Sonar Members Club No.36

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バンコク決死の脱出

2021 JUL 17 3:03:58 am by 西牟呂 憲

 今から四半世紀も前の話。
 あれは蒸し暑いバンコクの旅が終わる日だった。まあ、いつもの事であるがひどいひどい二日酔いで水すら飲めない。そのくせ喉の乾きだけはあるので冷蔵庫のミネラルを飲み干すと次は吐き気、結局戻してしまう。
 いかんいかん、昼過ぎにはアユタヤまで行くのに、もう11時を回ったではないか。
 仕方がなく、ぬるいシャワーを浴び、着替えてロビーに降り同行のドクター・ポテトを待った。この男はクアラルンプール支店長の理学博士で、現在目覚ましい成果を上げている。シンガポールから香港・マニラまで飛び回るフット・ワークから、南方派遣軍司令官・山下奉文の『マレーの虎』をもじった『マレーの猫』と言われていた(ワタシが名付けた)。
 落ち合って外に出た途端、あまりの熱さに汗が背中を流れる。車に乗るとエアコンの効きがすごくて、さっきの汗がつめーたい冷や汗となり、気分が悪くなった。そのまま渋滞にはまること2時間で目的の工業団地についた。が、吐き気は頂点に達し、受付横のトイレに駆け込んだ。
 一般に当時の東南アジアの衛生状況は日本では考えられないくらいに劣悪だったが、躊躇しつつも吐かざるを得なかった。
 次の瞬間、ギョッとした。鮮血がサーッと流れたのだ。
 実は吐血は何回かしていた。が、それとも違う。単純な喀血は結核のように咳とともに肺から飛び散る、胃からくるやつは赤い糸状の血が混じる。それが滝と言えば大袈裟だがドバァーっと流れ落ちる血に我を失った。
 まだ40代で子供も小さいのに、ついにバンコクの薄汚いトイレでくたばるのじゃないだろうな。思わず口を手のひらで押さえた。するとアラ不思議、血は流れ続けるではないか!
 口からではなく鼻の粘膜が切れての大量の出血だった。
 鼻血だったら止まるのは早い。あたふたと処置して何食わぬ顔をして見せたが、ドクター・ポテトは目を丸くして言った。『どうしたんですか。白目がまっ赤ですよ』そりゃそうだろう。鼻の粘膜が切れるほど血が上ったのだから。
 所用を済ませての帰り道、今度は猛烈な痛みが胃のあたりに走った。ズキズキと言うのではなく、よじられるようなひねりの効いた痛みで、プロレスのストマック・クロー(胃袋掴み)を喰った時のような痛さだ。
 このエリアの日本便は真夜中に飛んで翌朝に成田着がメジャーで、バンコクやシンガポールは1泊節約した翌日にも日本で仕事ができるから、みんな良くそれを使っていた。大体フライトまでは飲んだり食ったりして過ごすのだが、それどころじゃない。
 実は僕は20代の若さで急性膵臓炎を発症し、その痛みが体に残っている。そしてこのバンコクの痛みはそれを彷彿とさせる、恐ろしいものであった。その時は40日間入院させられた。もし、再発だったらこの地の劣悪な衛生状態と貧弱な医療体制でどうなってしまうのか。想像しただけで、必ず今日のフライトに乗る決意を固めた。だが苦しい。
 とりあえずドクター・ポテトの投宿するホテルで休ませてもらうことにした。しかし鍵を受け取った後に男二人が一緒にエレベーターに乗る際に、周りのドア・ボーイやオネーチャン達が『あいつ等そういう関係か』という目付きでニタニタしながら見ていて参った。バンコクは実際そういう怪しげな人がやたらといる。
 経験上、この痛みはお湯に浸かるとやわらぐ。そこでバスタブで長いことあったまった。すると今度は喉の渇きが耐え難く、コーラなんぞをガブ飲みしては嘔吐⇒痛みのルーティーンを繰り返した。
 その間ドクター・ポテトは平然と仕事をこなし続け、大丈夫ですかの一言もない。多分、サッサと出ていかないか、ここで死なれたら面倒だ、などと思っていたに違いない。
 そうこうしているうちに少し収まったので空港に行くことにした。早く行ってクラスアップの手続きをし、前の席を確保するためだ。当時は年間20万マイル・カスタマーだったから安いチケットでもいくらでもアップできた。そして万が一のたうち回るようなことに備えて前から座席を倒されないポジションに座らなければ、と考えた。
 空港リムジンに乗って行く私を送るドクター・ポテトの顔には、道中の無事を祈る表情は全くなく、厄介払いができたという満面の笑みが浮かんでいた。
 私の難行苦行はまだ続く。何とか夜半のフライトに乗り込み、シート・ベルトを締めたのはいいが、痛みと共に喉の渇きが襲い掛かる。しかし、ここでがぶ飲みしてひどいことになったら『乗客の中にお医者様はいらっしゃいますでしょうか』とか、最悪『最寄りの空港に緊急着陸いたします』になってしまうかもしれない。それはマズい。
 悶々と苦しんでいた時、あるアイデアが浮かんだ。うがいだ。それも発砲性の飲み物でやれば少しは助かるのではなかろうか。迷わずビールを頼んだ。そしてその缶を以て畿内のトイレに向かいやってみた。おォ!快感だ。危うく飲んでしまいそうになるのを必死にこらえた。
 だが、当たり前だが即効性はあるものの本質的な渇きの解消にはなるわけがない。丸一日水を飲んでいないのだ。結局このテを使う事3度に及び、3時間程経過した。午前4時頃である。
 すると、忽然と痛みが引いているのに気が付いた。なぜか力が湧き上がって来るような体温が上がってきたような。おそるおそる今度はお湯を頼んでそーっとすこしづづ飲んでみた。飲めた!吐かない!どうやら何事もなく成田に着けそうだ。そう安心したらいつの間にか浅い眠りに落ちて、着陸した。ふー。
 スモーカーのやることはただ一つ。ゲートを出て一服付ける、胃にグーッとくるタバコだった。それからどうしたか?もちろんその足で事務所に行き仕事したさ。ドクター・ポテトに無事を伝えたところ『あーよかった、あの部屋で死なれなくて』だって。

 冒頭述べたように、これは今から四半世紀も前の話である。そして今日はと言うと実は断酒中である。目下緊急事態宣言が発布されているが、実はその日に同じ症状が出たのだ。
 折しも近日中にワクチン注射をする。いい機会だから宣言中は断酒することにした(というよりドクター・ストップがかかった)。懲りないというか何と言うか・・・・。

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酔った上の話

2021 JUL 10 13:13:46 pm by 西牟呂 憲

 宴もたけなわ、人は皆声が大きくなり笑い声が絶えない。皇族の一行が狩猟と称して近江の蒲生野までやってきた。今でいうピクニックである。毛氈を敷き山海の珍味が並べられ酒が振舞われた。
 斉明天皇崩御の後、白村江の戦いで負けて唐・新羅連合軍のまさかの対馬侵攻に備えざるを得ない不穏な世相であった。これを打開するために、中大兄皇子は都を近江大津宮へ遷都し、ようやく帝に即位した。この日はお祝いがてら臣下の者を連れての行幸だった。
 一人の大男が立ち上がって歌い出した。かなり酔っ払っており何を歌っているのか遠くからでは分からない。ところが、周りの男女(おそらくお付きの者達)の笑い声は大きくなる一方で、散らばっていた人々も集まり始めて人の輪が広がった。
 さる妙齢の女性が気を揉み出した。なぜなら今日の主催者であるツレの男の周りにいる人数を上回っている。ツレが気を悪くしないか、と踊っている酔っ払いに目をやった。するとその男もこちらを見ており視線が合った。男はニヤリと笑うと腰を振りながら更に歌う。周りは更に笑い転げる。こっけいな仕草と囃し立てる歓声に何やら猥雑な歌であることが見て取れた。そしてその間、男の視線の先に先程から気を揉んでいる女性がいることに人々も勘づいたようだった。その女は以前踊っている男の娘を産んでいたのだ。
 女はそっとしたためた紙を従者に託した。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

 男は渡された歌を見ると破顔一笑した。そして周りには見せずに思わせぶりのようにゆっくりと大杯に満たした酒を飲みほした。取り巻きはかたづを呑んで次の節を聞こうと身を乗り出している。たっぷりと間を取ってはやにわに大声で踊った。
 
紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも

 ドッと湧いた歓声にさすがに女の傍らで側近達と談笑していた宴の主も気が付いた。
「なんだあれは。我が弟ではないか。しょうもないあんなに酔っぱらって」
 主が歌の内容を耳に留めたのかは分からないが、謹厳な表情は変わることはなかった。
 主は即位したばかりの天智天皇。傍らにいたのは歌人として名高い額田王、現在天皇の寵愛を受けていた。弟こそ大海皇子、後に壬申の乱を起こした天武天皇である。
 京都、湧泉寺は歴代天皇の位牌がある寺であるが、実はその中には天武天皇とその系統の7人の天皇の位牌はない。まさか酔っ払った挙句のこの歌のやり取りでしくじったわけではないだろうが。

