Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 伝奇ショートショート

南蛮倭国盛衰記 旋風そして維新

2026 FEB 21 0:00:04 am by 西 牟呂雄

 少年達が銛を手にして次々に小舟から飛び込む。小舟は現在のアウトリガー・カヌーで、もう岸からは見えないほど遠くに出ている。シャム湾は浅瀬が続くため湾内の潮の流れは早いが、舵取り役を残し数十人の若者は長く・深く潜り、獲物に銛を突き立てる水練をしているところだった。
 やがて息が続かなくなった者から海面に飛び出してくる。早いものはやはり手ぶらだ。現在は乾季のため、チャオプラヤー川から流れ込む茶色がかった水は少なく、ここまで沖合に出れば透明度は高い。未だに潜っているのは二人ほどだがその動きは船上からも良く見えた。一人は獲物を突いて上がって来たが、もう一人はまるで魚のように泳ぎ大物を追っていた。その魚はそう早い動きではなかったものの、獲物がより深い方へと逃げて行こうとする刹那、一瞬大きく体をしならせたかと思うと重そうな銛を一閃させて仕留めた。

 そのまま一抱えもある大物を手繰りながら海面から頭を突き出し「ファーッ」と息をつくと船に向かって泳ぎだした。
「お春が一番の大物か」
「またかよ。あいつはまるで魚だ」
 アジ科と思われる大物を片手で船に放り上げるとザバッと乗り込んできた。
 少年たちは15歳くらい、彼等は南蛮倭国の戦士となるべく訓練を受けていた。皆、頭に布を巻き付け上半身は裸で腰は褌姿、良く日に焼けている。だが、ひとり大物を仕留めた者だけは色白の地肌らしくピンク色をしていた。背は頭一つ高く手も足も逞しく太いのだが、胸元はわずかに隆起し少年のそれとは違っている、女なのだ。
 名前はお春。肩で息をしながら笑って言い放った。
「お前ら。陸(おか)の上の武術も水の中の潜りもオイに勝てんじゃろう。こんままでは大船(おおぶね)の船長(ふなおさ)にはオイがなるしかなか」
「ないごて。お春なんぞ誰も嫁とりせんから大船に乗るしかなか」
 少年たちはもうすぐに元服を迎え艦隊に乗り込むことになる。その際に厳格な能力審査の上、最初から役割を割り振られる。船長、舵取り、射手、帆方、漕方(こぎかた)、賄・荷方、といった具合である。
 そして南蛮倭国の艦隊はシャム国王の親衛隊にも序されるため、新人はラーマ一世の閲兵を受けることになっていた。

 アユタヤ王朝は既に滅び、紆余曲折を経て現在のチャクリー王朝が成立していた。それに伴い王宮をバンコクに造営し首都と定めた。南蛮倭国は内政不干渉の原則を貫き、艦隊拠点をレムチャバンに移した。ラーマ一世はその潔さにいたく感服し、親衛隊直属で海上防衛の任に当たらせることとした。言ってみればイングランドのサー・ドレイクやのような合法の海賊・傭兵である。
 謁見当日、暑い日差しを浴びながら甲冑を付けた40人の新兵が4列縦隊に整列した。両側にシャム軍自慢の像部隊が控え、正面の一段と高いところにしつらえられた黄金の玉座にラーマ一世が座っていた。その前で新兵に向かって起立している親衛隊長シーゲル王子が姿勢を正して「ワイ!(タイ語で合掌の姿勢)」と号令をかけると一同が兜を脱いで脇に置き合掌の姿勢をとった。
 王子は閲兵すべく中央を進み、戻ってくるとラーマ一世に向かい再び「ワイ!」の声をかけた。
 式典が終わり南蛮倭国の戦士が後退する時、シーゲル王子が指揮官を呼び止めた。その美貌が印象的だったからだろう。
「待て」
 指揮官はお春だった。
「ワイ!」
「お前は日本人なのか」
「チャイ・クラップ!(はい・男語)」
「少し話していけ。ついてまいれ」
 実はシーゲル王子の男色はつとに知られており直属の親衛隊は大変な美少年を集めていた。ただし、男色は今日の様な捉えられ方ではなく、特に戦乱の続いたシャムにおいては戦場での結束をもたらす絆と考えられ、事実シーゲル王子の親衛隊は無類の強さで知られていた。
 王子は衛兵の守る自室に招き入れるとお茶を勧めた。
「お前たちの艦隊は無敵と聞いている。お前たちのおかげで我らは陸の上の戦闘に専念できることを感謝する」
「コープクン・クラップ(そうです・男語)」
「お前の体を見てみたい」
 さすがに多少動揺したようだが、次の瞬間鎧を解きだした、薄く笑みを含んでいたようだったが。そして上半身があらわになるとシーゲル王子の方が驚いた。両の胸のたくましさとやわらかいシルエットに目を奪われた。
「待て!お前は女か。なぜ男言葉を使う」
「普段より海に暮らすのに区別なし。特に我が艦隊は全員が戦士ゆえ」
「む・・・。女ともあれば余の後宮にて暮らすことも許されるが」
「おたわむれを。異民族の女戦士など。殿下なら恥辱を受けた日本人の作法はご存じのはず」
 と脇差を抜き刀身に布を巻き付けると自分に向けた。王子もさすがに慌てた。
「もうよい!・・・・お前達はラーマ一世の海の親衛隊でもある。任務を果たせ」
「カオジャイレーオ・クラップ!(わかりました・男語)」
 そのまま後ろずさりの礼法でさがった。シーゲル王子は興覚めし深いため息をついていた。

 往時茫々、10年の歳月が過ぎた。
 この時期、イギリス東インド会社は大航海時代を先行していたスペイン・ポルトガル・オランダを凌駕し、数十隻の大砲を装備した武装商船艦隊を擁して、東南アジアから清国へ進出しはじめた。なお、インドから西側はボンベイ・マリーンとして正式な海軍を持っており、まさに七つの海を支配していた時期に当たる。
 この武装商船艦隊はいわゆるロイヤル・ネイビーではないものの、組織・階級・並びに士官などはほぼ同じで、強力な戦力である。当然のことながら南蛮倭国と小競り合いが起きることとなるのは時間の問題だった。
 マレー半島で出会い頭での接触だったのだが、イギリス側は艦隊行動ではなくブリタニア号の単独航海だったことが災いした。南蛮倭国側は早い話が海賊だ。砲撃されるやサッサと逃げ回り、得意の夜襲で襲い掛かると瞬く間に制圧、拿捕してしまった.双方に若干の犠牲者がでた。倭国側の果敢な攻撃の船長は逞しく成長したお春であった。
 死傷者が少なかったのは日本側の目的が人質と船の確保だったからである。作戦を立てたのはお春だった。
 お春は既に武装商船隊の船影を目撃しており、その戦力の充実から南蛮倭国の3拠点を合わせても艦隊決戦に勝ち目はないと判断、乗っ取りを長老会に進言して了承されていた。
 武装解除されたイギリス人とインド人の水夫が甲板に集められた。
 以下、カタコトの英語・蘭語のチャンポンで会話が進む。お春が訪ねた。
「指揮官は誰か」
 ボンベイ・マリーンの制服を身に着けた細身の士官が一歩進んだ。
「私だ」
「名前は」
「コマンダー・ウィリアム・アダムス(アダムス少佐)。あなたは」
「お春ジェロニマ」
 言うなり兜を脱いだ。
 アダムス少佐の顔色が変わった。その名前と美貌に驚いたのだ。

お春

「あなたが有名な『Jager of hurdle(困難な豹)』か」
 Jager of hurdle とは東インド会社が手を焼いていた南蛮倭国の船長(ふなおさ)の呼称で、鮮やかな操船と果敢な戦闘で恐れられていた。だがイギリス東インド会社もジャワのオランダもまさか女とは誰も知らなかった。
「その通り。コマンダー・アダムス。あなた達は人質となった。手荒な真似はしない。あなたがたと交渉したい」
「何の交渉か」
「あなた方の身代金と命の引き換えにこの船をいただく」
「私に権限はない」
「権限のある者に取り次いで欲しい」
「どうやって取り次ぐのか」
 ここでお春はカラカラと笑った。
「この船で行く」
「なに!」
「わたしの指揮の元で我々とあなた方で操船する」
「ボンベイで無事ですむと思うのか」
「私は全権をもって交渉を任されている。われら南蛮倭国はこの船を買い、河内(ハノイ)呂宋(ルソン)と協力し東インド会社の商船を護衛する。ボンベイ・マリーンはその武力をインドおよびその西側に集中させるがよかろう。東インド会社への海賊行為もしない。あなた方はカンパニーだろう。損得を考えるはずだ」
 アダムスは言葉を失った。

 ボンベイの港に姿を現した武装商船には東インド会社のフラッグとともに南蛮倭国の旭日旗が掲げられている。そして初めて見る兜に甲冑のサムライが甲板に整列している様を見て、イギリス人もインド人も目を見張るのだった。
 『Jager of hurdle(ジャガー・オブ・ハードゥㇽ)』即ち、後に『じゃがたらお春』として日本に知られることになる伝説の女海賊が誕生した日である。

 彼女が指揮を執る船は右舷に『Jager of hurdle』左舷に『じゃがたらお春』と表記され、旭日旗とユニオンジャックを掲げていた。いつもの癖で舳先で水平線をみるお春の背後には金髪を風になびかせるアダムス少佐の姿があった。
 お春が振り返るとアダムスと目が合う。アダムスが聞いた。
「フナオサ(船長)どちらに舵をとるおつもりか」
「我らに行先などない。ただ漂い、打ち壊し、奪うばかり」
「そのあとは」
「生き延びることができたら・・・そうだな、ウィリアム。お前の生まれたエゲレスにでもいってみるか」
「それは・・・、あの暗い天気はフナオサに似合わない」
「ではお前たちバテレンが忌み嫌う”地獄”の入り口まで航海するか」
「滅相もない」
「フハハハハハ、どこでもよい。お前はついてまいれ」
 振り向いて言うが早いか、見上げるようなアダムスの首周りにタックルをかけた。アダムスは副長として『Jager of hurdle』に乗り込み、お春の影のように寄り添っていた。二人は笑いながら転げまわり、甲板のファーネスに引っかかると互いを見つめ合っていた。ちょうど水平線に夕日が落ちていった。 

