3分後の世界は見えているのか
2016 DEC 20 8:08:31 am by 西 牟呂雄
新幹線をこのところ頻繁に利用している。
東京駅の新幹線乗り場に立つと、3分おきに各種『こだま』『ひかり』『のぞみ』が発車・到着し続ける。
最高時速270kmの猛スピードでひっきりなしにアレだけの車両が行き交っているのだ。俯瞰すれば物凄い密度であの重量が移動していることになるのである。
乗っていれば車窓の景色はアッという間に後方に飛んでいって、約3分前に別の人が見た光景が目に入る。
だが、フト気が付いたのだ。それは約3分間の時間にこの線路と自然がそのまま残っている前提に過ぎない、と。
自然災害がこうハイ・ペースで起きると、なにやら心騒がしい。
例えば新幹線でいつも見る富士山が本当に大噴火してしまえば、そして大きな火山弾が飛来して3分後に僕の乗った車両を直撃したとすれば、その前に通り過ぎた人と僕の明暗は大きく別れる。
神戸で東北で熊本であれだけの地震があっても、新幹線の車両ダメージはあれほどの高速運行にしては少ない。とにかく乗客全員が死亡というような参事にはなっていないので極めて高い安全システムが構築されていることは分かる。
そういう話ではなく、我々の3分先の運命は全く予見できないのだ。
飛行機に乗れば更に3分後の位置は遠ざかり、不確実性は増すのか。
実はこの理論はパラドックスがあって、『危機』に近づく確率と『危機』から遠ざかる確率は同じなのだ。そしてそれは取りも直さずジッと其の場所に止まっていても『危機』に合う確立と同じと推定される。
そうでなければあれだけ世界中を飛行機で飛び回り、新幹線をしょっちゅう乗っている人の生存確率は物凄く低くなっているはずだ。
それでは宇宙ステーションに長期滞在することはどうか。
なるほど重力の影響は少なく地震だ津波だという地表の『危機』からは遠いだろう。今の所宇宙空間での事故はないのだが、数が増えるに従って万が一もあるだろう。すると外の空間は真空なのだ。まず助かりっこない。おまけにスピードは地上とはケタ違い。とてものんびりと安全でございとはならない。
そう考えている間にも最近東北・関東界隈で地震が起きた。要するに自然災害は避けられない。富士山が噴火したら喜寿庵にいればまず助からないだろう。
即ち未来の予測は確実ではないというのが現実。
私自身は還暦を越え、5年後10年後のある程度の姿も想像できなくはないが、そんなものはない。それは若い人も赤ちゃんも同じ事で、未来自体が無い物であることは変わらない。
従って未来予測というものは、経済予測から国際関係の見立てがほとんど当たらないように、やってもしょうがない。あるのは目標値にすぎない。
だからといってノンベンダラリンとやれないのがオトナの普通の感覚だ(それでテキトーにやる人はどうぞ勝手に)。
人によってやり方もやる事も違ってくるだろう。
僕は還暦を過ぎてから面白おかしく暮らすことにしているが、なかなかそうもいかないのだ。
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秋の関西に足を延ばした 下
2016 NOV 9 19:19:54 pm by 西 牟呂雄
明日香に行ってみようとレンタカーを借りた。
そして移動して分かったのだが、現在の奈良の中心地である春日大社・東大寺の辺りからは車で一時間以上かかる。奈良盆地は縦に大変長いのである。ほぼ直線に南下して、やや険しい感じに風景が変わった辺りが明日香だった。
目ぼしい所はと言えば石舞台だろうか。ナビを頼りにソロソロ行くが、道がとても狭い。すると山の中腹に向けて看板が出ていた。登って行くと、出た。
ほぼ蘇我馬子のお墓と推定されているが、初めから盛り土されていなかったそうだ。ボランティアの解説によると、馬子の弟に当たる人が造営を始めたところ暗殺されてしまい、工事が中止になった可能性が高いらしい。
この裏山に石切り場があり、そこからエッサエッサ運んで埋めたり積んだりした。一個70トン程の塊なので大した土木技術だ。当時のこのエリアの人口ではピラミッドに匹敵する工事と言ったら大げさか。
この入口から中に入ると物凄い重圧感で、まさか落ちてはこないだろうが息苦しくはある。ところどころ日の光が漏れていた。
しかし石棺などは無いので馬子の死体も埋葬品もどこへいったか分からない。
