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痛快 脱藩大名  Ⅰ

2019 OCT 31 23:23:56 pm by 西室 建

 房総半島の上総の国は、ちょうど江戸湾を括るように対岸の三浦と富津岬が太平洋の防波堤となり、波穏やかな土地であった。全域に渡って浅い海が隆起した場所であるため高く峻険な山はないが、山間は濃い緑の森林が深々と横たわっている。平野部もそう広々としてはおらず、江戸期を通じて旗本の領地がまばらに広がって大藩は置かれていない。
 この海峡を渡ったのは日本武尊が著名である。中央に従わなかった豪族の阿久留王(あくるおう、悪路王とも)が成敗され、現代でもその塚が祭られている。浦賀水道(走水の海)の海が荒れた際に弟橘媛(オトタチバナヒメ)が入水して鎮めると、日本武尊はショックの余り何日も立ち去れなかったので『君去らず』が『木更津』の語源とされる。隣りの地名は『君津』である。某製鉄会社がかの地に進出した際、地元全体に巨額の固定資産税が行き渡る様にと行政の合併が検討されたが、候補に挙がった地名は『君更津(きみさらづ)』だった。
 他にも、出だしでコケた源頼朝が真鶴から海路で落ち延びて来たが、上陸したのはもう少し南の鋸南町竜島である。
 江戸中期に三河譜代の旗本、林忠英が11代将軍徳川家斉の覚え目出度く加増され1万石の請西藩主となり、一文字大名と呼ばれた。
 一文字大名という呼び名は、三河時代の先祖の功により年頭の賀宴において将軍から一番に盃を受けることに由来する。
 その三代目林忠崇は幕末の荒波をモロに被る運命であった。
 倒幕の官軍が上京して来ると、当然藩論は真っ二つに割れた。三河以来の将軍家に忠誠を誓って戦おう、いや既に将軍は蟄居謹慎中であり、これを騒がすのはいかがなものか、領民を巻き込んでの戦ともなれば混乱は必定、ここは自重すべし、万が一の際はお家取り潰し・・・・。
 忠崇は長身で眉目秀麗の20才。宝蔵院流槍術を良くする英邁な文武両道の若者は迷いに迷っていた。
 江戸城の無血開城に行き場を失った主戦派の遊撃隊が近隣の大名に助力嘆願にやって来た。彰義隊が上野で壊滅する直前である。
 藩主に対座したのは、御徒町の練武館で”伊庭の小天狗”の異名を取る心形刀流の達人、伊庭八郎であった。
『殿。この難局にあたり天下をみすみすと薩長に席巻されたとあれば、武士の一分は立ちましょうや。恭順の意を示された上様に領地召し上げは何たる無礼。一文字大名の殿が誠を尽くさず何の面目が立ちましょうや』
 八郎の火を吹くような弁舌と射るような視線に若き藩主は奮い立ったものの、その後の家臣団との協議は一層揉めた。
 主戦・恭順双方譲らず。領民の安堵には人一倍気遣ってきた忠崇に腹を決めさせたのは次席家老である原部建之介(ばらべけんのすけ)の諫言だった。
『恐れながら、成程忠義を尽くすのは武士の本懐。我等命を惜しむものではありませぬ。さすれども城を持たない我が藩は真武根陣屋(まふねじんや)で敵を迎え撃つは短慮至極。みすみす官軍に蹂躙される民百姓は迷惑千万』
 古株の建之助には何かと頭が上がらない。しかし原部の話は常に長いのだ。おまけに飲み込みが悪くオッチョコチョイでもある。
 忠崇は静かに目を閉じて聞いているうちに、カッと刮目して言った。今でいう切れたのだ

