『言葉』は言葉であって真実ではない Ⅲ
2026 JUL 1 9:09:09 am by 西 牟呂雄
『私とはどういった人間か』といった問いに対して明確に答えられる人はいますか?
或いは自身で『本当の私は』と語る時に明確な言葉を持っているだろうか?自分探しの旅、などという全くの無駄が流行った時代もあったが、その旅に出て本当の自分に出会った者など聞いたことがない。
話は飛ぶが、現代文のテストで例文が提示され、『この時の作者の気持ちを次の「アイウエオ」のうちから選べ』という設問があった。大体5択で3つくらいはトンチンカンなものだが、2つは引っかけだったりこれもありかなという仕掛けで苦しんだ。そしてこういう設問が大嫌いだった。そもそも作者に正解を訪ねたことはあるのか。
と言うのも作品を巡ってツベコベ抜かす文芸評論家なんぞ、作者の生い立ちから執筆当時の状況から類推して自分の仮説を述べることでメシを食っている輩だ。
或いは宗教も経典の解釈が違えば〇〇派だの△△主義に分裂して戦争までやって来た。その際には作者並びに予言者が本当に言いたかったことについて、本人に確認することもできずに争っている訳だ。
この僕のブログにしたところで、やらかしたマヌケな所業やら思い付き・嘘っ八を書いて面白がっているが、全部真に受けられて書き手である僕は性格破綻者だと勘違いされている可能性もある(本当に破綻しているかもしれないが、医者から言われたことはない)。実際にお目にかかればそのギャップに驚かれることだろう(と思う)。
するとだ、一体何のためにこんなプログを書くかと言えば、別に嘘やフェイクを巻き散らかしたい訳ではない。自分でもよく分からないのである。賢明なる読者(がいるとすれば、だが)に読み解いてもらいたいわけでもない。
むしろ、強いて言えば僕が幼児期から今まで経験し感じ取って来た様々な事象と、現在の環境・立場が書かせている、といった方が正しいようだ。僕は保守派である。東京のど真ん中で生まれ育ち働いている。ときどき海外に行く。山荘にこもる。矢沢永吉を聞く。ライブに行く。酒を飲む。こういった平凡なる日常を紡いでいる。そして慣れ親しんでいる日本語でブログを書くが、『ことば』として使っている言語は突き詰めれば刷り込まれたものであり、その筆使いもすべて今までどこかで誰かが使った筆致に違いない。
例えば使い慣れない言語で文章を書くとか、幼児がやっと話せるようになった頃、さらに恐ろしいことにアルツハルマゲドン状態になってしまった時、人が伝えられるのは自分が使える狭い範囲の言葉の範疇でしかない。
即ち、私たちは『ことば』の奴隷にされているのだ。
冒頭の話に戻れば、自分を語るのに『ことば』を使ってしまえばオリジナルなものはそこにはなく、探そうにも見つかるはずもない。例えば年寄りの自慢話で『オレはこういう人間だから』という語りには、客観的な真実はまずない。他人からそう思われているかどうかは分からないままに自分のなりたい姿を『ことば』にしてしまうからだ。
こういうことを考えているうちに僕は急激に退行を志向し始めた。『ことば』からの解放だ。
きっかけは相続した山荘を管理しだしたこと。爺様が樹木を植え陰影を造り、相応しいところにツツジを植えて、芝生を敷いた。これを維持するのも結構な手間で、たまに老木が枯れたり芝生がはげたりするのを手間暇かけて手入れする。
するとその調和の取れた配置に全く興味を示さないモグラが土を掘り上げてしまう、芝生には邪悪な雑草が押し寄せて来るる。ファームに至ってはジャングルになるほど荒れる。
剪定で庭木を刈り込む、這いつくばって雑草を抜く、花火でモグラを駆除する、草刈り機で笹を刈る、高枝を鋸で落とす、ジャガイモを収穫する、ダイコン・ニンジンを蒔く・・・、全て一人無言でこなす。思いついたメロディ~を口ずさむ。
これらを一日やると『自然と戦っている』と実感する。
にもかかわらず手入れした庭を見る人はいない。収穫を喜ぶ人も皆無(ニンニ君はたまに料理に使われ、ジャガイモは貰われていったのは収穫の1/10、豆粒のようなのこりは私の非常食、ダイコン・ニンジンの出来損ないは摺りおろし)。
そして私の尊い労働を目撃する人もない。このムダな時間。
こうして忙しくしていると、モノも考え込まず本も読まず一心不乱に続けて、フッと時間が止まる、微笑む、眉をしかめる、といった真空状態になるが、それを表す『ことば』はない。どうもその状態こそが真の自由な心持ちのようにに思われるのだが。
そして『ことば』に支配される日常に戻っていく。
しかし悲しいかな人間は『ことば』が無ければ考えることもできなくなっているではいか。こうなったら、☆や▽や◇の図形を組み合わせた新しい心象文字をこしらえて、一瞬の真空状態を表現する新しい『コトバモドキ』を創って遊ぶのはどうだ。
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Categories:言葉




2 comments already | Leave your own comment
西村 淳
7/5/2026 | Permalink
『自然と戦っている』実感パート2。
何十年も昔、今は無き日本製紙・勇払工場。ここの社宅には大きな庭が用意されていました。一年奮起して芝生を植えるとほどなくして雑草がちらほら、あっという間に勇払原野に。アスパラまで自生し、用意した鳥の餌台にはウトナイ湖のバード・サンクチュアリから種々雑多な鳥たちが飛来。ヒッチコックの「鳥」状態に。まさに北のジャングル。荒れた後の海岸を歩けば、でかい北寄貝がゴロゴロ。自然しかない場所で自然と闘い、絶滅した八王子千人同心に想いを馳せたとさ。
西 牟呂雄
7/5/2026 | Permalink
おォ!勇払とは寛政年間にロシア対策として100人の千人同心が入植し、その思いが遂げられなかった勇武津のことなんですか。
知りませんでした。
西村さん、よくぞご無事で。