Sonar Members Club No.36

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ヴェトナムに行ってきた

2013 DEC 28 22:22:28 pm by 西 牟呂雄

年末の最中、ヴェトナムを訪問して来ました。とある外資が投資しているプラントに一口乗ろうという魂胆でかなり辺鄙な所にまで足を伸したのですが。どれくらい辺鄙かというとハノイに飛んで国内便で1時間のりつぎ、そこから車で2~3時間の海に近いところです。年末ではありますが台湾より南、フイリピンの横の熱帯かと思いきや、冬場は雨季だそうで寒かった。雨は着いた日から3日間ずっと降っていて、気温は18度くらいでした。新興国と言われだしていますが車で2~3時間の陸路は凄いものでした。私は昭和30年代の日本の道路事情を記憶していますが、あのデコボコぶりによく似ている。所々穴のあいた舗装、雨の為にビチャビチャになった道路わき、マナー無視の運転とかすかに既視感が。それがまた荒っぽいの何の、行きは私の乗った車が危うくバイクの二人乗りを引っ掛けかけたし、帰りはトラックがこれまたバイクをペシャンコにした直後の現場を見ました。どいつもこいつもクラクションを鳴らしながらチキン・レースのようにアクセルを踏み合う。風景は右も左も水田で、今年はもう刈り取られていましたが、時々鍬を担いで例の三角麦藁帽を被った農夫が歩いていたりします。そして群れを成して闊歩する牛。バカなのか堂々と道を横切ったりして車を止める。のどかと言えばのどかだがあれは家畜なのでしょうが、どうやって管理しているのか。そして極めつけは日本では全く見なくなった牛に引かせての農作業もあります。盛んに撮られたヴェトナムものの映画で見た農民の姿そのものでした。

ときおり集落があって、正にアジアの町並みなのですが、特徴的なのは他の国のこういう街には必ず派手な漢字看板の華僑の店があるのが、全く見なかった。フランス統治時代にその手先となっていた華僑(これはスペイン時代のフイリピンも同じ)はヴェトナム戦争後の混乱でかなり駆逐されてしまったようです。怒った中国が戦争をしかけたものの、実戦経験に勝るヴェトナム軍に一蹴されています。

そうしてやっとたどり着いたハ・ティンの街はこれがまた何も無い。夜は真っ暗に近い。ホテルはそれなりの体裁だが、メシはまずかった。プラントを建設しているのは台湾資本ですが、どうやらそこで建設に携わっていそうなフイリピン系の人がヘルメットを被ったまま食事をしている。部屋は寒く暖房が必要でした。この緯度で暖房!そういえばフロントでも実に英語は通じなかった。戦争映画の刷り込みで英語が通じるかと思いきや、この地は当時は北ヴェトナムだったのでアメリカ兵なんか居なかったのだから全然だめでした。

ヴェトナムという国は長らく公文書は漢文でした。それに加えて独自の漢字というかヴェトナム語に対応した象形文字「チェノム」(これは恐ろしく画数が多い)が併用されていましたが、現在ではアルフアベットになっています。フランス時代があったため、フランス語の綴りによく似たクオック・グーが使われています。クオック・グーとは驚いた事に『國語』即ちコクゴと表記されていました。

さて、肝心のプラントの方はと言うと、本件一時はマスコミでヴェトナムの経済躍進の象徴的に報道されたこともあるものですが、実は遅れに遅れています。台湾資本側の若干のリセッションで投入できる資源が限られ、当初計画は大幅に縮小しそうなのです。行ってみると広大な敷地にポツリポツリと建屋が建設されていましたが、他は雨期のせいもあり例の赤土に水溜まりが広がるばかりです。この某業界は中国の膨大な供給過剰によって短期的にはギャップが埋まらないとされているので、正直竣工後の採算は苦しいのでは、と心配にはなりました。台湾スタッフも一部は縮小されるようですし、日本勢も進出を検討した形跡がありましたが、実は結ばなかった。

事務棟のすみっこでタバコを吸っていると(こんなところでも室内禁煙!)「コンニチハ。」と日本語で話しかけられました。振り返ると若いヴェトナム青年がニコニコしていて「ニホンジンデスカ。」と聞くではないですか。こんなところにはまだ日本人など来たことはないと思っていたので面食らいました。何故日本語を喋れるのか聞くとの大学時代に勉強したとのこと。そして目を輝かせて言いました。

「ワタシノユメハ、ニホンデハタラクコトデス。」

このエリアの出身かどうかは知らないが、一生懸命勉強したのでしょう。私も彼の夢がかなうことを祈らずにはいられませんでしたが、同時にずいぶん先の話にはなるだろうと思いましたね。この事業が発展し彼も十分な給料をもらい、キャリアアップしてから次のチャンスを探す。少なくとも10年はかかるでしょう。

「それではいつか日本で会いましょう。」

と言って握手をし、別れ際にお互いのタバコを取り替えっこしたのですが、物凄くきつい味でした。

出資元の台湾勢は数百人が滞在していて、寮を建設してそこに居住しています。全員単身赴任のオッサンばかりで、日常は全て中国語(ときどきマンダリンではなくミンナン語が混じる)で過ごしているようで、その光景はさながら東インド会社の英国人を思わせました。ただヴェトナム社会主義共和国ですから外資の土地所有は認められていません。佐藤優氏のいう新帝国主義の時代がどのような形を取るのか、金融業界のようなグローバル化が基幹産業でも起こるのか、そのあたりは嘗てアジアで工場建設を手掛けてきた者としては、第二ラウンドを迎えたような気がします。

帰りのフライトに乗り遅れては一大事とばかりに、早めに空港に行ったのですが、3時間前に着いてみると、何と誰もいない。人っ子一人いないのです。客待ちタクシーの運転手が昼寝をしているだけ。売店も航空会社スタッフも、警備員さえ影も形もないのです。これは・・・っと思っていると1時間後くらいからワラワラと集まり出して結局は満席の飛行機で帰りました。この国での仕事、当面の事業者の経営はキツイでしょうが悪くはない。あのヴェトナム青年と日本で会えるのはいつになるでしょうか。

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