『のう建之助。儂が藩主であるから戦えぬと申すか』
『滅相もない。いざとなれば無論お伴致す所存にて』
『・・・・しからば・・・・余が自ら脱藩いたす
『それはまことに・・・・はぁっ?今何と申されました』
『脱藩いたす』
 家臣団は言葉を失った。かろうじて建之助が絞り出した。
『と、殿。脱藩は天下の御法度。お家はどう』
『もうよい。脱藩するのは余一人なのだ。そこもと等、おのおの好きに致せ』
 言い放つとサッサと奥に引っ込んでしまった。
 大騒ぎになった。
『原部様、これは如何なることに』
『ワシに解る訳がない。もうこうなったらメチャクチャだ。みな勝手に致せ』
 翌日、武装した忠崇が下僕を一人連れて陣屋を出ようとすると、異様な光景に目を見張った。
 原部以下藩士70名、足軽人足100名が出陣準備をして待っていた。
『殿、お伴致しますゆえ御下知を』
『建之助、このバカ者。こんな大勢の一斉脱藩があるかぁ!』
『はて、確か好きに致せと申されましたが』
『あれは残ってまつりごとに励め、という意味じゃ』
『今更二言はありますまい。好きに致しております』
 軍資金5千両、洋式訓練のライフル400丁、二門の大砲まで引きずっていた。更には「お林様」と呼び忠崇を慕った領民がこぞって沿道で土下座して送る。忠崇は高揚し、勢い余って陣屋に火まで放ち出陣した。
 遊撃隊と合流した一行は江戸を目指さず、館山から海路にて真鶴に上陸した。ちょうど古の源頼朝の逆るーと7である。
 官軍を追い詰めようと伊豆韮山で戦端を開き、彰義隊の上野戦争の折には援軍を押さえようと箱根の関所を占拠した。
 ところが突如、気脈を通じていたはずの小田原藩が寝返り敗走する破目になってしまった。
 この戦闘の際に伊庭八郎は左手首を切られた。これより隻腕となるが、得意技は精気に満ちた『突き』だったために戦闘能力が落ちることはない。
 伊庭はその後函館の五稜郭まで戦うのだが、北上中の船中において医師より失った手首の先端の骨が飛び出してくる恐れを診療されると、有無を言わずに肘から先を自ら切り落とした。
 関東における戦いに見切りを付けた忠崇も幕府海軍とともに北上した。
 ところで新政府としては藩主自らの脱藩を重く見て、廃藩置県前の最後の改易処分とし、これが維新後の困窮の原因となる。

 小名浜に上陸した遊撃隊並びに林忠崇の一行は、磐木・平、会津、米沢を経て仙台入りし、伊達藩と共に新政府軍を迎え撃つ準備にとりかかった。
 伊達藩は、乗り込んできた官軍奥羽鎮撫総督府下参謀という長い肩書きの世良修蔵(長州藩士)を暗殺した後、奥羽列藩同盟を結成して戦意はすこぶる旺盛である。世良はこういった革命時に権力を握ると必ず現れる一種のクズで、人間の業の深さはかくも醜いのかという所業により天誅を下されたのである。
 慌しく合議がなされるが、その席では見かけない黒装束の部隊が忠崇の宿舎にしている旅籠の周りに朝帰りしては解散する。屯しているのかと思うと直ぐに姿を消してしまい、誰が何をしているのか忠崇は訝った。
『建之介。あの黒装束は何者ぞ』
 と聞きにやった。方々聞き込んで戻った原部は言上した。
『どうやらあの者達は武士ではなく、無頼の徒でござる。烏(カラス)組と称して暴れ廻っておるとか』
『ほう、そのような者達に戦ができるのか』
『はっ、それが夜討ち専門で、大層な武功を挙げているようござります。率いているのは仙台藩士の細谷十太夫』
『成程。人は使いようだな』
『こんな歌まではやっております。「細谷烏と十六ささげ 無けりゃ官軍高枕」と』
『十六ささげ、とは何じゃ』
『棚倉藩の誠心隊のことでござる』
 事実、この黒装束に一本刀の烏組は夜襲ばかりをかけ続け、散々官軍を悩ませた。ゲリラ部隊だから敵地に留まらず、ヒット・アンド・アウェイに徹したため、単純な勝敗の判定は下しにくいものの、全て成功させている。
 しかしながら、正規軍の昼間の戦闘は銃の性能の差も大きく、奥羽列藩同盟の戦況は利あらず。次々と降伏していった。
 そこに徳川家存続の沙汰が下り、伊達藩まで恭順の意を示すに至って忠崇も覚悟を決めた。転戦三月、原部等の表情にははっきりと疲れが見て取れた。

つづく

痛快 脱藩大名  Ⅱ

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