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三島由紀夫の幻影

2017 OCT 29 14:14:34 pm by 西 牟呂雄

 

 僕は三島の小説は好きなことは好きなんだが”仰ぎ見る文学”という印象はない。
 華麗な文体に、時としてグロテスクなテーマで度胆を抜く、確かに天才ではありましょう。
 ただ高校時代に例の事件に遭遇し、そっちの衝撃は大きかった。
 最近世の中が右傾したと言われて、そんなもんなのかと思うものの三島事件は1970年だ。学生運動が起こり左派の街頭闘争は激しかったが、それに対抗するように右派も数は少ないものの盛んに闘っていた。
 三島は民間防衛組織としての楯の会を率いて、自衛隊に体験入隊したり居合や空手の稽古に打ち込んだ。左派の騒乱に自衛隊の治安出動がなされた時点でデモ隊排除の切り込み隊となる民兵を目指し、厳しいことで有名なレンジャー過程も実施した。
 しかし閉鎖的な組織というものは活動すればするほどエスカレートし、内部での議論が失われて分裂・先鋭化してしまう。三島自身もインタヴューに答えて言っている。
「隊員はオレに天皇論なんか吹っかけてこない。『わかっちょるわかっちょる』の世界なんだ」
 この勢いで決起によってクーデターを誘発し、おそらくは憲法改正までをその目標にするに至ったのではないか。
 エスカレートする所は右も左も同じで、革命をうたった連合赤軍事件で仲間を山岳ベースでリンチにしていた。時期も1971年、浅間山荘は翌年の1972年と三島事件とほぼ同時期なのだ。
 佐々淳之の著作に新宿騒乱事件の際、三島から治安維持協力の申し出があったとある。その際に『皇居の警備でもやってもらえ』という警察の対応に三島が激怒したことが記されている。
 結局自衛隊の治安出動はなく、お呼びでないとなったことであの三島事件というある意味の自殺になってしまったというのが一般の解釈だ。
 どうであろう。
 自分の年齢とともに才能が枯渇していくのを我慢できなかった、と言ったら三島ファンに怒られるかもしれない。
 どうでもいいことだが、1972年はかの矢沢永吉が率いるキャロルがバンド・デヴューした年でもある(~75年まで活動)。即ち事件の衝撃を受けつつも僕はキャロルに夢中になって、そっくりファッションで『ルシール』なるコピー・バンドをやっていたことになる。当時の忙しい世相の一端が覗けると言ったら大袈裟だろうか。一方でああいったのもワンサカいたのだ。
 ともかくあんなに頭のいい三島がその後のプログラムも何も無しに絶対成功しない行動を口実に割腹するのは、最初から死ぬ気だったのは間違いなかろう。
 改めて経緯を調べてみると、それに至る補助線となるキーパースンが二人いる。

 一人は陸上自衛隊幹部、山本舜勝一佐。陸士・陸大を出て終戦時には中野学校教官である。戦後は陸自で中野学校の後裔である陸上自衛隊調査学校(現小平学校)の創設に携わった諜報のスペシャリストである。
 三島が民兵の育成を考えている時に山本一佐と会って「都市ゲリラの専門家」と惚れ込み、事実上の指揮官とした。三島に強い影響を与え、没後の著作には多少煽っていた記述がある。
 首都騒乱に陥った場合『私の同志が率いる東部方面の特別班も呼応する。ここでついに、自衛隊主力が出動し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。万一、デモ隊が皇居へ侵入した場合、私が待機させた自衛隊のヘリコプターで「楯の会」会員を移動させ、機を失せず、断固阻止する』と著作にあるのだ。
 だが活動中も楯の会の行動を監視していたようで、僕はヤバいと思った防衛関係者(警察も含む)が三島に同志のフリをさせて近づけたのではないか、という仮説を持っている。

楯の会

 もう一人は楯の会を去った持丸博。
保守・民族派系の学生組織「日本学生同盟」(日学同)の理論的支柱であり、楯の会の初代学生長として選抜・指導をした。
 その理論は皇国史観の平泉澄に強く影響されており、水戸学の流れを組むものだった。持丸は水戸の進学校である水戸一高から早稲田に進んだが、高校時代に水戸学の名越時正の家に下宿しそこで学んだらしい。
 そして日学同の仲間に三島を介錯した森田必勝がいたのだ。
 持丸はその後雑誌『論争ジャーナル』の経営問題から楯の会を抜けることになったのだが、三島の落胆は非常に大きかった。そして前述の森田が学生長となって会の目指すところが変わって行ったのかもしれない。持丸は頭も切れ実務能力も高く、何よりも大人の風のある冷静な人物だったという。

 この二人は三島研究者の間では有名らしい。

 ちなみに三島自身は平泉系の皇国史観を嫌っていたとされる。というより昭和天皇に屈折した思いがあって、事件の四年前に書いた『英霊の聲』あたりから露骨におかしくなる。『天皇を殺したい』と口走ったことを聞いた証言が残されているのだ。
 それにしても作中に出てくる『などてすめろぎは人間となりたまひし』というフレーズは薄気味の悪い物で、発表時の評価も低かった。
 2・26事件の磯部浅一の獄中で書かれた呪いのような手記を読んだことが執筆の動機となったと言われているが、その手記もとても正気の人間が書いたものと思えない。更に三島はこの作品について、お筆先のように手が勝手に動いて一晩で書き上げた、と言っている。
 この磯部浅一は、事件の年の新年会でかの美輪明宏が三島に向かって『背中に何か憑いている』と言い、三島が『おお、誰の霊だ。西郷隆盛か』と応じ、違うとなると次々に人の名前を挙げていき『じゃあ磯部浅一か』と言った所で『それだ』となったと石原慎太郎が書いている。また、その十年前にも文芸評論家の奥野健男が三島とコックリさんをやって「磯部の霊が邪魔している」と呟いたのを聞いている。高名な作家がコックリさんに興じているのも面白いが、かなりアブナい話しではある。

 山本一佐の示唆、冷静な持丸の脱退、磯部の憑依、と繋ぎ合わせると何かとんでもない、あのような自殺ではなくもっと直接的なテロの狙いがあったのか、と思えてくるが書くのがはばかられる。
 楯の会は皇居内の道場で居合いの稽古をしており、日本刀をその道場に置いていた。

 来年には現天皇陛下は退位され、皇太子殿下が皇位に就かれる。退位の御意向を示されたタイミングからも憲法改正には消極的とお見受けする。
 三島だったら退位問題をどう考えただろうか。
 おそらく生前退位など絶対に認めなかったろう。その場合は・・・・。

昭和45年11月25日

昭和45年11月25日 (その後)

三島由紀夫の幻影 Ⅱ

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