ソトーバ
2026 MAY 1 21:21:46 pm by 西 牟呂雄
中国は浙江省の省都である杭州(ハンゾウ)で工場を運営していたことがある。大運河の終点に当たる街で、あまり知られていないが下関条約により日本租界があった。西湖(シーフー)という美しい湖のほとりに古くからあるというレストランでおいしい豚の角煮を食べた。現地の人間が『ここ発祥の料理だ』と自慢したがトンポーロゥのことだった。
その中国人は日本語が達者でその料理の由来を説明してくれた。
「有名な詩人のソトーバがここに左遷されたときに考案した料理ですよ」
その時はうっかり聞き流し、ソトーバ(卒塔婆)?お墓にあるアレか、ずいぶん縁起の悪い名前の詩人だが知らんな、と。
後で気が付いてギョッとした。蘇東坡(ス・トンポー)じゃないか?
宋の時代の文人、蘇軾(そしょく)のことで、書画を良くし禅にも通じた大文化人である。
若くして科挙の試験に合格し進士となり、その時弟の蘇轍も同時に合格したという秀才兄弟だった。
彼が生きた宋の国は、ザッと考えても前後の王朝よりパッとしない感じで、絶えず北方から押されまくり内部もゴタゴタし続けていた。首都も開封から現在の杭州まで押され、モンゴルに止めを刺されて終わる。
そのモンゴルが北に帰った後は極貧・流民から身を起こし側近を粛正しまくった朱元璋が明の洪武帝となっていく。
話は戻って、そういうゴタゴタの中にいると内圧がかえって高まるのか、科挙の制度などはこの宋代に完成し、かの朱子(しゅし)が儒教の体系を朱子学として完成させる。つまり文化の華は咲き誇ったことになるのだ。朱子学はその後宋学として我が国に伝わり流行った。
進士となった蘇東坡はなかなか頑固だったようで生涯で2回左遷されている。二度目の左遷が後に南宋の首都になる前の杭州だった。そこで上記西湖の水利工事に携わり完成を喜んだ現地の人々から豚肉・紹興酒を献上されると、それを煮込んだ料理を振る舞った。その美味なることをたたえて「東坡肉(トンポーロゥ)」と名付けたと言われている。
蘇東坡と言えばこれだ。
春宵(しゅんしょう)一刻値千金
花に清香(せいこう)有り月に陰有り
歌管(かかん)の楼台 声寂寂(せきせき)
鞦韆院落(しゅうせんいんらく) 夜沈沈(しんしん)
この詩を読むたびに、ドンチャン騒ぎが終わった後のライトアップされた桜の美しいシルエットが目に浮かぶ。『寂寂(せきせき)』と『沈沈(しんしん)』の韻が効いている。
比較文学者デイヴィッド・ダムロッシュは、文学は翻訳を通して豊かになりうると述べたが、漢文を訓読で読み下すという優れた味わい方を編み出した日本の先人は、実に感性豊かだったと思う。今や維新の参議院議員になった石平氏は、漢詩は日本語の読み下しの方が味わいが出る、と言っていた。
そこで思ったのだが、同じ漢字文化圏だった朝鮮・ベトナムではどう読んでいたのだろうか。ベトナムの方は語感が想像できるが(中国語のようにコンコンと言った感じ)、日本語のようにテニオハのある朝鮮語はどうだったのか。詳しい人、教えてください、返り点とか付けてたりして。
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六兵衛 維新語り
2026 APR 23 13:13:17 pm by 西 牟呂雄
目が覚めた。夜が明けてきたようで山鳩の鳴き声が聞こえるわい。
さて、今日も一丁稲刈りの指揮に精を出すかいな。秋の刈り入れ時というわけだ。
ワシは甲斐の国〇○〇村の大庄屋である小森家の六男、六男だから六兵衛という。百姓だから表向き苗字はないことになってるから小森という名前ではなく屋号で呼ばれる、『酒屋』とな。通称サカヤの六兵衛だ。
甲斐の国は甲府55万石、谷村3万石で米なんざあまり採れない。だが信玄公亡き後は徳川様の天領で、年貢は二公八民と軽い。もちろんお上に対しては食うや食わずの顔をしてみせるが、余程の飢饉でなけりゃ食べるにゃ困らない。しかも年貢は村全体で納める量が決まっているから大体こんなもんだ、ってオレッチの親父達がお代官様と決めるだけ。田んぼにしたって大雑把な境界線は畦道くらい、広い狭いは違うけどな。そんないいかげんなもんだから、時間が限られる田植えとか稲刈りみたいな仕事は大勢で片っ端からガーッとやる。それで普段は特に争いごとはない、お互い顔見知りだし親戚も多い。
そりゃウチは庄屋だってことでデカい家をオッ立ててるけど女中だのなんだのと人数は多いから、六男のワシは身の置き所なんかない。オマケにヤレ水が出ただの道が崩れたのといっちゃ親父なんかがあれやれこれやれと口やかましく使うから、養子にいくアテもない次男以下は要するにタダ働きの人手でしかない。長男以外は嫁もとれねえ。ワシなんかの暮らし向きは水飲み百姓とそうは違わねえよ。
ただ、抜け駆けだの勤めそこなったりすりゃ村八分はきついよ。ワシが知ってるだけでもこの10年で夜逃げはいくらもあったさ。それがねぇ、ここだけの話この辺は田んぼが少なくて年貢の石高はたかが知れてるけどどこもお蚕もやるんだよ。これはいい小遣いのつもりで地道にやる分にやソコソコ稼げる。だがお蚕の上りは糸を引いて機織りして染付して、とだんだん商いが大きくなっていく。すると中には大きな博打を張ろうとする輩は必ず出てくるが、そういうのが上手く行ったって話は聞いたことがないね。必ず相場が動いたり蚕でデキが悪かったりしてひっくり返る。
何しろ山深い所だから狭い世界に暮らしていて、これがズーッと続くのがいいのさ。そもそも今よりいい暮らしってのが想像もつかねえ。お武家さんは石和と谷村の陣屋にはいるけど、この辺りはその境目にあるから滅多に来るもんじゃない。谷村陣屋は韮山代官の配下でもあるしな。
そうそう、参勤交代の行列がたまに通るけどここには本陣がないから素通りだ。あれもな、土下座してるのが面倒だからみんな隠れちゃってのぞき見してるんだ。行列だって誰も見てないとダラダラ歩いてるよ。
嫁も貰えねえワシらのことは通称「オンジイ」ちゅうんだが、体のいい居候で置いてはもらえるが一人前には扱ってもらえない。女ぁ?まあ、小さな村といえどもそれなりにね。特にウチなんか住み込みの女中もいるし、そこいらにゃ後家さんだっている。もっといえばあそこの赤ん坊はひょっとしたらってのもいないわけじゃない。秋祭りの時なんかはそりゃね。
