昭和天皇の孤独
2025 AUG 15 0:00:18 am by 西 牟呂雄
戦後の混乱期、昭和天皇は退位すべきか深く悩まれた。東京裁判はこれから始まる。朝野に退位論が蔓延した。無論、責任論は分かっている。相談する適当な相手も周りにはいない。そもそも側近の侍従たちはそれなりの意見は持っていたのだろうが、明確に奏上する権限もない。
深く悩んだ挙句、捨て身でマッカーザーに面会したことはよく知られている。この間、陛下が誰かと相談した形跡は一切ない。御前会議の決断からどれ程の孤独であったか想像もつかないのである。
マッカーサーは天皇陛下の訪問にはいささかビビり、配下の二個師団に武装させて会談に臨んだ。だが、内容に心底驚き、瞬時に尊敬の念を抱いたことは様々に考証されている通りであろう。
その懊悩の時に、ごく私的に面談したと思われる民間人がいたことに気が付いた。
一人は田中清玄。戦前の武装共産党の指導者であり、戦後は紆余曲折を経て右翼の黒幕となった怪物である。
逮捕され小菅から仮出獄した後に、盲目の高僧山本玄峰の元で禅の修行をする。この玄峰の元には多くの人士が参禅していた関係で人脈が広がった。終戦の10月、ツテを通じて週刊朝日に国体護持の一文を乗せると、これを読んだ宮内庁が侍従次長の木下道雄を通じて賜謁を申し出て(おそらく非公式のため)生物学御研究所接見室にて拝謁が実現した。このことは後に活字になったため広く知られた。
田中は陛下に退位を思い止まるよう言上し、更に皇室財産で国民を救うことを訴え、復興に励ますようにと懇願した。ただ、陛下の方からの記録は無いためどの程度正確かはよくわからない。
しかしマッカーサーとの面談の3か月ほど後なので、すでに陛下の御意思は伝わった後であり、この時点で大御心を占めていたのは退位問題と考えてよい。心強いアドバイスだったことと思料できる。
田中の思想遍歴は複雑で、右翼の巨魁とされながらも児玉一派とは対立し、銃撃されるといった事件に巻き込まれている。更に反代々木ということで全学連の闘士にも資金提供することもあり、本稿で語り切れるものではない。
その後、ローマ教皇からキリスト教への改宗を勧められる書簡が届き、これについても大いに悩まれたらしい。そこに現れたのは謎に包まれた人物、三上照夫だった。臨済宗妙光寺の今津洪嶽老師の元で修業した二十歳の若者だった。天皇とは20歳以上年下で、どういう経緯かわからないのだが、戦後率先して皇籍離脱をした元陸軍中将賀陽宮恒憲王のお導きで昭和天皇と面談する。これもお忍びのため、場所は御殿場で静養中の秩父宮別邸と推定される。
その際、三上はただ「冬枯れの さびしき庭の松一木 色かへぬこそ かがみとせむ」とだけ朗々と謡い後にしたとされる。これはこの年の歌会始の陛下自身の御製だった。筆者が思うに、これで我に返った陛下はキリスト教への改宗はせず、伝統に返る御意思を固められたのではないだろうか。
マッカーサーもキリスト教の普及を勧めたがったフシがあったので、危ないところだったのかもしれない。筆者の子供の頃、それなりのホテルに泊まるとよく新約聖書がしつらえてあったが、あれはGHQの指導の名残だった。
ところでこの三上という人物は極めて興味深い経歴だ。昭和3年に生まれて同志社中学に進学。ご承知の通り同志社の建学の精神はプロテスタントのカルバン派でありキリスト教に触れている。ところが開戦すると3年修了時に陸軍に志願、通信から航空に進んで凄いことになった。
幹部候補生として台湾移動中の輸送船が魚雷攻撃で撃沈され、漂流するも奇跡的に救助された。されたはいいが今度は特攻隊員となり天号作戦に参加。敵艦体当たり寸前に機銃攻撃で片翼が吹っ飛ばされ瀕死の重傷を負ってしまう。台湾の小島に流れ着いて九死に一生を得た。
敗戦後、復学して同志社中学を卒業するが、上記妙光寺での修業はこの時期である。その後同志社外事専門学校にてヘブライ語でキリスト教神学の勉学にのめり込むのだが、そのかたわら辻説法で「大東亜戦争は日本が仕掛けた戦争に非ず」と説いた。そして昭和天皇との面談となる。
皇室との接点はここで一旦途切れるのだが、三上は益々求道者となり、比叡山に上って百日断食行にチャレンジしたり武道の修行に精を出す。この百日断食行は有名な千日回峰行ではなく、天台関連で検索しても出てこない。おそらく九十日間阿弥陀仏の周りを南無阿弥陀仏と称えながら歩き続ける「常行三昧」の行のことではないだろうか。
そして説法を慕ってきた弟子たちとともに日本松栢学会を立ち上げ指導に当たった。
すると、ただ一度の面談から27年も経った昭和51年、再びお召しがあり拝謁する。察するに昭和天皇の心の琴線に触れること大であり、以後10年にわたり月に一度程度の割合で参内し続けた。
前述の田中と違い、表の活動をほとんどしなかったので目立たなかったのが都合がよかったのだろう。試しに検索しても本人の写真と確実にわかるものはない。著作の「第三の文化の時代へ」あるいは宮崎貞行の評伝「天皇の国師」の一部に面談の断片があるのみである。
二度目の拝謁では太平記の「正成一人 いまだ生きて有りと 聞こしめされ候はば」を、翌月の三度目では「うみゆかば」を熱唱した。以下、ホントかよ、という下り。
「自分の耳には、ときどき天上から妙なる音楽が聴こえてくることがあるのだが、これは幻覚なのだろうか、あるいは病気なのだろうか」
「それでこそ天皇陛下なのです。古来、優れた天皇は、陛下のように天と交信し、天の声を聴く力をお持ちだったのです」(『天皇の国師』)
「私が死んだらどうなるのだろう」
「陛下、われわれが行くところとは違うでしょうが、間違いなく地獄です。陛下は先の戦争で戦死した300万人の因縁を受けなくてはなりません」
「そうか」(『第三の文化の時代へ』)
他愛もないと言えば他愛もない、アブナイと言えばややアブナい会話である。
しかし、あのような英明な陛下が単なるオカルトおやじを近づけるはずもなく、三上自身は論理のしっかりした者であったから、このような会話が害になることもない。
むしろ、退位に揺れた時期に石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、入江相政侍従といった面々の必死の思いが伝わってくる。
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