それどころか、遥か後世には城郭に使うためにこの巨石を切り出そうとさえした輩もいた。
考古学も歴史学も尊重されなかった頃は、こんなものはタダの石で利用できるものは利用してしまえ、だったのか。
古代の石文化にすっかりマイッて車のナビを入れると、他にも近所にたくさんあることに気が付いた。小判形石造物やら亀形石造物とか記してあったので『酒船石』を見に行く。国の史跡に指定されているのだが、全く観光資源になっておらず案内もなかった。
幾何的な溝が彫ってあり呪術的なことに使用された気がしなくもないが、構造は至って単純。見れば見るほど面白く、近くに土管・石樋も見つかっと言うからここを何かが流れていた事を想像しているうちに暗くなってきた。
それにしても誰も来ないし石自体は放りっぱなしにされていて、このままでは風化が進んでしまう。石舞台同様で江戸時代に高取城の石垣用に削ったことも。
この近くが飛鳥板蓋宮のあった場所だ。皇極天皇の目の前で蘇我入鹿が刺殺される、乙巳の変の舞台である。その後大化の改新となるクーデターだった。それまではその蘇我氏のフランチャイズだった。
大化の改新によって都は難波宮に遷都され大阪に移ってしまった。
大和路は 秋くれつつも 人やさし
まばたき一つ 千五百年
蘇我氏の本拠地ということは、蘇我入鹿が聖徳太子の遺児で従兄弟にあたる山背大兄王を襲撃するとき、100人の兵を斑鳩宮に向かわせたのはここからだったろうか。
寒くなってきた。もう帰ろう。
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秋の関西に足を伸ばした 上
2016 NOV 8 0:00:38 am by 西 牟呂雄
気分転換にブラリと旅に出かけて、秋の関西に行って来た。新幹線で京都で降りると七条通りで、その一画に旅館街がある。観光シーズンだからネットでやっと見つけたシケた旅館(それでも明治時代からやってるそうだ)にチェックインして旅装を解いた。テレビ無し四畳半というシャビーな感じ、これで2万円もするとはさすがに京都は凄い。
例によってメジャーな観光はするつもりはない、紅葉の名所とかね。
京都には何年も前に、その昔爺様が出していた黒紋付の染物屋を訊ねて以来。その時は新撰組にカブれていたので壬生を歩いた。今回は夕闇迫る七条通りでも歩いてみたかった。
ここのところロクでもないことばかり起きてしまい、東京にいるのがいやになったので新幹線に飛び乗って来たから目的もあてもない。それで鴨川の方にトコトコ歩き出したのだが、外国人の多さに仰天した。白人・黒人・アジア系とゾロゾロ連なるツアー団体からバック・パッカーのようなのまで、果ては長期滞在なのか手ぶらで散策している人など外人だらけだ。通りそのものは地方の大通り風情なのだが、行き交う人々の会話が柔らかい京都弁ではなく外国語なのに辟易して鴨川を渡ったところで路地に入った。まあしかし、あの人数では京都経済に貢献すること大だろうからケチをつける訳にもいくまい。
暗がりの小路を通ると古い家並みが続く。
時折玄関の横から裏庭まで覗ける『うなぎの寝床』ぶりの、京町屋という造りの家屋がある。その昔、間口の広さで徴税されたからこのように細長くなったという説を聞いたことがある。裏庭までの通しを『走り庭』と言うそうだ。新撰組に追い回された志士が逃げ込んだのはこういう所なのかな。また、地上げにでも合ったのか相続に失敗したのか細長い長方形の入れにくい駐車場もある。もう疲れたので鴨川の方に戻った。
するとですな、鴨川を渡った大通りに面してラブ・ホテルがあったり、その向かい側は何かの庭園なのか長塀が続いていたり。旅人は珍しければ『これがこの地の風景か』と納得してしまうが、それなりにケッタイな眺めだった。
その長塀の横を通って行くとどうやら東本願寺の別院、渉成園(しょうせいえん)だとか、フゥーン。
そして更に行くと古い古い町並みの中にこれまた古い工場のような建物。東京の下町にある工場(こうば)の佇まいに正面に回ると、厳めしいロゴに『かるた 山内任天堂 プンラト』とあった。プンラトはトランプの扁額書き、即ち戦前の新聞の見出しで使われていた一行一文字の右縦書きだ。えっするとこれは今を時めくポケモンのオリジナル製造元である任天堂のことか?もしかして花札とか手本引きはここで造られていた?そういえば社長は山内という人ではあった。