ところで田んぼや畑の境界線なんかは村内で揉めることもないんだが、隣村との村境じゃ時々大喧嘩にもなる。特に山の中なんか目印も何もないから大きな大木や岩で見当を付けるんだけど、鉄砲水で岩が動いたり木が倒れたりすると双方で『昔から村境はここだった』と言い合って大変な騒ぎだよ。こっそり岩をずらしたりするのを「追い込む」と言ってね。鎌とか鍬や鋸を持ち出せば怪我人だって出るんだ。陣屋のお侍さんは面倒だから庄屋連中を集めては『何とかしろ』と言うだけ。ナニ、下手に騒がれて一揆にでもなったら自分の経歴にキズが付くから大概のことはお目こぼしさ。
嘉永のご時世から安政にかけて、世の中は随分と騒がしかったらしい。ワシの生まれた頃に黒船が来たって大騒ぎになったそうだが、物心ついたのは文久の世で、そん時分はワシもあとあとこんな厄介者になるとは思ってなかったから、のんびり寺子屋で読み書きを教わったりして字も読める。
街道沿いだから行ったこともない都やお江戸がやれ開港したの攘夷だので騒いでるのは知ってた。
この頃からお武家様は何だか物入りでひどく景気が悪くなっていった。ワシらはお蚕をやるから商人とも付き合ってるんで分かるんだが異人さんとの商いが始まるにつれて物が高くなっていった気がする。ところがお武家様は百石取りとかあてがいぶちが決まったままなんで御大名様から旗本までみーんな借金だらけになったみたいだ。
えー、時は流れて慶應のご時世。一挙に世の中はゴタゴタし始めた。将軍様が都まで上洛したらそのままお隠れになって、名望高い一橋様が15代目になられた。そしたら長州をお仕置きしたっちゅうんでこれで安泰か、なんて話してた。
そうしたらいきなり将軍様が政りごとを返上したそうじゃない。いやたまげたね。ワシだって都には帝(みかど)がいて暦を決めたり官位を授けてたのは知ってたけど、まっお上の方は良く分かんないがね。
それで将軍様と都にいた薩摩・長州が戰をやって、アッという間に幕府が負けたって。イヤ驚いたのなんのって天地がひっくり返るような話だよ。おまけに将軍様は舟で江戸に帰って来たなんてホントかね、と思った。
それが本当だってわかったのは慶応4年が明けたら江戸から甲陽ナントカ隊っちゅうお侍達が大砲引きずって鉄砲担いでゾロゾロとやってきて甲府を目指して行った。その数200人くらいだったけど半分はとてもお武家様には見えないような連中で、聞けば都で散々人切りをしてた新撰組が化けた幕府の軍だった。あれじゃちょっとした大名行列の方が見栄えがいい代物だったね。例えばワシがのぞき見してた尾張様の大名行列はあの倍以上だったよ。
ワシ等は八王子あたりは親戚もいたから新撰組はあの辺の道場の奴らだってのは聞いてたんで、百姓上りが大したもんだとは感心したね。
そう思ったのに2~3日したらバラバラになって逃げて来るじゃないか。どうも官軍の方が先に甲府に着いてたもんで、勝沼あたりで戰になり、これがまたあっさり負けたらしい。街道を避けたのもいたらしくて人数もだいぶ少なかったよ。
するとすぐ後に今度は官軍が江戸を目指してやって来た。それが変な赤い被り物をしているのが大将だったんで驚いた。その大将は信玄様の武田二十四将の板垣様の子孫らしく、甲府のあたりではみんなそっちに御味方したそうだ。この辺りは信玄公の時代はその下の小山田様のお下知だったからあんまり関係ないんだが、そこはそれ、勝ちにはすぐ乗る習いなんでワシも炊き出しに行ってみた。だけどあの被り物の連中が喋ってる言葉が分かんない。『キニ』とか『ゼヨ』とか言うのは何なのかね。
ところがワシの気働きが気に入ったのか谷という一隊を指揮していたお武家さんが「人手はいくらあっても足りないキニ。おまん一緒に江戸まで来るがいいゼヨ」とか言うじゃない。まだ3月で暇だしここにいても厄介者だから話のタネについていくことにした。良く聞いたら土佐藩兵で作られた官軍だそうだ。
その谷様という隊長はおっそろしく厳格なお人で、自分にも下にも厳しい。だがワシには『こりゃ、サカロク』と気さくに声をかけてくれた。ワシは屋号が『酒屋』だったからサカロクっちゅうわけだ。若い頃に江戸で勉学に励まれたんで関東訛りに慣れてたからワシも一行の中では話しやすかった。正式名称は東山道先鋒総督府迅衝隊(じんしょうたい)だってさ。
小仏峠を超えれば武蔵の国で八王子宿。ここは幕府お抱えの旗本格である千人同心が守っていたから戦の一つもおっぱじまるかと楽しみにしていた。いや、ワシは戦なんかできないよ、見物だけど。ところがこれが大歓迎だよ。そんなに幕府は評判が悪いのかと思ったら何のことはない。千人同心はモトモト信玄公の遺臣の子孫だから、隊長の板垣様のご威光だ。さっきも話した武田四天王と言われた板垣信方様の十何代後だからって有難がってんだけどねぇ。
ワシも一緒になって酒飲んだりしたけど、ここいらは親戚づきあいもあるんで面が割れやしないかとヒヤヒヤした。
この官軍ってのも面白くて先頭に細長い『錦の御旗』ってのを掲げた後に笛を吹く奴が二列に並ぶ。で揃ってピーヒャーラピッピッピとやると全員が同じ歩調で歩き出すんだよ。おまけに節が付いていて『ミヤサンミヤサンオンマノマエニ』ってな。ワシ等はその節に従って『トコトンヤレトンヤレナー』って音頭を合わせてた。
府中から調布五宿を抜けて高井戸・内藤新宿を通り四谷の大木戸を過ぎればお江戸御府内で半蔵門に着いた。その間大名行列に勘違いした連中が土下座したりして面白かったが、戦なんか何にもない。江戸だって、聞けば官軍の西郷という大将と幕臣の勝っちゅうのの間で話が付いたとかで拍子抜けしたさ。
その後迅衝隊はもっと北に進むって言うからそんな遠くは御免とばかりに隊長には黙って脱走した。聞いた話じゃ会津まで行って大いくさになったそうだ。
ほうほうの体で村に帰ったけど、そのうちに帝が京都から江戸に行幸されて江戸は東京なんて名前になった。東の京都ということらしい。
それから先は藩が廃止されたりしたんだが、ワシ等がたまげたのは地租改正ってやつ。廃藩置県とか言って甲斐の国も山梨県になった。ワシ等は元々将軍様の天領で藩なんかないから全然関係ないけど、今まで村全体で年貢を米で納めればよかったのに、田んぼの土地ごとに銭で払えっちゅうんで参ったよ。それまで自分の年貢米はどの程度か、なんて考えもしない、ましてや銭なんぞ普段さわってもいない五反以下の小百姓はどうすりゃいいのか分かんない。お代官様は鷹揚なもんだったが、新政府の役人になったらやれ土地を測れのお前の田んぼの価格はこうだといちいち杓子定規なことこの上ない。ワシ等は田んぼを売り買いしたことなんかないから値段も何もわかんない。そしたら値段はお上が勝手に決めるんだとさ。
