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生きすぎたるや二十三 八幡引けは取らるまい

2022 SEP 11 0:00:26 am by 西 牟呂雄

 天下分け目の関ヶ原で東軍が勝利した後、大阪の陣までの間は、全国で大地震が起こり世の中は騒然としていた。慶長年間の江戸では、家康の天下普請で町中が埃を巻き上げている中で、ひときわ派手な拵えで闊歩する人足元締がいた。
 異装の男伊達を看板に徒党を組んでは暴れまわる傾奇者(かぶきもの)。大鳥逸平、通り名を大鳥居の一兵衛と言った。するとそれに従うバカ共も大風嵐之助、天狗魔右衛門、風吹藪右衛門と調子に乗った名乗りを上げている。
 武州下原の刀工に打たせた三尺八寸の厳物造太刀(いかものつくりのたち)には、その銘に「廿五まで生き過ぎたりや一兵衛」と刻んだ。いかにもヒマを持て余した都市の仇花の刹那的な心情が滲み出ている。25年の人生は長生きのし過ぎということか。せっかく手に入れた平和が退屈なのだろう。約半世紀後に現れる六方組と呼ばれる旗本奴の先駆けである。
 最もこの時代の死生観は現代の我々とは違っていて当然だ。ましてやついちょっと前まで戦乱が続いていたのだ。平和な時代の今よりも命は遥かに軽い。となれば破れかぶれの潔さが分からんでもない。
 大鳥逸平、もともとは幕臣本田信勝の草履取りだった。身持ちが悪く逃げ出したのちはなぜか佐渡の金山奉行かの大久保長安の元、大久保信濃の小者になりおおせたが長続きしない。弓・鉄砲・槍と武芸百般に通じる器用さも持ち合わせていた。まぁ喧嘩には強い。
 江戸に出てきて人足元締めを稼業にするころには、今で言うチーマーとか族、半グレの頭として300人を超す配下を束ねていた。
 ある時、旗本柴山正次が家僕を成敗した。するとこの奉公人の一味が柴山を切り殺すという事件を起こした。実際の下手人を詮議したところ、裏で糸を引いていたのは大鳥居一兵衛と知れた。ところが当の一兵衛は行方をくらまして見つからない。一計を案じた町奉行・内藤平左衛門は武蔵国多摩郡の高幡不動の春の縁日に合わせて相撲の興行を開く。すると相撲自慢の一兵衛は間抜けにも姿を現し、大捕り物の末に捕縛された。
 当時のこと故、厳しい拷問を受けたが口を割らず、本多正信・土屋重成といった大物までが駆り出されたが、自白しないまま一党300人まとめて処刑される。享年25才。銘に彫り込んだ年齢で果てて見せた。

 ところで、この『生きすぎたるや』という言い回しは当時の流行り言葉だったようである。
 慶長九年、太閤秀吉没後の七回忌に執り行われた豊国臨時大祭礼の喧騒を描いた屏風が名古屋の徳川美術館に所蔵されている。その中に、ヨタ者同士が抜刀して対峙する喧嘩の場面がある。このもろ肌脱ぎの大兵の朱鞘には、金文字で『生きすぎたるや二十三 八幡引けは取らるまい』と書かれている。
 先行きの見えない不安。どうにもならない焦燥感。目的も見えずすることもない。ただ人の集まるところでは弾けるように異装に凝っては男伊達を競って暴れる。
 この破れかぶれ感、筆者も思い当たらないでもない。しかしながら齢古希に近づかんとする前期高齢者となってみれば、これ等の振る舞いはおろかの極みでありで、何が23だ25だ、どうせならお前達もう5年バカを続けてもいいんじゃないか、と言ってやりたい。
 チンピラというのは目標も何もないから、喧嘩沙汰でもなければ退屈でヒマを持て余す。そのうちに相手にされなくなって気が付くともういけない。
 まっ今でもそういう輩の種は尽きませんがね。そこから余程才能があればバサラ者になって・・・、もういいや。筆者も危ないところだった。 

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Categories:伝奇ショートショート

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