関西の旅は続く。近鉄奈良線の特急喫煙席で奈良に向かう。こっちはシャビーな京都の旅館とは違って名門奈良ホテルに泊まる。名門ホテルというものはそこに泊まること自体が観光目的化できるようにそれなりに居心地はいい。クラシック・ホテルと呼ばれるカテゴリーがあって、箱根富士屋ホテル・日光金谷ホテル・軽井沢万平ホテル・上高地帝国ホテルを指す。
天平時代に造られた人工池である名勝猿沢池(大したことないが鳥がいた)を通ってブラブラ行くと、街中に当たり前のように宮内庁の看板が。何事かと怯むと何と開化天皇陵であった。
開化天皇は系譜のみ存在して事績は記されていない欠史八代の最後の天皇で、次の崇神天皇からは陵墓も特定されて実在が有力視されるが、実在については諸説ある。どうやらここも江戸時代には隣のお寺の敷地内だった古墳(ただの小山に見えなくもない)を特定したらしい。日本書紀に「春日率川坂本陵(坂上陵)」古事記では「伊邪河之坂上」と記されているだけである。
おそらくここに大きな勢力はあったのだろう。そして次の崇神天皇となると例の邪馬台国の時代と文献上被ることになる。
観光案内の地図を眺めていると明日香は遥かに南だ。これは一筋縄ではいかないな、ともう一泊する事にした(もっと安い宿に変わろう)。
つづく
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犬山城見聞記
2016 JUN 20 5:05:51 am by 西 牟呂雄
先日、チャンスがあったので国宝犬山城を見物に行ってきました。
木曽川沿いにそびえる威容は別名白帝城と呼ばれ、これは荻生徂徠の命名です。由来は、三国志の劉備が呉に敗れて、逃れて没した白帝城から名付けたようです。現在の姿になったのは尾張藩の家老が入城してからです。そして城主成瀬氏が居城とし、驚いた事に明治期をやり過ごして2004年までその成瀬家の個人所有の城でした。さすがに今では維持・管理のため財団法人の所有となっています。
この城は元々織田家の支流の砦だったのですが、小牧長久手の戦いの時に歴史の表舞台に立ちます。本能寺の変の後、城主が変わります。そして豊臣・徳川の対立が鮮明になった頃、かつての犬山城主・池田恒興が突如奇襲をかけ当時の織田信雄方から奪い返すのです。すなわち豊臣側に付く。それに対して家康は小牧山に陣を張り、双方にらみ合いになってしまいます。
その後、豊臣秀次の軍が家康の地元三河に攻撃をかけようとして南尾張の長久手のあたりで激戦が起きますが、戦闘では家康の勝ち。家康は電光石火の読みで長久手の戦場に現れ池田・森の両将を討ち取ってしまう。
しかしながらも双方決め手を欠いている内に半年あまり。二手に分かれた戦乱は関東・加賀・伊勢・四国とあちこちで始まりながらもとうとう大会戦で決着をつけるには至りませんでした。
すなわち、扱いは小さいが後の関が原・大阪の陣に至る萌芽とも言うべきものが小牧長久手の戦いと言えないでしょうか。
そう思って天守閣に登ると、案内板がついていて遥かというよりもすぐ手の届くような感じで小牧山が丘のように見えます。無論当時にこういった城郭はないのですが、恐らくこれくらいの目線で対峙した秀吉は家康の陣を見て何を思ったでしょう。
『ワシは犬のように御屋形様に御仕えしてここまでになった。それどころか猿だの禿鼠とまで言われて。それに比べてあやつは御屋形様と固い絆で結ばれた同志のように振舞っておった。ここまで来て今更上前を撥ねられて堪るものか。』
と闘志を燃やしたのかもしれません。
二人の名将が対峙した訳ですが、濃尾平野はペタンとしていて一鞭を奮って突撃すればさぞ大会戦になったのでは。なにしろ秀吉は十万人を大阪から率いて来ていたのですから。
しかし両者は小競り合いをするばかりで激突には至りません。夜襲も行われなかったようです。どうにも解せないのですが、家康はもっと長期的見地に立っていたのかも知れません。小牧城の防御もガッチリかためています。
この時点では豊臣・徳川の色分けは鮮明ではなく、他地方の状況も不安定。そして関東もまだ小田原に北条が健在でした。急ごしらえの秀吉包囲網ではいかにも心もとない、ここは一つ貸をつくる意味でも講和に持ち込むのが得策、と思案したのでしょう。
今激突するには時期尚早。秀吉の力は今が盛りで月は満ちればいずれは欠ける、こう判断したならば大局観としては正しく、唸らざるを得ません。