困り果てた百姓共は終いにはうちの親父に『大旦那、訳わからんからウチの田んぼを引き取ってくりょうよ。ワシ等はそこで小作にさしとくれ』って頼み込んでくる始末。親父は親父で『なんだよ。それじゃワシが金とられるばっかじゃねえの。まあしょうがない、預かっとくわ』ってなもんで、おかげでウチは金にもならない土地ばっかり抱え込んで一人で税金を払ってる有様になった。
もっと驚いたのは徴兵令。廃刀令とか言ってお武家様が二本差しをしなくなるんでビックリだったが、まさか百姓が戦をすることになるなんて想像もつかなかったな。二十歳になると体の丈夫な奴は兵隊になってお勤めを果たせって。そんなもんが役に立つとはとうてい思えないんだが、これからは刀を抜いて切りあうことはなくなるっちゅうんだ。働き手を取られるから初めはえらく評判が悪かったが、子供が多い小作人にとっちゃ口減らしにもなると次第に定着した。
西の方では食い詰め士族が反乱を起こし、しまいにゃ官軍の大将だった西郷さんまでが戦を仕掛けた。今度は自分が朝敵になるなんてどういうこった。おまけにその徴兵で取られた兵隊が薩摩の士族に勝っちゃったから妙に納得したね。この時、熊本城で薩摩軍を止めたのが、ワシがくっついて江戸まで行った時の谷様だった。あの人は偉いんだね。
それから20年も経つ間に支那とやるは挙句の果てに露西亜とやるはでいつのまにかすっかり戦争づいちまった。
何しろ戦争やりゃ勝つもんだから軍人さんたちは偉くなるし、ワシのような門外漢も日本が強い国になった気がしたよ、軍人さんや兵隊さんは凄いねってね。ここいらでも兄弟が日清・日露の両方で死んだっていう家はいくらでもある。
東京じゃあれよあれよという間に政党じゃ議会じゃが始まり、小学校はここあたりにもでき、鉄道もワーワーと引かれ、親父は地域の電灯会社の発起人になりすまし、何だか百姓でもほかにやることだらけになって、世の中は便利になってくるけどその分やたらとせわしなくなるばかり。四民平等とかいわれてもなァ。選挙なんかもあったけどありゃお祭りみたいなもんで、そもそもワシなんか投票もできないのにあいつじゃなくてこいつにしろ、とか終いには村同士の喧嘩だ。
喧嘩といえば、鉄道を敷いた時にゃ土方が大勢いたから組同士の大きい喧嘩があったなぁ。ありゃ面白かった。
往時茫々、東京においでなさった帝も身罷りなさったらしい。これからは大正の御代なんだと。
ワシはもういい年になっちまったが、オンジイのまんまで嫁も子供も何にもない暮らしに不足はない。親父も代替わりして、跡取りが大旦那になってる。
御維新の前と後でどうかだって?そりゃ将軍様のご時世の方が良かったに決まってる。気楽だったんでね。
さて、と。稲刈りの仕切りでもやりに行かなくちゃ。
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愛しい(いとしい)と書いて かなしい と読む
2026 APR 13 0:00:32 am by 西 牟呂雄
万葉の時代、『愛し』を『かなし』と読んだそうな。
嘆き悲しむの度を越して、愛する対象がモノであれヒトであれ心の底からいじらしく思うところまで行ってしまうと『かなし』となるらしい。
アッという間に散ってしまう桜なんかを愛でる気持ちなぞは、誠に『かなし』いもの、といえば腑に落ちる。
その『かなし』が『悲しい』と共存していたのか転訛していったのか、興味深い。
古代の大和言葉の単語数が絶対的に不足していたので、日本人は同じ発音の語をその都度使い分けていたところ、便利な漢字が入ってきたので相応しい文字を当てていったのかもしれない。だとすれば、初期の『愛し(かなし)』を当てる際にこめられた『かなし』の、なんと細やかな思い入れだろうか。
たとえて言えば、遠い彼方で異国の兵士が戦いの中で倒れて亡くなっていくのは悲しいが、目の前の赤ん坊が必死に泣いているのは愛しい(かなしい)。
そう考えて似たケースを想像してみると『おそれる』なども『恐れる』『怖れる』『畏れる』と表記するが、このうち『畏れる』は際立ってヤマト的な意味の『おそれる』ではないか。神韻縹渺の清々しさの中で八百万の神々を静かに敬う、という感情は一神教のGodを『恐れ』たり絶対権力者の皇帝を『怖れ』るのとは違う。
この桜の時期にやたらと神主さんや坊さんの話しを聞き、些か我が魂は清らかになったようだ。
改装中の喜寿庵には何と神棚がしつらえてあって、いっそこの際捨ててしまおうかと思ったが、大工さん達が「それだけはヤメろ」と寄ってたかって説得され、おまけに宮司さんまで紹介されてしまい、厳かに『霊移し』と『霊鎮め』の儀をやらされた。改装工事に従って神棚を移動させ戻したからだ。一般に建築・土木の従事者は神事を貴ぶので仕方なくやった。
そのあたりで開花宣言がなされ、満開の頃は亡母の命日で今年は十三回忌にあたる。一昨年身罷った親父は三月(みつき)遅れで三回忌だから面倒なので一遍にお経を読んでもらい、両親を懐かしんだ(オヤジは『テキトーに早めやがって』と怒っていたかもしれないが)。
そして今年も満開になった菩提寺の枝垂れを見て気が付いた。
今、命あるものをいつくしみ、しみじみと思うものが『愛しい(かなしい)』で、すでに亡きモノを儚く感じるのが『悲しい』なのだ。咲いた桜は愛しく、散った桜は悲しい。
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屋形船大川堤桜(やかたぶねおおかわばたざくら)
2026 APR 3 20:20:07 pm by 西 牟呂雄
お花見に屋形船を仕立てて隅田川を巡る、これ一度やってみたかった。
浅草橋から柳橋までいそいそと歩くと船宿の看板。神田川から隅田川に抜けるところです。舟遊びの伝統はお江戸の昔から現代まで綿々と続いています。途中、戦中はそれどころじゃなく、戦後の高度成長時代には水質悪化や埋め立てで消えていましたが、70年代に釣り宿が観光用に今日の屋形船を復活させました。お陰でアタシなんぞもご相伴に預かれるわけです。なんたって柳橋ですからもうチョイとはずめば幇間も呼べますし御姐さんも。ただ、芸者衆は和装のアルバイト・コンパニオンですからお勧めしませんがね。
池波正太郎の江戸話は、このあたりから主人公が女を連れて船宿から上がってくる描写が秀逸で、憧れたもんです。
まだ日のあるうちに船を出せば気分はもう高尾太夫をはべらせた伊達藩主綱宗公。
神田川を下って大川に出ると上流に向かいます。
