ブルーノ・サンマルチノの訃報
2018 APR 26 21:21:05 pm by 西 牟呂雄
一瞬、アレッまだ存命だったか、と失礼にも思ってしまった。
往年のビッグネーム、ニューヨークの帝王が亡くなった。今月の19日、83才、スーパースターにしては扱いは小さかったと思うのは私だけか。
日本では「人間発電所」などと称されていたものの、果たしてアメリカで「ヒューマン・パワー・プラント」と呼ばれていたかどうか。おそらく東京スポーツの記者が思いつきでつけたものと推察しているが、子供の頃に読んだ時点でもこのニック・ネームには実にマヌケ感を感じた。
60年代から70年代にかけての全盛時代に度々来日してそのファイト・スタイルをテレビで見た。ズングリムックリ毛むくじゃら、という印象が記憶に鮮明だ。
結構敏捷な動きもしていたが、必殺技がカナディアン・バックブリーカーとベア・ハッグだったのでやや地味な感じが否めない。
カナディアン・バックブリーカーは背中合わせになって相手を丸太のように担ぎ上げて腰の辺りを締め上げる。ベア・ハッグに至っては組み付いてのサバ折り。現在のプロレスを見慣れた若いファンにはあまり受けそうも無いが、当時はギブ・アップ必至の業だった。筆者自身、中学時代にやられてみて相当ヤバい技であることは味わっている。
この頃WWWF(スウィーダブリューエフといった)の試合の華は怪力レスラー同士がベア・ハッグを掛け合うことで客は沸きに沸いた。
ところがある日、東京スポーツに『発電所 新星ハンセンに首を折られる』の見出しが出て仰天した。あのスタン・ハンセンが新人時代にマジソンスクウェア・ガーデンでサンマルチの首を折る、当時はハンセンは全くの無名だったので驚いた。しかもその技は『投げ縄式首折ナントカ』とかいうオドロオドロしい名称だ。そもそもあんな太い首が折れるのか、首が折れたら死ぬんだろう、と俄然注目した。
おりしもその年の夏、アメリカ横断の旅をしていた。建国200年の時だ。サンフランシスコからニューヨークまでグレイ・ハウンドの長距離バスを乗り継ぎながら行き、ヘトヘトになってマンハッタンまで辿り着いた。
そこで日本のスポーツ新聞のようなペーパーを売っているスタンドを見ると、一面にギプスを付けたサンマルチノの顔写真がデカデカと出ていて当地での人気が窺い知れたものだった。早速買ってポケット辞書を引きながら読んでみると、その『投げ縄式首折ナントカ(今で言うラリアット)』は関係なく、唯のボディ・スラムを失敗して掟破りの頭から落としたせいだ。
名前の通りイタリア系で戦後の移民である。第一印象はエルビス・プレスリーが太った時に似ている、である。
晩年の姿ではスキンヘッドにしているが若い頃からヅラであり、ヘッドロックなどをかけるのは業界ではタブーとされた。それにしてもリングでアレだけファイトしても大丈夫とはさぞ高いヅラだったろう。
ジャイアント馬場との交流が有名なのだが、子供の頃に読んだ漫画『ジャイアント台風』の影響が強い。事実、馬場とは信頼関係があったのだが、この漫画の原作者である高森朝雄は梶原一騎の本名で、馬場のアメリカ修行時代のエピソードはほとんどが創作であることは後年私自身が検証した(面白がって本当の話だと思っていた)。
この手の『怪力型』のレスラーは後にハルク・ホーガンといった系譜になっていくのだが、私としてはサンマルチノやフリッツ・フォン・エリック、ハリー・レイスというある意味人間離れしたレスラーが懐かしい。
平成の御代が終わるご時勢に、昭和はすでに遠くなっている。
Categories:プロレス
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