一旦は和睦はしたものの、その後二年ほどは本格的な講和には至らなかったのです。
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早咲き日本一の桜
2016 FEB 10 21:21:15 pm by 西 牟呂雄
二月六日の午後、新年温泉・酒・麻雀・カラオケのデスマッチに行きまして。結果フラフラになってフト目に留まったのがこの桜です。関東地方は雪の予報さえ出ていましたが、この小さな花は何と健気なことでしょう。桜は一斉に咲くと豪華なものですが一輪一輪は可憐な花。
『早咲き日本一の桜』と案内に書いてありました。ケチを付ける訳ではありませんが、沖縄の緋寒桜(ヒカンザクラ)は咲いてませんでしたかねぇ。本土で、を付けた方が・・・。
これは河津桜でしょうが、一本で街中にポツンとしているところがカワイイ。
ところで私は麻雀をあまりやらなくなっていて、今回も『参加しない』と宣言していたにも係らずあの牌の並びに目を奪われてしまい、これをやらない訳にはいかなかった。初めは良かったのですが直ぐに・・・。
この合宿所は素泊まり料金だけで、カラオケもジャン卓もタダだから”やらなきゃ損だ”の意地汚さが丸出しになって、やれ風呂はドーシタの歌がコーシタのと大騒ぎになり、常に麻雀の面子は入れ代わり、ついに帰るまで一回も温泉に浸からなかった輩もいました(12人中2人も)。
因みにあまりに頻繁に入れ代わるので半荘での現金決済だからその度に札が飛び交うという下品な振る舞いで顰蹙も買っています。
メシだけは一緒に食べましたが、そこで驚くべき事実が判明しました。
平均年齢が65歳を軽く越えるメンバーで、殆どが既に癌をやっていたのです。3回もやった人までいました。誰も死なない・・・。やっていないのは僅かに3人。勢い物凄い会話が飛び交いました。
「なーにー。まだ癌もやってないの?」
「だーめだなー。癌にもなれないの?」
「そんなこっちゃ長生きできないよ。ホラ、もっとガバガバ飲んで。」
言われて小さくなっているのはワタシと不真面目を絵に描いたようなミスター・カンオケに無敵の麻雀大魔王(さっきタダのリーチを一発ツモドラ3にしてワタシを飛ばした)。いくら何でもこれ以上どうしろとおっしゃるの。
しかし、不死身の癌オヤジ達も悪運のバカ強さだけで生き延びたわけでもありません。何といっても検査精度の向上と手術の技術的進歩、医薬の発達に他ありません。
気楽にこんなことを言っているとバチが当たります、ありがたありがたや。
朝4時まで戦い続けたツワモノ4人。入れ替わる立ち代わりカラオケで12時解散4人。朝からガッチリ食べ再度カラオケ3人。朝飯後に即戦闘開始4人。昼まで死んで昼風呂でやっと生き返った者一人(ワタシ)。
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年末 酔夢譚
2015 DEC 29 2:02:49 am by 西 牟呂雄
忘年会を精力的にこなしている。バカの一つ覚えのようにビールをガブ飲みしてから焼酎のロックをガンガンやる。が、先日SMCメンバーのハリーさんに連れて行ってもらった都内某所はなかなか味があった。
店主のこだわりらしい。生は置かずに瓶のビールでコップも小さい。狭いお店なのだが6時前にもう一杯で、それから帰るまでズッと満席だった。それも一人で入ってくるオヤジが圧倒的に多く、みんな相席で静かに飲んでいた。
焼酎もお湯割りしか出さない。暖めた徳利に焼酎が、そしてご覧のチープ感溢れる急須にお湯が入っていて、お猪口にチョビッと焼酎を注ぎお湯割りにする。必然的にチビチビとしか飲めないところが実に良かった。
さて次は九州まで足を延ばし盟友中島兄を訪ねた。
因みに僕は九州に行くのに新幹線を使う。それはスモーキング・ゾーンがあり、缶ビールも車内販売されるからだ。従って失礼ながら中島さんにお目にかかった時点で大分酩酊してはいた。
そして順調に焼酎を空け水炊きをつつき、昨シーズンのホークスVSファイターズの死闘を振り返り互いの健闘をたたえ合った。
しかしやはりハイライトはSMCメンバーが観戦した対オリックス戦。金子復活のはずがホークスの殺し屋『柳田』にブチ壊されたあの試合だ。同行した中村兄の呆然とした写真が残っている。