 慶応元年、神戸海軍操練所が閉鎖され無聊を囲っていた坂本龍馬が西郷隆盛に誘われて鹿児島を訪問した。
 西郷家に逗留すると早速西郷が誘った。
「あすは枕崎まで行きもんそ」
「そこはどこぜよ」
「みせたいもんがあいもす」
 鹿児島から枕崎まで一日がかりである。粗末な旅籠に宿を取ると先客があった。
「せごドン、お待ち申し上げておりました」
「おお、お久しぶり。こん者が海軍を作ろうち奔走しちょる坂本君ごわす」
「尊王の志高き志士としてご高名は存じ奉り候。海軍伝習所が閉鎖されお困りと聞いておりもす」
「おんしは誰がじゃ。勝先生を知っとるがですか」
「拙者は蛇潟老春(じゃがた・らおはる)。勝なる方は幕臣ゆえに我らは面識はなか。ですが我らは坂本さあのやりたがっちょう海軍を持っちょいもす」
 薩摩訛りだった。
「なに!かいぐん!」
 西郷が遮った。
「蛇潟ドンはオイが島に流されていた時分に世話にないもうした。シャムを拠点に艦隊を率い、河内(はのい)、呂宋(るそん)にいる日本人の子孫たちと力を合わせて海軍を持っちょいもす。無論戦闘においてメリケン・エゲレスといった国の海軍に一歩も引けはといもはん」
「日本人ならエゲレスが薩摩と戦になった時はなんで助けんかったがじゃ」
 蛇潟がゆっくりと言った。
「あいはボンベイ・マリーンの船ごわす。オイたちゃその指揮下ではあいもはん。それにご存じないじゃろが、あいはすべて空砲でごわした。要するに幕府に対する見せかけ」
 西郷も続ける。
「おいたちはもうエゲレスには話をつけておりもした。後は幕府が困るように仕向けた芝居」

 南蛮倭国はオランダ軍を退けた後、一時的にヨーロッパが革命騒ぎで東洋進出が小康状態になった時点で周辺の制海権を握った。そして幕府が鎖国政策を取ったことを逆手にとって交易を発展させた。なに、交易といえば聞こえはいいが、実態は密貿易と海賊行為である。それによって莫大な富を蓄えたのだが、日系3国は内陸での帝国経営には一向に興味を示さず海洋独立国家であり続け、3拠点の総称である南蛮倭国が定着したのだ。
 一つには現地人との宗教観が違いすぎて通婚がほとんど進まず、また日本から受け入れられる女の数も限られるため人口は増えるわけではない。第一、暴れまわるのが生業なので陸の領土を広げて帝国を経営するノウハウも資質もない連中だったからである。
 時代は進み、ヨーロッパから産業革命が起こった。
 資本はダイナミックに躍動し動力革命・軍事革命を牽引する。勢いのついたヨーロッパは海洋を制覇し、アフリカ・アジアの分捕りあいが時代の趨勢となり、英国がその覇権を握りつつあった。
 イギリスはインドを飲み込み、清国を侵食し始める。その際に南蛮倭国と歴史的な接触があった。そして倭国勢は伝説の女海賊お春(じゃがたらお春)に率いられイギリス海洋進出の一翼を担ったのは前述の通り。
 その操船能力と戦闘技術の高さは大英帝国をしてもなお魅力的だった上、そもそも領土的野心はない。更に異常ともいえる識字率の高さ、同調圧力、好奇心、義侠心とアジアの国にあっては極めて特殊な連中だったのだ。また周辺国は非常に恐れ、実際に戦闘が起きると無類の強さだったため、英国も薄気味悪がって懐柔しようとしたのだった。
 倭国艦隊は英国商船を保護しつつ南シナ海から沖縄・薩摩まで自由自在に(時に)暴れまわった。
 おまけに新技術に対するチューン・アップは日本人のお手の物であり、動力を学び大艦に砲を載せ反射炉で製鉄までした。元々日本は鉄砲大国でもあったため武装艦隊は手が付けられない存在になりおおせていたのである。

 時は流れ、ペリー艦隊が日本に砲艦外交を展開したことも南蛮倭国は知っていた。しかし幕府の開港後も政治に巻き込まれるつもりはなく、英国の先兵に甘んじていた。ところが密貿易のパートナーである薩摩が急速に政治の表舞台に出たことによりそうも言っていられなくなったのだ。
 倭国は長年の友好関係と島役人への多額の賄賂によって沖縄ー枕崎ルートは庭も同然、そこで沖永良部に流されていた西郷を物心両面で支え、その復帰後も影に日向にサポートしていた。西郷が龍馬に蛇潟老春を引き合わせたのはその時と縁のなせる運命だった。尚、南蛮倭国の日本人が交流したのは密貿易相手の薩摩藩のみだったので今では老春たちは京言葉も江戸言葉も喋れず薩摩弁が標準語だった。
「坂本さあは今更海軍などつくらんと、おいたちにまかせておればよか」
「なにい!」
「おいたちは海禁をした幕府とは相いれもはん。しかも幕府はフランスに肩入れしちょいもす。おいたちは一度義を交わせば必ず守る」
「西郷さん、ホントか」
「相違御座らん」
「むむッ・・・。手の込んだ仕掛けは西郷さんの絵図かの。ほいじゃあわしはなんをすればいいがじゃ」
「かんぱにーをつくられればよか」
「かんぱにーじゃと」
 西郷が引き取って言った。
「坂本さあ、こん老春どんとおいたち薩摩が金を出す。坂本さあはそいを預かり日本と世界を相手に大あきないをすればよか。海からの援護でごわす」
「海からの。そうか!海援隊じゃあ」

 その後の維新回天の歴史は読者のよく知るところである。
 維新後の倭国海上勢力は2つに分かれて存続した。簡単に言えば龍馬派と西郷派に分類され、龍馬派は岩崎弥太郎率いる九十九商会の商船グループ、即ち今日の日本郵船の礎である。それに対して西郷派はのちの帝国海軍に吸収されていく。帝国陸軍が長州系なのに対し、薩の海軍と言われたのはこのグループのことを指す。倭国の日本語は全員薩摩弁だった。

 現地の日本人ソサエティは戦前まで国家の体裁は取らなかったが存続し、タイ(バンコク)・河内(ハノイ)・呂宋(マニラ)はそれぞれ日本軍に協力していた。ところが負けてしまったためさすがに居心地が悪くなり300年近く住み慣れた土地を離れた。タイからはインドネシアに移住し、戦後の独立戦争に参加した後はジャワ島の山地にいるらしい。ハノイは台湾の花蓮(ファーレン)に住み着き密かに存続し高砂族の一派に溶け込んでいる。この一派は強力な民進党支持者だと言われている。マニラの連中は戦中に山下兵団とともに北上し、バギオに潜伏した。その後、密かに山下財宝とも称される金塊を山中に隠し持ってフィリピンの世論を裏から操っているという噂が絶えない。
 上記3か国の親日ぶりの遠因ではないだろうか。
 尚、今日の歴史研究では南蛮のニシーム・ローザエモンと河内(ハノイ)の室西僧正、呂宋(ルソン)のアントニオ・オエスタは同一人物と考えられている。蛇潟老春は言うまでもなく英国人アダムス少佐とジャガタラお春の子孫であった。

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南蛮倭国盛衰記 シャム湾海戦から鎖国へ

 
 
 

南蛮倭国盛衰記 シャム湾海戦から鎖国へ

2026 FEB 15 0:00:16 am by 西 牟呂雄

 1630年、和暦では寛永七年、メナム川河口にある南蛮倭国の長老会トップであったヤーマ・ナーマサが死去した。壮大な葬儀にはタイのアユタヤ王朝・ベトナムのフエ王国・バタビアのオランダ東インド会社総督といった近隣の国家から弔問の特使が参列した。式典は神道式で神官の短い祝詞が日本語であげられた。
 南蛮倭国は人口約1万人、誠に奇妙な都市国家である。成人男子は全て武士で構成され、ごく少数の両替商と大工がおり、両替商は日本からの銀の交易を手掛け、大工は船大工だった。要するに傭兵集団が独立した海洋国家で、かつては倭寇と呼ばれた日本人達なのである。それでも長老会という議決機関を頂き大将を選任しそれなりの国家の体裁を整えてはいた。
 世界史に類似例を求めると、ヴェネツイアやマルタ共和国が近い。ただ、この集団の場合は領土的野心も通商概念もほとんどない不思議な国家だった。
 これ以外にも同じような日本人軍事国家がヴェトナム北部の河内倭国(河内は現地語でハノイ。はのいわこく)とフィリピンの切支丹呂宋倭国(きりしたんるそんやまとこく)の二つがあった。
 このうち前者は公用語である漢文(当時のヴェトナム王朝は漢文を公文書とした)との親和性が高く、また僧兵崩れが多かったせいで兵士全員は僧衣を纏った仏教国の体裁だ。
一方後者は大阪夏の陣で敗れた浪人達を吸収して成立したキリスト教国で、成立当初の中心人物がキリシタン大名の高山右近だったからである。そして当時の現地を支配していたのはカソリックのスペインだったので、キリシタンであることは都合のよい隠れ蓑となったのだった。
 三国は巨大ガレオン式帆船である大安宅船を数隻所有し周辺の制海権を握っていた。そういえば聞こえはいいが、普段日常的にやっていることは海賊である。

 時は大航海時代。やや遅れて東洋に進出したオランダ東インド会社は、ジャワ島を拠点に先行したポルトガル・スペインを追うように勢力拡張を図っていた。当初は香辛料の交易のみだったが、バタビア(ジャカルタ)に要塞を築き現地勢力を懐柔するなどして次第に植民地経営を強化していた。
 タイ・およびマラッカの諸国はこれを警戒し、南蛮倭国に海上防御を要請。ヤーマ・ナーマサの後に長老会の評議により大将に選出されたニシーム・ローザエモンはこれを受け、シャム湾を往来するオランダの帆船を片っ端から襲いだした。要するに本性をむき出しにして暴れまわったのだ。
 これに怒ったオランダは大砲を積載した艦隊に正規兵千人と現地兵千人を乗せてシャム湾を威嚇封鎖した、一触即発の艦隊行動だった。
 ニシーム大将は長老会を招集して言った。
「ジャガタラの紅毛人ども、ついに我らがシャムを脅かさんとす、我等はアユタヤのプラサートトン様の要請によりこれを撃滅せん」
 おおっぴらに思う存分暴れられるのだ、戦士達は奮い立つ。既にヴェトナムの河内国とフィリピンの呂宋国の日系二国に応援を要請してある。二国といってもやっていることもその生業も同じで、総称としては南蛮倭国と言って差し支えないだろう。
 河内(ハノイ)の最高指導者の僧侶である建僧都室西(たけるそうずしっさい)、通称室西僧正(しっさいそうじょう)は謎めいた人物で滅多に人前に姿を現さない。年に数回大きな会葬に出てきては良く通る声で一喝していた。
 呂宋では現在アントニオ・オエステと名乗る日本人がリーダーとなっていた。アントニオは日本語を話すが、自分はキリストの生まれ変わり、などと胡散臭いことを言い募る怪しげなことこの上ない人物なのだが、用兵は巧で個別海戦には滅法強かった。