両国橋を右に見て蔵前橋へ、さらに上って厩橋(うまやばし)、駒形橋、妻橋(あづまばし)、言問橋(ことといばし)、桜橋(さくらばし、歩行者専用のⅩ字型の橋)をくぐったあたりから桜が見えてきます。白鬚橋(しらひげばし)の手前にアンカーを打って宴会が始まりました。
ところでこの白髭橋から勝鬨橋まで14の橋が架かっていて(僕が子供のころは築地大橋はなかった)、かつて全部言えなきゃ江戸っ子じゃねぇ、なんて言われて必死に暗記した覚えがありますが、やってみたら忘れてた。
カラオケが始まります。初めは無難なオジサン・ソング(平均年齢60代後半、僕が上から二番目の72才)でしたが、途中から時期的に『桜しばり』にしようとなったものの、さくら/ 森山直太朗、桜 / コブクロ、次は桜坂 / 福山雅治、あたりで続かなくなり盛り下がってしまった。
ビールでお刺身、熱燗に天婦羅を堪能して酔っぱらった頃に柳橋に戻ってきました。
フラフラと船を降りると気分は池波正太郎が描く『剣客商売』の秋山小兵衛。愛人である女将のおもとに別れを告げてもう一軒行きましたとさ。
さあ開幕だ 日本ハムファイターズ
2026 MAR 28 21:21:56 pm by 西 牟呂雄
ミラノ・コルティナもよかった。WBCも楽しめた。大相撲ものこったのこった。それに春の甲子園ね。
だが、やはり燃えるのはこれから始まる長丁場、プロ野球の開幕である。私にとっては勝っても負けてもイライラとストレスの日々が始まる。
ところで普通リーグ2位のAクラスはフランチャイズで開幕するのだが、まだ寒い札幌を避けてなのか我がファイターズはよりにもよってC・Sで2年連続苦杯を舐めた宿敵ホークスと博多で戦う。
上等である。今後の戦略を立てる意味でも相手にとって不足はない。昨年耐えに耐えていた新庄監督(一昨年まではバカ・ボス、B・Bと呼んでいた)への罵詈雑言を再び再開させるのか、今年は褒め殺しにするのかを占う3連戦と位置づけた。
心配なのはWBCでメッタ打ちされて負け投手になった伊藤が立ち直っているかどうか。この点ではノーヒットでスタメン落ちした近藤を擁するホークスとはハンデ無しと見た。更に今年は、しばらくホークスに預けていた有原を引っこ抜いたからこの点はアドバンテージになる。ひとつ上沢にぶつけてみるのも面白い。
先発は回るか、守備は充実しているか、バントは決められるのか、清宮はチャンスで打てるのか・・・、えーいキリがない。とにかく開幕戦だ。
ホークスは元我がエースの上沢できた。ここは有原と行きたいが、やはりこちらもエースの伊藤だ。ところが間の悪いことに僕は夜桜の花見に行って、酔っぱらって帰って来ると何じゃこりゃ。外野は全部ホークスを応援している、完全アウェーどころではない。こっちも燃えてきたぞ。
すると試合は清宮が打つ、万波が打つ、敵は栗原が打つ、近藤が打つ、山川デブが打つ、ホームランだらけだよ。エースもクソもあったもんじゃない。ふふふ、大味な野球ならフライヤーズ以来の伝統でこっちのもんだ。
と、途端に追加点を取られて伊東は潰れる。小久保監督も上沢からフェルナンデスに代える、やるなぁ。うわっ、水谷H・R、これで5-5。だが古林(グーリン)が1点取られ、杉山に出られて負けた。ふぅ、いい試合でした、先は長い。
よーし、次は負けない達だ。
おォ、きょうも打つ。野村が打つ、新外人カストロが放り込む、いい出だしだ。
だがいくら『負けのつかない』達とはいえ打たれる時はある。あれは新庄監督のミスだよ。近藤に打たれた時点で代えるのを、ナメたのか柳田・山川まで引っ張ることはないだろう。
8回の満塁のチャンスには、何故かド下手キャッチャー清水を代打に送りあっけなく無得点。あいつを使うなとズーッと言ってたろうが、コラ。ついでに去年は二軍暮らしのロートル福谷を不用意にマウンドに上げて山川に二日続けてH・Rとはどういうことだ。
杉山を出されてこりゃダメとあきらめたら、そこから粘った。ここはいいんだよ。それが2点返したところで再び意味不明の出戻り西川を代打に送ってオ・シ・マ・イ。連敗とは何事か。いいゲームだったと言えなくもないが、こういう負け方は2倍堪える。夜までブログが書けなかった。
新庄監督!明日負けたら(影の)オーナー権限を行使するからな。
あしたは満を持して有原。いいか、毎日毎日6点取られてるんだぞ、お前は点を取られるなよ。
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猛獣使いの話
2026 MAR 20 17:17:20 pm by 西 牟呂雄
無分別に使いちらしてみて分かった!AIが飛躍的に進化して便利になるだろうが、人間のバカさ加減や根性の悪い犯罪者が減ることはない。
社会が進歩しようが堕落しようが、現に世界中が19世紀の帝国主義時代に勝手に逆戻りした。さすがに原爆を撃ち合う事態に陥らないのは自分も滅びてしまうからだ。
そう考えたら何も老人のオレが必死になって新時代に追いつく必要も理由もない、それも腑に落ちた。
AI社会に勝者はいない。AIツールを一生懸命開発したところで安住の地にたどり着くことはない。ものすごいスピードで競争者が現れて抜き去っていく。ユニコーンは生まれ続け、新たに出てくる芽はおそらく買収されることになる、そうでなければ追い落とされる。当面はGAFAMが君臨するだろう。
我が国はそちらの稼ぎはほっといて、帝国主義に巻き込まれることなくハリネズミのように、更にガラパゴス化を進めた方がいいと思うがな。まっ、飛び出したい方はどうぞ。
それでですね、悪党帝国が疲れ果てるのをジッ待っていながら、宝石を磨くように日本自身が輝きを増すべくセッセと練磨してりゃ、5年から10年くらいすれば向こうから寄ってくるさ。そもそも30年も失ったんだからどうってことないでしょ。ソフト・パワーで行こうぜ。
問題は30年の間に格差が広がったことか。ところが、数字的にみると実は2000年頃までは大したことない。ジニ係数は2020年あたりから上がり始めた。つまりコロナ禍以後の話だ。
すると時期的には円安の進行とAIの飛躍的進化に重なるのは興味深い。つまり日本はお呼びでない、と。それなのに必死に喰らいつこうとするから歪むのであって、早い話がチャイナが簒奪していった(急速に富を蓄積した)皺寄せだと解釈すれば自ずと解は見えてくる。もっと長い(50~100年)スパンで考えて見ればジタバタしても始まらない。悪党帝国同士が張り合って疲れるのを待てばいい。
