『の』 および 左川ちか について
2025 DEC 9 12:12:22 pm by 西 牟呂雄
友人が編集する文芸誌で詩人かつ翻訳家のサワコ・ナカヤスの文章に恐れ入った。以下、一部を抜粋させていただく。尚、原文は英語で訳はその編集者である。
『の』について。
ーこの魔術的というほかない(そしてつけ加えるなら、きわめて美しくもある)日本語であった。そしてわたしにとってこの語は、翻訳そのものの魔法をとらえている。『の』に翻訳不可能なところは何もない。それはそれ自身、それ自体においては大した意味もない語であり、おおむね、人間、物、場所などのあいだの関係性を示すものにすぎない。それは私たちの世界を組織している、シンタックスと呼ばれる見えない糊である。私はそれを愛する、もしも無人島に持っていくものを選ばねばならないとしたら私はその『の』を持っていくであろう。ー
どうです。このあと、濃厚な考察と編集者との抱腹絶倒のやりとりが続くのだが、編集者はあることに気づく。かつて東京23区エリアの電話番号が7桁だったとき、口に出して言う際にはXXX『の』XXXXと言い慣わしていたことを。ホントだ!
そして僕も気が付いた。母方が神道だったので葬式の時には祭詞を奏上するのだが、死ぬと『命(ミコト)』になるためXXX(苗字)翁(女性は媼)『の』命(みこと)、と読みあげていた。
昔から日本ではそう呼んだのだ。源義経はミナモト『の』ヨシツネであり、藤原道長はフジワラ『の』ミチナガという具合に。これらのケースは指し示す『の』や所有を主張する『の』ではなく、人のバック・グラウンドを表していて、場合によっては省略も可能な『の』である。
すると将来AIなんかが効率的な日本語を流暢に使った日には消えてしまうかもしれない。そしてそれに洗脳されたガキが妙な『の』抜きの日本語を喋ってしまうのではないかと恐ろしくなる。それは困る。サワコ・ナカヤスさんのように無人島には持っていきたくはないが、無性に愛しくなる。
例えば『食べ「ら」れない』の「ら」のように、将来その存在すら危ぶまれる音が『の』か。
ひょっとしたら既に捨てられた『の』がその辺に落ちてないか、気になってしょうがない。
『の』を散りばめるとどうなるか。
さびしいの かたわらの女(ひと)声に出す
旅路 の 秋 の 雹 の 冷たさ
ダメだな。
ところでこの サワコ・ナカヤス という人は左川ちかという明治生まれで昭和初期に作品を発表した前衛詩人の英訳者でもあり、その翻訳によってアメリカ翻訳者協会ルシアン・ストライクアジア翻訳賞を受賞したという人。
更にその左川ちかは、ジェイムズ・ジョイスの翻訳なども手掛けた一種のモダニズム詩人で、念のため検索したところこれがまた大変にマズかった。暗く不吉なモチーフが散りばめられて返ってテンションが上がる。
どのくらいマズいかというと、読んで1週間はマトモな日本語の文章が書けなくなった程だ。戦前にこんな詩人がいたとは、つくづく詩人にならなくてよかった。是非読まないことを勧める。
とは言いつつも、恐る恐る読み込んでみるとですな。
作品をそのまま載せるのは憚られるが、この人の見ている光景が脳内変換して、金属製の言葉がペン先から飛び出してきたような詩である。
北海道から上京すると、緋色の裏地を付けた黒いビロードの上下、黒いベレー帽に黄金虫の指輪で銀座を闊歩する。ジェイムス・ジョイスが泥酔の中に紡いだ詩の翻訳でおかしくなり、ロクでもない男にしくじったのかとも思ったが違う。
やはり最初からこういう才能だったのだろう。出身地の厳しい自然に対峙した時、この人には風雪の音がレッド・ツェッペリの楽曲に聞こえていたに違いない。
どうです、読みたくなりますか。
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