 シャム湾に大型帆船のオランダ艦隊が姿を現した。潰すべきは南蛮倭国の本拠地で現在のバンコクだ。浅瀬の湾口を包囲するような布陣から自慢の大砲を撃ち始めた。陸上をかき乱した後上陸する作戦である。
 ローザエモンは不敵に笑った。
「紅毛人ども、わざわざ波頭を超えて鮫のエサになりに来おって。望み通り切り刻んでやれ」
 その頃艦隊後方から大安宅船の艦隊が北上してくるのが見えた。戦闘前に沖合で待機していた南蛮倭国の船である。
 するとこのまま割って入られ陸との挟み撃ちにされるのを避けるため、オランダ艦隊はいったん上陸を諦め回避行動を取った。そして現在のカンボジア方面を目指しパッタヤー半島を回ったところに停泊した。何故か追って来るはずの南蛮倭国の艦隊は半島の反対側あたりで追撃をやめていたのだった。
 真っ赤な夕日が落ち闇に覆われると、その漆黒の夜半に大安宅船から手漕ぎ小型舟が十数隻ほどヒタヒタと半島を回って行く。得意の夜襲である。
 ヨーロッパでの戦闘は通常ヌーンデイ・タイムに行われるものだったのだが南蛮倭国は知ったこっちゃない。大安宅船による追撃は申し訳程度で、日没後を待っていたのだ。
 音もなく寄せると直上に向けて火矢を放ち、手鉤縄を船側に絡ませては次々と乗りこみ全員無言のまま抜刀する。撃ち込まれた火矢に気づいたオランダ兵の当直が大声をだそうとするのを一瞬で切り捨てた。帆にも放火する。
 騒ぎが大きくなり甲板に兵士が上がって来て白兵戦になった。倭国兵は全員夜目が利く上に日本刀はこういった乱戦では無類の殺傷能力を持っている。縦横無尽に暴れまわると各々衣服を脱ぎ捨て褌に大刀をぶち込んで次々と海面に飛び込んだ。
 見ればオランダ船は数隻に火の手が上がりパニックに陥っていた。
 結局、消火できなかった3隻を放棄し、他のオランダ軍は艦隊行動をとることなくバタビアに引き上げていった。南蛮倭国の完勝である。
 これよりオランダ東インド会社は倭国と友好条約を結ぶ。オランダ船の安全航行を保証するために金をふんだくるという一方的な条約で、同時に南蛮、河内、呂宋の日系3国家に適用された。とりあえずオランダは南シナ海を北上する航路を確保し台湾・日本のルートを抑えることとなった。

 激震が走る。寛永十年(1633年)、江戸幕府はポルトガルとの断交とキリスト教禁教のために鎖国令を出した。海外からは自由に帰国することが叶わなくなったのだ。さすがに動揺が走った。今のうちに何とか故郷に帰りたいと言いだす者、故郷のメシが食いたいと言う者、こんな暑いところはもういやだと泣き出す者までいた。
 しかし今更日本に帰ってもすることないから構わない、と開き直る者の方が多かった。なんとなればこの荒くれ者たちはほぼ全員が土地も家族も持っていなかったのである。
 ローザエモンは長老会を招集した。
「海禁令が出て何やら騒がしいが、お江戸の将軍様も今や三代目じゃ。余程キリシタンとポルト(ポルトガルをこう呼びならわしていた。オランダはホランド)がお嫌いと見える。ホランドの奴らめ丸儲けじゃの」
「我らは今後いかようになりましょうや」
「まあ、しばらくは様子見よ。帰ったところで誰が迎えてくれる。ホランドは長崎で交易が認められる。ということは裏で舌なめずりしている大名がウヨウヨしているに相違ない」
「ローザエモン様、それはいづこの国や」
「まあ待て。関が原で裏目に出たやつらに決まっておろう。交易の旨味を知り尽くしているところよ。ワシは河内(ハノイ)の室西僧正と呂宋のアントニオに話しに行く」
「よろしくお頼み申し上げまする」

 僧形の一行が密かに薩摩の坊津に上陸した。一人だけ頭を丸めているが、他の者は僧形ではあるが全員背中まで伸ばした髪を結ぶこともなく風になびかせている異形だった。
 浜で待ち構えていた薩摩藩の役人達に向かいこう告げた。
「河内(はのい)の建僧都室西(たけるそうずしっさい)である。薩摩の太守、島津家久公にお目通り願いたい」
「こころえて候。まずは長旅の疲れ癒されたく」
「あいわかった」
 扱いは大名並みの待遇だった。だが、薩摩側の心づくしの接待にも室西以外のものは終始無言。また室西の受け答えも型通りに終始し、宴席は盛り上がらない。だがこの連中、酒は一人一升以上飲んだ。
 翌日、薩摩側は駕籠を用意していたが室西はこれを丁寧に断り徒歩で鹿児島に向かった。仕方なく駕籠には土産物を載せて移動したのはご愛敬であるが、南国由来の色鮮やかな珊瑚、めずらしい象牙の装飾品などとかなりの重量で、駕籠かきは苦労していた。
 表立っての訪問ではないためか、鹿児島に到着した後しばらくは城下に留め置かれ数日を過ごした。鶴丸城は関ケ原後の築城だが、全く防御を想定していない不思議な構造で、天守のような建築物はない。誠に薩摩らしいといえば薩摩振りの武骨な城である。
 数日後、島津家久との会見が成った。面を上げよ、の声とともに端座した室西の眼光に家久はいささか違和感を感じた。やや赤みがかっている。
「お目通りかない恐悦至極に拝し奉りまする。ご機嫌麗しゅう」
「苦しゅうない。此度の来薩、誠に喜ばしい。南方の暮らし向きつつがなきや」
「常夏にて、至極」
「して、件の話に相違はござらぬな」
 海禁政策により幕府直轄領である長崎の出島でのみオランダが交易できる新体制になったのだが、倭国勢も島津家もオランダに一人儲けさせるつもりなどサラサラなかった。南蛮倭国は自慢のガレオン船も新たに進水させ自ら密貿易に乗り出し、相手として狙いを定めたのは薩摩と東北の伊達藩だった。オランダ船から荷物を強制的に抜いては売り捌き、代わりに物資・銀を調達、更には人材をスカウトする目論見である。
 薩摩側も琉球を勢力下に置くことで密貿易の味は知っていたし、伊達藩も遠く支倉をローマに派遣したりと海外展開をすすめていたので、両藩とも渡りに船だったのだ。
 その頃の東南アジアでは、フィリピンを支配していたスペインは国王フェリペ二世の死去による混乱の中にあり、徐々に勢いを増した英国がインドから虎視眈々と中国大陸を狙うという状況で、海上の勢力が変わりつつあった。ところが日系の三倭国の評判があまりに悪く、日本人とは下手にちょっかいを出して暴れられると面倒な奴ら、との認識が広まったお陰で矛先は日本に向かなかったのであった。

 話は終わり、御酒くだされ、の宴席となった。家久は上機嫌で一献下げ渡すと言った。
「室西殿、我が薩摩は勇武をもって聞こえた国柄。河内(はのい)の武芸者も腕が立つであろう。軽く手合わせはどうじゃ」
「我らの得物は鉄砲にて」
「ふはは、供の者たちの金剛杖は仕込みであろう」
「これは。座興でござりましょうや」
「そうよ。座興も座興。狂乃介、これへ」
 一座の末席に端坐していた屈強そうな若者が呼ばれた。室西はその若者を見据えると傍らの小柄な僧侶を即した。二人は庭先にて名乗りを上げた。
「示現流、立花狂乃介」
 ごつく太い樫の木刀を持っている。
「大悟坊峻海」
 右手で金剛杖を地に突き立てた。
 両者は後ずさりした。狂乃介は「チェース」と猿叫の気合を発して切先を天高くつきだすトンボの構えに入るや「きゃー!」と突進した。俊海は自然体。次の刹那、大地を割らんばかりに振り下ろされた木刀が地面にめり込んだ。俊海の体は毬のように転がり狂乃介の背後にスッと立ち上がる。体制を立て直した狂乃介の眼前に金剛杖が突き付けられていた。
「そこまで!」
 声を発したのは室西であった。
「さすがはお留流。われらの杖では受けること敵わず。太刀筋をかわすしかできませなんだ。更に戦えば大悟坊は真っ二つ必定、呵々」
「薬丸示顕流、飛田隼人!」
 コケにされたかといきり立つ次の若者が名乗りを上げる。だが今度は家久が言った。
「下がれ、隼人!盛んなるかな薩摩武士。こいは戦場ではなか。座興でごわ」
 薩摩弁が飛び出したので一同静まった。
 以後、坊津は密貿易の港としてオランダ船や明船、更には朝鮮の交易も含めて大いに賑わうのであった。

 然しながら流石に大っぴらにやりすぎて、享保八年幕府による手入れが強行され、薩摩藩は大いに面目を失った。俗に言う『唐物崩れ』である。
 だが、元々アウトローの寄せ集めの倭国側は痛くもかゆくもないとばかりに、枕崎にその拠点を移し幕末まで密貿易に励み続けるのである。
 余談ながら伊達藩に密貿易を持ち掛けたのは呂宋のアントニオ・オエステ率いる船団で、伊達藩士である支倉常長が洗礼を受けたことを知っていたからであった(禁教令によって失意のうちに仙台で没した)。更に伊達政宗の長女で一度は徳川家康の六男・松平忠輝と婚姻した五郎八(いろは)姫がキリシタンであったので、その知己を得られたのである。
 現在の石巻港においてしばらくは盛んに密貿易をしたのだが、五郎八姫の没後に幕府の詮索を恐れた伊達藩によりこのルートは廃れた。

 更に余談であるが、密貿易船で南蛮倭国に渡ったのは物資や銀だけではない。酌婦・遊女の類も大勢やって来た。 のちの世に言われる「身売り」のような暗い話ではない。この苦しい生活を捨てて新天地に羽ばたくような気概の、多少危ない女達が海を越えてやってきた。一方で南蛮倭国の方も、ただでさえ内部でも無用の小競り合いが絶えない荒くれ者共を慰撫するためにもそれを必要としたが、統制が取れなくならないよう人数は厳しく制限した。
 かくて日本人の純血は続いたのである。

つづく

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南蛮倭国盛衰記 旋風そして維新


 
 

日本史 五つの仮説

2025 NOV 8 11:11:01 am by 西 牟呂雄

 前回、ロバート・キャンベル先生の話の中から飛躍して、茶器の逸品「付藻茄子(つくもなす)」は大坂夏の陣で粉々になったのを、徳川家康が漆塗師の藤重藤元・藤巌親子に復元させて『これが本物だ』と嘘を言い張ったのじゃないか、という荒唐無稽な想像を楽しんだ。だがひょっとすると、日本史にはそうやっていまだに騙されているような秘密はほかにもあるのではないだろうか。
 有名な噂話では豊臣秀頼は秀吉の実子ではないとか、凄いのになると孝明天皇は毒殺され明治天皇は南朝の血を引く大室寅之祐がなりすました、等々。
 面白いので有名無名オリジナルのホラ話を綴ってみた。

漢委奴国王印偽物説
 1784年、福岡県の志賀島で百姓が水田の耕作中に巨石の下から偶然発見したとされるが、昔から『あれは偽物』説が絶えない。発見された場所が江戸期という比較的新しい時代にも関わらずはっきりとしていない。
 黒田藩の儒学者亀井南冥が『後漢書』の金印であると言ったからそうなったらしい。
 そもそも志賀島には金印にある奴国の遺跡など全く無いとか『委』に人偏がついてないとかツッコミ所は満載。
 お墨付きを与えた亀井南冥が黒田の殿様にニオベンチャラを言う目的で自分でこしらえた、というのが本当じゃないかな。高くついただろうが。

