八丈島航海記 観光編
2015 AUG 21 20:20:49 pm by 西 牟呂雄
朝起きてみると涼しい。島はヤシの木やカシュガルが繁りハイビスカスの赤い花がいかにもトロピカルだが吹く風が涼しい。やはり東京の照り返しとは違うのだろうか、気温も猛暑日ではなかった。
少しは観光しなければ、と島の奥の裏見ケ滝温泉と言うところまで行くことにした。
水着着用の男女混浴という触れ込みだ。
途中、丸い石を積み上げた石垣の家を見る。島内の大里地区には何万年かかったか分からないが波に打たれて角も取れた丸い石が採れてこれを積んだとか。玉石という。
その玉石の運搬は島に流された流人が一つ一つ海岸から運び上げたらしい。そして石1個につき白米のオムスビ一つが報酬として与えられたという話だ。恐ろしく低い生産性だ。
八丈島は有史以来人は居住していたが、食糧確保には常に苦労していた。観光案内には明記されていないが、口減らしに餓死するため年寄りが進んで篭って死んでいく姥捨て山のような洞窟もある。そういった所に流人を送り込むのだから、オリジナルの島民は迷惑だっただろうに。
ご存知の通り八丈流人の第一号は宇喜多秀家でお墓もここにある。他に源為朝の来島伝説があり、八丈小島で自害したと言うがどうだろう。確かに為朝神社があり、また次男が建立したとされる宗福寺があり、そこの住職は源を名乗っているそうだ。
流人は江戸期を通じて1800人程度で年で言えば7人くらいのペース。テレビでは大岡越前や遠山の金さんが毎週毎週『終生遠島申し付ける』とやっていたが、そんな人数ではない。おそらく最下層の労働力だったろうが、島の女性と暮らすことはできた。多くは江戸にいたころの職を営んだらしい。
島民の食料事情を劇的に改善したのは薩摩芋である。痩せた土地でも良く育って多くの島民の飢えを救った。それで造ったのが昨日堪能した島酒『八重椿』。
そんな話を聞きながら着いたのは『裏見ヶ滝温泉』
密林の中を分け入っていくようなロケーションに秘境感が漂う。海で遊んだ若いサーファー達が来ていた。
崖の途中にあるので湯船から下を覗き込むとインディー・ジョーンズ的な迫力のある風景。
ぬる目のお湯にそれこそ1時間でも2時間でも入っていられそうだったが、もう一つ景勝地があるので先を急いだ。それはこの温泉の名前になっている裏見ヶ滝である。これ「恨み」じゃないですよ。
以前、SMCメンバーの中島さんが九州の名所として紹介していたような、滝を裏側から見物できる場所で、温泉から細い山道を登ったところだ。その途中に玉石の参道があって前述の為朝神社もここにある(険しすぎて行けなかった)。
滝はまるでジャングルの中の水晶のような美しさでたたずんでいた。思わずその滝壺に飛び込みたくなったが、環境を破壊してしまいそうで止めた。是非このままで取っておいて欲しい。裏側から見ると濃い緑の中のプリズムのようで少し寒さを感じる。
さて八丈島にはヨット乗りには是非お参りしなければならない碑が立っている。
1991年ジャパン・グアム ヨットレースに参加していたマリンマリンの慰霊碑だ。落水のあとトラブルが続いて最後にキール脱落で転覆し、全員遭難したのだ。同じレースでやはり転覆しライフラフトでの長期間漂流後たった一人生還者がいた「たか号」のことは大きなニュースとして取り上げられたのでご記憶の方もいることだろう。
幸い来る時は荒天にもならずに無事に入港したので、帰りも、そしてこれからの色々な航海の安全を祈りお線香を立ててきた。
安全第一で酒も控えますから我等に好天を
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Categories:ヨット