喜寿庵十石(じゅっせき)
2020 JUL 11 0:00:14 am by 西 牟呂雄
結構な間、喜寿庵で過ごして滅多に出なかった街中を歩いた。するとやはりそれなりの歴史があるところなのが分かってきて面白い。実は博物館もあって増田誠という人の作品が常時展示されている。
古いものがアチコチに散見されたので、以前アップした十景以外にも載せてみたいものが集った。『石』にこだわって十石(じゅっこく ではない)とした。
街中に用水路が通っているが、江戸初期の大名である秋元泰朝が開削した。
僕の子供の頃にはそこから水を引いたり生活用水にしていた家があったが、その用水路のほとりで見つけた。ここは山麓地帯なのでその流れは速く大雨で増水すると危険であり、大雨の時には犠牲者が出ている。
50年くらい前に、我がネイチャーファームのすぐ横に放水路を作って桂川に落とす工事が行われたことを覚えている。
これはおそらく事故に遭った人を慰める為に寄進されたのではないか。
その姿は多手であるので金剛夜叉明王(6本)か軍荼利明王(ぐんだりみょうおう、8本)のどちらかのはずだがよく見えない。
普通はお地蔵様のところが、何かの謂れがあったものなのか。
小さくてチョット見とてもかわいいのだ。
こちらは桂川に降りて行く坂(富士見坂)の途中にあるお地蔵さん。
子供の頃から在るのは知っていた。崖の中腹にいるのでチビだった時は随分高い所にいらっしゃるな、と見上げたものだった。
そして、どなたが面倒を見るのかは知らないが、御覧のように赤い衣を身に付けていらっしゃる。
実はこの直ぐ下に釣り橋があるのだが、伊勢湾台風の時に流されている。1959年だから僕の4歳半の時で、流されたのを祖母と見に行った。雨の降りしきる中だった。伊勢湾台風は9月26日とあるから、幼稚園はサボッて東京には帰らなかったのだろう。
赤い着物を着せている所に何とも愛情が感じられるが、小さい子が犠牲になったのでなければいいが。
一瞬トーテムポールかと思って前に廻ったら違った。
頭に被っている物や両手で前に何かを持っているところ、いわゆる中国風の姿だが、これを見つけたのはさるお寺である。
この街は人口密度の割りに不思議と神社仏閣が多く、一画に何軒も並んでいたりする。神社は山際のところで石段を上がって行くと鎮座しているのがこれまたたくさんあって、時期をずらしてしょっちゅうお祭りもある。
そしてどれもこれも大した見栄えはしないが由緒だけは正しく、かなり古くから人々の営みがあった。
何しろ縄文時代の遺跡が、それも発掘されていない環濠集落まで発見されている。
お寺はオープン・スペースだから出入り自由なので忍び込んで撮った。
こちらは通いなれた菩提寺に置いてある石。
大きな石の上に丸い石が乗っているのだが、ただ置いてあるだけでころころ転がる。
丁度砲丸投げのタマみたいなサイズの、明らかに人工的に削られたものだ。
実はこの奥にもう一つ同じようなしつらえがあって、そこにも同じサイズの球がある。
行くたびに手にとって遊んでみるのだが、何の使い道もないから誰も持って行ったりはしない。
何のために作られてここに置かれているのか、全く意味不明のタマ。
国道沿いに鎮座する注連縄をしている石。
良く見ると、道祖神と彫ってあった。
かつて富士講などが盛んだったころの浅間神社参拝の街道だった名残だろうか。
或いは、この地が絹の集散地だったことから、江戸から明治前半に絹を求めてやってくる冒商人達の往来を見ていたかもしれない。
実際に、ブランド名『甲斐絹(かいぎ)』は大変な人気商品で、戦前の三越の高級絹製品として良く売れた。
この前、納戸の奥から祖母の嫁入り支度だったと思われる甲斐絹の布団が出て来た。困り果てて博物館の人に見てもらったところ、学芸員の人が指でこすって高級品だということがわかり、引き取ってもらえた。
数度の区画整理・道路拡張にもめげずに健気にがんばっているようで微笑ましい。注連縄が多少不細工に見えるのは、この日風が強く飛んでしまったのを僕が掛け直したから。