翌日移動してもう一度気合を入れて忘年会へ。そういえば去年もこのパターンで別府酒池地獄に沈んだ。結論から言えば今年はもっとヒドイことになった。近隣の某温泉(恐くて名前を書けない)までわざわざ行き、今時昭和丸出しのドンチャン騒ぎに。しかもカラオケという迷惑なもののお陰で年甲斐もなく暴れた(歌った)。更にここだけの話、オッサン達がプロレスごっこに興じるのは滅多に見られるもんじゃない。
そうなる前にゆっくり浸かったこの温めの露天風呂は気持よかった。一人で入っていると手足が小さく痙攣するようで物凄く気持ちがいい。
そこで思ったのだが、人間いや生き物というものは何と緻密にできているのだろう。何億年もかけてモノを考えられるように進化して今日に至り、ニュートリノだの何だのまで熱心に研究する。一方宗教・神学も深くスピリチュアルな領域にまで深め、全く偉大な造形物と言わざるを得ない。
それがプロレスごっこに枕投げでは・・・。
この温泉は明治の元勲である品川弥二郎を祀った品川神社の跡らしい。それがどうしたと言われても困るが、この曲ならご存知のはず。
宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレトンヤレナ
幕末の東征軍がはるばる東海道を攻め上って来た時に行軍で歌われた『トンヤレ節』である。脱衣所にあった説明書きによれば、この日本初の軍歌の作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎とか。本当だろうか。
結局何もしていないくせに都合10回近く忘年会をやってしまった。少なからずアチコチにトラブルを持ち込んだ報告が上がり出した。年末年始は少し休もうっと。
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桶狭間 訪問記
2015 NOV 2 17:17:57 pm by 西 牟呂雄
ひょんな思い付きから桶狭間を見てみたくなり行ってみた。
といっても正確にどこだか良く分からないのだ。現在の名古屋市緑区のあたりのエリアのようなので、名古屋から車で地図を頼りにチョロっと出かける。
永禄3年(1560年)今川義元は尾張を目指して西進。5月19日(太陽暦6月12日)明け方の3時頃、今川軍の先鋒松平元康が丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始すると、その知らせを聞いて信長は幸若舞「敦盛」を舞う。史上有名なノブナガが『信長』になったシーンである。そして午前4時には小姓衆を連れて出陣、8時には熱田神社に到着し戦勝祈願を行った。
10時頃には、信長軍の丸根砦・鷲津砦は陥落、配色濃厚となる。しかし今川本隊が沓掛城を出発し西に進んだのを察知して信長も2000を率いて東南への進軍を開始した。
正午過ぎ、天の采配か偶然か、視界を妨げるほどの雹が降る。これに紛れて兵を進めていると再び奇跡が起きたか、雨が止む。直後の14時頃、今川本隊の奇襲に突入し刀槍をふるう乱戦を制する。
ざっとこんな経緯だ。現地に行ってみると、名古屋駅近辺はご承知のごとくのっぺりとした濃尾平野。桶狭間と言うのだからそれなりの狭隘な所があるのかと地名を検索しながら行くと、名前こそ『~山』と呼びならわしている所もせいぜい『丘』がいいところ。名鉄の有松駅のあたりが最も窪んでいるようだったがその辺りは宅地化しており、桶狭間の地名はその周りに点在している。国の伝統工芸品にも指定されている有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)という絞り染めの有名な所だ。
田楽坪と言われたエリアが実際に信長軍が突っ込んで今川義元を討ち取った辺りとされ、古戦場公園があった。実際にそこに立ってみても四方の見通しは利いていて、こんなところで奇襲を受けるのかと思った。2000人が突撃してくるのに余程ボヤボヤしていなければ不意打ちを喰らうのは想像し難い。1953年に偶然「駿公墓碣」と彫られた石碑や「桶狭間古戦場」と記された標石が付近の川底から発見されたので、義元終焉の地はどうやらこの辺りのようだ、としたらしい。
しかしあまり『気』のようなものを感じない。日本史が変わった場所にも関わらず。
信長軍が通ったと思われる国道一号線・東海道を挟んで反対側になる姥子山とか尾崎山といった地名を辿ってみると妙な池があり、ここだけの話義元公の亡霊が出るというヨタ話があるらしい(出所不明)。