 「一家三后(いっかさんごう)おめでとうございます」声が響き渡ると宴席の一族の者達は一斉に「おめでとうございます」と唱和した。一家三后とは三人の娘が入内し、皆天皇の后である中宮に叙されるという離れ業のことである。
 御堂関白は一条天皇に長女の彰子を、次の三条天皇には次女の妍子を、更には三条天皇を退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇を即位させそこに三女の威子を入れるというゴリ押しぶりだった。相当な無理があるため、威子は9歳も年上のバランスの悪さである。
 ともあれ当の御堂関白・藤原道長は上機嫌で酒も進んだ。煌々と火の粉を巻き上げる松明の明かり。着飾った女たちの踊り。すり寄って来る青公家どものオベンチャラ。これらすべてに酔い痴れた。夜は更けていき、意識も朦朧としてきた時におもむろに立ち上がった。
「麿は一つ歌を詠もう」
 呂律は回っていない上、体はよろよろと前後に揺れ動く。果たしてまともに詠めるものなのか。
この世をば~~~わが世とぞ思ふ~~~望月の~~~~(ゲップ)虧(かけ)たることも~~~~なしと思へば~~~~(オェッ)
 遠巻きにしている者達には何を言っていたのか分からない始末。しかし近くにいた藤原実資には良く聞こえた。なんという下手な歌か。思うが2回も入っている語呂の悪さ、悪趣味な傲慢さ。元々ポストの奪い合いで仲の悪かった実資は、不愉快極まる歌として日記に書き記した。
 御堂関白・藤原道長は翌日、二日酔いで目覚めた時には、夕べの振る舞いとともに詠んだ歌のことは微塵も覚えていなかったが、実資の日記により後の傲岸不遜な道長像が出来上がったと言える。
 御一条天皇は当時の11歳で20歳の威子を入内させられたが、29歳で崩御してしまう。すると威子も半年後に疱瘡で亡くなった。仲睦まじい夫婦であったことを祈るのみである。

 毀誉褒貶はあるものの、最後の将軍である徳川慶喜は頭の切れる才人だったことは間違いない。生まれた時代が悪すぎた。
 何しろ尊王攘夷運動の流れでさえもまっすぐに流れてはくれないのだ。尊王攘夷で散々暴れた長州が追っ払われると、一緒に追っ払った側の薩摩は国父として久光が前面に出てきて開国を主張する。公武合体論者だった前藩主斉彬が死んで藩政を取り仕切りだした。
 既に開港していた横浜は、一旦は鎖港の勅諭が出てしまっており、幕閣は外交交渉を始めていた。将軍後見の慶喜は既に開国論者になっていたため、鎖港などやりたくもない。貿易は大儲けだからだ。
 一方、長州を切った後に京都政界の主導権争いは雄藩の参与会議で合議する体制が久光主導で固まりつつあり、薩摩の島津久光、越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城に会津の松平容保と一橋慶喜が任命される。
 ところが、慶喜は前藩主斉彬とはあんなにケミストリーが合ったにもかかわらず、その弟の久光とは全く相容れなかった。斉彬は嫡男として江戸で育った開明派だったが鹿児島弁丸出しの久光はゴリゴリの保守派なのだ。そのため薩摩藩内でも深刻な対立によって血が流れ、西郷も遠島されたりする。ともあれ久光がデカい面をするのが気に障ってしょうがない。横浜問題はそのナイーブさからとんでもない方向に向かってしまう。
 将軍家茂が上奏を終えた後に、中川宮を通じて鎖港再考を伝えられると慶喜は本音とは逆に激高する。
 中川宮が手打ちとでも思ったか、慶喜以下、久光、松平春嶽、伊達宗城を招いた席には、茶碗5杯の冷酒を一気飲みし、わざと泥酔し乗り込んだ。確信犯だからたまらない。
 まずは佩刀をかざし、切るの切腹するのと脅し上げる(これは諸侯とは別に単独で行った時という説もある。深夜、帯刀して強硬訪問して絡み倒したと)。そして三人を『この3人は天下の大愚物・大奸物』とやらかす。挙句の果てに『宮は島津殿からいかほど用立てられたか』とまで言った。そしてベロベロになって春嶽に抱えられて退出したとか(演技説があるが酔っ払っていたに決まってる)。
 こんなに酔ってそこまで饒舌を奮えるものかと訝しむ向きもあるが、さにあらず。このテの酒乱は酒が進めば進むほど頭が冴えて来る気がして(本人だけ)、早口になるは攻撃的になるは。そして翌日は全く覚えていない。こういう人がいるのである、筆者がそうだ。筆者は慶喜程の切れ者ではないが、気持ちよく酔っ払った翌日、ひどい二日酔いでやれやれ楽しかったなぁとふやけていると『いやー、ゆうべは大暴れでしたね』などと言われ何度慌てたことか。今思い出しても致命的なしくじりは数えきれない。ついでに言えば大怪我に至ったことも何回かある、どうでもいいことだが。
 慶喜の場合は薩摩・宇和島はまあいいとして松平春嶽を不快にさせたのは致命的だった。福井は親藩だったのに距離を置くことになり、そのノリで御三家尾張まで離反させる結果を招いた。日本史の転換点となった酒乱ではないか。
 そういえば、目下大河ドラマで見事に慶喜を演じている草薙も夜中に裸で暴れて捕まっていた。

 時は下って戦後。抜群の秀才を以て鳴る内閣官房長官宮澤喜一。この人がまた酒乱だった。
 筆者はさる縁で、直接ではないがその酷さを聞いた。
「あのチンピラがよ、嵩にかかってオレを面接したんだぜ。十年も早いと思わねーか」
 チンピラとは当時の田中派幹部で幹事長職にあった小沢一郎である。
 この話を教えてくれた人と、あるおめでたい席で一緒だった時、宮沢官房長官(当時)の祝電が披露されたので『『随分な大物とお付き合いがあるんですね』と言うと、その人は『うん、あれはなー、オレが打ったんだ。ガハハ』とうそぶいた。唖然とする筆者に『一応、祝電打ちますよ、と伝えたんだけどベロベオに酔ってたから覚えてねーだろな』だそうだ。
 本人も自覚があったらしく、総理大臣になってからは禁酒したんだとか。
 中川昭一センセイも凄い会見をしてたっけ。

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情夫(いろ)に持つなら彰義隊

2021 JUL 4 0:00:00 am by 西牟呂 憲

 謹慎していた前将軍、徳川慶喜は水戸に去った。江戸城は主を失ったが、この時点では誰の物なのかははっきりしない。無血開城によって関東各地に散らばった旧幕臣の残存部隊は無傷であり、盛んに抵抗をしており、官軍はその追悼に兵力を削かざるを得ない。従って江戸に残っているのはたったの3千程。大参謀西郷隆盛は江戸市中の治安を勝海舟に委ね、勝はその任に上野寛永寺にたむろしていた彰義隊をもって当たらせた。
 その彰義隊、無論徳川の正規兵でも何でもない。とにかく江戸に官軍が来て我が物顔に振舞うのが気に入らない不満分子の塊である。頭取からして一橋家の家臣に取り立てられた渋沢成一郎と、与力の養子となって旗本になった天野八郎。彼らが集まっては悲憤慷慨しているうちに出来上がった寄り合い所帯なのだ。
 ところが勢いに乗じてその数3千人にまで膨れ上がり、気炎を上げていた。
 勢いに乗じて官軍との徳川家処分について交渉していた策士勝海舟は次々に難題を突き付け西郷を翻弄し始めた。西郷は妥協を重ねるが、京都の新政府幹部はそれが気に入らない。西郷も板挟みになっていたのだった。
 そのころの江戸の世論は主に廓が発信元だ。花魁達はもちろん幕府びいきで、上京してきた官軍兵士なぞはその田舎者振りや傍若無人な振る舞いで嫌われる。一方彰義隊士は元々江戸っ子ばかりがにわかに景気づいたせいでやたらと金払いはいい。廓の人気はうなぎのぼりで『情夫(いろ)にもつなら彰義隊』と囃される始末。情夫(いろ)とは花魁の贔屓客のことである。当時の記録を読んでみると大人から子供まで、官軍とは異国の進駐軍を見るような感じで、一つには戦闘もなしにのさばっているのが嫌われた。
 ところが彰義隊内部では、直情径行の天野に対し元々一橋家の家臣だった渋沢はソリが合わなかった。渋沢にしてみれば主が恭順をしているのに足元で暴れるのはいささかの遠慮があり、戦闘はできれば避けたい。そこを天野から弱腰と罵られ遂に分裂してしまい、一派を率いて江戸市中から多摩の田無村に本陣を移した。
 彰義隊のいる寛永寺は、天海僧正が開山し広大な上野の一山を寺領とし、歴代皇族の法親王を天台座主に戴いた。幕末の輪王寺宮公現法親王は 伏見宮邦家親王の庶子ながら、新政府からの京都への帰還の勧めを拒否。江戸に進駐してきた東征大総督である有栖川宮の呼び出しにも応ぜず、配下をして彰義隊の面倒を見させる有様はあたかも南北朝を彷彿させる挙であった。
 江戸は不穏な情勢に包まれる。官軍を白眼視する江戸っ子達、情勢次第で勝ち馬に乗りそうな面従腹背の幕臣および関東の親藩、田無から江戸を睨む渋沢成一朗の振武隊。
 官軍と彰義隊の小競り合いも多発するにいたり、ついに京都から三条実美が大村益次郎を伴って東上してきた。