その意地の張り合いをかつては冷戦と呼んだが、今は帝国主義の時代になってしまったから核武装でもしないかぎり我が国が食い込む余地はない、とワタシは考える。
話が飛んでしまった。元に戻すと、あまりの便利さに結論だけを聞きたがるような連中はますます自分で思考することをやめて、そのうちに考えることができなくなる。思考も思想も理論も構築することのできない脳になった人間は一体人間だろうか。
モノも考えられない人間がキーボードをサッと叩いて結論はお任せ、これではいかにもマズい。こうして日本人(いや、人類か)が2極分化してしまっても、まぁ私のような老人は構わないのだが、多少なりとも処方箋を考えなければ今まで好き勝手にやった者としては申し訳が立たない。
直感的に、Z世代以下の世代はAIを使うなと言ったところでジャンジャン使うだろうから、せめて中等教育ではAIを仮にに使ったにせよプロセスや結論を音読し、鉛筆でも握って紙に書き取って、口と手を刺激して脳を鍛えた方がよかろう。
というのも、私自身手で書こうとすると簡単な漢字を忘れている時がある(年のせいとの声もあるが)。ましてや「薔薇」だの「憂鬱」だのはお手上げだ(やってみた)。これからは孫の漢字の書き取りにでも付き合わなければならん。
AIは例えて言えば猛獣である。優れた猛獣使いが必要なのだ。ゾウとかライオンやトラといった危険な猛獣を使いこなすノウハウを持ったインストラクターが鍛えてこそ火の輪くぐりのような芸をさせることができる。そうなるとAIに色々な芸をさせる展示会はサーカスのショウになり、それがビジネスになるかもしれない。
そうなるとAIによって最もダメージを受ける仕事はソフト開発のヒューマン・リソースだろう。ナラティヴは熟練が必要だがストーリーは簡単にできる。
その頃はもうベーシック・インカムが導入されて人間は芸術を楽しみスポーツに打ち込み恋愛を謳歌して遊んで暮らせる。僕は年寄りだからボケて桃源郷にいる(生きていれば)はずだ。
ところで「AIは猛獣」という例えを電車の中で思いついて、あまりのハマりようにニヤニヤした。かなりアブナイおっさんに見えただろうな。
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セント・トーマス
2026 MAR 14 20:20:30 pm by 西 牟呂雄
仲良しのビブラフォン奏者、大井貴司さんのライブで聞いた「セント・トーマス」が素晴らしかった。
まずはお聞きください。
一発撮りだけど、皆さん百戦錬磨なのでそれなりの音が拾えています。
バランスといい、この形式のコンボでは目下日本で一番完成してるんじゃないかな。
この明るい曲はテナーの巨人、ソニーロリンズの作品だが、元は英国の民謡「The Lincolnshire Poacher」だという事を最近知りました。そのメロディーが流れ流れてカリブ海の英領バージン諸島のセント・トーマス島にたどり着いたときは、母親がロリンズに歌って聞かせる子守歌に変貌していたという話(その後アメリカへ移住)。
その話を聞いてうれしくなった僕は、曲の終わりの部分を
「〇〇ちゃん ▽▽ちゃん
〇っちゃん ▽っちゃん オジイチャン」
と子守歌にして孫に歌って聞かせてみたのですが、受けなかった。
ソニー・ロリンズは御年90過ぎでまだご存命のはず。戦後すぐにデビューしてかのマイルス・デイビスと出会います。
偉大なミュージシャンだがそこはそれ、50年代にはヘロインに手を出して薬欲しさに強盗まがいのことをしてムショ行きになりました。
するとヘロインを断ち切るため音楽活動を停止し、ケンタッキー州レキシントンの連邦医療センターで治療プログラムを受け、その後はしばらく雲隠れしてシカゴの工場労働者になって暮らしていたようです。
復活はしますが、どうもこの人は定期的におかしくなるらしく、それが外圧なのか内から来るものか。50年代の終わりには一度引退してしまうのです。
約10年後の60年代末にもインドに行った後に3年ほど活動を休止しました。
「禅」とか「ヨガ」といった東洋趣味に傾倒し、心の安寧を保っては復活する、といったところでしょうか。
時が過ぎて、80年代には「テナー・サックスとオーケストラのための協奏曲」を書き、東京で読響をバックに演奏しています。
かの9・11の時、ロリンズは目と鼻の先にいて危うく被害は免れたものの危なかった。しかしながらそのわずか4日後にボストンで演奏し、MCも含めた音源は発売されてますね。
さすがに最近の活動は聞こえてきませんが、偉大な音楽家の長寿を祈っています。
尚、蛇足ながらセント・トーマスは福音書にも出てくるイエスの12使徒の一人で、外典ではイエスの双子とも解釈されることもある「ディディモと呼ばれるトマス」のこと。イエスが復活した話を信じなかったが現れたイエスを見て脇腹の傷を確認し、伝承によれば遠くインドまで布教に行ったことになっています。
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贋作 ジェット・ストリーム 本邦田舎(カントリー)編
2026 MAR 8 12:12:18 pm by 西 牟呂雄
ーミスターロンリーのインストロメンタルが流れるー
またお会いできましたね
空の旅ともなると サンダル履きとはいきませんか
そうでもありませんよ
今では乗り継ぎをしながら
結構な遠方まで一っ飛びという方もいらっしゃいます
フラリと出かけて旅を楽しむ
目的もないまま出かけて
リゾートで3日ほどはいかがですか
人一倍はしゃぐのが好きで いつも酔っぱらってた
酔えば強がって自虐ネタを披露する
ささいなことに勝手に気がついては
役に立ちそうもないことを思いつく
そういえば昔 あの娘に惚れてたな
そのくせ 声もかけられなかった
一番やりたいことには
近づきたくないと言っていた
旅に出ると 2~3年帰ってこなかった
どこ行ってた と聞くと
言葉も通じないような外国だった
さびしくはなかったのか アイツ
歌ってみなさいよ
声を出して 口ずさむ ラララ
読んでごらん
声を出して 音読を
もう少しリズムに乗せれば
それは もう 妙なる詩
目になじめば 美しい絵
せっかくだからステップを ワン・ツー・スリー
ほら もうダンサー
ーエデンの東が流れるー
いかがでしたか
かまやつさん 小坂忠さん 江利チエミさん 鬼籍に入られました
ところで かまやつさんのバックのフィドル
わたしの同級生です(彼は元気です)
と言っても今から半世紀も前
お相手はパーサーの
ジェット・ニシでした
