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高志国(こしのくに)考

2021 JUN 6 0:00:20 am by 西 牟呂雄

 筆者は出雲の歴史を研究し、オリジナル出雲族である大国主命が天孫族に攻め滅ぼされ、国譲りという神話を残しその一族はいずこかへ散っていったと考えている。はっきりしているのは大国主命の息子である。建御名方神が糸魚川に沿って南下し諏訪にたどり着いている。また、海岸線を伝って日本海を北上するルートも検証してみると、高志国がキーワードとして浮かび上がってきた。
 高志=越国は越前・越中・越後と広いが、このエリアと出雲は古来密接なつながりが有ったはずだ。そもそも須佐之男命が出雲にやってきて八岐大蛇を退治した神話からして、そのオロチは高志の国から毎年やって来ていたのである。
 それだけではなく、出雲市には古志町という地名が残っていたり、隣の松江市にも松江市古志町・松江市古志原と言った場所があり、往来の盛んであったことが偲ばれる。
 ちなみに新潟では地震の被害が報じられた山古志村がちゃんとある。
 時代が下って出雲風土記が編纂された時は国引き神話の記述があるが、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、「志羅紀」「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)「古志」という四つの国の地面を引っ張ってきたとされている。人々が大いに入植したことの例えなのだろう。北門佐岐は佐渡島、北門農波は任那だろう、新羅と越は明らかだ。
 古代の航海技術がどれほどのものか詳しくはないが、環日本海の物流・人流があって、時に対立・侵略しながら付き合っていたはずである。アイヌ系はあまり海洋民族のイメージがないが、満州族は後年にいたって刀伊の入寇といった3000人規模の襲撃を仕掛けて来た。
 大国主命も高志国まで行って沼河比売(ぬなかわひめ)に妻問いして建御名方神(たけみなかたのかみ)をもうけたりしているが、この場合明らかに侵略だろう。
 この高志エリアは古来から豊であったことだろう。大国主命の時代にどの程度稲作が普及していたかは知らないが現在でも米所であり海の幸にも恵まれている。当時は翡翠を産し、GDPも高かったと思う。従って力を持つ者が出て来る。
 例えば継体天皇は即位後20年近くこのエリアにいた。越前の朝倉は信長を追い詰める所までに至った。戦国時代は個別戦闘でほぼ無敗の上杉謙信が出る。ただ、あまりに雪深いため、冬季の移動が困難だったので天下に覇を唱えるには至らない。逆に言えば逃げ込むには都合がいい場所だという事だ。
 先程、高志の地名をたどってみたが、その逆はないのか。国譲り後に大国主命一族が落ち延びた痕跡が辿れるのではないだろうか。そう思って地名で検索すると、あった。
 まず金沢市に出雲町があり、その名も出雲神社なるお宮が5つもある。
 隣の富山県小矢部市にもやや小振りながら出雲社が見つかった。
 次の新潟に入ると糸魚川市では例の翡翠が採れた地域だから、逃げ込むというよりは沼河比売(ぬなかわひめ)へ妻問いしに遠征したかと思料する。奴奈川神社がある。
 新潟は実は結構な数が見つかったのだがもう一つ挙げるとすれば出雲崎だろう。新潟と柏崎の真ん中あたりの出雲崎町は良寛さんの故郷で知られるが、出雲臣の一族が往来したとの伝えが残る石井神社が出雲大神(大国主神)を祭っている。
 高志=越の国はここまでだが、ついでにもう少し北上してみる。
 山形県では内陸の寒河江市に出雲太神社というのがあって、面白いことに『いずもおおかみしゃ』と読むそうだ。本命かと考えていた酒田市には大国主命を祭っている神社はあるが社名は地味なものだった。
 更に秋田まで行くと最南端のにかほ(ひらがな表記)市に大国主命を祭る出雲神社があるが詳しいことは分からない。大国主命がやられた直後の一族・重臣といった第一次出雲難民の脱出先は、どうやらこの辺りが北限と思われる。
 筆者としては、松江の宍道湖と同じ汽水湖(海と繋がっている)であった八郎潟あたりがポイントかと想像したが有力な痕跡は見つけられず、『出雲』で検索に引っかかって来るのは出雲大社教(いずもおおやしろきょう)という明治以降に組織化された宗教法人だけであった。出雲大社教とは明治時代に伊勢派が主流を占める国家神道から出雲派が分離した神道系新宗教(教派神道)のことである。
 もう一つ出雲教というのがあって、室町時代に千家から分かれた北島家によって創設された教団で、出雲大社に向って右側にある北島国造館が本部である。尚、千家と北島家は今日でも出雲国造を名乗っている。
 話がそれたが、出雲神社と言う名称で絞り込むと以上の例が検索できたが、祭神が大国主命(或いは別名であると大穴牟遅神(おおあなむぢ-)・大己貴命(おおなむち-)・大穴持命(おおあなもち)-大物主神(おおものぬし-))である神社はそれこそ数えきれないくらいあった。特に北限と想定した秋田県南部を更に北上した青森県に多い。
 筆者の仮説ではこれらは第一次出雲難民の次世代以降の人々が移動した先にゆかりの祭神を祭ったのではないかと考えている。
 さて、出雲難民が北上していった先は、その時代が下ると蝦夷(えみし)の国として中央と対立することになる。古くは武内宿禰から、坂上田村麻呂やら八幡太郎義家が散々攻撃して最後は中央に従うのだが、最後の最後まで抵抗した荒蝦夷(あらえみし)が立てこもったのは現在の弘前城のあるあたりである。作家の佐藤愛子や今東光のルーツで、何やらお上に従わない反骨の気質が覗える。蝦夷とはアイヌ系・オロチョン系といった北方民族の別称ともされるが、その構成の中に出雲系もあるのではないだろうか。
  筆者の想像は膨らむのである。是非、フィールド・ワークに行ってみたいと思う所以である。

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