因みに信長は1534年生まれだが英国の女王エリザベス一世と一つ違いのほぼ同じ年代である。信長が天下布武を高らかに掲げた時点の日本は当時の鉄砲保有数世界一と推定されるが、方や英国も宿敵スペインの無敵艦隊を破り、海洋覇権国家の道を歩みだした頃に当たる。
英国海軍と言ってもサー・ドレークは半分海賊のようなものだし、信長考案の大安宅船だったら戦闘能力は上ではなかったかと秘かに妄想する。
当時は倭寇が玄界灘や南シナ海で暴れまわっていたし、陸上の会戦でも当時世界最大の規模で激突した碧蹄館の戦いに於いて明の名将李如松を日本軍が打ち破っている。
アルマダの海戦はイングランドが勝ったのだが、日本海海戦のように1日で済んだようなものではない。無敵艦隊アルマダ・インピンシブルは200隻、対するイングランド艦隊130隻と多数の艦船が丸一か月以上英国を一周する形で戦われ、イングランドの勝利と言えば勝利だが無敵艦隊も約半数は帰国している。結局スペインの止めを刺すには至っていない。15年近く後、痛み分けのようにロンドン条約が結ばれる。
私は信長の天才を疑う者ではないが、現地を見た限りではかなりギリギリの作戦だった。しかしこの戦いは避けては通れず、例の雹雨が降る中でやっと腹が据わり突撃したのではないだろうか。その後奇襲戦法は二度とやっていない。むしろ『あれはフロック』と以後戒めたところに軍事的才能を感じる。
桶狭間と思しき場所で戯れに拾ったドングリの写真だが、手慰みに捨てずに転がしている。視界が利かないほど雹が降りしきる中で『この今にしか勝機がない』と奮い立った気分を想いながら。
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通り過ぎた国
2015 SEP 12 20:20:51 pm by 西 牟呂雄
英国体験は少ない。行ったのは出張、それも泊まったのはエディンバラで翌日はお隣アイルランドのダブリンだった。食事はホテル(名前も忘れた)に付いていたパブで済ませて慌しく通り過ぎた。季節は夏で、それなりに暑かったことを覚えている。ロンドンは乗り換えただけ。
従って観光もせず、人ともロクに触れ合わず、印象を語る何物も持たない。印象は古い町並みが随分とくすんでいたような、淋しい印象。今はだいぶ違うのかも知れないが、このままスコットランドが独立して首都になったとすれば何となく景気の悪そうな首都になりそうだ。
エリザベス女王が来日した際の晩餐会で『デューク・エディンバラ アンド アイ、~』と言ったことが記憶に残っているが、これご主人の元ギリシア王族フィリップ・マウントバッテンの公式名称だ、エディンバラ公という訳だ。これはただの爵位で別にエディンバラが領地ということではない。将来は三男のエドワード王子が継ぐらしい。
私的な旅であればリヴァプールにでも行ってキャバーン・クラブでも覗きたかったが、実に味気ないことに翌日はダブリンに。こっちはもっと暗かった。なぜか黒いTーシャツが流行っていたようで、特に女性は黒ずくめのような恰好だった。パブに行くと変なオヤジととびきりの美人のカップルに絡まれた。いや、正確に言うと構われたくらい。働いていたのが中国人で、そいつの悪口を僕に言い散らす。よく見分けがつくもんだと感心したが『あんたジャパニーズだろ。だから言うけどチャイニーズはねぇ。』といった具合にエンエンと続くのだ。その向こうから”変なオヤジ”がしきりにウィンクして見せる、『コイツ酒癖悪くてな。』と言いたげに。
さて出国してニューヨークまでアトランティック・オーシャンを一跨ぎ、と思ったらイミグレを通った後にすぐまたイミグレがあってびっくりした。その場でアメリカに入国してしまうのだ。余程の人数が行き来しているのか、ダブリンで入国手続きをしてニューヨークの国内便エリアにランディングさせてしまう。
ところで昔の一筆書きのチケットをご記憶だろうか。堅いペーパーが長い出張の予約だと手帳のように繋がっていた。従って客毎にどんな旅程なのか直ぐ分かるようになっていた。その時は八泊十日で地球を一周するようなひどい日程だった。そしてバゲージも預けずにアタッシュケース一個の出で立ちを怪しんだらしい。別室に連れて行かれて全ての荷物をチェックされた。『一体最終目的地はどこなんだ。』『何のビジネスだ。』『どうしてコンナに荷物が少ないんだ。』オレはテロリストじゃない!