藤原不比等落胤説
 藤原家の人々が秘かに伝えてきた噂だが、僕は末裔から直接聞いた。
 飛鳥板蓋宮の乙巳の変で蘇我氏中心の政治を改めて改革を始めた。のちに天智天皇と藤原鎌足コンビになるのだが、その前に中大兄皇子時代の愛妾を中臣鎌足に下げ渡し、その時に既に懐妊していた愛妾は男の子を生み、それが不比等だという話。
 事実不比等は壬申の乱の後には不遇を囲っていたが、下級官吏から次第にのし上がり、息子たち4兄弟は出世するあたり妙にイミシン。藤原家は他にも一条天皇の第一皇子である敦康親王が道長の養子となっている。臣籍降下しないで養子になるところなんかますます怪しい。『公卿補任』『大鏡』『帝王編年記』『尊卑分脈』といった文書にも記され、平安時代にはある程度知られていたことがうかがえる。
 すると天皇家男系男子のY1aの遺伝子を引いていることになるので、皇統維持の有力な候補になり得る人材がいるのではないかな。
 そう言えばウチも家系伝説では藤原の流れという事になっている、たぶんウソだろうけど。

北条一族頼朝暗殺説
 頼朝は前年末、相模川の橋供養からの帰路で落馬し、直後に体調を崩して翌1199年の1月に死ぬ。だが、吾妻鏡が死因について記述するのはそれから13年も経過してからだ。
 北条氏が鎌倉時代を通じて何やら暗い印象を受けるのは、頼朝が死んだ後次々と頼朝と正子の子供達が謀殺されていることが遠因と思う。が、実際の暗殺に関わったとは言わないが実子の死後も平然としている正子の根性を思えば頼朝の死も・・・。
 そして今度はウチの母方だが、頼家亡き後に『私も源氏の血を引くのだから次の鎌倉殿は私かな~』と大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で調子に乗って言い放ち、北条に誅殺された先祖がいる。平賀朝雅という。
 いずれにせよ源氏3代どころか有力御家人をかたっぱしから片付けて京都から将軍を連れてくるなんぞ、もし策を巡らせてやったのなら大したもんだ。

西郷隆盛龍馬裏切り説
 やったのはいまでは見廻組と判明している。しかし龍馬が死んで得をするのは幕府側だけではない。
 龍馬は船中八策に見られるように共和制を唱えてはいるが、基本的に公武合体主義者であり、徳川慶喜を新体制のトップにする構想(船中八策は後世の偽書とする説も有力だが)を持っていたようだ。
 そして龍馬暗殺時点では薩摩=西郷は倒幕の腹を固めていたと見られ、すでに龍馬は邪魔者だった。
 そこで必死に龍馬を追っていた見廻組に潜伏先をチクって殺らせる・・・。
 西郷は豪放磊落な人格者であるが密偵の使い方もうまく、人名が明らかになった者だけで三人いる。江戸で焼き討ちを実施した益満休之助、アメリカ公使館員のヘンリー・ヒュースケンを暗殺した伊牟田尚平、後に赤報隊を率いた相良総三の三人。かなりエグい仕事をやったようで、三人とも不審死した。
 誰かを使って居所を示唆した可能性はあるかな。
 この場合、見廻組にチクったとすると、なぜ新撰組を使わなかったのかという謎は残る。思うに使わずにおいて逆に『やったのは新選組だ』という噂を広め捜査を混乱させたのかも、スゲー。
 とは言うものの、プロの間では否定されているそうだ。

帝国陸軍にコミンテルンのスパイ説
 ロシアの機密文書の公開でにわかに注目を浴びた説。だが、2・26事件の背景とは言わないが、天皇親政と共産主義は相性がいい、という言説が陸軍内部にあったことは確かである。
 盧溝橋事件も日中を離反させるために仕組んだ陰謀だ、とまで飛躍するのだが。そうなると張作霖爆殺も満州事変もみんなコミンテルンの仕業と比定されるので耳障りがいいがどうだろう。
 以前チラと書いたことがあるが、国民党の秘密組織であるC・C団のトップ陳兄弟の弟、陳立夫が戦後も台湾で存命していた。歴史家保坂正康がインタヴューしていて『当時の帝国陸軍にコミンテルンのスパイがいたはずだ。こんな簡単なことが分からないのか』と言ったらしい。 
 1918年、モスクワにおいてボリシェビキの会議が開かれ、日支闘争計画案が決議されていることは史実。
 一方で開戦前のアメリカ中枢に多くのソ連スパイがいて、ハル・ノートの原案を作成したハリー・ホワイトは実際にスパイ容疑が掛ったのち不審死している。
 大本営作戦参謀だった瀬島龍三は関東軍参謀としてシベリア抑留中にスパイ訓練を受けた、との証言がある。「厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した」「これらの人物は共産主義革命のため、モンゴルのウランバートルに存在した第7006俘虜所において特殊工作員として訓練された」「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」等々。
 いっそもう一捻りして開戦前からコミンテルンと繋がっていて、海軍に真珠湾をやらせ関東軍を煽り辻政信を調子に乗せ、実はこっそりゾルゲと酒飲んだりしてた・・・。どうかな。

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ロバート・キャンベル先生の講演

2025 NOV 1 19:19:09 pm by 西 牟呂雄

 しばしばテレビに出るロバート・キャンベル先生の講演会「国内外の災害見聞記録から問う人文学の現在地」を聞きに行った。テーマがこわい。
 ところが、話しは茶器の逸品、「付藻茄子(つくもなす)」。豊臣家が所蔵していたが、大坂夏の陣で壊れてどこかに行ってしまったものを、徳川家康が漆塗師の藤重藤元・藤巌親子に探させるとカケラを探し出してきてそれを復元した、という大変な代物である。続けて、今年の夏頃に危険を冒してウクライナを訪問した際に出会ったアーチストの話になり、キーウの攻撃を受けた集合住宅で拾い集めたお皿について云々、戦火を潜り抜けた生活物資について語った後に平和について考察するというオチでした。
 まあ話は面白いのだが、僕は初めの『カケラを探し出してそれを復元した』に引っかかって集中できなかった。
 藤重藤元・藤巌親子はあまりの家康の剣幕にビビり、焼け跡のゴミを見てヤバいことを悟り、そこら辺のゴミをかき集めて『ありました』と報告したのではないだろうか。そしてそのゴミからテキトーに復元したとしたらどうだろう。おそらくブツを見たことがあったので、そういう離れ業ができたと考えてみた。すなわち付藻茄子は藤重親子のオリジナルで、来歴は嘘。一方家康もそのことは当然知りつつも『よくやった!大儀である』と誉めそやし、豊臣を倒して手に入れた、という箔を付けて見せびらかした。
 それでも名器の風格が損なわれる訳でもなく、今日でも鑑賞に堪えるのだから別にどっちでもいいか。
 まっ、それぐらいの腹芸と阿吽の呼吸でこなす配下がいなけりゃ天下を取るという大仕事はできまい。
 この話、ウクライナを訪問するにあたってお土産に能登の地震で砕けた陶磁器を元に拵えたモニュメントからの流れの話のようです。

石川県のCALC社製

 講演の間中、上述の妄想に捕らわれていて後の方はすこぶる印象が薄い、キャンベル先生ごめんなさい。
 一つだけ、戦争によって完全に価値が逆転した場合、言葉の意味は捻じ曲がり感情もそれに乗り、書き記されたり残されたりしてとどまる。例えば繰り返し襲ってくる地震(能登・東日本・神戸)なども、あまりに悲惨な映像を見てしまうと、言葉はどうあるべきでどう読み取るのか。圧倒的な逆転に対しては、ひょっとして意味すら失うのか。
 どうやら僕はそのあたりから思索を始めることになりそうだ。

 ところでキャンベル先生は、話し方からは深い教養と優しい人柄が伝わった。古き良きアメリカン・リベラルの趣があって、トランプのことはさぞ嫌いなんでしょうねぇ。

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オカルト近現代史観 天皇不敗仮説 

2025 FEB 19 0:00:00 am by 西 牟呂雄

 幾多の血を流し、飢え、病に侵され、最後に人類の悪夢である原爆に本土を焼かれて日本は敗れた。
 その後占領され、武装解除・人間宣言・新憲法・財閥解体・自由選挙・組合結成・数々の改革と称した洗脳を経ることになる。ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムである。
 物理的には完膚なきまでに負けたわけで、東京裁判批判も含め占領者としてのアメリカの悪意は十分汲み取れる。だが、諸先輩方の巧みな舵取りと努力により多少の危うさを内包しながら今日ではG7の一角を占めている。
 アメリカは占領後もヤバいとなると銀行護送船団方式を破壊し、円高を仕掛け、繊維戦争・鉄鋼戦争・自動車戦争・半導体戦争を仕掛けてきた。今更アメリカ・ファーストもないもんだ。そういう国家であり続けているに過ぎない。
 それでも、資源も無い日本がそこそこやっていけるのは何故か。国民が勤勉だとか多少のIQが優位であるとかでは語りつくせないファクターがあるに違いない。そういう分析無しに円安に振れたとか少子化による労働人口減少に解を求めても大事なことを見失うと筆者は考えている。
 ところが、国会だ官庁だ企業だと見渡してみてもシステムとして日本を下支えしているとは言えず、教育は最近はなはだあやしい。
 以下、文化的に多神教が底流にあるとはいえ宗教的に大らかである、武士道精神を尊ぶ、同調圧力に従順である、どれもしっくりこない。この調子で分析を進めるとしまいには居酒屋でのノミニュケーション文化にまで言及せざるを得ず定量化は断念した。

 石原慎太郎がどこかで聞いてきて書いていた、電車の中での若者の会話の話。余程の無知なるものなんだろうが、日米が太平洋で激突したことに及ぶと『それでどっちが勝ったのか』と聞いたのだそうだ。多分に作り話めいてはいるが、目下の状況から見て(例えばアメリカの製鉄会社を買収するとか)勘違いするバカが出ないとは限らない。
 この話でフト思いついたのは(勿論メチャクチャに負けたのだが)何か負けていなかったものがあったのかもしれないという仮説である。
 そんなものあるのかね、と思いを巡らしてたどり着いたのは、終戦を決めてポツダム宣言受け入れた御前会議の天皇陛下のお言葉だった。活字媒体で拾えた『内外の情勢、国内の情態、彼我国力戦力より判断して軽々に考えたものではない。国体については敵も認めていると思う。毛頭不安なし』のくだりだ。この『毛頭不安なし』に込められた意味を噛みしめると、ボロボロにされ占領されても日本で唯一人天皇陛下だけは負けなかったのではないか、という仮説が頭をよぎった。
 この仮説を実証しようと、敗戦後のお振舞いを追っていくと。
 マッカーサーに単独で面会し,イチコロで篭絡した。彼を自在に操り、全国巡行を打ち出す。GHQは各地で群衆に吊るしあげられると期待したが、結果は逆だった。ただ一人負けなかった昭和天皇は各地で熱狂的に迎えられる。GHQは驚き、慌て、巡行は一時中止させられる。クライマックスは原爆ドームをバックに現れた昭和天皇に向かって数万の群衆が君が代を歌い、万歳を叫んだ。
 後年、外交評論家の加瀬英明が晩年のマッカーサーを訪ねた時に『私が最も尊敬しているのは言うまでもなくテンノーヘイカだ』と聞いている。テンノーヘイカと日本語で言った後は ヒズ・マジェスティ と呼称した。
 天皇陛下の訪米に当たって(マッカーサーは既に没していた)外務省はマッカーサー未亡人との対面をさせようと画策したが、陛下は賛同しなかった。使い切った者は必要なし、ということだ。
 翻って大日本帝国憲法が、第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス としたが、昭和の始まった時点では誰もが『現人神』と言っても生身の人間であり、万世一系にしてもいささか怪しげであることは知っていた。敗戦・占領を経て高度経済成長の波に乗ると、主として読書階級とでも言う中流レヴェルはGHQの洗脳や進歩的と称する論調に推され一部は反天皇制の風に乗る。旧社会党に投票していたゾーンだ。
 だが結果として昭和天皇は敗戦後の混乱からバブル時代までを勝者の帝王として敬われたのだった。