また 空の旅でお目にかかりましょう
年男(古希+2)ゲレンデに挑む
2026 MAR 1 1:01:08 am by 西 牟呂雄
今年は滑れるのか、今年やっておかなければもう二度とできないかもしれない、万が一コケて骨折でもした日にはバカ呼ばわりされる、様々な不安と相克を乗り越えて何とか滑走する気になった。
もはや老人であることは疑いもなく、脚力の衰えは実感している。反射神経・動体視力・持続力、視力と全てアウトの満身創痍である。昔のように、天気がいいからチョイと一滑りという訳にはいかないのだ。だが、先日劣化が進んだスノー・ブーツを破棄し、新品を買ってしまった。もう後には引けない。
ところがゲレンデでは様相が一変していた。クアッド・リフトが1回1500円!こんなところに物価高が顕著に押し寄せているとは知らなかった。僕は4~5回流せばいい、だからつい貧乏性が出て4500円の半日券を買ってしまった。
この日はスノボを履いた。1本目、すでにリフトを降りる時点でヨタヨタする。
シーズン初めはいつものことだが体が滑りを思い出すまで硬くなってつっぱる。一滑りしたところで息が上がり、右足の太腿がもう痛い。。
初心者コースをもう一本滑ったところでコーヒー・ブレイク。
何がなんでも元を取るために後三本意地で滑って精魂尽きた。
これではまだ成仏できない。
某日、今度はスキーを履く。スキーは昔ながらの長く(180cm)硬いスキーと今どきのカーヴィング・スキーの2本を使いこなす。今回も半日券を買った。感覚でいうと長い方は『しならせる』ように回転し、短いのはカラカラと滑らせる。
それが、である。目下ミラノ・コルティナのオリンピックの競技を見てしまったためどうしても(ナンチャッテ)モーグルとかポールをくぐる大回転の真似はしたくなるのですよ。そしてこのゲレンデにはそういうトライアル・ゾーンがあって、誘惑に負けた。モーグルは見ていればわかるが、ギャップのところで膝が胸に当たるくらい下半身を柔軟に使って腰の高さを一定にする必要がある。
結果はご想像の通りで、モーグル・モドキはカーヴィング・スキーでコブを一つ越えた時点でコース・アウト。
ロング・スキーで挑んだポールも1本回転してリタイア。
すると突如天から厳かな声が低く聞こえてきた。
「無駄な抵抗は止めよ」

見上げれば西の方に飛行機も飛んでいないのに不吉な雲が・・・。
おそらく飛行機雲が残っていたのだろうが、まれに地上付近で風と風がぶつかって空気が一直線状に上昇する時に上昇帯に沿って雲ができることがある。
この雲の不吉さは、一番高いところの雲が今にも太陽を飲み込みそうなところだ。例の『白虹日を貫く』と言うアレだ。秦の始皇帝を燕の刺客、荊軻(けいか)が暗殺に行く際、天に現れたヤツ。『風蕭蕭(しょうしょう)として易水寒く 壮士一たび去りて復た還らず』の故事で知られる。また、作家の井伏鱒二が昭和11年2月25日に見たと日記に残したが、果たして翌日2・26事件が起きた。
即ち、テロの前兆で現れるが失敗するという天の知らせとも言える。
などと思いを巡らしつつラーメンを食べた。
食べ終わってどっこいしょ、あれ!なんじゃこれ。一天俄かに暗くなった。これだから山の天気は恐い。
上まで行ってみると雪も舞っている。そうか、天の声も白虹もこれを予言したのか。やーめたっと、さて来年は・・・。
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南蛮倭国盛衰記 旋風そして維新
2026 FEB 21 0:00:04 am by 西 牟呂雄
少年達が銛を手にして次々に小舟から飛び込む。小舟は現在のアウトリガー・カヌーで、もう岸からは見えないほど遠くに出ている。シャム湾は浅瀬が続くため湾内の潮の流れは早いが、舵取り役を残し数十人の若者は長く・深く潜り、獲物に銛を突き立てる水練をしているところだった。
やがて息が続かなくなった者から海面に飛び出してくる。早いものはやはり手ぶらだ。現在は乾季のため、チャオプラヤー川から流れ込む茶色がかった水は少なく、ここまで沖合に出れば透明度は高い。未だに潜っているのは二人ほどだがその動きは船上からも良く見えた。一人は獲物を突いて上がって来たが、もう一人はまるで魚のように泳ぎ大物を追っていた。その魚はそう早い動きではなかったものの、獲物がより深い方へと逃げて行こうとする刹那、一瞬大きく体をしならせたかと思うと重そうな銛を一閃させて仕留めた。
そのまま一抱えもある大物を手繰りながら海面から頭を突き出し「ファーッ」と息をつくと船に向かって泳ぎだした。
「お春が一番の大物か」
「またかよ。あいつはまるで魚だ」
アジ科と思われる大物を片手で船に放り上げるとザバッと乗り込んできた。
少年たちは15歳くらい、彼等は南蛮倭国の戦士となるべく訓練を受けていた。皆、頭に布を巻き付け上半身は裸で腰は褌姿、良く日に焼けている。だが、ひとり大物を仕留めた者だけは色白の地肌らしくピンク色をしていた。背は頭一つ高く手も足も逞しく太いのだが、胸元はわずかに隆起し少年のそれとは違っている、女なのだ。
名前はお春。肩で息をしながら笑って言い放った。
「お前ら。陸(おか)の上の武術も水の中の潜りもオイに勝てんじゃろう。こんままでは大船(おおぶね)の船長(ふなおさ)にはオイがなるしかなか」
「ないごて。お春なんぞ誰も嫁とりせんから大船に乗るしかなか」
少年たちはもうすぐに元服を迎え艦隊に乗り込むことになる。その際に厳格な能力審査の上、最初から役割を割り振られる。船長、舵取り、射手、帆方、漕方(こぎかた)、賄・荷方、といった具合である。
そして南蛮倭国の艦隊はシャム国王の親衛隊にも序されるため、新人はラーマ一世の閲兵を受けることになっていた。
アユタヤ王朝は既に滅び、紆余曲折を経て現在のチャクリー王朝が成立していた。それに伴い王宮をバンコクに造営し首都と定めた。南蛮倭国は内政不干渉の原則を貫き、艦隊拠点をレムチャバンに移した。ラーマ一世はその潔さにいたく感服し、親衛隊直属で海上防衛の任に当たらせることとした。言ってみればイングランドのサー・ドレイクやのような合法の海賊・傭兵である。
謁見当日、暑い日差しを浴びながら甲冑を付けた40人の新兵が4列縦隊に整列した。両側にシャム軍自慢の像部隊が控え、正面の一段と高いところにしつらえられた黄金の玉座にラーマ一世が座っていた。その前で新兵に向かって起立している親衛隊長シーゲル王子が姿勢を正して「ワイ!(タイ語で合掌の姿勢)」と号令をかけると一同が兜を脱いで脇に置き合掌の姿勢をとった。