実はこの後大西洋を越えてメキシコに行き、再度米国への入国で同じようなトラブルに見舞われている。更に恥を白状すると上海でもマニラでも出国の際に大モメしたことがあったが、それはまた別の機会に・・・。
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インドにもいた その2
2015 SEP 8 13:13:39 pm by 西 牟呂雄
インド人の社長が突然言った。
「明日はゼネストだから工場は稼動できない。」
その場にいた全員が(僕以外はインド人)エッと驚く。僕が驚くのは当たり前だがインド人までが『まさか』という反応だった。どうも以前からやるかもしれない、と言われていたそうだが結局やることになったとか。
お陰で予定はメチャクチャになり、現場にも出られず。仕方なく事務所で昼飯でも食おうか、となった。相手先で別の人達とパワー・ランチをするためホーム・メイド・カリーを用意したから一緒にどうだ、と誘ってくれたのだ。いやも何もない。
昨日は渋滞で一時間もかかった道が、そのストライキのおかげで10分で着いてしまった。何と学校まで休みになる。
そして懐かしいとでも言うのか、ツルハシにハンマーの旧ソ連国旗のような旗を持った集団が時折集団で練り歩いていた。聞いた限りではああして見回って、もしスト破りで操業している工場があったら襲撃するとか。紅衛兵じゃあるまいし本当だろうか、確かに食料品のお店以外はシャッターが閉まっていた。
事務所の横に怪しげな木が立っていた。これ健常者の方には毒々しい赤い花が見えるはずだが、写真に撮ってアップすると私には分からない(おそらく東 兄も全然ダメだろう)。
その邪悪な花を背にしながらパワー・ランチが始まった。そしてランチの相手はインド海軍のアドミラルなのだった。
無論我がパートナーは一生懸命接待するのだが、盛り上がりに欠けたまま時間が過ぎた。立食なのである時点でアドミラルと僕の間に真空地帯ができてしまい、何か切り札を出さざるを得なくなった。
『アドミラル、私はネイビーのビッグ・ファンだ。大変センスィティヴな話だが、私の父は1945年にネイヴァル・アカデミー(海軍兵学校)の生徒だった。』
アドミラルは途端に態度を変えた。
『お父さんはお元気か。あなたもネイビーだったのか。』
まずいことにブレザーにヨット・クラブのエンブレムを付けていたので、これではセーラーだと誤解されると思い、取ってつけた。
『無論違う。それに今日の日本にネイビーはない。マリタイム・セルフ・デフェンス・フォースだ。』
読者諸君、その時のインディアン・アドミラルの顔をお伝えできないのが残念だ、こいつは何を言ってるんだという表情になった。マリタイム・セルフ・デフェンス・フォースでは何のことか分からなかったらしく、こう言った。
『ネイビィ イズ ネイビィ』
それからジャパニーズ・ネイビーのことをやたらと誉めそやし出した。一度訪ねたが素晴らしい、たくさん学ぶことがあった、あの艦船があれば日本は安心だろう、そして・・・・。
『センカクを何とかしろよ。』
困るんですよ、そういうことをアジア・エリアで聞かれると。仕方なく『あれはマリタイム・セルフ・デフェンス・フォースは相手にしていない。コースト・ガード(海上保安庁)の仕事だ。』と言ってみたがどうも全く通じない。マリタイム・セルフ・デフェンス・フォースは海上自衛隊の正式名称なのだが沿岸警備隊くらいに思われるようだ。
インド海軍は原子力弾道ミサイル潜水艦や航空母艦を保有する堂々たるブルーウォーター・ネイビー(外洋機動部隊保有海軍)であり、そういう意味では海上自衛隊より格上と言えなくもない。ペルシャ湾の海賊対策では共に警戒に当たる関係でもある。
先日亡くなった作家の阿川弘之氏は、海軍の短期現役主計出身で海軍関係の著作も多い。ちょっと無理筋かと思われるほどの贔屓の引き倒しめいたコラムもある。
面接を受けに行って中佐クラスの試験官に『貴様はなぜ海軍を志望したのか。』と聞かれ、『陸軍が嫌いだからであります。』とやったと書いておられる。するとその試験官がニヤリと笑ったそうだが本当だろうか、実際に合格している。しかしこれ、あんまりじゃないか。多少陸軍に失礼かとも思う。
その阿川大尉の海軍自慢の定番に『フレキシビリティ』がある。そう言えばオヤジのネイヴァル・アカデミーのクラスメイトには医者だの社長だのからデザイナー・作曲家・共産党の元代議士までいる。但し敗戦により解散させられたので様々な道を歩まざるを得なかったからかも知れない。
