墓所は現在でも空きにされている。赤穂浪士は初め青松寺に来たが、難を怖れた寺が入れなかったため泉岳寺に行ったのが実態なのだった。
 その浅野本家筋にあたる旧広島藩主・浅野長勲が昭和12年に没したが、それにより忠崇が元大名のただ一人の生き残りとなった。
 当時の新聞は最後の大名として幾つかのインタヴュー記事を載せた。本人の言葉が残っている。
「いや浮世は夢の様なものです。私共若気の至りでやつた事も今考へて見ると夢です」
 若き日の前代未聞の藩主の脱藩についても。
「武士道、武士道と言って鍛へられた私です。そして300年俸禄を食(は)んでいる。どうも将軍の取り扱いが腑に落ちなかった。徳川には親藩・譜代もかなりある。私が蹶起(けっき)すれば応ずる者があると思ったのが私の間違いの元です。世の中を知らなかったのです」
 志叶わず敗北したこと。
「私は私の考えで行動したいと思い、そして降参しました。降参すれば斬罪になると言ふ事は覚悟して居りましたが、自殺する気にはなれませんでした。自殺すれば誰も私の心事を弁解して呉れる人はないと覚悟して、泰然として東京に送られたのであります」
 赤心誰ぞ知るや。新体制はかくの如く清々しい武士を役立てることは出来なかったが、しかし仕掛けた側も同じように多くの血が流れなければ革命はできるものではないのだ。
 令和の平和な時代に、内なる錬磨が必要とされる所以である。

おしまい

痛快 脱藩大名  Ⅰ

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」
 

痛快 脱藩大名  Ⅰ

2019 OCT 31 23:23:56 pm by 西室 建

 房総半島の上総の国は、ちょうど江戸湾を括るように対岸の三浦と富津岬が太平洋の防波堤となり、波穏やかな土地であった。全域に渡って浅い海が隆起した場所であるため高く峻険な山はないが、山間は濃い緑の森林が深々と横たわっている。平野部もそう広々としてはおらず、江戸期を通じて旗本の領地がまばらに広がって大藩は置かれていない。
 この海峡を渡ったのは日本武尊が著名である。中央に従わなかった豪族の阿久留王(あくるおう、悪路王とも)が成敗され、現代でもその塚が祭られている。浦賀水道(走水の海)の海が荒れた際に弟橘媛(オトタチバナヒメ)が入水して鎮めると、日本武尊はショックの余り何日も立ち去れなかったので『君去らず』が『木更津』の語源とされる。隣りの地名は『君津』である。某製鉄会社がかの地に進出した際、地元全体に巨額の固定資産税が行き渡る様にと行政の合併が検討されたが、候補に挙がった地名は『君更津(きみさらづ)』だった。
 他にも、出だしでコケた源頼朝が真鶴から海路で落ち延びて来たが、上陸したのはもう少し南の鋸南町竜島である。
 江戸中期に三河譜代の旗本、林忠英が11代将軍徳川家斉の覚え目出度く加増され1万石の請西藩主となり、一文字大名と呼ばれた。
 一文字大名という呼び名は、三河時代の先祖の功により年頭の賀宴において将軍から一番に盃を受けることに由来する。
 その三代目林忠崇は幕末の荒波をモロに被る運命であった。
 倒幕の官軍が上京して来ると、当然藩論は真っ二つに割れた。三河以来の将軍家に忠誠を誓って戦おう、いや既に将軍は蟄居謹慎中であり、これを騒がすのはいかがなものか、領民を巻き込んでの戦ともなれば混乱は必定、ここは自重すべし、万が一の際はお家取り潰し・・・・。
 忠崇は長身で眉目秀麗の20才。宝蔵院流槍術を良くする英邁な文武両道の若者は迷いに迷っていた。
 江戸城の無血開城に行き場を失った主戦派の遊撃隊が近隣の大名に助力嘆願にやって来た。彰義隊が上野で壊滅する直前である。
 藩主に対座したのは、御徒町の練武館で”伊庭の小天狗”の異名を取る心形刀流の達人、伊庭八郎であった。
『殿。この難局にあたり天下をみすみすと薩長に席巻されたとあれば、武士の一分は立ちましょうや。恭順の意を示された上様に領地召し上げは何たる無礼。一文字大名の殿が誠を尽くさず何の面目が立ちましょうや』
 八郎の火を吹くような弁舌と射るような視線に若き藩主は奮い立ったものの、その後の家臣団との協議は一層揉めた。
 主戦・恭順双方譲らず。領民の安堵には人一倍気遣ってきた忠崇に腹を決めさせたのは次席家老である原部建之介(ばらべけんのすけ)の諫言だった。
『恐れながら、成程忠義を尽くすのは武士の本懐。我等命を惜しむものではありませぬ。さすれども城を持たない我が藩は真武根陣屋(まふねじんや)で敵を迎え撃つは短慮至極。みすみす官軍に蹂躙される民百姓は迷惑千万』
 古株の建之助には何かと頭が上がらない。しかし原部の話は常に長いのだ。おまけに飲み込みが悪くオッチョコチョイでもある。
 忠崇は静かに目を閉じて聞いているうちに、カッと刮目して言った。今でいう切れたのだ

