Sonar Members Club No.36

タグ: 出雲

相撲の始まり

2022 NOV 19 22:22:01 pm by 西 牟呂雄

関西の旅

葛城の足跡

のつづきー

 目下九州場所で一年の締め括りの場所中である。
 良く知られた話だが、野見宿禰と當麻蹶速が垂仁天皇の前で力比べをしたのが相撲の始まり。
 恐ろしいことに野見宿禰は當麻蹶速の肋骨を蹴り折り、腰を踏み砕いて勝ったというから、現代の相撲とは違ったキックもありの立ち技格闘技だったのだろう。當麻蹶速は命を落としたから、凄まじいデス・マッチだ。その勝利によって野見宿禰が當麻蹶速の領地を授けられたが、その場所は現在の奈良県香芝市『腰折田(こしおれだ)』地区と言われている。そしてその地区はデスマッチの行われたのもその場所だと主張している。腰を折ったから腰折田とはすさまじい。當麻地区からも近く、いかにも當麻蹶速の領地と言うのに説得力はある。

 當麻寺の参道で見つけた『葛城市相撲館「けはや座」』はそれにあやかった町興しの施設のようで、実際の土俵が作られていた。立ってみると意外と固い。
 建物の前に蹴速の墓と言われる塚があるが、これはちょっと怪しいのではないか。古墳時代の話ですぞ。天皇じゃあるまいしいくら強くてもねえ、古そうな石塔だったが。
 一方の野見宿禰は出雲の出身とされている。ところが、この奈良盆地のちょうど東側にある桜井地区に何故か出雲という地名が残っている。そしてその桜井地区には卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳をはじめとする纏向遺跡があり、第11代垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくたましろのみや)と第12代景行天皇(倭建命の父)の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)の伝承地である。要するに当時もっとも発達した都市が築かれていた。
 その垂仁天皇が力自慢の當麻蹴速と野見宿禰のデス・マッチをさせたのだが、その現場と言われている場所がここにもある。その名も相撲神社。これは行かねば。

ちっぽけ

 ところが、車で行くとまるで『ポツンと一軒家』で山奥に行くような細い道を登っていく。対向車とはすれ違えないだろう。恐る恐る行ったところに相撲神社はあった。鳥居はそれなりだが誠にささやかな社が。野見宿禰を祭ってるらしい。しかしどうも違和感がある。周りに力士像やら土俵やらしつらえてあるのだが。
 案内を読んでいると、どうやらこの神社は後付けで造ったのではないかと疑問が湧いた。
 ここの地名は古よりカタヤケシという字名で、カタヤとは『方屋』即ち相撲場の四本柱の内、土俵のことである(江戸期以前は俵を四角に配した角土俵だった)。そこから着想を得て、ここが相撲の行われた所だ、としたのではないだろうか。昭和37年10月6日に柏戸・大鵬両横綱がここで土俵入りをしたとある。当時京都に在住していた小説家の保田與重郎に地元の有力者が話を持ち掛けて実現した、そのころの一大イベントだったろう。要するにここも町興しだったのじゃないか。
 しかし私が思うに、肋骨を折り腰骨を砕くようなデス・マッチはプロレスのような四角いジャングルで行われたに違いない(猪木がマサ斎藤とやったみたいに)。だからカタヤケシは有りだ。
 

土俵

 その両横綱土俵入りの時に使ったと思われる土俵がブルー・シートがかけられて保存されていた。四方の柱は自然木のようで、あんまり使っていないらしい。
 先ほどの社の処からこの土俵を見下ろすと、遠景に奈良盆地の雄大な風景が一望できる。ここで天覧相撲を戦ったらそれは燃えるだろう。そう思えばあながちただの町興しだけではないかもしれない。
 この神社に続く道はまだ続いていて、先はどうなっているのか気になったので、歩いて行く。登っていくとミカン畑なんかもあり、多少の人の営みの形跡があったその先に、アッ再び鳥居が出た!本物はこっちでは。

大兵主神社

 山奥に鎮座する姿は物々しく、不気味な雰囲気が漂う。おそらくこちらの神社が親分で相撲神社はその子分というか支店のように創建したのだ。解説によると垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったと伝わる大兵主(おおひょうず)神社である。いずれにせよ10~11代天皇の時代、遥か昔からここにいるわけだ。『大和一の古社である』とわざわざ表記しているところはむしろかわいげがあり、社殿の横の来歴は手書きだった。大兵主神は他にも素盞嗚命(スサノオ)、天鈿女命(アメノウズメ)、天日槍命(アメノヒボコ)に御せられるとも、すなわち出雲系、渡来系、とどうも本流ではない神様と言える。

 さて、野見宿祢の出身に諸説あることを記述したが、確かに出雲国から力自慢がやってきて天覧相撲をするのはそれなりのスケールとロマンがあるが、どうも桜井市出雲が引っかかる。当時、力自慢を競わせるのに遠い出雲から人を呼ぶほどの”全国的”な統制が行きわたっていたのか疑問だ。
 そこで考えた。ヤマト盆地の西の當麻にバカみたいに強い男がいてオレが日本一だと嘯く。すると垂仁天皇は『東で一番強い男と戦ったらどうなるのか』と地元の(桜井市出雲)男達に下問した。口を揃えて『それは野見でしょう』となり、両者が雌雄を決することになる。するとその場所は腰折田でもカタヤケシでもなく、その真ん中である今日の大和八木の辺りの田圃の一角で、両方から多くの応援団がやって来る。ヤマトを上げての一大イベントに群衆は盛り上がり、天皇も最前列で観戦する。
『に~し~、たいまの~けはや~。たいまの~けはや~。ひが~し~、のみのすくね~、のみのすくね~』
 ここで世紀のデスマッチの火蓋が切られる。
 両者ガッチリ組んで互角だが、蹴速はしきりにロー・キックをぶち込むが野見は巧みにブロックしつつ腕を固める。そして力任せに投げを打つ。蹴速が起き上がって来たところに野見の回し蹴りが決まってダウンを奪い、そこに猛烈なストンピングを浴びせて担ぎ上げバック・ドローップ。すると蹴速が死んでしまった、ナーンチャッテ。

現代の大相撲のルーツにふさわしい闘いではないか(今は蹴りは禁止)。きっとそれで今でも呼び出しは『西、東』であり、天覧がある格闘技なのだ.僕のルーツが『葛城の足跡』の仮説通りなら、僕の先祖はかぶりつきでこの取り組みを見ては歓声をあげていたことだろう。ケハヤ・ボンバイエと。

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