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最後の将軍と尾張藩主 Ⅰ

2017 JAN 14 15:15:16 pm by 西 牟呂雄

 前者は将軍徳川慶喜(よしのぶ)、後者は尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)。二人は母方の従兄弟同士でもあった。 

 尾張徳川家は御三家筆頭で藩祖は家康の九男徳川義直である。この人物は実に真面目なゴリゴリオヤジで、将軍職を継いだ三代家光にとっては何かとうるさい存在だった。尾張柳生の新陰流を継承するような武闘派で、家光三十歳の時に病に臥せった際には大軍を率いて上京するという事をしでかし家光を慌てさせる。
 以降尾張家は何かと将軍家と同格であるという家風になり、また義直の強烈な尊王の気質を継承していく。これは幕末の重要なファクターとなる。
 八代目将軍吉宗と七代藩主宗春は同時代だが、将軍が享保の改革で質素・倹約をしている時に名古屋では大っぴらに規制緩和を奨励する(後に少し改めはしたが)。折りしも水戸藩の大日本史出版問題で幕府と朝廷が対立を深める中で尊王が藩是の宗春はとうとう蟄居謹慎させられる。宗春はわざと朝鮮通信使の格好を真似したり、白い牛に跨ってウロウロしてみせたり、兎角目障りだったのだろう。面白い人なんだが。
 その後、いやがらせのように将軍家から養子を押し付けられたりしていたが、幕末の時代に名古屋系の高須松平家から慶勝が藩主となる。悪い時に藩主になったとしか言いようがない。
 時代が時代だけに藩祖伝来の尊皇攘夷主義者として開国を指導した井伊直弼と対立し直ぐに蟄居謹慎。ところが井伊が暗殺されると復活する。
 ここから長州の大暴れが始まり目まぐるしく情勢が二転三転するのはご案内の通り。何と慶勝は第一次長州征伐の征長総督になるが、征長軍全権を委任された参謀格はあの西郷吉之助である(この時点で長州は朝敵)。その後スッタモンダの挙句に第二次長州征伐の途中将軍・家茂が大坂城で薨去、従兄弟の一橋慶喜が十五代将軍になるという巡りあわせだ。

 最後の将軍は図抜けて頭が切れたことで知られる。朝廷に対し怒る・拗ねる・開き直る、といった腹芸をしてみせ、ついに大政奉還の大博打を打つような胆力も備わっていた。既に開国に舵は切られており攘夷もクソもない。現に貿易を通じて幕府は大儲けしていた。
 ところがこの将軍、頭が切れすぎて感情の起伏が制御できなかったと思われる。極めて饒舌だったとされるが、相手を見下して追い詰めるように論破してしまうのだろう。
 更に酒癖は悪い。中川宮邸に夜半泥酔・帯刀して殴りこみをかけるような振る舞いに及ぶ。筆者も酒乱のケがあるので良く分かるが、酔っ払うと物凄く早口になって喋りまくり翌日記憶を失っていたりすると胸クソが悪くなる。あの酔った感じは脳が考えているのじゃなくて舌が考えているのじゃないかと思えるほどだ。
 第二次長州征伐に行こうと言い出した時は兵隊用の排膿を背負ってはしゃぎまくっている姿が目撃されているが、鳥羽伏見のしょっぱなで押されるとドーンと落ち込む。挙句にコッソリ江戸に逃げ出すのだが、その時に無理矢理連れていかれた会津の松平容保と桑名の松平定敬は何と徳川慶勝の実弟達なのだ。
 更にバカバカしいことに幕軍がいなくなって開城された大阪城の城受け取りに行かされたのは慶勝という皮肉なことに。その段階で京都にいた慶勝は既に討幕の腹を固めたのか、この間の慶勝の心の葛藤たるや凄まじいものがあっただろう、藩是の尊王か宗家への忠誠か。
 実は第一次長州征伐の際にほぼ話し合いで納めた長州の措置が寛大すぎるとして慶喜に非難されたようで、慶喜に含む所があったのではないかと推測している。
 官軍は尾張藩を素通りどころか江戸まで全く戦闘なしに通過するが、その際慶勝が街道諸藩・寺社に『抵抗せずに通すように』という趣旨の所感を数百通も出していたからだと言われている(現物が残っている)。
 江戸は無血開城され、その腹いせのように弟の容保・定敬はとんでもない目に会う。更に慶喜が将軍になった後の一ツ橋家を継いだのはこれまた慶勝の弟、徳川茂徳というオマケもついている(この人は異母弟だから慶喜の従兄弟ではない。慶勝が安政の大獄で謹慎だったときには尾張藩主になっていた)。

 慶喜と慶勝のなんとも言えない運命の皮肉である。
 慶喜は若い頃にヒマに任せて絵画に勤しむような趣味人のところもあり、維新後駿府に行ってからは狩猟・写真に油絵やサイクリング等も楽しみ興味の赴くままに暮らした。地元の人々からも慕われていたそうである。その後貴族院議員にもなるが、政治的には何もしなかった。
 実は手裏剣の達人でもあった。
 一方の慶勝も写真には一家言あるほど熱中した。撮影から現像まで様々な薬品の調合なども一人でやり、今日そのメモが残されている。いわゆる理系の真面目な人だったと推察する。
 大雑把にいうと、共に凝り性なのだが慶喜は今で言う文系、慶勝は理系の頭脳だったのかと思う。次回は二人を対談させて心の奥を覗いてみたい。
 それでなくとも徳川は多士済々だ 徳川奇人伝
 尾張徳川は前述の通り、御三家筆頭ながら遂に一人も将軍を出せなかった。

最後の将軍と尾張藩主 Ⅱ

慶喜の手裏剣

徳川 奇人伝(今月のテーマ 列伝)


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