王子は閲兵すべく中央を進み、戻ってくるとラーマ一世に向かい再び「ワイ!」の声をかけた。
式典が終わり南蛮倭国の戦士が後退する時、シーゲル王子が指揮官を呼び止めた。その美貌が印象的だったからだろう。
「待て」
指揮官はお春だった。
「ワイ!」
「お前は日本人なのか」
「チャイ・クラップ!(はい・男語)」
「少し話していけ。ついてまいれ」
実はシーゲル王子の男色はつとに知られており直属の親衛隊は大変な美少年を集めていた。ただし、男色は今日の様な捉えられ方ではなく、特に戦乱の続いたシャムにおいては戦場での結束をもたらす絆と考えられ、事実シーゲル王子の親衛隊は無類の強さで知られていた。
王子は衛兵の守る自室に招き入れるとお茶を勧めた。
「お前たちの艦隊は無敵と聞いている。お前たちのおかげで我らは陸の上の戦闘に専念できることを感謝する」
「コープクン・クラップ(そうです・男語)」
「お前の体を見てみたい」
さすがに多少動揺したようだが、次の瞬間鎧を解きだした、薄く笑みを含んでいたようだったが。そして上半身があらわになるとシーゲル王子の方が驚いた。両の胸のたくましさとやわらかいシルエットに目を奪われた。
「待て!お前は女か。なぜ男言葉を使う」
「普段より海に暮らすのに区別なし。特に我が艦隊は全員が戦士ゆえ」
「む・・・。女ともあれば余の後宮にて暮らすことも許されるが」
「おたわむれを。異民族の女戦士など。殿下なら恥辱を受けた日本人の作法はご存じのはず」
と脇差を抜き刀身に布を巻き付けると自分に向けた。王子もさすがに慌てた。
「もうよい!・・・・お前達はラーマ一世の海の親衛隊でもある。任務を果たせ」
「カオジャイレーオ・クラップ!(わかりました・男語)」
そのまま後ろずさりの礼法でさがった。シーゲル王子は興覚めし深いため息をついていた。
往時茫々、10年の歳月が過ぎた。
この時期、イギリス東インド会社は大航海時代を先行していたスペイン・ポルトガル・オランダを凌駕し、数十隻の大砲を装備した武装商船艦隊を擁して、東南アジアから清国へ進出しはじめた。なお、インドから西側はボンベイ・マリーンとして正式な海軍を持っており、まさに七つの海を支配していた時期に当たる。
この武装商船艦隊はいわゆるロイヤル・ネイビーではないものの、組織・階級・並びに士官などはほぼ同じで、強力な戦力である。当然のことながら南蛮倭国と小競り合いが起きることとなるのは時間の問題だった。
マレー半島で出会い頭での接触だったのだが、イギリス側は艦隊行動ではなくブリタニア号の単独航海だったことが災いした。南蛮倭国側は早い話が海賊だ。砲撃されるやサッサと逃げ回り、得意の夜襲で襲い掛かると瞬く間に制圧、拿捕してしまった.双方に若干の犠牲者がでた。倭国側の果敢な攻撃の船長は逞しく成長したお春であった。
死傷者が少なかったのは日本側の目的が人質と船の確保だったからである。作戦を立てたのはお春だった。
お春は既に武装商船隊の船影を目撃しており、その戦力の充実から南蛮倭国の3拠点を合わせても艦隊決戦に勝ち目はないと判断、乗っ取りを長老会に進言して了承されていた。
武装解除されたイギリス人とインド人の水夫が甲板に集められた。
以下、カタコトの英語・蘭語のチャンポンで会話が進む。お春が訪ねた。
「指揮官は誰か」
ボンベイ・マリーンの制服を身に着けた細身の士官が一歩進んだ。
「私だ」
「名前は」
「コマンダー・ウィリアム・アダムス(アダムス少佐)。あなたは」
「お春ジェロニマ」
言うなり兜を脱いだ。
アダムス少佐の顔色が変わった。その名前と美貌に驚いたのだ。
「あなたが有名な『Jager of hurdle(困難な豹)』か」
Jager of hurdle とは東インド会社が手を焼いていた南蛮倭国の船長(ふなおさ)の呼称で、鮮やかな操船と果敢な戦闘で恐れられていた。だがイギリス東インド会社もジャワのオランダもまさか女とは誰も知らなかった。
「その通り。コマンダー・アダムス。あなた達は人質となった。手荒な真似はしない。あなたがたと交渉したい」
「何の交渉か」
「あなた方の身代金と命の引き換えにこの船をいただく」
「私に権限はない」
「権限のある者に取り次いで欲しい」
「どうやって取り次ぐのか」
ここでお春はカラカラと笑った。
「この船で行く」
「なに!」
「わたしの指揮の元で我々とあなた方で操船する」
「ボンベイで無事ですむと思うのか」
「私は全権をもって交渉を任されている。われら南蛮倭国はこの船を買い、河内(ハノイ)呂宋(ルソン)と協力し東インド会社の商船を護衛する。ボンベイ・マリーンはその武力をインドおよびその西側に集中させるがよかろう。東インド会社への海賊行為もしない。あなた方はカンパニーだろう。損得を考えるはずだ」
アダムスは言葉を失った。
ボンベイの港に姿を現した武装商船には東インド会社のフラッグとともに南蛮倭国の旭日旗が掲げられている。そして初めて見る兜に甲冑のサムライが甲板に整列している様を見て、イギリス人もインド人も目を見張るのだった。
『Jager of hurdle(ジャガー・オブ・ハードゥㇽ)』即ち、後に『じゃがたらお春』として日本に知られることになる伝説の女海賊が誕生した日である。
彼女が指揮を執る船は右舷に『Jager of hurdle』左舷に『じゃがたらお春』と表記され、旭日旗とユニオンジャックを掲げていた。いつもの癖で舳先で水平線をみるお春の背後には金髪を風になびかせるアダムス少佐の姿があった。
お春が振り返るとアダムスと目が合う。アダムスが聞いた。
「フナオサ(船長)どちらに舵をとるおつもりか」
「我らに行先などない。ただ漂い、打ち壊し、奪うばかり」
「そのあとは」
「生き延びることができたら・・・そうだな、ウィリアム。お前の生まれたエゲレスにでもいってみるか」
「それは・・・、あの暗い天気はフナオサに似合わない」
「ではお前たちバテレンが忌み嫌う”地獄”の入り口まで航海するか」
「滅相もない」
「フハハハハハ、どこでもよい。お前はついてまいれ」
振り向いて言うが早いか、見上げるようなアダムスの首周りにタックルをかけた。アダムスは副長として『Jager of hurdle』に乗り込み、お春の影のように寄り添っていた。二人は笑いながら転げまわり、甲板のファーネスに引っかかると互いを見つめ合っていた。ちょうど水平線に夕日が落ちていった。
慶応元年、神戸海軍操練所が閉鎖され無聊を囲っていた坂本龍馬が西郷隆盛に誘われて鹿児島を訪問した。