『のう建之助。儂が藩主であるから戦えぬと申すか』
『滅相もない。いざとなれば無論お伴致す所存にて』
『・・・・しからば・・・・余が自ら脱藩いたす
『それはまことに・・・・はぁっ?今何と申されました』
『脱藩いたす』
 家臣団は言葉を失った。かろうじて建之助が絞り出した。
『と、殿。脱藩は天下の御法度。お家はどう』
『もうよい。脱藩するのは余一人なのだ。そこもと等、おのおの好きに致せ』
 言い放つとサッサと奥に引っ込んでしまった。
 大騒ぎになった。
『原部様、これは如何なることに』
『ワシに解る訳がない。もうこうなったらメチャクチャだ。みな勝手に致せ』
 翌日、武装した忠崇が下僕を一人連れて陣屋を出ようとすると、異様な光景に目を見張った。
 原部以下藩士70名、足軽人足100名が出陣準備をして待っていた。
『殿、お伴致しますゆえ御下知を』
『建之助、このバカ者。こんな大勢の一斉脱藩があるかぁ!』
『はて、確か好きに致せと申されましたが』
『あれは残ってまつりごとに励め、という意味じゃ』
『今更二言はありますまい。好きに致しております』
 軍資金5千両、洋式訓練のライフル400丁、二門の大砲まで引きずっていた。更には「お林様」と呼び忠崇を慕った領民がこぞって沿道で土下座して送る。忠崇は高揚し、勢い余って陣屋に火まで放ち出陣した。
 遊撃隊と合流した一行は江戸を目指さず、館山から海路にて真鶴に上陸した。ちょうど古の源頼朝の逆ルートである。
 官軍を追い詰めようと伊豆韮山で戦端を開き、彰義隊の上野戦争の折には援軍を押さえようと箱根の関所を占拠した。
 ところが突如、気脈を通じていたはずの小田原藩が寝返り敗走する破目になってしまった。
 この戦闘の際に伊庭八郎は左手首を切られた。これより隻腕となるが、得意技は精気に満ちた『突き』だったために戦闘能力が落ちることはない。
 伊庭はその後函館の五稜郭まで戦うのだが、北上中の船中において医師より失った手首の先端の骨が飛び出してくる恐れを診療されると、有無を言わずに肘から先を自ら切り落とした。
 関東における戦いに見切りを付けた忠崇も幕府海軍とともに北上した。
 ところで新政府としては藩主自らの脱藩を重く見て、廃藩置県前の最後の改易処分とし、これが維新後の困窮の原因となる。

 小名浜に上陸した遊撃隊並びに林忠崇の一行は、磐木・平、会津、米沢を経て仙台入りし、伊達藩と共に新政府軍を迎え撃つ準備にとりかかった。
 伊達藩は、乗り込んできた官軍奥羽鎮撫総督府下参謀という長い肩書きの世良修蔵(長州藩士)を暗殺した後、奥羽列藩同盟を結成して戦意はすこぶる旺盛である。世良はこういった革命時に権力を握ると必ず現れる一種のクズで、人間の業の深さはかくも醜いのかという所業により天誅を下されたのである。
 慌しく合議がなされるが、その席では見かけない黒装束の部隊が忠崇の宿舎にしている旅籠の周りに朝帰りしては解散する。屯しているのかと思うと直ぐに姿を消してしまい、誰が何をしているのか忠崇は訝った。
『建之介。あの黒装束は何者ぞ』
 と聞きにやった。方々聞き込んで戻った原部は言上した。
『どうやらあの者達は武士ではなく、無頼の徒でござる。烏(カラス)組と称して暴れ廻っておるとか』
『ほう、そのような者達に戦ができるのか』
『はっ、それが夜討ち専門で、大層な武功を挙げているようござります。率いているのは仙台藩士の細谷十太夫』
『成程。人は使いようだな』
『こんな歌まではやっております。「細谷烏と十六ささげ 無けりゃ官軍高枕」と』
『十六ささげ、とは何じゃ』
『棚倉藩の誠心隊のことでござる』
 事実、この黒装束に一本刀の烏組は夜襲ばかりをかけ続け、散々官軍を悩ませた。ゲリラ部隊だから敵地に留まらず、ヒット・アンド・アウェイに徹したため、単純な勝敗の判定は下しにくいものの、全て成功させている。
 しかしながら、正規軍の昼間の戦闘は銃の性能の差も大きく、奥羽列藩同盟の戦況は利あらず。次々と降伏していった。
 そこに徳川家存続の沙汰が下り、伊達藩まで恭順の意を示すに至って忠崇も覚悟を決めた。転戦三月、原部等の表情にははっきりと疲れが見て取れた。

