Sonar Members Club No.36

Since July 2013

わかったぞ弓削道鏡 

2017 JUN 3 17:17:16 pm by 西 牟呂雄

 まァ詮索も何も孝謙天皇と弓削道鏡が強い信頼関係にあったことは事実である。
 そして禁断の天武天皇系は孝謙天皇(後の称徳天皇)を持って終わることは以前書いた。天智系と天武系の睨みあいが先ず縦軸にあって、更に藤原仲麻呂と橘諸兄の対立が横軸で重なる。不幸な事に天然痘の流行で藤原四兄弟がいっぺんに死んでしまってから俄然おかしくなったことに気が付いた。
 権力争いでナントカの乱がしょっちゅう起こって実に複雑だが、勝ち抜きトーナメントのように潰しあっている間に道鏡は天皇の寵愛を受け、重祚して称徳(しょうとく)天皇となられた頃は現在の平城京跡あたりにあった西宮(さいぐう)で一緒に政務を暮らしていた。
 
 弓削氏はご案内の通り河内がフランチャイズの一族で、何やら”弓”を作っていたとか。モノの本によるとかの物部氏の流れとも言われる。
 当時唐から来日した鑑真和上が仏教界にあって道鏡の現役時代と重なっている。また失脚後に流れた下野薬師寺は鑑真和上ゆかりの寺であり、ひょっとすると漢語・サンスクリット語で二人が会話したのではないか等と想像をたくましくしている。少なくとも当時最高のエリートだったはずだ。
 で、話は変わって今まで知らなかったが、道鏡には弓削浄人という弟がいて大納言・従二位にまで出世している、勿論コネだ。
 こいつが大宰帥(だざいのそつ)という九州長官に任じられた。あの菅原道真が飛ばされてなったのが大宰権帥(だざいごんのそつ)という副官だから、それより偉い。因みにこの職名は名前だけ幕末まで残り、最後の大宰帥はあの官軍・東征大総督だった有栖川熾仁親王だ。
 したがって宇佐八幡の神託なんぞ思いのままで、やりたい放題の挙句が兄貴を皇位に就けろというインチキに至ったのだろう。当然のごとく称徳天皇崩御の後は流罪。

 気の毒にそのインチキはさすがに評判が悪く、再度神託を請う勅使に任じられたのは天皇側近の女官だった”広虫”という人なのだが、病弱だと言って弟の和気清麻呂を行かせる。想像するにこの時に密かに『道鏡が弟をそそのかしたのだから反対の神託を持ってこい』と含んだのではなかろうか、と仮説を見立ててみた。
 結果は当然バツ。すると天皇は怒ってしまい広虫は還俗させられ備後国へ、清麻呂に至っては名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と変えられ大隅国に流される。『きたなまろ』!なんという気持ち悪い音だろう。
 僕は小倉にいたことがあるが、足立山という所に御祖神社(妙見社)という神社があった。そこの縁起によれば清麻呂が流される際に足の筋を切られたのだが、小倉の南辺りの温湯で足が直り歩けるようになったという伝説がある。”湯川”という地名が残っていてその辺りの歯医者に通っていたので知った。
 別バージョンもあって、途中もう一度宇佐八幡に参ったところ猪三百頭余が現れ清麻呂を支えたのでゆっくりと歩いて行った、というのもあった。
 僕は小倉時代に宇佐神宮に行ってその伝説を実感した。

小倉記 春風駘蕩編


 清麻呂が”きたなまろ”にされてそんな目にあっていた頃、天皇と道鏡は弓削寺(由義寺)で仲良く暮らしましたとさ。
 そこは場所が分からなかったのだが、八尾市の東弓削遺跡のあたりで遺構と思しき跡が発掘された。平城京の西宮と同格クラスらしい。今年になって七重塔跡と見られる一辺20mの塔基壇が発見されている。

 いずれにせよ天武系がオジャンになり男系が守られたことになるのだが、その遥か後年の今日では皇統の問題は解決されていない。退位の方向で議論が進むが、この問題はまさか投票で決めるわけにはいかない。
 学者だ有識者だで議論すべきことなのかも正直分からない。
 そんなときこそ秘かに陛下の御意向を聞くことはできないものか、忖度などという非礼ではなく。

本当かよ 承久の乱

わかったぞ南北朝 


「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

Categories:伝奇ショートショート

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