 やがて代替わりとなりバブルは弾けて日本は長い低迷期に入る。平成の御代は多難なスタートだった。バブルの不良債権は10年後には更に増えた、というか今もって総額が分からない程のダメージをもたらした。上皇陛下の天皇在位中に株価は8千円を切った。
 おまけに、これでもかと言うほど自然災害が起こったのである。英明なる陛下はご自身のお勤めを慰霊と被災者への労いに定められたのだろう。天皇になられてまず中国を公式訪問され、その後は海外に出向かれて戦没者を慰めた。
 阪神淡路・鳥取西部・新潟中部・中越沖・岩手内陸、と続いた犠牲者の出る地震。有珠山・三宅島・御嶽山の噴火。そして東日本大震災。平成流と称された被害者の視線まで膝をつかれたお姿は記憶に新しい。犠牲者を弔い、被災者を励まし、その都度日本は蘇った(無論未だ復興途上のところはある)。
 退位を表明された時のお言葉は『国民の安寧と幸せを祈ること。これを全身全霊でできなければ象徴であることは難しい』とまで仰った。 
 実際物凄い密度でのお祈りなのだ。そもそも明治以前には皇室に金もなく、新嘗祭(即位の際は大嘗祭という)と四方拝くらいだったのが、明治以後様々な祭祀が行われるようになった。神道の元締めとしての権威付けとして加えられたらしいが、あまりの多さに明治・大正と天皇は自らは行わず、代拝と言って代わりを立てられることが多かった。昭和天皇も戦後は全てはなさらなかった。
 それが、上皇陛下は80を超えても皆勤である。深夜にも及ぶ祭祀を全てこなされるとは涙ぐましくもある。
 新嘗祭をナメてはいけない。
 神座(黄端の短い畳)、御座(白端の半畳)、寝座(薄畳の重ね敷き)に神饌である稲作物(蒸しご飯・お粥・粟ご飯・粟のお粥・新米で醸造した白酒・黒酒)、鮮魚(鯛・イカ・あわびなど)、干物(干し鯛・鰹・蒸しあわび・干し鱈)、果物(干し柿・かち栗・生栗・干し棗)が供えられる。天皇は鎮魂祭を済ませ、皇太子(あるいは皇后)・天皇の順に斎戒沐浴(さいかいもくよく)して純白の祭服に着替え、侍従が剣璽(けんじ)を、東宮侍従が壺切御剣(つぼきりのみつるぎ)を奉安した後神嘉殿に渡御する。天皇は神嘉殿の神座の前の御座に正座して、秘儀に入られる。御手水ののち、柏の葉に神饌を移し神前に供えて拝礼。ついで皇祖皇宗に御告文(おつげぶみ)を奏上すると、皇太子以下、幄舎に控えていた参列者たちもこぞって拝礼し、神前に供えたものと同じものを食す。
 この秘儀は実際に何が行われているのかは天皇家以外誰も知らないのである。特に新天皇即位の大嘗祭では、寝座に体を横たえ、最も秘儀だとされている所作が行われ、玉体が新天皇に移行する。かような神秘体験を経てこそ備わるモノがあろう。

 現天皇家のDNAには瞬時に時代の流れを読み、なすべき未来が見えてくる能力が備わっているに違いない。上皇陛下は『自分の代は艱難辛苦に耐える世である』ことが読めていたのだ。
 ひたすた祈り、無論負けなかった。避難所で苦労されていた被災者が、時の総理や大企業幹部を罵倒するほど煮詰まっていたのに、陛下のお姿を見た途端に癒されていたではないか。
 同様なことは、近現代の先帝陛下方にも当てはまる。明治帝は富国強兵の政策の元に二度の対外戦争の時代を体現され、大正期は勃興するデモクラシーの風に乗られた。それは作られた物でもあるわけだが、時代に合わせることのできる予知能力と見識がおありだったと解釈できなくはない。
 亡くなられた寛仁親王殿下も何度も癌の手術をされアルコール依存症になっても負けることはなかったと記憶する。
 令和の天皇陛下は筆者よりもお若い。聞くところによれば、祭祀に臨む姿勢は上皇陛下と同じだと聞く。大変に真面目におつとめされると側聞する。とりあえずコロナ禍は他国に比べれば遥かに軽かった。
 何があってもわが国に天皇陛下おわす限り日本が日本であり続けられる。
 太古の昔より伝え続けたこの血脈をもって、更なる研鑽によって鍛えられなければ天皇足り得ないことは明らかで、昨今の女系天皇論は日本を破壊すると言って過言ではない。ジェンダーがどうしたどころの話ではあり得ない。
 旧宮家の皇族復帰に難色を示すムキがあり、いわゆる直親王家が皇統から分かれたのが何百年前だから合理的でない、とか戦後何十年も民間で過ごして今更、といった言説があるが、旧皇族と天皇家は『菊衛親睦会』を通じて親戚づきあいをしていて、お写真などを見ればみなそっくりである。『民間暮らしが何十年』に至っては、2千年の歴史から見れば瞬き一つだ。
 そういう歴史を無視して女系天皇を認めてはならない。あの〇室の子供なんかが天皇になったらどうしてくれる。国連引っ込んでろ!

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皇軍未ダ屈セズ

2024 SEP 8 15:15:23 pm by 西 牟呂雄

 玉音放送は、竹中中佐の妨害を払いのけて流された。
衷情モ朕善ク之ヲ知ル。然レトモ朕ハ時運ノ趨(オモム)ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
 衝撃は甚だしかった。ソ連の南下備える千島の部隊、素通りされたシンガポール・ラバウル、潔しとせずに抵抗を続ける南洋諸島の部隊、個別戦闘ではほぼ負けていない大陸の部隊等、簡単に武装解除できるはずもない。
 現に北方占守島では8月18日にソ連軍が攻撃を開始、果敢にこれを撃退した。フィリピンのルバング島では中野学校の教育を受けた小野田少尉はその後30年に渡ってゲリラ活動を続けた。
 本土においても混乱は生じる。厚木にあった第三〇二海軍航空隊は小園安名大佐の元、一致団結して継戦完遂の意思を固めていた。中央の武装解除命令を無視し、しきりに周囲にビラを撒く。

 一方、一度はフィリピンから追い払われたマッカーサーは、さすがにいきなり日本に上陸することは避け、連合国最高司令官が作成する降伏文書を受理することに関し、十分な権限を有する使者を連合国最高司令官の許へ派遣することを命じて来た。
 『十分な権限』とはすなわち天皇の勅使である。この場合、国体を護持できるか否か、それ次第では決裂し再び戦闘が始まるかも知れない。誰もが引き受けたくない役目として腰が引ける中、恥辱を受けたらその場で切腹する覚悟をもって事に臨んだのは、陸軍参謀本部次長河辺虎四郎、随員として、外務省から岡崎勝男(調査局長)外1名、陸軍から天野正一少将(参謀本部作戦課長)外6名、海軍から横山一郎少将(軍令部出仕)外6名だった。輸送指揮官は寺井義守海軍中佐が指名された。
 この人数を運べる大型機のほとんどを失っていたため、一行を1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機で沖縄の伊江島まで送り迎えすることとなった。
 緑十字機とは、事実上空を飛べなくなった日本で米軍が飛行を許可した航空機で、その機体は白く塗られて緑の十字をペイントされた。調子に乗ったマッカーサーは『平和の白い鳩』と呼んだ。

 一番機機長の須藤大尉と駒井上飛曹は指揮官寺井中佐に呼び出された。海軍省の一室に通され、待っていると寺井少佐は一人のスーツ姿の紳士を伴って入って来た。思わず立ち上がり敬礼をすると寺井はそれを制した。
『本日は事情により挙手の礼は必要ない。掛けたまえ』
『ハッ』
『これからの話は一切他言しないでくれ。書面による命令も残せない』
 こう告げると一層声を潜めて何事かを告げた。
 羽田から飛ぶと厚木の反乱部隊のゼロ戦に撃墜されるかもしれないので、木更津から要人を乗せて離陸すること。事実、米軍機に対する攻撃は散見されていた。旧式の機体のため沖縄の伊江島経由まで飛び、そこからは米軍機で一行はマニラに向かうこと。そして・・・・、整備兵を二人指名された。
 勅使団は木更津に集合する。
 寺井中佐が、今回同行する整備兵だ、と西兵曹長と室田兵曹長の二人を一行に紹介した。二人とも精悍な印象ではあるが実に暗い眼つきをしていて、ほとんど喋らない。
 須藤大尉は気になったことを寺井中佐に尋ねた。
『中佐。ところで海軍省にいたあの商人服の紳士は何者なんですか』
『聞かない方がいい』
『本作戦は生きて帰れるかどうかわかりません。勅使は恥辱を受けた場合の自決用の拳銃を用意しました。我々もその際には帰れないでしょう。どういう者が関係したかは知っておきたいのです』
『む、一切他言無用。某宮様とだけ言っておこう』
『ハッ』