つづく

痛快 脱藩大名  Ⅱ

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

 

実はワタクシ

2019 OCT 27 21:21:05 pm by 西室 建

 大腸にデキモノがあることが分かったのです。
 今更珍しくもないのですが、どうやら早期発見ではない、と。早速、入院・手術の運びとなりました。別に目の前が真っ暗になるということはありませんね。むしろ、とうとう来たか、です。
 そしてお医者様に禁煙誓約書を書かされました。
「あのー、いつから始めましょうか」
「何をですか」
「その・・・、禁煙を」
「何をのんきなことを、きょうか・ら・で・す
「・・・・」
 そんなことはいきなり無理なので、まず1日10本にし、翌日5本、以下4・3・2・1本と減らして入院の計画を立てました。
 酒を飲むな、とは言われなかったのです。さすがに手術後には1~2ヶ月は止めなきゃならんでしょうから、忘年会には早すぎるものの連日飲みまくりでしたね、2週間くらい。
 その間、やたらと最先端の検査をされました。いやもう凄いの何のって。この辺りで全く冗談の通じる状況ではなくなりました。あまり詳しく説明する気になれませんな。
 そして入院。手術2日前です。絶食が始まる。寝てばかり。点滴の針が痛い。WiFiも繋がるしスマホ自在。大雨の被害、天皇陛下即位の儀、日本シリーズソフトバンクの強さ、睡眠導入剤を貰ってようやく眠れる。
 ところで、お見舞いというのはあんまり早く来られても有難いものではありませんな。闘病後半で退屈な時に来て頂くのはいざしらず、こっちがまだどうなるのかはっきりしないのに『どうなんですか』などと聞かれてもほぼ迷惑でしかありません。『痛いですか』などはむしろ腹立たしい。痛いに決まってんだろ、聞かれて直るならいいけど心配そうな不景気な顔はかえって病気が悪くなる。
 2日目。回診の先生が朝見える。きのうが祝日だったので入院手続き。絶食の割りに空腹感はありません。
 麻酔科の説明。点滴は相変わらず痛い。不思議な事にタバコも吸いたくなりません。これは禁煙できるかな。
 日本シリーズ、菅野投手が気の毒になるような巨人の無様な負けを見ていると、具合がおかしくなった。既に絶食してカラッポのはずのお腹がですよ。
 これはもしかしたら、あしたちょん切られる大腸の一部がビビッて暴れ出したのか。お医者様の話ではこいつもかれこれ1年以上はワタクシに寄生していたわけです(別にカワイクないけど)。別れを惜しんでたりしてねぇ。
 さすがにコロッとは眠れない、結構な情けなさだと精神を統一しました。ワタクシは直る、怖れない、悲しまない。
 3日目、朝から手術。これでもう目が醒めなかったら、とは一瞬思いましたが。
 それからほとんどは意識が無い。次に感じたのは痛み。痛み止めは効かない。
 くっついていたモノが体に悪いと切除すれば、寿命と引き換えにこれだけの痛みに耐えなければ落とし前がつかないのか。痛みの中を漂って一晩が過ぎて、翌日も苦しみます。
 医療チームの連携には敬意を評するが、痛いのはどうにもならず、他に痒いも襲い掛かって来た。そして慢性的に患者の我儘を聞いている訳にもいかないでしょう。術後の24時間は長すぎるのです。 
 かつて石原裕次郎が手術後に、当時の技術では仕方がないとは言え『腕を切り落としたい』と口走ったのを兄である慎太郎が書いています。
 4日目が過ぎました。2日間で2時間くらいしか眠れません。
 こうして動けないままに意識が宙を舞ってしまえば、それは例えば実感を伴う夢のようなものを見ている状態とか、幽体離脱とでも言える状況でしょうか。いや、この痛みから一歩も外に出られないのでその逆か。
 これはひょっとしたら・・・・、いやアブナイアブナイ。危険領域から返らなくては。ワタクシはワタクシで守らなくちゃ。
 点滴を受けていますが、水は飲めないので喉の渇きも辛い。
 5日目、人間に戻ります。ただまだ苦しい。ワタクシにもそれなりに心配してくれる人はいても、それどころではありません。今まで不躾にお見舞いをした人、申し訳ありませんでした、デリカシーに欠けていました。

 ソロリソロリと病室を歩きだしました。
 入院6日目、やっとまた、意味のないブログを書いてみています。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

BUG!?
柴野大造
福井利佐