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江戸っ子に伝わる都市伝説

2015 SEP 22 18:18:52 pm by 西 牟呂雄

 僕は江戸っ子四代目になる。子供の頃は下町で育ったので生活圏は東は銀座から西は靖国神社まで、北限は上野で南は大手町といったところだ。そして面白いことに銀座より東側を『下町』と呼んで、ガラが悪いとバカにしていた(失礼)。ガラは同じくらい悪いくせに、自分たちは山の手だと思い込んでいたのだ。当時は新宿があんな繁華街だとは知らなかった。
 四代目クラスの家は地元の言い方で『震災前』となる。現時点ではお江戸の昔からの家は余程の老舗でない限り絶滅していて、そういう家は『御維新前』で別格。次が『震災前』組で『戦争前』と続く。ゴチャゴチャしていた街はバブル期の地上げで様相が変わりビル・マンションだらけになり戦後に住みだした人が大半だろう。
 口裂け女が流行ったように子供の噂は千里を駆ける。思い出すと懐かしいヨタ話があった。

上野戦争は彰義隊が勝ったはずだった
 結構昔から御徒町あたりで言われていたそうだ。正しくは大村益次郎指揮の元、佐賀藩の新型アームストロング砲を撃ちこまれて粉砕されたのだが、意地っ張りの連中が言い触らしたのだろう。
 勝海舟と西郷隆盛の談合で無血開城してしまったのが癪にさわったと見えて、寛永寺に屯する彰義隊はえらくモテたのだそうだ。破れかぶれになって毎晩吉原で遊び倒したのだから『いいお客さん』だったはずだ。
 上野戦争が始まる直前に会津藩の旗を掲げた正体不明の一隊が御徒町あたりに加勢にやって来た。いよいよドンパチが始まってその一隊は黒門から寛永寺の境内に入って行ったのだが、こいつらは実は長州の回し者で直ぐに裏切って彰義隊は大混乱に陥りコテンパンに負けたのだ、とか。
『裏切り者を信用してなきゃ官軍なんざ屁のカッパだったんだ。』
と子供相手に熱弁を奮ったオヤジは実在した。更に良く分からないが
『ノガミの山が燃えるとアオいんだ。』
というのもあった。ノガミは上野をサカサマ言葉にした言い方。浅草はエンコと言ったっけ。 

広瀬中佐の銅像は戦犯にされた
 神田の須田町の交差点に、日露戦争の軍神広瀬中佐と杉野上等兵曹の銅像があった。交差点の横に『広瀬中佐の銅像は所在が不明になっています。御存じの方はお知らせください。』というタテカンがあったのを記憶している。
 おそらく戦争中の金属供出令の時点で溶かされたのだろうが、地元ではまことしやかに解説する奴がいた。
「ありゃ進駐軍が来るまであったんだ。アメ公が本当に来ちゃったんで町内のオッチャン達がビビりあがって『戦犯だ、責任を取らせろ』とか言い出して捨てちゃったんだよ。」
 本当かよ。

番町更屋敷は六番町のあの家のことだ
「本当の話なんだって、あれは。」
お皿が一枚、二枚、お菊さんの声が聞こえて来る怪談『番町皿屋敷』の話。
 イサムちゃんが教えてくれた。場所は六番町で今でもその井戸はあるのだとか。
 早速ガキ探偵団が結成され、僕達は四谷まで遠征した。電車に乗り駅前の双葉学園の横を通り、その頃日本テレビがあった方に行き、二番町の方に曲がる。隊長のイサムちゃんは▽▽小学校の奴から教えてもらったと言ってドンドン進む。確かベルギー大使館があったのじゃなかったかな。そのあたりのお屋敷の前で
「ここのウチだ。」
と厳かに告げた。今では生垣だったかブロック塀だったか記憶が定かでないが、皆でしがみついてその家の庭を覗きこんだのだ。すると、本当に井戸があって簾のような物が被せてあった。
「・・・・ホントに井戸がある。」
「あれか。」
「じゃ、この家の人はお菊さんの声を聴いてるのか。今でも。」
「どうかなー。どうする夜になるまでここにいる?」
「やだよ。」「オレもやだ。」「もう帰ろうよ。」「このウチの人に怒られるんじゃない。」
声がデカくなったのか、家の中からおばさんが顔を出したのが見えた。
「逃げろ!」「ワーー!」
走って逃げた。今でもあの家はあるのだろうか。場所は思い出せない。

六方詞(ろっぽうことば)

狼少年ケン


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Categories:遠い光景

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