西郷家に逗留すると早速西郷が誘った。
「あすは枕崎まで行きもんそ」
「そこはどこぜよ」
「みせたいもんがあいもす」
鹿児島から枕崎まで一日がかりである。粗末な旅籠に宿を取ると先客があった。
「せごドン、お待ち申し上げておりました」
「おお、お久しぶり。こん者が海軍を作ろうち奔走しちょる坂本君ごわす」
「尊王の志高き志士としてご高名は存じ奉り候。海軍伝習所が閉鎖されお困りと聞いておりもす」
「おんしは誰がじゃ。勝先生を知っとるがですか」
「拙者は蛇潟老春(じゃがた・らおはる)。勝なる方は幕臣ゆえに我らは面識はなか。ですが我らは坂本さあのやりたがっちょう海軍を持っちょいもす」
薩摩訛りだった。
「なに!かいぐん!」
西郷が遮った。
「蛇潟ドンはオイが島に流されていた時分に世話にないもうした。シャムを拠点に艦隊を率い、河内(はのい)、呂宋(るそん)にいる日本人の子孫たちと力を合わせて海軍を持っちょいもす。無論戦闘においてメリケン・エゲレスといった国の海軍に一歩も引けはといもはん」
「日本人ならエゲレスが薩摩と戦になった時はなんで助けんかったがじゃ」
蛇潟がゆっくりと言った。
「あいはボンベイ・マリーンの船ごわす。オイたちゃその指揮下ではあいもはん。それにご存じないじゃろが、あいはすべて空砲でごわした。要するに幕府に対する見せかけ」
西郷も続ける。
「おいたちはもうエゲレスには話をつけておりもした。後は幕府が困るように仕向けた芝居」
南蛮倭国はオランダ軍を退けた後、一時的にヨーロッパが革命騒ぎで東洋進出が小康状態になった時点で周辺の制海権を握った。そして幕府が鎖国政策を取ったことを逆手にとって交易を発展させた。なに、交易といえば聞こえはいいが、実態は密貿易と海賊行為である。それによって莫大な富を蓄えたのだが、日系3国は内陸での帝国経営には一向に興味を示さず海洋独立国家であり続け、3拠点の総称である南蛮倭国が定着したのだ。
一つには現地人との宗教観が違いすぎて通婚がほとんど進まず、また日本から受け入れられる女の数も限られるため人口は増えるわけではない。第一、暴れまわるのが生業なので陸の領土を広げて帝国を経営するノウハウも資質もない連中だったからである。
時代は進み、ヨーロッパから産業革命が起こった。
資本はダイナミックに躍動し動力革命・軍事革命を牽引する。勢いのついたヨーロッパは海洋を制覇し、アフリカ・アジアの分捕りあいが時代の趨勢となり、英国がその覇権を握りつつあった。
イギリスはインドを飲み込み、清国を侵食し始める。その際に南蛮倭国と歴史的な接触があった。そして倭国勢は伝説の女海賊お春(じゃがたらお春)に率いられイギリス海洋進出の一翼を担ったのは前述の通り。
その操船能力と戦闘技術の高さは大英帝国をしてもなお魅力的だった上、そもそも領土的野心はない。更に異常ともいえる識字率の高さ、同調圧力、好奇心、義侠心とアジアの国にあっては極めて特殊な連中だったのだ。また周辺国は非常に恐れ、実際に戦闘が起きると無類の強さだったため、英国も薄気味悪がって懐柔しようとしたのだった。
倭国艦隊は英国商船を保護しつつ南シナ海から沖縄・薩摩まで自由自在に(時に)暴れまわった。
おまけに新技術に対するチューン・アップは日本人のお手の物であり、動力を学び大艦に砲を載せ反射炉で製鉄までした。元々日本は鉄砲大国でもあったため武装艦隊は手が付けられない存在になりおおせていたのである。
時は流れ、ペリー艦隊が日本に砲艦外交を展開したことも南蛮倭国は知っていた。しかし幕府の開港後も政治に巻き込まれるつもりはなく、英国の先兵に甘んじていた。ところが密貿易のパートナーである薩摩が急速に政治の表舞台に出たことによりそうも言っていられなくなったのだ。
倭国は長年の友好関係と島役人への多額の賄賂によって沖縄ー枕崎ルートは庭も同然、そこで沖永良部に流されていた西郷を物心両面で支え、その復帰後も影に日向にサポートしていた。西郷が龍馬に蛇潟老春を引き合わせたのはその時と縁のなせる運命だった。尚、南蛮倭国の日本人が交流したのは密貿易相手の薩摩藩のみだったので今では老春たちは京言葉も江戸言葉も喋れず薩摩弁が標準語だった。
「坂本さあは今更海軍などつくらんと、おいたちにまかせておればよか」
「なにい!」
「おいたちは海禁をした幕府とは相いれもはん。しかも幕府はフランスに肩入れしちょいもす。おいたちは一度義を交わせば必ず守る」
「西郷さん、ホントか」
「相違御座らん」
「むむッ・・・。手の込んだ仕掛けは西郷さんの絵図かの。ほいじゃあわしはなんをすればいいがじゃ」
「かんぱにーをつくられればよか」
「かんぱにーじゃと」
西郷が引き取って言った。
「坂本さあ、こん老春どんとおいたち薩摩が金を出す。坂本さあはそいを預かり日本と世界を相手に大あきないをすればよか。海からの援護でごわす」
「海からの。そうか!海援隊じゃあ」
その後の維新回天の歴史は読者のよく知るところである。
維新後の倭国海上勢力は2つに分かれて存続した。簡単に言えば龍馬派と西郷派に分類され、龍馬派は岩崎弥太郎率いる九十九商会の商船グループ、即ち今日の日本郵船の礎である。それに対して西郷派はのちの帝国海軍に吸収されていく。帝国陸軍が長州系なのに対し、薩の海軍と言われたのはこのグループのことを指す。倭国の日本語は全員薩摩弁だった。
現地の日本人ソサエティは戦前まで国家の体裁は取らなかったが存続し、タイ(バンコク)・河内(ハノイ)・呂宋(マニラ)はそれぞれ日本軍に協力していた。ところが負けてしまったためさすがに居心地が悪くなり300年近く住み慣れた土地を離れた。タイからはインドネシアに移住し、戦後の独立戦争に参加した後はジャワ島の山地にいるらしい。ハノイは台湾の花蓮(ファーレン)に住み着き密かに存続し高砂族の一派に溶け込んでいる。この一派は強力な民進党支持者だと言われている。マニラの連中は戦中に山下兵団とともに北上し、バギオに潜伏した。その後、密かに山下財宝とも称される金塊を山中に隠し持ってフィリピンの世論を裏から操っているという噂が絶えない。
上記3か国の親日ぶりの遠因ではないだろうか。
尚、今日の歴史研究では南蛮のニシーム・ローザエモンと河内(ハノイ)の室西僧正、呂宋(ルソン)のアントニオ・オエスタは同一人物と考えられている。蛇潟老春は言うまでもなく英国人アダムス少佐とジャガタラお春の子孫であった。
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