「オイ!丈の字!丈太郎!」
「ヘーイ」
「マヌケな返事を寄越すな、このトウヘンボク」
「ヘイヘイ。何でゲス、親分」
「噂じゃ官軍がいよいよおっぱじめるらしい。寛永寺まで一っ走りして御用の向きを聞いてこい」
「えっ、とうとう始まるんですか戦が」
「おうよ。彰義隊の旦那衆が続々と集結してる。デケー面してやがるイモ侍に一泡吹かせてくんなさるんだ。この新門一家が指咥えて見てる訳にゃいかねー」
「わかりやした」
 新門辰五郎、浅草の火消し「を組」の頭でありながら慶喜の知遇を得て、娘を妾に差し出した大の官軍嫌いである。
「親分!でーへんだ。天野様の元にいったら戦はあしただそうです」
「あしたー!」
「へェ、鉄砲の弾除けに畳や俵をあるったけ持って来いっての仰せで」
「若ェ奴等を全員集めろ。そこいらの畳をひっぺがしてお山に登れ」
「合点だ」
「あっそれから「を組」は火消し装束だぞ」
「わっちらも戦すんですか」
「バカヤロー。戦がはじまりゃ火事になるに決まってんだろ。お山を灰にされたら江戸っ子の名折れだ」
「けど親分。親分はここにいなすってくだせいよ」
「何だと。テメー俺を年寄り扱いする気か」
「いやっ、だって古稀ですよ。万が一のことが起きんとも限らねえ」
「やかましい。さっさと纏を持ってきやがれ」
 通称「般若の丈太郎」は通り名の般若を背中に彫り込んだテキヤ上がりの道楽者だ。浅草の飾職人の息子だが放蕩が過ぎて勘当され、神農のシノギをしていたところ度胸っぷりを買われて辰五郎の用心棒のような「を組」の代貸し格に納まっていた。喧嘩の時も頼りになる腕利きだが普段は大酒を食らってばかりで何の役にも立たない。
 火消しは通常トップを『おかしら』『かしら』と呼ぶが、丈太郎はテキヤ時代の癖が抜けず『親分』と呼びならわしていた。
 総勢280人程の『を組』が勢揃いすると辰五郎が激を飛ばす。
「野郎共、明日は上野の山の大火事だぁ。新門一家が束んなって大伽藍を官軍からお守りするんで今夜から籠るぜ」
「おう!」
鳶口(とびぐち)・刺又(さすまた、指俣)・鋸は言うに及ばず、竜吐水(りゅうどすい)・独竜水(どくりゅうすい)・水鉄砲・玄蕃桶(げんばおけ、2人で担ぐ大桶)といったいわゆるポンプの類を担いでの行列はまるで百鬼夜行だが、広小路口からの参道では物見高い江戸っ子から、今までの鬱憤を晴らすように声がかかった。
「かしらー!頑張ってくんねぇー」
「丈の字ー、しゃかりきに行っといでー」
「丈太郎、頼んだぜ」
「般若の兄ィ」
 調子にのった丈太郎は手を振って応える。
「任しとけ。官軍なんざ屁の河童だ」
 辰五郎はいやな顔をした。
「丈太郎、ただの喧嘩ざたじゃねぇ。黙ってやがれ」
 すると同じように黒門を目指してくる武士の集団と出会った。こちらは50人程の小部隊だがやや速足で整然とやってきた。誰も口をきかない。先頭の者が掲げる旗には『會』の文字が見て取れた。
「親分、ありゃお武家さんですね」
「あの旗は会津だ。まだこの辺に残っておられたのか。はて、殿さまと一緒にみんな帰って行ったと聞いていたが」
 立場上、先を譲ると軽く目礼して黒門から入っていった。新門一家も後に続く。中腹の寒松院に陣取る頭取、天野八郎に挨拶をすると根本中堂のあたりに固まって朝を待った。

 翌朝午前7時。黒門正面の現在松坂屋のあるあたりに兵を進めた薩摩藩の前線指揮官、篠原国幹が「放てーッ」の命令を下した。一斉射撃が響き渡ると彰義隊も撃ち返し戦闘が始まった。丈太郎はつぶやいた。
「いよいよ始まりやがった」
 彰義隊は黒門の近くの小高い山王台(西郷隆盛の銅像のあるあたり)に四听(ポンド)山砲を2門据え付け、全面の薩摩藩兵に向けて猛烈な砲撃を加えた。轟音とともに前線が吹っ飛び煙が上がる。
「ざま-みやがれ。こいつぁー景気がいいや」
「丈の字!うるせい、少し黙ってろ」
「へい」
 うるさいも何も銃声と砲弾の炸裂音で会話なんぞ聞き取れない状況だ。
 薩摩軍の消耗は凄まじく次々に死傷者が運ばれる。すると他藩の動きが鈍った。薩摩軍と共に黒門攻略に当たった熊本藩が誤射してしまい薩軍に負傷者が出る。
 当時、脱走歩兵部隊は関東各地で暴れ回り、奥羽や越後の各戦線からもひっきりなしに援軍要請が来る中、官軍の中枢である薩摩兵は江戸に4個中隊(数百人)いたに過ぎない。西郷が事前に薩摩軍の配置を見て「薩摩兵を皆殺しになさるおつもりか」と立案者の大村益次郎を問い詰めると「そうです」と答えたという都市伝説すらある。
 また、背後の団子坂から谷中門に向った長州藩は、貸与された新式スペンサー銃の扱いに慣れておらず、すこぶる奮わない。
 ドカーンンンと重い大音響と同時に根本中堂が炎上した。
「オイッ、いってーどっから火が降って来たんだ」
「わかりやせんぜ。黒門は破られちゃいねえ」
「グズグズすんな!火消しの出番だ」
 そう言っている直後にまた数発が着弾して台地が震える。吉祥閣・文殊楼まで燃え上がった。
「親分、あっちだあっち、池の向こうの前田様のお屋敷からだ」
「バカ言え、あんなとっから届く大筒なんか・・・」
 ドカーン、今度はすぐ近くで炸裂した。
「さっさと龍土水をブチかけろ」
「かしらー、永吉がバラバラになっちまったー」
「ナニー」
 その時黒門の方を見やった丈太郎は抜刀した一団がこっちに向って来るのを視認した。昨日の会津藩の旗を掲げていた連中だ。その者たちは周りにいる彰義隊士に切りかかっているのだ。
「親分、マズい。寝返りだ寝返り。あいつら会津藩兵じゃねぇ。官軍だったんだ」
「冗談抜かせ」
「火消しどころじゃねえよ。こっちに切り込んできやがった」

 黒門の前衛の彰義隊が動揺しているのを見て取った篠原国幹が振り返って西郷に尋ねた。
「もう、よかごあんど」
「うん、もうよか」
 西郷は奇しくも後の生涯最後に言った言葉を発した。すると薩軍は一斉に抜刀し、独特の切っ先を高く上げるトンボの構えをすると、各々例の「チェストー」という声を上げて切り込んだ。内部をかく乱されていた彰義隊はもはや持ちこたえられず黒門を破られ、勝負がついた。
「親分、だめだ逃げましょう」「かしらー、もうだめだ」
「バカヤロウ、逃げるな!火を消すんだー」
「親分、分かったからこっちに」
 「を組」も四分五裂になり、丈太郎は子分共と喚く辰五郎を引っ担ぐように逃げた。彰義隊は総崩れになり、大村益次郎が作戦立案の際に玉砕覚悟の抵抗を避けるために手薄にしていた東側から根岸の方に落ちて行った。孫子の兵法で言う囲師必闕(いしひっけつ)の構えである。
 辰五郎一行がジタバタと走っていると寛永寺の僧侶が二人、やはり落ち延びているのに追いついた。通り過ぎようとして若い方の顔を見た途端、辰五郎は一行を制しひれ伏した。丈太郎以下も何事かと土下座する。辰五郎は絞り出すように言った。
「御前様。あっしらが不甲斐ないばかりに申し訳ございません」 
  輪王寺宮公現法親王が側近である執当役の覚王院義観を伴って落ちていくところだった。
  暫く見送った後で一息入れた辰五郎は呟いた。
「浅草にけえろう(帰ろう)」
「まだ官軍がいますぜ」
「考えてもみろ。おれっちゃー火消しだ。何も逃げ回るこたーねぇ」
「それもそうか」
「お山の火事を消そうとしただけじゃねーか。コソコソしなくていいんだ。第一逃げるってどこ逃げんだよ」
 ヨタヨタと歩いていると右手にまだ炎上している大伽藍が見える。
「これでお江戸もお終めーだな・・・・。隠居して上様のおわす水戸にでも行くか」
「親分、それじゃお江戸の火事は誰が仕切るんですかい」
「自分で火ィつけたんだ。あの西郷隆盛とかいうのがやるんじゃねえのか」
「あんなイモに務まるもんか、ベラボーめ」

 辰五郎が言った通り、明治とともに江戸という地名は無くなってしまうのである。
 辰五郎自身は慶喜の駿府への移封についていきその地で数年を過ごす。慶喜が江戸から駿府に移動する際には既に旧幕臣の組織だった行動はできなくなっており、それはあんまりだと辰五郎が音頭を取り江戸中の町火消が装備を纏って数千人の大名行列をしつらえて出立した。町火消全組の纏が振り投げられたという。辰五郎は最後は東京に戻り明治8年に没。