不思議な事に作家にはまるで応援団のように海軍出身者がいて、文芸春秋社の池島信平社長を中心に源氏鶏太、阿川弘之、豊田穣(この人は海兵出身)といったお歴々が「海軍の会」をやっていた。池島信平・源氏鶏太両氏は徴兵組でだいぶ年嵩が経ってから水兵(セーラー)に取られたのだが、何故か大変な海軍贔屓。世に『海軍善玉・陸軍悪玉論』がはびこる所以である(この点、陸軍出身の司馬遼太郎あたりが陸軍の悪口を書きまくったせいで損をしたんじゃないだろうか)。
ちょっと断っておくが、私は安保法制改正には賛成だが戦争絶対反対の平和主義者です。戦争肯定論者では断じてないので、そこんとこよろしく。
又、海軍同士は国境を越えて一般的に仲が良いことで知られる.ネイヴァル・アカデミーのクラス・メイトが海外に行くと、各国の現役にやたらとチヤホヤされていることは聞いていた。いわゆる登舷礼式を以って迎えられる。
このインドも海軍はそうなのか。敬礼こそしなかったがアドミラル(良く聞くと技官のようだった)のジャパニーズ・ネイビー礼賛を聞きながら、こういうのも文化の共有と言うのかとフト思った。
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インドにもいた その1
2015 SEP 6 11:11:21 am by 西 牟呂雄
出発の日は小雨が降っていた。きょうは成田から。ぼんやりと車窓を眺めていると、下町の街並みが随分とマンションだらけになってきていることに気づいた。
成田から飛び、シンガポールでトランジットして延べ15時間。バンガロール空港に降り立って驚いた、涼しいのである。ドライですね。バンガロールはご存知の通り世界的にネットワークを張っているITの一大集積都市。
ご覧のビルは全てそういった関連の会社が入っており、24時間世界中と繋がっている。
但し、このインフラを出資したのはシンガポール政府。タダ同然の土地にインフラ投資をしてベンチャーを育てる、シンガポールが中国・東南アジアでさんざんやったビジネス・モデルだ。ここでもしたたかなインド商人と華僑が鍔競合いをしているかと思うとゾクゾクするような。
多くのベンチャーがひしめいているが、デキのいい一発屋をグーグルやアップルが月に4~5社程度次々に買収するとか。買収された方も人材はサッサと辞めて次を狙う逞しさ。厖大な設備投資の必要のないソフト産業ならではのスタイルかも知れない。するとインド・華僑の上にアメリカ情報帝国が君臨していることになる。見事なトライアングルと言えよう。日本も食い込まなくては。
街は巨大で薄汚いのは以前と同じ。調べてみると観光資源はたくさんあるようだが、目に付く所では一番立派なのはサイババが建てた巨大病院くらいなのだ。
渋滞だらけの幹線道路はマナーも最低。今回は路線バスの後ろに金を払わずに掴まってブラ下がるという離れ業を見たかと思うと、デイ・ワーカー即ち日雇いの建設労働者を満載していたトラックが無理矢理Uターンして事故を起こすのを目撃した。
打ちあわせをしていてアッと驚いたのが牛の堂々たる行進。ここは一応インダストリアル・エリアですよ。まぁそれはいいとしても現地のインド人の説明では『あれは5時になったから家に帰る所だ。』には納得がいかない。牛が出勤して時間通りかえるとでも言うのか。折りしも午後5時ピッタリだ。まだ明るいのに牛に時間が分かるのか。もっとも動物の方が体内時間はしっかりしているだろうが。
街はゴミがバカスカ捨てられ埃が舞い、何をしているのか良く分からない人がウロウロ、そして飼われているわけでもなさそうな犬がアチコチに昼寝。
読者は御記憶だろうか。小倉記 春風駘蕩編ならびに小倉記外伝 友よ何処に等、拙ブログ『小倉記』にしばしば登場した日本初でおそらく最後の『工場犬チビ』のことを。
訪ねた工場の中に入って見た途端、ギョッとした。ちょっとサイズが大きめであるがそっくりな(即ちボロボロにみすぼらしい)犬がいるではないか。インド版工場犬か、思わず話しかけてしまった。
『お前、元気でいたのかい?』
帰ってきた答えは『ウォン』。しかし良く考えてみればこいつは日本語が分からないのだ。ガード・マンに名前を聞くと、キョトンとされて『そんな犬に名前は無い。』と言う。インドは犬に名前を付けないのか、それともどこかのバカ犬が勝手に住み着いても知ったこっちゃないのか。
ひょっとすれば又会うことになると思い『ボロ』と名付けてやった。
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