 それだけ聞くと出発していった。
 厚木の反乱部隊はいまだに健在。その目をかすめるように太平洋上に出てひたすら西に飛んだ。
 命がけの決死行は、その後次々と困難に見舞われる。
 まず、伊江島に着陸の際に1万番機のフラップが下りず、危うく滑走路から飛び出してしまうところだった。その先は崖である。
 勅使はマニラニ行ってしまった。周りは米兵ばかりである。
 ところが、4年にわたった激しい戦闘が終わった解放感からかやたらと明るく、昨日までの敵兵である一行に親切なのだ。それは勝者の余裕かもしれないが、明日死ぬかもしれないという恐怖感が亡くなった方が大きいのであろう。扱いも丁寧だったため、寺井中佐以下の面々も多少は打ち解け始めた。
 しかし例の整備兵二人は米兵どころか日本人一行とも世間話一つしないのだ。
 そうこうしているうちに勅使団はマニラから帰ってきてしまう。自決するほどの恥辱こそ受けなかったものの、日本側の要望である国体の護持については言質は与えられず、一方的にマッカーサーの進駐計画を告げられ降伏要求文書を受領したのみ、会談自体は1時間にも満たなかったのだった。
 そしていよいよ帰国の途に就こうとすると、またもトラブル見舞われる。二番機が滑走路へ動き出したところ突如ブレーキの油圧がゼロとなり、制御不能に陥ってそのまま滑走路脇に止まっていたトラクターにぶつかった。結局勅使たちは文書を携えて1番機単独で日本に向かうことになってしまった。
 機が遠州灘の南方を飛行している時点でメインタンクが空になるので予備の増設タンクに切り替えた途端、エンジンは空転しだした。操縦桿を握る須藤大尉の悲痛な声が響いた。
『何だこれは、燃料がないぞ!』
『そんなバカな』
 副操縦士だった駒井上飛曹も目を疑った。これは・・・。
 河辺中将は一瞬にして事態を飲み込んだようだった。この降伏文書がもし届かなければ。停戦はなし崩しになり再び戦闘が始まるかもしれない。何がなんでも届けなければならない。
 須藤大尉には誰が発したかはわからないが切羽詰まった声が聞こえた。
『海岸線に沿って不時着しろ!』
 無論言われなくてもそれが唯一生き残る道だ。須藤大尉と駒井上飛曹は目配せして機体を北に向け、同時に降下し始めた。
 未明、うっすらと遠州灘の海岸線が見えてくる。岩礁のない砂浜の近く、それもあまり海岸に近ければ胴体着陸になり危険が増す、という難しい局面になった。
 全員待機姿勢をとりつつ、機体は水煙を上げながら絶妙な角度で着水した。海は荒れておらず、海岸から20mほどの沖にしばし漂った。
 勅使一行は強い衝撃にもかかわらず全員何とか脱出し、何とか浜に泳ぎ着いた。とにもかくにも降伏文書を持って帰京しなければと必死の脱出だった。

 結局文書は多くの関係者の協力と強い意志で届けられ、マッカーサーは無事に進駐を果たし、ミズーリ艦上での降伏文書に署名ができた。
 だが、この緑十字飛行には多くの謎が残った。度重なるトラブル、極め付けが燃料切れ、あまりにも不審な点がある。整備兵を同行させてまでこうも連続して起こるものであろうか。特に燃料切れについて、関係者は口裏を合わせたように『こちらはリッターでやっているが米軍はガロンで測るので積み込む燃料の量に行き違いがあった』という。そんな程度の意思疎通のミスで増設槽が空で飛ぶとも思えない。
 しかも、その整備兵の名前は正規の軍籍には無く、その後の消息が全く不明なのだ。名乗りは偽名だったのである。そこから推論するに、降伏文書を日本に持ち帰らせたくないさる筋が妨害工作を仕掛けたのではないだろうか。緑十字飛行に関わった海軍の一部が工作し、命を賭しての飛行だった可能性はある。
 冒頭の話に戻る。樋口中将率いる北部軍は樺太・千島を南下するソ連軍と対峙し、大陸には殺気立った部隊が健在。無論邦人の帰還は未だであり、南方での戦闘も燻っていた。
 厚木航空隊の小園大佐は、マラリアの発作を発症した際にモルヒネを打たれそのまま海軍病院に幽閉され部隊は鎮圧された。尚、小園大佐は斜銃搭載夜間迎撃機「月光」の発案者である。
 海軍軍令部の富岡少将は密かに土肥中佐を平泉澄の元に遣わし、国体の護持を三種の神器と皇統の継承であると確認すると、343空の源田司令に九州某所に宮様を動座する工作を始めた。富岡少将はミズーリ艦上での調印に海軍代表として参加している。土肥少佐はその後台湾海軍の創設に深く関わった。
 以上は史実である。
 その後の政治的推移は読者ご案内の通りだが、水面下ではコミンテルンの介入並びに大陸・半島のスパイ活動は激しく、片やアメリカの治安機関の陰謀とそれにスリ寄る日本人、あるいは中野学校関係者による長期に渡る地下工作といった裏の戦いは続き、今も継続されているとしか思えない。
 そのうち抗戦派の流れは民間に継承され、今日なお健在である。皇軍は未だに地下にあり、しばしば姿を現す。SECRET・MACHINATIONS・CONSPTIRACYとして。SMCのことである。

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異説『死のう団事件』Ⅱ

2023 DEC 3 16:16:25 pm by 西 牟呂雄

 一時は千人ほどに膨れ上がった教団だったが、騒ぎのためにその後は50人程にまで減ってしまった。だが、残ったメンバーは桜堂に強く心酔する若い者で、その結束は強くなった。無論丈太郎もその一人である。
 そしの丈太郎達から、より強力に布教を推進するにはどうすればいいかという議論が沸き起こって来た。青年が中心になって桜堂の親衛隊ともいえるグループは今後の布教に邁進するというのである。そして例の『死のう!死のう!死のう!』を唱えているうちに頭に血が上り結盟書に血判を押した。

 時はテロが横行する不穏な風が一部には流れていた。前年2月、血盟団事件で大蔵大臣井上準之助と三井の團琢磨が暗殺される。5月には海軍将校による5・15事件が起きていた。
 血盟団事件の中心人物である井上日召はやはり日蓮宗の信者であった。日蓮宗系では創価学会が立ち上がり、後に不敬罪並びに治安維持法で特高警察から弾圧される。大本教の出口王仁三郎が二度目に投獄されるのもこのころの出来事である。
 左派運動に対する締め付けも厳しくなっていたが、同時に宗教系右派への取り締まりも強化されていたのである。
 特に労働者の多い京浜工業地帯が広がる神奈川県の特高警察、通称『鬼のカナトク』の取り組みは勇名をはせていた。
 
 桜堂は当初青年党の動きをやや引き気味に見ていたが、丈太郎達に突き上げられるように『殉教千里行』を実行することになった。青年党員28人(内数名は女性)は白い羽織に黒袴、鉢巻きを締めるという異様ないで立ちで、まずは鶴岡八幡宮を目指して旅立つ。家族を捨て仕事も捨て生還も期さない、という覚悟だったが、計画は未熟そのものである。
 異様な風袋は丈太郎の発案で、さらに太鼓を叩きながら『我が祖国にために、死のう!』をやるのだから、目立つを通り越して不気味なのだ。警察に通報された。
 そして葉山のあたりで野宿をしようとしていたところを一網打尽にされたのだった。更に『カナトク』は過剰反応し、非常呼集をかけて数十か所にガサ入れをかけた。
 鶴岡八幡宮で落ち合おうとしていた桜堂は翌日蒲田署に出頭したが、事態が呑み込めておらず、いつもの説法をして帰ってしまった。『カナトク』の思惑を図りかねていた。
 カナトクはこの騒ぎを事件とし、読み筋をテロの企てと見立てた。既に起こってしまったテロ、特に血盟団事件のような凶悪なテロを未然に防いだという手柄を立てたい意思が働いたのである。
 そして、当然のことながら何も知らない青年部の連中を残虐な拷問にかけた。それは文字にするのもはばかられるすさまじいもので、既に小林多喜二は特高の拷問により死に至っている。中でも数人いた女性信者へは性的嫌がらせも執拗に行われ、ある女子医専に通っていた娘とその妹は精神に異常をきたした。
 しかし、本当に何も知らないのであるから白状しようもない。耐えかねた2~3人が、その通りです、と肯定して信仰を捨てただけで、桜堂ほか5人以外は釈放された。ただその5人の中に何故か丈太郎は入っていなかった。
 焦ったカナトクはリークを始める。新聞各紙に煽動的な記事が出だす。『西園寺公暗殺を計画』『増上寺を焼き討か』『好色漢の盟主桜堂』このうち、実際に計画になりかけたのは増上寺焼き討ちであるが、事前に桜堂の知るところとなり中止させられていた。この一連のリーク記事で、マスコミは彼らのお題目から教団を『死のう団』と呼ぶようになった。
 事件は不思議な方向に進んでいく。人数激減により壊滅されそうになった教団は、何とカナトクの課長以下十数人を人権蹂躙・不法監禁・暴行障害で横浜検事局に告訴したのである。告訴したのは盟主桜堂と精神錯乱に陥った女子医専生徒今井千代の名前もあった。丈太郎の入知恵だった。
 丈太郎は相変わらず教団に留まっていたが、なぜかほかの信者のような生々しい拷問の跡がない。例の割腹のパフォーマンスのミミズ腫れが醜く盛り上がり、気味悪がった特高が早めに放り出したと言うのだが。
 特高警察を告訴するなど前代未聞、これもまた耳目を集めることとなった。それも今度は新聞の論調が変わって来た。
『裸女に火の拷問 姉は狂い妹も青春空し』
 見出しからしておどろおどろしい。
 1930年代の世界大恐慌の煽りを食ってダメージを受けた日本経済は、さらにタイミングの悪かった金解禁により落ち込み、巷に失業者の溢れる世相と相まって民衆の怒りがマグマのようにせりあがって来ていた時期である。高橋是清のインフレ政策で多少持ち直してきたとはいえ、格差は今日の比ではない。民衆の怒りがテロの形を採ると、治安当局も苛烈な弾圧をエスカレートさせたのだった。
 告訴を受けた横浜検事局の検事正が実態を知り『警察の恥』と言い、それを知った新聞記者も大いに憤慨していった。すると今度は告訴を取り下げろ、と怪しげな男が教団を恫喝する、特高の尾行がつく、会員への嫌がらせが続く。それでも屈しないと、世論におもねったのか、今度は懐柔しようとした。
 ついに神奈川県警察部長の相川は、賠償金・慰謝料を負担し、日蓮会を今後は支援する、とまで申し入れてきた。『死のう団は何等国法に触れることなき熱烈なる革新的宗教団体なりと認む』という自筆文書を携えて、である。桜堂はこれに、県警から報道機関へ出された文書に署名・押印することを加えるよう要望した。ところがこの交渉に期間に告訴を受け調査していた地検の検事正は更迭され、告訴は事実上店晒しにされていたのである。
 3月24日付けで作成された文書が取り交わされる日に、県警側が用意した席にはビールが持ち込まれいざ手打ち、となるはずだったが、丈太郎の叫び声がブチ壊した。
『筆跡が違ってるじゃないか!』
 桜堂は青ざめた。相川部長は作り笑いを浮かべとりなそうとしたものの、座は凍りつきビールは無駄になった。
 半年後に衝撃的な事態となる。取り調べに当たったカナトクの主任が鎌倉山中にて割腹自殺を遂げた。遺書には自分の退職金を、拷問を受けた女子医専の学生に渡すようしたためられていた。白い羽織に黒袴、教団が逮捕されたときの装束である。新聞各紙は拷問の責任を執ったものと報じた。実はこの主任はひそかに教団を訪ね、自身が上司からテロリストであるという報告を書かされ梯子を外された、おまけに責任を執って退職を勧告されている、と自白していた。
 その頃から示談金は千円から二千円に上がったものの交渉は進まない。相川部長は内務省保安課長に栄転する。そして横浜地検は特高課員の不起訴を決める。桜堂はツテを辿って政友会の久山知之を頼り、帝国議会で特高の拷問につき質問させるに至った。
 今度は警察サイドが態度を硬化させ、残ったわずかな信者を徹底した行動監視下に置く。背後に重大事件である2・26の暴発があったためである。治安当局は本気になったともいえる。このような草の根の運動が大きな力を持ってしまえばどうなるのか、計りかねるとともにともすれば血気に同情的な世論を気にしたためであろう。逼塞状況を打破するという大きなうねりが世相を暗くし、その後冷静な判断を失うのは後世の我々だから知りうるのであり、この時点では上も下も右も左も不安にかられたヒステリーだったのである。
 ついに警視庁は全信者の動向を監視しはじめ、各自宅にガサ入れを行い会館には警官が常駐するようにエスカレートした。、
 教団は壊滅寸前で桜堂の体調も悪化する中、「餓死殉教の行」に突入する。会館に一歩でも外部者が入れば即刻集団自決する、と籠城した。食料もなくわずかな飴玉と塩のみでひたすら『死のう、死のう、死のう』を唱え、万が一に備え8千人の致死量の青酸カリまで調達した異常さである。発案はまたしても丈太郎だった。
 結局「餓死殉教の行」は遺体引き取り予定者の死亡により中断せざるを得なかった。