 輪王寺宮公現法親王は、江戸市中を転々とした後、いかなる伝手を頼ったか品川沖に錨を下ろしていた榎本武揚の旧幕府艦隊と共に北上、会津入りする。奥羽列藩同盟の錦の御旗になる可能性があったが、利有らずして投降し京都で謹慎させられる。
 維新後には北白川宮能久親王となり、ドイツに留学し陸軍軍人の道を進む。最後は台湾でマラリアにかかり亡くなる。この宮様のお屋敷は赤坂プリンスの旧館で、現在同じ場所で整備され案内版には『朝鮮王族の、李王垠殿下の邸宅』と書かれていたがその前は北白川宮邸だった。筆者はそのまん前の中学に通っていたが、現在よりも道路側にあったことを記憶している。
 渋沢成一朗は上野のドンパチが始まったと聞いて参戦しようとしたが、戦闘がたったの一日で終わってしまったため多摩郡田無で地団駄を踏むことになる。その後残存部隊も合流したため、旧一橋領である埼玉の飯能で一戦交えるがあっけなく敗ける。その後、転々とし辛くもこれまた榎本艦隊に乗り込み、こちらは函館まで行く。従って輪王寺宮とも、函館では土方俊三とも会っている。
 函館では再結成された彰義隊の隊長だったが、何故か降伏前に離脱して潜伏している所を捕まる。彰義隊の再分裂が原因らしい。その後、従妹の渋沢栄一の勧めで官吏になり財界でも活躍する。今放送中の大河ドラマ『晴天を衝く』の渋沢喜八である。
 最後に天野八郎であるが、一度は約百人程の彰義隊士とともに護国寺に集結するが、協議して解散、各々潜伏することにした。一部は渋沢に合流する。天野は隅田川沿いの炭屋に潜んでいる所を捕縛された(先に掴まった彰義隊士から密告されたという説がある)。そして小伝馬町の牢屋敷で獄死する(これも暗殺説がある)。
 猪突一本、直情径行の士だったのだが指導力や人望には欠けていたのかもしれない。

 彰義隊はその後タブー扱いされ取り上げられることも無くなったが、江戸っ子の口伝には長く残った。明治中期になってから、五世尾上菊五郎が新富座の演目に取り上げると大変な人気を呼び、陸軍少将に昇進していた北白川宮能久親王(輪王寺宮公現法親王)も軍服を脱いでお忍びで観劇している。
 筆者は神田淡路町の生まれだが、子供時代のチャンバラごっこのイイモノは彰義隊だった。ただしチビの筆者は「将棋隊」だと思っていた。
そして上述の、前の晩に会津の旗を掲げた一団の武士が裏切った、という話は淡路町から秋葉原・広小路辺りでは都市伝説になっていて、ガキを相手に講釈するヒマなオッサンは実在していた。しかし、それを証明する文書にお名に罹ったことはない。上野が燃えると炎がアオい(グリーン)とも伝わっている。

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不自由の勧め オリンピックが見たい

2021 JUN 26 0:00:34 am by 西牟呂 憲

 高校時代に読んだエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を思い出してみた。その本はもう手元には無いが、確か第一次世界大戦でコテンパンにやられたドイツ国民が一気に孤独や責任を自覚することなく『自由』になってしまい、個人の幸福を求めたがために後のナチズムへの傾倒を生んだ、といった内容が頭の片隅に残っている。
 なんでそんな記憶が甦ったかと言うと、1980年代のアメリカを震撼させた連続爆弾事件を起こしたユナボマーことセオドア・カジンスキーのことを調べていた時に、彼が『テクノロジーは人間を満たされないものにしてしまう。真の自由のため機械文明は破壊されなければならず、その後に人間は野生にかえるべきだ』と記述していることを知って、古い記憶に再会したのだ。
 セオドア・カジンスキーは数学の天才で、それはそれで面白い話なのだが本稿のお題ではない。因みに最近はこういった匿名性の高い連続犯罪を研究している。ゾディアック事件とか。
 で、『自由からの逃走』の話に戻るのだが、読んだ当時はチャランポランの塊のように何にも打ち込まずに暮らしていて不安に苛まれていたから、題名に惹かれて読んだのだった。
 前置きが長くなったが、その自由なる概念は束縛・規制からの解放というのが一般的だ。だが『自由』なる単語は江戸期には使われていなかったそうだ。明治期に西洋文明を受け入れるに当たり、フリーダム及びリバティに対する適当な訳語がなく、仏教語で自ら立つことを指す『自由』を当てたらしい。それまでは『思うがまま』とか言っていたとか。
 そして仏教語の自由とは、仏教学者の鈴木大拙によれば、自ずと本質が湧き上がって来ることを言い『松は竹にならず竹は松にならず、松は松として竹は竹として、自分が主人となって働くから、これが自由である』となる。福沢諭吉の言う『独立自尊』のようなものか。
 この解釈、非常に示唆的に腑に落ちた。
 と言うのも、近い将来のAIが生活の根幹をなす時代になった時点では、様々なことが合理的にAIの判断を仰ぐ或いは決定を委ねると予想しているからである。そのような社会のストレスは目下の知見では予想不可能だが、個人的にはイスラム教・キリスト教の一神教の社会の方が強く出るのではないかと見ている。AIは宗教的戒律を無視するからだ。
 その点、我が国は八百万の神様が至る所にいるから『あーそうか、AIさんの言うことはこっちの神様の言ってることと同じか』ですむ。
 自由という概念に対して、強烈な一神教の文化と東洋の文化では捉え方が違って当然だ。ここにヒンドゥー教を入れるとややこしくなるのでちょっと度外視する。
 AI時代でデジタル化が進み個人の自由が規制を受けた場合、社会のストレスがどう出るか、どう人々が対処するか。例えば一党独裁の中国は厳しい監視社会であるが、現地で法人を経営した経験から言うと、庶民感覚ではお上を胡麻化すことに必死だ。特に納税意識の低さには呆れるばかりだった。大体中国人の拝金主義と公徳心の無さ、更にキツい言葉を使うが残虐さは筋金入りで、これが儒教の国なのか、ひょっとしたらあんまり一般がひどいので孔子様が論語を唱えたが存命中は誰にも相手にされなかったのが実態ではないかと思える。
 また、ロシアは今では選挙もやっているが、一般のロシア人は政治家は元々悪い奴がやるものだと考えている。そう言ってはプーチンの悪口を言い募るのだが、投票ではプーチンに入れてしまう。『プーチンは悪いと言ったのになぜみんな投票してしまうのだ』と聞いた返事が面白かった。『プーチンに入れておかなければもっと悪い奴が出て来る。そしてそれでもものすごく悪い奴よりはいい』
 おまけにマフィアの夥しい犯罪もさることながら、国家が先頭に立ってガンガン”暗殺”をしているではないか。ただし、現地にいるとマフィアもGPUも視界に入ってくることはない。かつてのKGBの中佐クラスが交通の取り締まりをやっていると聞いた。
 この両国は宗教的には極めて緩く(ロシア正教は一般社会への影響は少ない)エマニエル・トッドの唱えた外婚制共同体家族(息子はすべて親元に残り、大家族を作る。親は子に対し権威的であり、兄弟は平等である社会)であり、実は共産主義との親和性が高い。
 こういう社会はAIが決定したことに対して、反射的にどうごまかすかを考えだすのでかえってストレスにならないと思われる。どちらも国民が全員暗い顔をしているわけではなかった。
 そして日本であるが、一般的に日本人はガバナビリティが高いと言われてはいる。一方で同調圧力が強いとも指摘される。SNSにおけるヘイト・スピーチ等のいじめ・嫌がらせはその悪い面が出た。こういうのは規制されてしかるべきだが、それに対するヒステリックな反対はない。この繰り返される緊急事態制限に対しても特にパニックになったりせず、落ち着いた対応ができているではないか。野党とマスコミは悲惨な報道を好むものの、それによって政局になったりはしていない。
 それに対してヤバいのは、アメリカで言えば共和党を支持する宗教右派という人達、或いはカトリック、イスラム原理主義者といった社会は、潜在的に強い反発力を持っているため暴力的になる可能性を秘めている。
 この1年、決め手のない『緊急事態宣言』の元、暴動を起こす訳でもなく、遅れ気味のワクチン接種に黙々と並ぶ。亡くなった方々の冥福を祈り、闘病中の人の身を案ずるの当然。しかし日本人、この程度でよく抑えていると言わざるを得ない。
 『基準を明確にして欲しい』『ワクチンが回らない』『もう我慢の限界です』『店をやっていけません』『いつになったら』気持ちはわかるが少し黙っててくれ。専門家は頼りにならないし、誰もどうなるのか分からないのが実情だろう。責任を取りたくないから安全係数の高い物言いになり、そしてこう言った声に対して、自粛警察がツベコベ言う。これが良くも悪くも八百万システムなのかとも思う。
 そして話が元にもどるが、この厄災によって奪われる自由(生活の困窮は困るが)に対するストレスは連続爆弾事件のユナボマーを生むには至らない。あと、どのくらいかかるかは不明だが、この程度の不自由は返って弛緩した大衆を引き締める。いまさらウロウロして街頭インタヴューに応じる輩が政府の悪口なぞもっての外、自分の身は自分で守れ。厄災には忍耐しかない。

 で、突然話が飛ぶが、東京オリンピックは無観客でやる方がいいに決まってる。実際に抽選に当たった人以外はテレビで勝手に盛り上がるのだから。何しろセッセと日本中から観戦しに集まるのはマズい。何なら『緊急事態宣言』を出したままでやればいい。下手に緩めりゃどうせ感染は拡大する。いっそ期間中に限り、法的には難しいロック・ダウンをやったっていいとさえ思う。
 ここで『人の命を犠牲にしてまで』といったエキセントリックな話はチョット横に置いて、総合的に考えてオリンピックはやるべきだと考えている。そして、選手も応援する人も、不自由を甘受してやればそれこそ日本にしかできないオリンピックになる。そうでなければ強権によって封じ込めた北京の冬のオリンピックが、コロナ後の最初のオリンピックになってしまう。メジャーを見ろ、テニスの国際大会を見ろ。
 そりゃあオリンピックをやれば水際で防ごうがワクチンを打とうが感染者は出る、増えるに決まっている。だが、国際的にみてもどの先進国よりも感染の低い日本なのだ。ワクチン接種の遅れは明らかに政府の対応の悪さだが、ここからが勝負だと私は思うんだが。