一方こちらは幹線道路でも何でもない八幡様に行く参道で朽ち果てている道祖神。
災害に会ったのか、割れてしまったところを繋ぎ合わせたような跡があり、隣に観音様だか地蔵様が並んでいて、一番向こうには廿三夜(にじゅうさんや)と彫り込まれている。廿三夜は旧暦二十三日の月待ちの名残で、古くは念仏行事だった。月の出を迎えに行き拝んで帰る場所に二十三夜塔を建てたりした。
この道は舗装もされていないすたれた道だが、かつては人通りもあった幹線道路だったに違いない。というのも喜寿庵からは桂川の対岸に当たるのだが、橋を渡って往来できるようになったのは昭和になってかららしいのだ(後述する)。
ここから名月が見られたかどうかは不明だが、並んで立っているのも微笑ましい。
ちょうどその道祖神のすぐ下流、がけ下にある巨石。河原にドーンと座っている。
写真の腕が悪くてその巨大感が伝わらないのがもどかしいが、推定何十トンもありそうだ。
子供の頃からこの石はどこから来たのか思いを巡らした。この崖の上から侵食されて落ちて来たのか、それとも上流の河口湖のあたりにあったのが何万年もかけてここまで転がって来たのか。まあ、この60年はこの位置にある。
左上の方に小さな滝が見えるのがご愛敬。しかしながらこのアングルまで行くのは結構大変で、崖を降り岩を下り石伝いにせせらぎを越えなければならない。チョット楽しい。
その桂川まで喜寿庵から下りていく坂の途中にある石柱。昔からあった。
改めてよく見ると『富士見坂 昭和2年開削』と彫ってある。
想像を逞しくすれば、昭和になるまでここには渓谷に降りて行く細い道があるだけで、その先には橋がなかったかもしれない。
そうすると対岸には別の幹線道路(もちろん大したものではないにせよ)が川沿いにあったので、先ほどの八幡様のところに道祖神があったのも頷ける。
この坂道が開削された前後に喜寿庵が今の姿になったのだから、ははぁ爺様の普請道楽がひどくなったのは昭和初期だとわかる。
その爺様がこの坂を行き来したときにはどんな格好をしていたのか。満州で仕立てた支那服か、自慢の乗馬服か。
これは水路に沿ったところにあった『南無妙法蓮華経』と彫られた石と、小さな観音だかナントカ天の像。
おそらく車が通るように道を整備した際に邪魔だったのだが、撤去するのにしのびなく、さりとて通行の妨げになるので、わざわざポールを立てて『ぶつけないでください』としたのだろう。
そうした心遣いが嬉しい。
初めのナントカ明王と同じく水難にあったおそらく子供さんの供養と思われる。
最後は江戸時代初期につくられたストーン・ブリッジ。
街中を流れる用水路は家中川と呼ばれている。何故か木製ではない石の橋が架けられていたそうで、その内の一つが某お寺に残されている。それは我が菩提寺ではない。
そのお寺は当時の藩主秋元家や家老だった高山家のお墓があるが、その高山一族こそしばしば紹介している松尾芭蕉の俳句の弟子だった高山伝右衛門=俳号麋塒(びじ)の家なのだ。
天和の大火で焼け出された芭蕉を招き、半年程ここに滞在した。
全く関係ないが、壇ふみさんのご尊父である作家の壇一雄は明治45年にこの地で生まれたことはあまり知られていない。壇一雄の父君参郎が、ここにあった繊維工業試験場の嘱託をやっていたためだ。すると、その当時黒紋付の紋の染め抜きで羽振りの良かった僕の曽祖父にあたる逸と参郎氏は話ぐらいはしたかもしれない。曽祖父は独学で幾つもの特許を取った人だが相当の変わり者だったらしく(祖父はもっとひどいが)、普通の付き合いがあったかどうか。
残念ながら物心もつかないうちに参朗氏は転勤してしまい、この地に壇一雄の痕跡はない。
石にまつわる十景を選んだが、通りすがりの旅人がこれらを全て見つけるのは不可能と思える。旅人がこの全てを写メに撮って僕に送ってくれたら、スタンプ・ラリーのように賞金を出そうかな。仮想通貨ソナー・ダラーで100万!
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Categories:和の心 喜寿庵