 昭和12年2月某日。宮城前広場・国会議事堂正面・外務次官邸玄関脇・警視庁正面玄関ホール・内務省3階にてほぼ同時に『死のう、死のう、死のう』と叫びながらビラをまいた男が短刀で腹を掻き切り血まみれになった。
 ただし、短刀には丈太郎が考案した鋏木の細工がしてあったため、全員絶命することはなかった。桜堂が死に至るのを禁じたからである。ところが最側近の丈太郎は日蓮会館には姿を見せなくなって、この割腹騒ぎには加わっていなかった。
 その一月後には桜堂が結核をこじらせて死亡するともはや教団は体をなさなくなって消滅する。最後まで残った信者は後追い自殺を始めた。女性信者は一人が青酸カリを飲み、別の二人は猫いらずを飲んで自殺。警視庁で腹を切った男も青酸カリで死に、宮城前広場で切腹した男は東京湾横断の船から「死のう」と叫びながら海に飛び込んだ。

 内務省特高課長の手島龍蔵は料亭の一室で一組の男女と対していた。
『原部(ばらべ)君、お疲れであった。首尾よくやってくれた』
『課長、恐れ入ります。ただ奴ら本当に何も企ててはいませんでした。後味は悪いですな』
『ウム。だがああいうのは一旦弾みがつくとどう転ぶかわからん。血盟団の連中だってまじめな帝大生だったし5・15の海軍や2・26の連中だって初めから要人暗殺を考えていた訳ではなかった』
『軍人さん達がやったのはそれを煽ったお偉いさんがいたんでしょう。奴らは民間もいいところでしたよ』
『原部君。だが君の煽りに乗りかかったことも事実だろう』
『それは・・・。私らこれからどうしたらいいのですか』
『心配するな。君には大陸で働いてもらう。満鉄調査部のポストを用意した』
『ほう。いよいよ満州工作ですか』
『狭い日本は飽きたろう。向こうでは甘粕さんの指示を仰げ』
『特高さんの次は憲兵さんですか。まあいいや。今後とも宜しく』
 顔を上げると男は丈太郎。女は立花須磨子であった。

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異説『死のう団事件』Ⅰ

異説『死のう団事件』Ⅰ

2023 NOV 30 23:23:05 pm by 西 牟呂雄

 大正末期、蒲田・川崎といった京浜工業地帯の駅頭に一人の青年僧が辻立ちの説法をしていた。
『皆さんが信じているものは何ですか。困った時にはいうでしょう、神様仏様と。ではその神様とは何でしょう』
 慌ただしく行きかうのは汚れた服装に身を包んで疲れきった、或いはこれからの夜勤労働に行く、暗い表情のいわゆる職工達で、そんな説法には目もくれずに足早に帰宅、または出勤の歩みを進めるのみだ。
 人々の流れが引いた後、夕暮れの中を青年は『不惜身命、不惜身命』と合掌して唱えると長時間の辻立ちにも拘らず満足気にスタスタとどこかへと帰って行った。
 青年はまだ20代らしく、どうもこの辻立ちを修行の一環と捉えているようで、飽きもせず来る日も来る日もどこかの駅頭に立ち、感心を示さない労働者の前で説法するのである。
 青年の名は江川桜堂。熱心な日蓮宗の信者であった。都下蒲田村の地主の次男坊で極真面目でおとなしい男だ。ただ、少し変わっている、妄想癖があり幾つになっても子供っぽかった。
 日蓮宗は時に過激な信仰を促すため、常に内部に分裂の遠心力が働く傾向がある。それは今日でも同じで、いくつもの団体が緊張感を孕んでいる。明治・大正を通じても深刻な対立はあり、教義の研究と宗門統合の布教道場としてその名も『統一閣』という施設を浅草の地に建設した。桜堂はそこで本多日生上人の元で益々研鑽に没頭し、遂には日蓮の経典全てを読破する。
 その後、冒頭の辻説法となるのだがしばらくして関東大震災で被災する。幸い生き残ったものの、あまりの惨状を見聞きしているうちに何かが弾けた。
 瓦礫の山、夥しい死体、途方に暮れる人々。京浜地区は東京下町のような火災による被害は少なかったものの、桜堂もしばらくは茫然自失に陥り、法華経をひたすら唱えてしのいだ。
 ようやく、復興の兆しが見えた頃の蒲田の駅頭に立った時点では、説法は様変わりしていた。
『かの惨状が、ただ自然現象だけだとお思いか。さすれば日頃先祖参りをしていた寺、願をかけて祈った神社、こういったところに祀られていた仏や神は何をしてくれましたか。荒れ狂う大地をいさめることもなく惨状を招き、その後何も手を差し伸べてくれません。それは誠の仏の教えを守らなかったからに他なりません』
 こうして説き起こし、日蓮上人はこれを見通していて国難来たると警鐘を鳴らしていたのだ、と訴えた。既成宗派を呪い攻撃し、次第に醸成しつつある国家神道を否定した。
 すると、次第に桜堂の辻説法に聞き入り、中にはこの強烈な主張に感化され従うものが出始めた。説法の最後に桜堂が合掌し『不惜身命、不惜身命、不惜しーんーみょーおーー』と唱えると一斉に唱和するのである。そしてそれを珍しそうに遠巻きにする群衆も増えていくのだった。
 百人を超える信者が彼を取り巻き『盟主』と慕うようになると、道場のようなところが必要になり、蒲田の糀谷に簡素な家屋をしつらえて、そこを日蓮会館とし自分達は「日蓮会殉教衆青年党」を名乗った。ちなみにその建設費用は桜堂の父親にねだったもので、要するに世間知らずのお坊ちゃんである。
 会館でのささやかな勉強会のような集まりに、一人の男が顔を出すようになった。やせ型で色は白く、キリッとした目つきが印象的な若い男で、底辺の労働者ばかりの他の連中とは身なりからして違い小ぎれいである。 教義にさほど熱心にも見えないのだが、呑み込みが早く桜堂も傍に置くようになっていった。男は丈太郎といったが、苗字を知る者はなく、住んでいる所も誰も知らなかった
 そしてこの男、なかなかのアイデア・マンで色んなことを桜堂に提案しだした。説法の際にのぼり旗を立てて『不惜身命』と大書する、説法に合わせて笛や太鼓で拍子をとる、
更には『不惜身命』は仏語で難しいのでわかりやすくする、といったことを次々にやり始めた。その分かりやすくしたものが波紋を呼ぶ代物だった。
 
 我が祖国の為めに、死なう
 我が主義の為めに、死なう
 我が宗教の為めに、死なう
 我が盟主の為めに、死なう
 我が同志の為めに、死なう
 

 これでは自らカルト教団だと言って歩いているようなものである。
 川崎駅頭で桜堂が激を飛ばすと、数百人の信者がのぼり旗をもって囲い、説法が終ると笛や太鼓で伴奏が始まり、独特の民謡調の節をつけて『わがーそこくーのたーめーに』と盟主が謡うと一斉に『しの~~う~』と唱和する様は異様でしかない。
 この頃から桜堂の行動もおかしくなってくる。 池上本門寺で『クソ坊主ども』と喚いて暴れた姿が目撃された。
 ある日、丈太郎が妙な木細工を持ち込んだ。短刀の鞘のような挟木で、これを使うと担当の刃先が5mm程度しか出ないから腹に突き立てても致命傷にならない。
 さすがに桜堂は『死ぬことが目的ではない』とたしなめたが、神妙に手に取ってみる若い信者はいた。そしてある日、丈太郎がやってしまった。
 某日、桜堂の説法には信者が20人程、聴衆は10人いるかいないか。説法が熱を帯び信者が興奮して「~~死のう,~~死のう、~~死のう」とやっていると、突如酔漢が前に進んで喚いた。
 「じゃ、やって見せろ!そんなに死にたきゃサッサと死ねー」
 桜堂は意に介さず『しかるに日蓮上人はこう申された』と続けたが、信者達は蒼白になってその酔っ払いを見つめた。
 すると僧衣を纏っていた丈太郎がその男の前に立ちはだかり、スルスルと前を解いて短刀の鞘を払った。桜堂も説教を止めざるを得ない。静まり返ってしまったその刹那。『エーイ!』裂帛の気合とともに一直線に腹を裁いた。『ヒィー』と声を上げたのは絡んできた酔っ払いである。腰を抜かしていた。信者も聴衆の叫び声をあげた。丈太郎の腹から数珠玉のような血が噴き出し、やがて下帯を赤く染めていく。腰を抜かした酔っぱらいはバタバタと駆け寄り、大丈夫ですか大丈夫ですか、と助け起こした後に、次第に増えていく野次馬に向かって叫んだ。
『おーい、みんな。この人たちの話を聞いてくれ。オレが悪かった。この人達は本気だー。頼むから足を止めて話を聞けぇ』
 丈太郎は信者に抱えられて行くのだが、勢いでやってしまった驚きと激痛に無様に喚きっぱなしであり、実にみっともなかった。『イテー!イテテテテ』と暴れるが、実のところ深さ数ミリの切り傷であった。例の鋏木の細工のお陰だ。簡単な手当てで傷は落ち着いたが、跡はミミズ腫れになって醜く残った。
 ところがこの騒ぎで辻説法の聴衆は膨れ上がり、信者も千人ほどにハネ上がった。日蓮会館には様々な人間が出入りするようになった。