 蛇足ながら、この厄災はワクチンを2度打っておしまいにはならない。5波6波、年が明けても気を付けて暮らさなければならないのだ。一部の業種の人には気の毒だが元に戻ることはない。毎年変異株に怯える状況が続く。中国だって油断はできないぞ。
 更に蛇足であるが、ここまで書いてきて非常事態宣言が終わった時点の弛緩振りにあきれた。同時に某知事は過労により入院・静養。
 僕は二つの感想を持った。一つはこの人は真のリーダーではなかった。通常このテのストレスに対しては女性の方が強いはずだと思っていたのだが、潰れてしまったのか。もう一つは、この人の場合、どのタイミングで倒れて見せて、いつ復活するのが選挙に有利なジャンヌ・ダルクを演じられるか、を計算しているように見えてしょうがない(失礼!個人の意見です)。
 ここまで書いて投稿しようとしたところ、驚くべきニュースが飛び込んできた。宮内庁長官が『拝察する』という言葉を付けつつも陛下のご懸念の内容をバラしてしまった。コイツ二重の意味でクビだ。まず、陛下のご懸念の内容を政治的に微妙な時期に喋った。次に、万が一開催ができなくなった時に、陛下が介入された、と受け取られかねない。従ってそうならないために『絶対にやらざるを得ない』状況に追い込んだ。ひょっとしたらオリンピック推進派の菅総理から工作を受けてたんじゃないか。コイツ例の小室文書の時もマヌケなコメントをしたバカだからもう終わりだね。

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27日追記

 お墓参りに行ってきました。
 紫陽花の二色活けです。
 大きな声では言えませんが、この季節は菩提寺の裏手にたくさん咲いているのではじっこを少しばかり分けてもらってます。

 山門の直ぐ前の所を
 おお!堂々の聖火ラン!
 御先祖様見たかな。

実録 三方ヶ原の戦い

2021 JUN 20 0:00:08 am by 西牟呂 憲

 越後の虎と言われ、生涯敗けなしの猛将・上杉謙信は一向一揆と対峙しながらイライラしていた。武田軍が躑躅ヶ碕の館から出て韮崎・小渕沢に動いたという報告が上がってきたのだ。ここで背後を突かれてはひとたまりもない。
 一方、浅井・朝倉連合軍と睨み合っていた織田信長も背中に汗が流れる思いで同じ知らせを聞いた。東美濃で国境を接してから、懐柔しようにも遜ろうにも硬軟自在の信玄には通じない。正直ホトホト手を焼いていた。そこへもってきて盟友の徳川家康が武田と小競り合いを始めてしまったことに気を揉んでいたところだ。
 そしてその家康、ここ浜松城は元はと言えば今川領である。謂わば旧敵地にヘリコプターで舞い降りたようなもの。しかも旧今川の本拠であった駿府は武田領となった。浜松と駿府の地侍はツーツーである。もし本気で信玄が攻め上ってきたらばどうなるか分かったものではない。おっとり刀で信長に応援を要請したのだが、信長が援軍として寄越したのはたったの3千人。
 追い打ちをかけるように新たな情報がもたらされた。武田の別動隊が甲府を出陣し南下し始めたというのだ。信玄得意の攪乱作戦に違いない。
 越後でも謙信が声を荒げていた。
「一体、信玄入道はいずこにある。甲府か!諏訪か!」
 無理もない。正面で4回対決した川中島でも陽動作戦には悩まされ続け、終いには単騎突撃するに至ったこともある。おまけに謙信が陣を払った後は、様々な調略によりかの地の国衆を傘下に納めてしまうのだ。

 突如、東美濃に武田方の秋山虎繁が2千5百の兵を率いて現れ、猛将・山県昌景が東三河に南下し、破竹の勢いで信長の六男御坊丸のいる岩村城を取り囲んだ。天兵が舞い降りたような早業に、調略を受けた岩村城はあっけなく開城してしまう。
 肝を冷やしたのは信長で、上杉謙信は胸を撫で下ろし、家康はパニックになった。信玄の本隊は後発の部隊だと分かったからだ。その本隊は駿河と遠江の境を超えて来る。
 浜松城には自分の兵8千と信長の援軍3千人がいる。籠城するか、迎え撃つか。武田軍の騎馬隊の強さは天下に知れ渡っている。当時の平均的編成は足軽7~8人に馬1頭だが、目の前の武田軍は総勢2万5千が1万頭の軍馬を引き連れており、その騎馬武者が独特の長槍を携え、猛烈な勢いで突進してくれば止めるのは不可能だ。
 家康は籠城に傾いたのだが、そうも言っていられなくなった。近隣の地侍が先を争って信玄になびき出したのである。我慢できなくなり、3千の兵を連れて威力偵察に出た。
 天竜川を渡り、一言坂の下から本多忠勝に5百ほどの兵を付けて先発させた。本多隊が坂を上りきって視界から消えたと思った途端、その忠勝を先頭に息せき切って駆け戻って来る。
「殿!大変です!武田の兵は我等を取り囲んでおります」
「なに!いかほどの数か」
「およそ1万。信玄率いる本隊です」
「そんなバカな。音もなく大軍が降って湧いたとでも申すか」
「とのー、あれを」
 指差した先には真っ赤な武者備えの大人数がヒタヒタと駆け下りて来るではないか、ホラ貝も吹かず鬨の声もあげずに、である。
「殿!お下知を」
「ターケ(たわけ)!逃げるんじゃー」
 3千人の総退却である。指揮もヘチマもない。灰神楽をひっくり返したように砂塵が舞い怒声が上がる。兎にも角にも馬に乗った家康を先頭に逃げに逃げた。本多忠勝は殿になり駆けに駆けた。見付(現在の磐田市)の集落にたどり着いて一息入れようとすると、なぜかそこには赤備えの騎馬隊がいるではないか。一体いつ先回りしたのか。
「一斉に放てー!」
 苦し紛れに家康は鉄砲を撃ちかけ火を放った。自分の領地を焼くのである。もはや作戦もクソもない。3千人はまだ戦もしていないのに敗残兵のように大火事の中を逃げる。天竜川が見えてきたが、一同目を見張った。何とそこにも騎馬隊がズラリと並んでいたのだった。
「もはや、これまでか。信玄恐るべし」
 家康は覚悟を決めた。と、その時、殿だった本多忠勝が飛ぶように駆け込んだ。鉄砲隊を連れての決死の突撃だった。本多忠勝は家康の側近中の側近。好んで危険な戦闘に飛び込むのだが、生涯かすり傷一つ負わなかった剛の者である。手には天下の三名槍と後に称えられる二丈余(約6m)の蜻蛉切りを携えていた。穂先に止まったとんぼが真っ二つになったのが名前の由来である。
「とのー!ごめーんん!」
 叫びながらの突撃にさすがの騎馬隊も割れ、家康は九死に一生を得たのだった。
 しかしこの遭遇は単なる脅し程度のもので、信玄本隊は二俣城に軍を向ける。

 浜松城での軍議は寂として誰も声を発しない。かろうじて家康が絞り出すように言った。
「信玄は妖術でも使うのか。あの騎馬武者は音も立てずに我等を追い抜いたとでも言うのか」
「おそらくは我等の動きを読んで先に迂回させていたかと」
「しからばなぜ一言坂に行くことが知れた。裏切り者でもいるのか」
「あれは確か殿とそれがしのみで謀ったことにござる」
「ともかくあんなのとまともに戦ったら勝ち目はない。籠城するぞ」
「敵は我が領地の庭先を悠々と二股に向っており候。遠江の地侍は雪崩を打って武田に馳せ参じております」
「ケッ、腰抜け共め。武田を片付けたら目にモノ見せてくれるわ」
 そこへ物見の武者が駆け込んできて庭先に平伏した。
「申し上げます。二股の城が落ちましてござる」
「なにー!あの堅固な城をか」
「いかだを組んで水を切られ候」
「ふうむ・・・・。服部半蔵いずこにある」
 家康が突然大声を上げた。
「庭先にて御座候」
「近う」
 半蔵が縁側のところまで進むと家康はわざわざ立ち上がって近づいていき、半蔵の耳元で何かをささやいた。諸将は家康が迷っていることを悟った。半蔵を呼ぶのは迷った時のいつもの癖である。それもそのはずで、このまま籠城している間に三河に進軍されれば岡崎の息子信康はひとたまりもない上に信長との同盟が破綻してしまうかもしれないからだ。
 旧暦の師走は日暮れも早い。軍装を解かぬまま夕餉を書き込んでいる所に半蔵が帰ってきた。
「殿、服部半蔵おん前に」
「おう、どうじゃった」
「武田は奥三河に向う、とのこと」
「なんじゃとう」
「放っていた草はみなそう聞き、それがしも確認して候」
「こちらへ向かわず我が庭先に進軍するとは。岡崎の信康を潰して岩村より信長様の背後を突く」
「こうしてはおれぬ。殿、打って出ましょうぞ」
 大声で立ち上がったのは鬼のような形相の本多忠勝だった。

