ヒグチのリスト
2020 AUG 9 10:10:48 am by 西 牟呂雄
先の大戦末期、ヨーロッパでの戦闘を終えたソ連軍は満洲・北方領土を侵すべく虎視眈々と南下しようと兵力を集中させた。満州における守備は関東軍であるが、戦力をかなり本土・南方に割かれており、尚且つ不思議なことに危機的状況にも係らず関東軍は楽観論が主流でソ連の対日参戦後は一たまりもない。しかも8月15日のポツダム宣言受領の前後はドンパチの真っ最中で即時停戦とはならなかった。
戦車部隊の侵攻に対し、関東軍航空隊には敵戦車に対して特攻をかけて対抗。国境線の第107師団は山岳地帯でのゲリラ戦で29日まで戦い続けた。
一方、アリューシャン列島では米軍と対峙したもののアッツ玉砕・キスカ撤退の後に対ソ防衛戦の備えとして南樺太の守備も兼ねた大本営直属の第5方面軍が編成された。
8月18日、千島列島最北の占守島にソ連軍が上陸する。それに対し方面軍樋口季一郎中将は、有名な「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」との命令を出し、旺盛な砲撃と第11戦車隊の猛烈な突撃で食い止めた。浅田次郎の『終わらざる夏』に詳しい。この樋口中将の果敢な決断なかりせば北海道がロシア領にされたかもしれなかったのだ。
樺太においても15日以降もソ連の侵攻は止まず、16日には新たな部隊が上陸し出し歩兵第25連隊は23日まで交戦した。
その間、電話交換女子達が集団自決、停戦協定後の白旗が掲げられた赤十字テントへの空爆、引揚げ船への潜水艦に攻撃といった火事場泥棒的なソ連軍の振る舞いは、現在ロシア人と親しく付き合い好感を持っている私ですら不快感を感じる。
それもこれもヤルタ会談でソ連の参戦をそそのかし領土の取引まで勝手にしたルーズベルトが悪いのだが。そして調子に乗って北海道の半分をよこせ、とまでほざいたスターリンの野望を打ち砕いた樋口中将の迅速・果敢な決断に敬意を表する。
話は変わるが、多くのユダヤ人を救った『シンドラーのリスト』が映画によって人々の記憶に残り、『東洋のシンドラー』日本人外交官杉原千畝のリトアニアでのビザ発給が人口に膾炙する。かの樋口中将もユダヤ人から厚く尊敬されていることは御存知だろうか。
話は大戦前に遡る。直接の引き金はヒトラーのユダヤ人迫害なのだが、ヨーロッパ全域及びソ連でもひどい目に合ったユダヤ人の一部はシベリア鉄道で遠く満州のハルピンにまで大勢きていた。これは計画倒れとなった満州国へのユダヤ人入植計画(通商フグ計画)による影響もあったためである。
計画そのものは頓挫し、紆余曲折があったものの昭和12年に第1回極東ユダヤ人大会が開かれるに至った。その際「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と祝辞をのべたハルピン特務機関長こそ樋口少将なのである。日独防共協定を締結した同盟国に対する激しい非難にユダヤ人達は喝采し、中には泣きだす人もいたという。
その後もドイツからのユダヤ難民が満州を経由して米国上海租界に亡命する入国・移動の手配に尽力し、数百人のユダヤ人が難を逃れた。ユダヤ・ネットワークでは「ヒグチ・ルート」と呼ばれたらしい。
この件はドイツのリッベントロップ外相から抗議文書が届くなど外交問題となったが、かの東条英機が理解を示し「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と問題にならなかった。
尚、樋口少将がハルピン特務機関への移動となった直接の原因は、ロシア語に堪能だったこともさることながら歩兵第41連隊長時代の部下だった相沢中佐が軍務局長永田鉄山少将を惨殺した相沢事件を起こしたため進退伺いを出したからと言われている。
ユダヤは記憶する。あの旧約聖書を今に伝え信仰を絶やさない民である。
1970年頃、異端の人智学者である高橋巌はスイスでヘブライ大學名誉教授のゲルショム・ショーレルから「樋口季一郎という人がいることで日本人を尊敬している」と言われた。
2018年時点でも、樋口の孫である隆一氏がイスラエルを初訪問した際に「ヒグチ・ルート」で難を逃れたカール・フリードマン氏の息子さんから謝意を受けてもいる。
翻って日本人はユダヤ人を差別する感覚を持っていない。単に実利的な意味でなく、イスラエル・ユダヤとの関係を構築できれば世界史的な、安倍総理の言う地球儀を俯瞰した外交が展開できるのではないだろうか。
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