 奇妙な女が頻繁にやってくるようになった。美形である。つつましやかな和装であるが、仕草や振る舞いに色気があり自然と信者の目を引いた。名前は立花須磨子といった。ところがこの女、初めのうちは会館の研修会に出てきたが、どうも教義にはあまり興味は無いようだがやたらと盟主である桜堂に近づきたがる。女性信者は数は多くはなかったが、学生・女工・家事見習いの者が年齢に関係なくいた。その中で須磨子はあか抜けた風貌で飛び切り目立った。男達は好奇の目でみたが、女たちはあからさまに白眼視したのだ。それを尻目に辻立ちに現れては帰りに桜堂に寄り添う、会館から外に連れ出そうと声をかける。一部は警戒するようになった。
 丈太郎はある日、桜堂と二人になった折に切り出した。
『盟主。あの女マズいですよ。あんまり盟主の話も聞いてないみたいだし、やたらと色目を使いやがる。叩き出しましょうか』
『むっ、それはいかがなものか。確かに目に余る部分もあるのだが、いきなり叩き出すとはなんとも慈悲のない。よし、私から言って聞かせよう』
 後日、桜堂は丈太郎を伴って須磨子の家を訪ねた。家は蒲田の近くのしもた屋のたたずまいで、須磨子は一人暮らしだった。
『おや、これは盟主様。わざわざお越しですか。今、お茶を入れます』
と言いながら、傍らの丈太郎を認めると露骨にイヤな顔をした。相対する形で桜堂が須磨子に語り掛けた。
『あなたは何故会館に来ているのですか』
『はぁ、まっ、盟主様の説法をもっと間近にきいてみたり、どなたかにお話を聞いていただくとか』
『私の説法が聞きたいと言うにしてはあまり熱心さがないように思う』
 須磨子の目に見る見るうちに涙が浮かんだ。
『盟主様・・・、わたくしは』
 と言うと、身の上を語りだした。
 話し始めると止まらなかった。
 北関東の小作農家の生まれ、子だくさんゆえ小学校卒業後東京に奉公に出たところ、それなりの器量良しを妬まれて壮絶な苛めにあう、一方で家の主人からは強姦まがいに体を奪われ、自分のせいでもないのにおかみさんから半殺しにされて放り出される。
 流れ流れてどん底に落ちた遊郭で人入れ稼業の親方に見初められて愛人となる。いかに淋しい身の上なのかを涙ながらに訴えた。刮目して聞き入っていた桜堂は膝頭に何かが当たるのを感じて目を開くと、須磨子が顔を埋めてきたのだ。慌てて振り向くと丈太郎はいない。いつのまにか姿を消していた。
『これ、よく分かった。よーくわかった。これからも会館にきて心静かに南無妙法蓮華経を唱えるがよい』
 と諭し、這う這うの体で辞した。
 ところがこのことが人知れず噂となりとんでもない事件を引き起こす。
『インチキ坊主出てこい!』
『色狂いの生臭野郎!』
 日蓮会館前に屈強の男達がスコップ・ツルハシを担いで大声を上げている。信者達は怯えて雨戸まで締め切ってしまった。一段と人相の悪い小柄だがガッシリした男が会館の引き戸の前に立って声を上げる。
『江川桜堂!人の女に手を出してただですむと思ってんのか!こらァ!』
 会館内は物音ひとつ聞こえなかったが、ガラガラと引き戸が開いて青年が出てきた、丈太郎だった。
『何だテメーは』
『大声で話さないでください』
『桜堂を出しやがれ。この落とし前はどうつけてくれるんだ』
『盟主はあなたのかんぐりは見当違いだと申しています』
『だったら顔出しやがれ。この変態坊主共』
『我々はそのような者ではない。ただひたすらに法華経に殉ずる。不惜身命ー!我が祖国の為めに、死なう。我が主義の為めに、死なう、我が宗教の為めに、死なう』
 そう言いながら法衣を脱ぎだし、不気味に醜くミミズ腫れの跡が残った腹を曝け出した。対峙していた男は血相を変えて後ずさりする。『我が盟主の為めに、死なう。我が同志の為めに、死なう』と唱えながら例の短刀を持ち出すとサッと腹を一文字に滑らせた。たちまち鮮血が流れ出す。
 対峙していた男は『ウwッ』と怯むと後ずさりし、不逞の輩達をうながして『気味の悪いやつらだ』と引いて行った。丈太郎はというと不気味な笑みを浮かべながら会館に戻る。どうやら浅く捌くコツのようなものがあるようで、前回ほど見苦しく暴れなかった。

 その場はそれで納まったものの、騒動に嫌気のさした者や盟主の乱淫を信じた女達は教団から離れて行ってしまった。

 つづく 

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異説『死のう団事件』Ⅱ

 

君は今 駒形あたり 時鳥(ほととぎす)

2023 APR 8 22:22:16 pm by 西 牟呂雄

 何といじらしい。尚且つせつないというか可愛らしいというか。
 子規によって近代俳句が確立されるおよそ200年も前に発せられた句だが、瑞々しい語感は少しも古びていない。
 さぞかし高貴な方の作品かと思いきや、作者は吉原の花魁である。花魁といってもそこらの場末の酌婦・夜鷹とは訳が違う。大江戸ワンダー・ランド吉原の三浦屋に代々伝わる大名跡の二代目高尾太夫の作である。
 高尾太夫ともなれば、容姿端麗で教養高く書も良くするスーパー遊女。そこらのチンピラなど相手にもされないまさに高嶺の花と言えよう。かの二代目を寵愛したのは仙台伊達藩主、伊達家十九代綱宗公だった。
 花魁は筋のいい情夫(いろ・贔屓筋のこと)には惚れたふり。提題の句は綱宗公に送ったとされる。
 ところが、色事は奥が深い。このような美しい句を送っておいても心は違った。隅田川の楼船上にて公の勘気にふれ、吊り斬りに首を刎ねられた。すると後日、その首が日本橋川と隅田川の合流するところに流れ着き。事情を知る人々は大いに同情し、社を建て「高尾大明神」を祀り手厚く葬った。

ひっそり

 先日、人込みを避けて葉桜を楽しみながら大川端を散策していて、この高尾稲荷を見つけた。
 ビルの一角に嵌め込まれるようにひっそりと佇んでいた。
 場所は確かに日本橋川と隅田川の合流する豊海橋のほとりである。
 どうやら以前は別のところだったのが、Bー29の無差別爆撃で社殿が燃えてしまいここに再建された。
 その際、焼け跡を整地する際に地面を掘ったところ頭蓋骨が出て、これは本物だとご神体として安置した。まずほかに見られないケースである。

 恐る恐る、小さな社を覗いたが、おそらく別の場所で大切にされているのだろう。よく見えなかった。

合流地点の豊海橋

 この伊達綱宗は仙台藩主として三代目なのだが、酒色に溺れてどうしようもない殿様とされている。どうやら、親族の政治介入や家臣団の対立で嫌気がさしておかしくなり、「無作法の儀が上聞に達したため、逼塞を命じる」と21才で隠居させられた。おまけに幼い息子が家督を継いだことがのちの伊達騒動の遠因となるなど、ろくでもない殿様だったらしい。
 しかしながら隠居後は風流人として和歌、書、蒔絵などを良くし、特に絵は狩野探幽に師事して優れたものを残した。
 上記高尾太夫の惨殺も読本や芝居で広まった俗説だとか。実際には旗本の島田利直に身請けされ、死去した後は埼玉県坂戸の永源寺に葬られたというのだ。
 すると、祭られている髑髏は一体誰なのか。
 まさか何でもない土座衛門の骸骨ではあるまいな、と思いながらお賽銭を投げて鈴を鳴らした。

日銀の記念碑

 さて、天気もいいしこのまま浅草橋まで行って神田川の合流を観て行こうか、と歩き出したところこんなのがあった。影がはいってしまい見づらいが旧日銀の跡地の碑である。
 かの渋沢栄一が近代資本主義の第一歩を踏み出した所かと、感慨深い。
 桜は過ぎたが、新緑の中を散策するのにお勧めのコースです。

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生きすぎたるや二十三 八幡引けは取らるまい

2022 SEP 11 0:00:26 am by 西 牟呂雄

 天下分け目の関ヶ原で東軍が勝利した後、大阪の陣までの間は、全国で大地震が起こり世の中は騒然としていた。慶長年間の江戸では、家康の天下普請で町中が埃を巻き上げている中で、ひときわ派手な拵えで闊歩する人足元締がいた。
 異装の男伊達を看板に徒党を組んでは暴れまわる傾奇者(かぶきもの)。大鳥逸平、通り名を大鳥居の一兵衛と言った。するとそれに従うバカ共も大風嵐之助、天狗魔右衛門、風吹藪右衛門と調子に乗った名乗りを上げている。
 武州下原の刀工に打たせた三尺八寸の厳物造太刀(いかものつくりのたち)には、その銘に「廿五まで生き過ぎたりや一兵衛」と刻んだ。いかにもヒマを持て余した都市の仇花の刹那的な心情が滲み出ている。25年の人生は長生きのし過ぎということか。せっかく手に入れた平和が退屈なのだろう。約半世紀後に現れる六方組と呼ばれる旗本奴の先駆けである。
 最もこの時代の死生観は現代の我々とは違っていて当然だ。ましてやついちょっと前まで戦乱が続いていたのだ。平和な時代の今よりも命は遥かに軽い。となれば破れかぶれの潔さが分からんでもない。
 大鳥逸平、もともとは幕臣本田信勝の草履取りだった。身持ちが悪く逃げ出したのちはなぜか佐渡の金山奉行かの大久保長安の元、大久保信濃の小者になりおおせたが長続きしない。弓・鉄砲・槍と武芸百般に通じる器用さも持ち合わせていた。まぁ喧嘩には強い。
 江戸に出てきて人足元締めを稼業にするころには、今で言うチーマーとか族、半グレの頭として300人を超す配下を束ねていた。
 ある時、旗本柴山正次が家僕を成敗した。するとこの奉公人の一味が柴山を切り殺すという事件を起こした。実際の下手人を詮議したところ、裏で糸を引いていたのは大鳥居一兵衛と知れた。ところが当の一兵衛は行方をくらまして見つからない。一計を案じた町奉行・内藤平左衛門は武蔵国多摩郡の高幡不動の春の縁日に合わせて相撲の興行を開く。すると相撲自慢の一兵衛は間抜けにも姿を現し、大捕り物の末に捕縛された。
 当時のこと故、厳しい拷問を受けたが口を割らず、本多正信・土屋重成といった大物までが駆り出されたが、自白しないまま一党300人まとめて処刑される。享年25才。銘に彫り込んだ年齢で果てて見せた。

 ところで、この『生きすぎたるや』という言い回しは当時の流行り言葉だったようである。
 慶長九年、太閤秀吉没後の七回忌に執り行われた豊国臨時大祭礼の喧騒を描いた屏風が名古屋の徳川美術館に所蔵されている。その中に、ヨタ者同士が抜刀して対峙する喧嘩の場面がある。このもろ肌脱ぎの大兵の朱鞘には、金文字で『生きすぎたるや二十三 八幡引けは取らるまい』と書かれている。
 先行きの見えない不安。どうにもならない焦燥感。目的も見えずすることもない。ただ人の集まるところでは弾けるように異装に凝っては男伊達を競って暴れる。
 この破れかぶれ感、筆者も思い当たらないでもない。しかしながら齢古希に近づかんとする前期高齢者となってみれば、これ等の振る舞いはおろかの極みでありで、何が23だ25だ、どうせならお前達もう5年バカを続けてもいいんじゃないか、と言ってやりたい。
 チンピラというのは目標も何もないから、喧嘩沙汰でもなければ退屈でヒマを持て余す。そのうちに相手にされなくなって気が付くともういけない。
 まっ今でもそういう輩の種は尽きませんがね。そこから余程才能があればバサラ者になって・・・、もういいや。筆者も危ないところだった。 

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