 三方ヶ原は東西10km南北15kmの広さで標高差は80mもある洪積台地。浜松からは見上げる形で2万8千の武田軍が整然と移動しているのが見えた。家康の手勢は信長の援軍をいれても1万程度。しかも出だしでこっぴどくやられているので、家康は鬨の声が上げられなかった。
 しかしついていくように軍を進めている内、まるで敵を追い詰めているような気分が高揚してしまい、先方の部隊が武田の殿に礫を投げ掛け始めた。すると武田側からも印打ち(円盤状の石)を掛けて来る。しかし行軍はそのまま粛々と進むので、家康の先鋒千人ほどがつい深入りした、その瞬間に全軍がピタリと動きを止め向きを変えると鉄砲隊が構えた。
 第一撃で前面がやられてもすぐには踏み止まれない。そこへいきなり50騎一組の塊で、次々と突進してきた。しかも例の長槍を携えている。ホラ貝の音も『突っ込め』の声もワーッといった歓声もない無言の突撃だ。家康も仰天するとともに先日の騎馬隊に追われた恐怖がまざまざと蘇った。
 叫び声を上げて次々に突かれ騎馬に踏み倒されていくのは家康の兵ばかりである。迎撃戦は破られ総崩れとなりかける。ただ一か所、家康軍左翼で本多忠勝隊のみ奮戦をしていた。あまりの攻撃の苛烈さについにもちこたえられず家康が下知した。
「引け―!浜松まで引くのじゃー」
 踵を返して近習と共にひたすら逃げに逃げた。しかしこっちが必死に駆けて居るのに武田菱の馬印の騎馬隊は後ろから迫るかと思いきや、天竜川の時のように向かう先に轡を並べていたり.終いには逃げる家康と成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛のわずか5人になったすぐ横を並走していた。這う這うの体で浜松に帰り着いた時は切腹まで覚悟した。

 家康は破れかぶれになり、全ての城門を開いて篝火を焚き、湯漬けを食べて寝た。猛将山県昌景が浜松に突入してきたが、空城の計(敵をおびき寄せるたのの策略)と勘違いしてそのまま引き上げた。
 一方、圧倒的に勝利した武田軍の陣中は勝ちに乗ずるかと思いきやさにあらず。
 実は信玄の病は既に手の付けられないほど進行していた。信玄の喋っている言葉が良く聞き取れないのだ。にもかかわらずあの整然とした戦を軍配一つで指揮できるのは武田軍団の日頃の鍛錬の賜物ではある。信玄は歯が全て抜け落ち、口の中にできものができていた。髪は剃髪していたので分からないが、もう無かった。幽鬼のような姿に成り果てて輿に乗るのがやっとだったのを、ここまで押して来たのだ。
 いよいよ危なくなってきた。勝頼と側近数名を呼び寄せてかすれる声で告げたのだった。
「我が死を3年秘匿し、ひたすら兵馬を養え」
 そして勝頼の名を上げて密かに伝えた。
「越後を頼る事」
 信玄は勝って病に伏し、宿命のライバルの名を上げて戦に明け暮れた生涯を終えた。
 家康はこの敗北を恥じ、その後の生涯に渡って同じ負けの轍を踏まぬように戦い続けた。負けて生き残り後に天下に覇を唱えることになる。そしてその前に、信長・秀吉の天下統一もまた無かったに違いない。
 あまりにも鮮やかな運命の天秤だった。

 なお「しかみ像」に関して、家康がこの敗戦の時の姿を模写させたと伝わるが、最近の研究では否定されている。

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フェリペ二世と太閤秀吉

2021 JUN 13 0:00:54 am by 西牟呂 憲

 スペイン・ハプスブルグ家の当主として太陽の沈まない帝国を作りあげ君臨したフェリペ二世は熱烈なカトリックの信者で、宗教革命後のカトリックの盟主を自任していた。その強烈な信仰心は、フランスにおいてセント・バーソロミューのプロテスタント虐殺を聞いて生まれて初めて笑ったと伝えられる。
 この話には続きがあって、その後は二度と笑わなかったとか、恐ろしい人物である。
 加えて新大陸で味をしめたのか成功体験として頭に刻まれたか、布教と領土的野心をワンセットにしての侵略を隠そうともしない。何しろこの人の名前をとってフィリピンがフィリピンという名前になった位だ。その勢いで南蛮貿易商人とイエスス会がペアで日本に押し寄せていた。
 信長はうまい具合に利用していたが本能寺に倒れる。後を取った秀吉にも盛んに接近し、大陸侵攻をけしかける。そこまでは良かった。重商主義的な政策をとる秀吉はあるときに気が付いた。自分で貿易できる毛利や島津はいいとして、見返りになる鉱山や産品のない大名の中には改宗してキリシタン大名に化け貿易の旨味にありつこうとする者がいることを。更にスペインは日本人を奴隷として売り飛ばしていることに激怒する。ご存じだろうが鎖国と禁教令の前に宣教師の追放を発したのは秀吉である。
 そこから劇的なことになる。フェリペ二世と秀吉が同時に死んでしまう。同じ1598年の9月13日がフフェリペ二世、5日後の9月18日が秀吉の命日だ。筆者はこういった日付を並べるのが趣味で楽しんでいるうちにこの事実を知った。
 その前にオランダが独立戦争をしかけたり、アルマダの海戦に敗北するなどスペインの黄金時代が終わりを告げる。一方で半島への進出が失敗に終わり秀吉も落ち目になってきた頃だった。
 世界史は大航海時代の主役がオランダに取って代わられ、関ヶ原の戦いに家康が勝利する。勃興するオランダと家康が結びつくのは時代の流れに沿っていた。
 歴史は繰り返す。その270年後にフランスが幕府と結びつき、英国が薩摩に肩入れしたのと同じだ。スペイン・ポルトガルからオランダへ主役が変わるタイミングで、徳川家康は偶然流れ着いた英国人ウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンを召し抱える。前者は三浦按針となり、後者の屋敷跡の地名は名前がなまった八重洲である。そして後ろ盾のオランダはスペインのようなカトリックではないため、布教には興味がないことを吹き込んだに違いない。
 結局のところ関ケ原以降は大阪・スペインVS江戸・オランダの代理戦争になり、家康=オランダ同盟が最終的に勝ったことになる。オランダは当時スペインが独占していた南アメリカ産の銀に対抗できる(当時アジア最大の銀の産出国だった)日本との貿易を手にしてメチャクチャに儲けた。
 極東の日本もある意味大航海時代のフロントにあったことになる。

 ついで話を二つ程。ひとつは、関ヶ原・大阪夏の陣でひとまず戦国時代が終わったのだが、その時点での負け組はどうなったかという話。この時代、土着の地侍以外に武器を携えて渡り歩いている浪人は大勢いて、俗に『兵を挙げる』は『一戦やるから来る奴はいないか』のこと。要するに一人傭兵みたいな者がウジャウジャいた。大坂の陣の際の豊臣方は関ヶ原の負け組の巣窟だった。そういう輩は物心ついてからというものズーッと戦争ばかりで他に能がない。あの宮本武蔵でさえその中にいたようなものだ。
 負けておとなしく帰農するといっても土地はない、商いをするにも知識も経験もない、戦争以外には使い物にならない。
 どうもオランダ組はそこにビジネス・チャンスを見つけたのではないか。鎖国以前は家康も朱印船貿易でたんまり儲けていたし東南アジアに日本人町がいくつもあった。オランダ東インド会社は一方で勃興する次のライバルイギリスや土着の勢力とも争わなければならない。
 ここで需要と供給が一致したため、オランダはこれを商売にしようと考えたのが日本人傭兵部隊、すなわち給料を貰って戦う外人部隊だった。有名なのはシャムのアユタヤで活躍した山田長政である。マニラにもジャワにもインドのゴアにさえ数百人規模の傭兵部隊がいて、暴れまわった。
 恐らく当時の鉄砲保有数世界一で、海では倭寇が暴れ回り、生まれてから戦い続きの荒くれ集団だ。強いことは強い。しかし、待遇が悪いと反乱を起こすなど扱いづらい奴等、という評判だったらしい。
 もう一つ、鎖国に至った経緯について。キリスト教の禁教とセットで教えられるのだが、筆者は違う見方をしている。
 当時大陸では明が女真族の清に圧迫されていた。北京を占領して大清帝国になるのはもう少し後だが、万里の長城を超えるのは時間の問題となっていた。それに加えて特に四川省あたりは大飢饉に見舞われていたのだ。当然の事のように流民が発生し一部は国外に逃げ出し始めていたのだ。
 今日の東南アジアの中国系は清の弁髪例を嫌って海を越えて来た福建系や広東系が多い。そういった移民の流入は日本にも押し寄せていたに違いなく、その人数が当時の経済規模からいって許容範囲を超えそうな勢いだったのではないか。
 長崎には鎖国期でさえ商用の華人は1万人以上居住していたし、国姓爺合戦の鄭成功は五島の日本人女性「田川」を娶っている。倭寇で散々暴れに行ったのだから向こうが混乱に陥ればその反対もあるだろう、という仮説なのだがいかがなものだろう。
 そして貿易の旨味を独占しておかなければ西南雄藩、すなわちもともと密貿易に長けていた島津・毛利といった外様に儲けを持っていかれる。これが鎖国令の裏の意味ではないか。
 人口動態調査を探したが、いいウラは取れなかった
 いずれにせよ提題の二人はいい時代の終わりに死んだのだ。

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高志国(こしのくに)考

2021 JUN 6 0:00:20 am by 西牟呂 憲

 筆者は出雲の歴史を研究し、オリジナル出雲族である大国主命が天孫族に攻め滅ぼされ、国譲りという神話を残しその一族はいずこかへ散っていったと考えている。はっきりしているのは大国主命の息子である。建御名方神が糸魚川に沿って南下し諏訪にたどり着いている。また、海岸線を伝って日本海を北上するルートも検証してみると、高志国がキーワードとして浮かび上がってきた。
 高志=越国は越前・越中・越後と広いが、このエリアと出雲は古来密接なつながりが有ったはずだ。そもそも須佐之男命が出雲にやってきて八岐大蛇を退治した神話からして、そのオロチは高志の国から毎年やって来ていたのである。
 それだけではなく、出雲市には古志町という地名が残っていたり、隣の松江市にも松江市古志町・松江市古志原と言った場所があり、往来の盛んであったことが偲ばれる。
 ちなみに新潟では地震の被害が報じられた山古志村がちゃんとある。
 時代が下って出雲風土記が編纂された時は国引き神話の記述があるが、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、「志羅紀」「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)「古志」という四つの国の地面を引っ張ってきたとされている。人々が大いに入植したことの例えなのだろう。北門佐岐、北門農波は分からないが新羅と越は明らかだ。
 古代の航海技術がどれほどのものか詳しくはないが、環日本海の物流・人流があって、時に対立・侵略しながら付き合っていたはずである。アイヌ系はあまり海洋民族のイメージがないが、満州族は後年にいたって刀伊の入寇といった3000人規模の襲撃を仕掛けて来た。
 大国主命も高志国まで行って沼河比売(ぬなかわひめ)に妻問いして建御名方神(たけみなかたのかみ)をもうけたりしているが、この場合明らかに侵略だろう。
 この高志エリアは古来から豊であったことだろう。大国主命の時代にどの程度稲作が普及していたかは知らないが現在でも米所であり海の幸にも恵まれている。当時は翡翠を産し、GDPも高かったと思う。従って力を持つ者が出て来る。
 例えば継体天皇は即位後20年近くこのエリアにいた。越前の朝倉は信長を追い詰める所までに至った。戦国時代は個別戦闘でほぼ無敗の上杉謙信が出る。ただ、あまりに雪深いため、冬季の移動が困難だったので天下に覇を唱えるには至らない。逆に言えば逃げ込むには都合がいい場所だという事だ。
 先程、高志の地名をたどってみたが、その逆はないのか。国譲り後に大国主命一族が落ち延びた痕跡が辿れるのではないだろうか。そう思って地名で検索すると、あった。
 まず金沢市に出雲町があり、その名も出雲神社なるお宮が5つもある。
 隣の富山県小矢部市にもやや小振りながら出雲社が見つかった。
 次の新潟に入ると糸魚川市では例の翡翠が採れた地域だから、逃げ込むというよりは沼河比売(ぬなかわひめ)へ妻問いしに遠征したかと思料する。奴奈川神社がある。
 新潟は実は結構な数が見つかったのだがもう一つ挙げるとすれば出雲崎だろう。新潟と柏崎の真ん中あたりの出雲崎町は良寛さんの故郷で知られるが、出雲臣の一族が往来したとの伝えが残る石井神社が出雲大神(大国主神)を祭っている。
 高志=越の国はここまでだが、ついでにもう少し北上してみる。
 山形県では内陸の寒河江市に出雲太神社というのがあって、面白いことに『いずもおおかみしゃ』と読むそうだ。本命かと考えていた酒田市には大国主命を祭っている神社はあるが社名は地味なものだった。
 更に秋田まで行くと最南端のにかほ(ひらがな表記)市に大国主命を祭る出雲神社があるが詳しいことは分からない。大国主命がやられた直後の一族・重臣といった第一次出雲難民の脱出先は、どうやらこの辺りが北限と思われる。
 筆者としては、松江の宍道湖と同じ汽水湖(海と繋がっている)であった八郎潟あたりがポイントかと想像したが有力な痕跡は見つけられず、『出雲』で検索に引っかかって来るのは出雲大社教(いずもおおやしろきょう)という明治以降に組織化された宗教法人だけであった。出雲大社教とは明治時代に伊勢派が主流を占める国家神道から出雲派が分離した神道系新宗教(教派神道)のことである。
 もう一つ出雲教というのがあって、室町時代に千家から分かれた北島家によって創設された教団で、出雲大社に向って右側にある北島国造館が本部である。尚、千家と北島家は今日でも出雲国造を名乗っている。
 話がそれたが、出雲神社と言う名称で絞り込むと以上の例が検索できたが、祭神が大国主命(或いは別名であると大穴牟遅神(おおあなむぢ-)・大己貴命(おおなむち-)・大穴持命(おおあなもち)-大物主神(おおものぬし-))である神社はそれこそ数えきれないくらいあった。特に北限と想定した秋田県南部を更に北上した青森県に多い。
 筆者の仮説ではこれらは第一次出雲難民の次世代以降の人々が移動した先にゆかりの祭神を祭ったのではないかと考えている。
 さて、出雲難民が北上していった先は、その時代が下ると蝦夷(えみし)の国として中央と対立することになる。古くは武内宿禰から、坂上田村麻呂やら八幡太郎義家が散々攻撃して最後は中央に従うのだが、最後の最後まで抵抗した荒蝦夷(あらえみし)が立てこもったのは現在の弘前城のあるあたりである。作家の佐藤愛子や今東光のルーツで、何やらお上に従わない反骨の気質が覗える。蝦夷とはアイヌ系・オロチョン系といった北方民族の別称ともされるが、その構成の中に出雲系もあるのではないだろうか。
  筆者の想像は膨らむのである。是非、フィールド・ワークに行ってみたいと思う所以である。

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婆沙羅競べ

2021 JUN 1 0:00:40 am by 西牟呂 憲

 南北朝の相克は、後醍醐天皇亡き後も足利尊氏から二代将軍義詮になってもなお果てしなく続くようであった。後醍醐天皇の魔性、足利尊氏・直義兄弟の争い、北畠顕家の剛直、高師宣・師奏兄弟の狼藉、楠一族の死闘、と筆舌に尽くせぬ人間模様が織りなす奇々怪々が、末法の世にはびこったからである。
 京都に押し寄せる軍勢は、元は足利幕府の管領であった細川相模守清氏に率いられた南朝軍であり、先陣として乗り込んできたのは大楠公・楠正成の三男、正儀であった。、四條畷の戦いで、長兄正行・次兄正時が高師直に敗れ討死したため楠軍の総大将となっていた。
 追って入京してきた細川清氏は明らかに度を失っていて、室町の幕府屋形に攻め入りもぬけの空であったことに怒り狂い火を放った。略奪する物が何もなかったからである。
 清氏の怒りも、元はと言えば政敵となった佐々木道誉に謀反の噂を立てられたせいで幕府における地位を失墜させられたからであり、詮なきものではない。しかしこの時期、転じて北朝南朝のいずれかに宗旨替えすれば、両朝天皇の名の元にいくらでも大義名分がたってしまう。何しろ足利兄弟ですらことあるごとに宗旨替えをしたくらいである。
 二代将軍義詮は、後光厳天皇を擁して近江に落ち延びた。
 楠正儀は、京極にあった幕府の要人佐々木道誉の屋敷に向った。すると遁世者とおぼしき僧形の姿があり静かに言上するのであった。
「楠左兵衛督(さひょうえふ)様とお見受けいたし候。屋敷の主、道誉禅師申しまするに必ずや楠左兵衛督様おいでの際はこれにて一献さしあげるべしと申しおかれ候。案内(あない)仕りますゆえこちらへ」
 正儀も面食らったが、馬を下り従って進むうちに更に仰天した。畳が敷き詰められ(この時代板張りが普通)、花瓶・香炉・盆に至るまで贅を尽くした物が整えられている。寝所には沈香の枕に緞子の寝具が敷いてあった。次に十二間の侍所に行くと山海の珍味が山と準備されており、三石入りの大筒に美酒が満々と蓄えられていた。書院に案内され、書聖・王義之の偈、韓愈の文集が古渡りの硯とともに揃えられるに至っては三嘆せざるを得なかった。
 王義之は東晋の書家であるが日本には奈良時代の鑑真和上によりそのコピーが入ったと言われる。コピーとは真筆の上に薄紙を乗せて輪郭を取り、それを丹念に塗り潰したもので、今日日本にはそれすら2点残されるのみである。実際の真筆は世界に一つも伝わってはいない。韓愈は唐代の高級官僚で、詩人の白楽天と並び称された文章家である。
 やって来た細川清氏が『佐々木の屋敷など焼き払え』と吠えたが、正儀はそれを制した。さすがの正儀も唸るしかなかったのだ。

 時は4日程遡る。前線を破られた幕府軍は都からの離脱を決め、御所でも室町でもそれぞれの御物・宝物・武具を積み込む作業で大童である。ガラガラと荷駄が動き回り埃を巻き上げ、怒号が飛び交っていたいた。何しろ御所と幕府政所が一緒に引っ越すのだ。女房達の衣装・化粧道具だけでも山のような荷物となる。京極にある佐々木館でも同じような喧噪の中、主である佐々木道誉は一人の遁世者を連れて帰って来た。そしてその様子を見て大音声を発した。
「たわけー!オサマレーッ」
 そして振り返ると後ろの遁世者に向って言った。
「まったくあさましいこと夥しく恥じ入る次第で。われらは武装してこれより都落ち候。手筈の通りに宜しく申し上げる」
 遁世者は頷くと上述のような常識外れの出迎えの準備にかかったのだ。

 京の都は攻めるのに易く守るのに難い。七口の全てを固めるには南朝方の勢いがどうであろうと兵力がたりない。この時期に南朝が攻め入ったこと四たびに及ぶが、体制定まらぬがゆえに敵中に孤立するばかりで兵站が続かない。果たして今次もすぐに撤退することとなった。
 正儀は逗留中にこの度肝を抜くような気配りにいたく感じ入り、郎党共に飲み食いは許したが調度品の一切に手を付けさせなかった。
 しばし刮目して何かを思案していた。フト目を開けると、自分を出迎えた遁世者が庭先に佇んで自分を見つめている。正儀はニコリともしないでその者を手招きした。
「御坊、ずっとこの屋敷におったのか」
「入道様が行く末しかと見届けよと申されましたゆえ。左兵衛督様のお振るまい、誠に雅であること伝えんがためここに御座候」
「丁度よい。そこもとに願いの義これあり。これより我等は立去るが、道誉入道が揃えし物に倍する馳走を盛り上げてくれぬか」
「あっぱれな武者振り、心得て候」
「奥に設えしは秘蔵の鐙と白幅輪太刀(しろぶくりんのたち)である。去るに当たっての置き土産と伝えてくれ」
「御意のままに」
 そう言うと『馬引けー』と号令をかけ馬上の人となった。門前を出た所で振り返りその遁世者に問うた。
「そこもとの法名は」
「さて、徒然なるままに流れる乞食坊主にて」
「されば俗名はなんと」
「卜部と申し候」
「ふむ」
 踵を返して去っていった。

 元の鞘に納まって舞い戻った佐々木道誉は上機嫌で遁世者を相手に盃を干した。
「それで楠の若造はどんな顔をした」
「初めはあまりのバサラ振りに唖然と驚き入り、深く感じ入った様子にて」
「ほう、やはり大楠公の倅じゃのう」
「なかなかに歯ごたえのあるもののふにて候」
「三十路前であろう、これからか」
「入道様にあしらわれ、鎧に太刀を献上したことにて。この婆沙羅くらべは結局」
「これこれ、兼好法師。人聞きの悪い」
「ふふふふ」「はははは」

 かの吉田兼好は太平記に高師直の艶文の代筆者として記述され、歌舞伎の演目にまでなっているが、筆者はこれをかなり怪しんでいる。あの斜めに物をみては悦に入っている兼好法師がそんなことをするだろうか。太平記は誇張された内容が多く、筆写によって伝わるうちに当代一の名文家として後に知られた吉田兼好の名が取ってつけられたのではないかと睨んでいる。この婆沙羅比べに出て来る遁世者の名は太平記には無いが、兼好法師と考えると余程面白いと思うがいかに。実際にはこの時点で大阪近辺の正圓寺のあたりにいたとされるので都までは指呼の距離である。

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地球が狂った ケムラー戦記

2021 MAY 26 0:00:19 am by 西牟呂 憲

 4月に芽を出したジャガイモが季節外れの霜で大きくならない。連休中に植えたキュウリが全滅し、苗を植え替えさせられる始末。5月だというのに早くも梅雨入りだがアジサイはまだだ。ネイチャー・ファームをやっていると今年は違うのが実感できる。季節が早いと言えば早いが、その落とし前のように大雨が降ったりしている。そして東京が雨だというのに喜寿庵はカンカン照りだ。

 目を楽しませてくれる花はたくさん咲いているが、こいつらもやはり勘違いしたのか。
 アヤメは花札では5月の絵柄で、それは旧暦の5月だからいまの季節に花を咲かせるのはいかにも早すぎる。
 他の雑草も咲き出した。しかし梅雨明け前の花といのはいかにも儚げな淡い色をしていて、例えば藤の花なんかはたくさん咲くから美しいが、一房だけだったら思わず『オイオイしっかりしろよ』と声をかけたくなるのではないか。
 桜もそうだ。一輪ではねぇ。
 偶然見つけた名前も知らない雑草はそんな感じだった。

雑草?

 ところがのんびり花を眺めていたら、足元で異変が起こっていた。
 毛虫の大群が降ってきたのだ。欅の木があるのだが、どういう生態なのか木の高いところで孵化して、成長すると蜘蛛の糸のようなものを出して地上に降りて来る。地表につくと、この姿にしては結構な機動力を発揮して移動し、樹木に取り付いては葉を食べてしまうのである。生意気にも好みがあるらしく、栗・つつじ・柿、そしてキュウリだ。
 念のため見回ると、わっ、ツツジが2本ほど食い尽くされているではないか。
 その有様をお見せしたいが、あまりにおぞましい光景に到底載せる勇気がない。誰も読んでくれなくなりそうなので、地上移動中の一頭だけの姿がこれだ。

ギャー!

 モスラの幼虫でさえもう少しかわいい。これが集団で行進しているところやビッシリと取り付いているところなど、誰も見たくはなかろう。
 羽化したらさぞ邪悪な色の蛾にでもなって再び我々を不快にさせるだろう。仮にケムラーと名付け殲滅作戦に取り掛かった。
 まずはホームセンターに行き、毛虫除去の殺虫剤を探したがない!お店の人に聞くと、今年は毛虫が大発生して売り切れと言うではないか。車を飛ばして他所に行きやっと数本を手に入れた。その時に注意されたのだが、素肌に触れると被れて帯状疱疹のようになってしまうとか。

ケムラー・コンバット用特殊戦闘服

 それから戦闘服(草刈りの時に着る)に身を固め、両の手にケムジェットを携え、二丁拳銃のガンマンよろしくケムラー軍団に立ち向かった。
 相手の動きが鈍いのでか大いに戦果が期待できる、『死ね!死ね!』とばかりに正面の大群が待つツツジ戦線に向い、戦闘2時間でこれを制圧。次に栗の木エリア(3年前に植えたからまだ低い)を急襲してそこを撃破。途中、地上移動中のケムラー輸送部隊を踏み殺し、植え替えたばかりのキュウリをレスキューした。戦うこと3時間、我が軍の圧勝に終わった。

 翌日、昨日の戦果を確認にバトル・フィールドを点検すると・・・こっこれは!敵は失地を回復しつつあるではないか。やはり地球は狂い出している。環境激変に備えて種の保存本能が働き大発生したのかもしれない・・・あれ、人間は?

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6月6日 追記

真っ白

真っ白、あのケムラーが・・・。

こっち来るな

番外ジェット・ストリーム 岸部シロー編

2021 MAY 22 0:00:06 am by 西牟呂 憲

 あの飄々とした表情に美しいハイ・トーン、喋らせれば京都弁で抱腹絶倒の面白さ。僕は亡くなった岸部シローさんが大好きだった。
 超人気バンドのタイガースは、GSブームの真っ最中にその圧倒的な人気によってかえって評価されない部分があり、その最たるものがシローさんの歌唱力だった気がする。長年シローさんの画像を探していたのだが、一番有名なのは解散後にユニットを汲んだブレッド&バターとうたったダニエル・ジュラールのカバー曲『バタフライ』なのだが、不思議なことにいくら検索してもない。どなたかお持ちの方、お知らせ頂けませんか。
 その代わりに『小さな恋の物語』の挿入歌、ビー・ジー・ズが歌った『若葉の頃』のレコーディング画像があったので張っておきます。

 
 シローさんが語るには、中学時代『ケツから2~3番で問題外の生徒やった』らしく、卒業後は印刷工か何かになっていた。そのうち兄(岸部一徳)達がやっていたファニーズが内田裕也にスカウトされて上京するのに付いていく。一世を風靡したザ・タイガースの誕生だ。バンド・ボーイの立ち位置でグループと共に行動するが、やがて一人でアメリカに旅立つ。現地の音楽シーンをレポートする名目だったようですが、それについては以下の動画で語っています。加橋かつみのソロの後、得意のビー・ジーズ、ジョークを歌い上げてからがMCが独壇場です。

 その加橋かつみが抜けた後メンバー入りをして、やがて解散しますが、この頃から彼のキャラクターが受けてドラマに出たりし始めます。朝の番組の司会者にまで活動範囲を広めました。西遊記の沙悟浄訳なんかハマってましたよ。この時は三蔵法師が夏目雅子、孫悟空が堺正章、猪八戒は西田敏行という顔ぶれ。
 ところが、一方で金遣いが荒くなっていきます。借金は雪だるま式に増えてしまいました。そこから大変な思いをする。
 解散後の『野生の馬』をどうぞ。

 借金の総額は1憶円とも5憶円とも、20憶円とも言われています。ヘリコミューター、アメリカのディスコへの投資、他人の連帯保証が主因、骨董等諸説あるようですね。
 ついに自己破産となってしまう(1998年)。それでも2000年代はポツポツ芸能活動はしていましたが、2009年に体調不良で入院し以後車いす生活になってしまう。
 その後は沢田研二のライヴや瞳みのるが復帰したタイガースのツアーに痛々しい姿で登場していた。老人ホームで暮らしていたとか。
 2020年に拡張型心筋症による急性心不全ので亡くなった。71歳。
 それなりに波乱万丈、合掌。

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