明治甲州奇談 逃避行編
2017 SEP 1 19:19:02 pm by 西 牟呂雄
相馬部隊は寄居に進出し早朝『血眼一家』を攻撃した。それは戦闘というより出入りに近いもので、困民党部隊が一気に押し潰した。血眼の周五郎は初め殴りこみかと思ったがそれどころではない。
雪崩れ込んできた者の中に丈太郎の顔を見つけると『テメエ!一宿一飯の恩義を忘れたか』と叫ぶうちに銃弾を浴びて死んだ。
「相馬さん、これで引き揚げましょうや」
「いや。警官隊は更に増援されるだろうから、ここを最前線として固めよう」
丈太郎は秘かに脱走を決意した。
翌朝、目が覚めると周りは既に新たな武装勢力に包囲されていた。業を煮やした政府は正規兵を投入したのだ。
「オイ!皆起きろ。囲まれてるぞ!」
前日の戦勝気分が抜けていない寝ぼけた連中は、事が良く分からないうちにいきり立った。
「ここまで来たついでだ、やっちまえ」
物陰から覗いた丈太郎は異変を察知して権蔵と地蔵に『あれは警官隊じゃない。鎮台兵だ』と囁いたが、威勢よく飛び出した先鋒の後に歓声を上げてついて行ってしまった。
しかし鎮台兵の一斉射撃を受けて壊滅する。そして銃剣突撃を受けるとあっけなく総崩れした。血まみれになって地蔵が必死に逃げてきた。
「地蔵!オイッ大丈夫か。クソッ」
銃創を負った地蔵に丈太郎が声をかけるが返事はない。
「退け!早くしろ。ズラかるぞ」
困民党軍は次々と撃たれ、突かれ、切られた。いちいち声など掛けていられない。
そもそも寄せ集めの農民兵が正規兵にかなう訳もない。丈太郎は引き返すと台所に飛び込み、すぐ裏の納戸から女の着物を引き摺り出して羽織った。そして束ねていた髪をほどき頭頂のあたりで結い直した。得意の女装で化けるのである。
そこに権蔵が顔を出した。
「兄貴」
とだけ言うとゴホーッと血を吐いて倒れる、もうこと切れたのだろう。
ふいに袖を掴まれたので丈太郎は懐から例のピストルを付き出すと小さな体が見据えていた。
「お光坊、早く逃げろ」
キッと瞳を開いてはいるが体は震えているのが袖から伝わってくる。
「いいか良く聞け。そこで倒れているオッサンの血を顔に塗りたくれ。それで誰かに何かを聞かれたら『おっかさん、大丈夫かい』とだけ言ってオレにしがみついて泣け」
そう言うなり丈太郎も権蔵が吐いた血を顔と着物にベタベタと塗った。お光は黙って言う通りにした途端、鎮台兵が踏み込んできたのだった。
さすがに鎮台兵も哀れな母娘と見たらしい。誰も構う兵隊はなく、そのまま隊列を組みなおして秩父に向かって行った。
結局困民党は決起以来わずか10日も持たずに崩壊し、幹部は次々に捕縛された。
丈太郎とお光の二人は東京を目指さずに鎮圧された秩父の奥深い雁坂峠を越えて落ち延びていった。困民党の生き残りと疑われるのを避けたのだ。
途中、暴徒化した困民党の残党に襲われかけたが、お光が絶妙の演技でしのいだ。意外に度胸が座っていて全く怯まない、丈太郎は感心した。そして雁坂峠では山賊まがいの追いはぎにも会ったが、こちらは丈太郎がピストルで撃退し、何とか甲府盆地の石和に辿り着いた。
日露戦争が終わった頃、北都留郡の谷村では機織のバタンバタンという音が鳴り響いていた。景気がいいのである。この町では生糸の川下産業である機織・染色といった業種が発達し、賑わいをみせていた。
江戸初期にここの大名だった秋元家が改易になった際に、参勤交代装束の一式を残していったため、秋の八朔祭では地元の連中が大名行列を模したお祭りが盛んである。
染物は紺屋(こうや)と呼びならわされ、それぞれ得意な色染めに腕を磨いて、藍染め・紫染め・紅染め・茶染めが盛んだ。その中で一軒だけ黒染めを専業とするところがあった。
まるで内側から黒光りするような鮮やかな艶は『甲斐黒』と呼ばれ、その染付は秘伝だ。実際には一度藍染めを下地にし、それから紅・黒染めをするらしい。
そして更に工夫を重ねて紋付の家紋を染め抜きする技法を編み出した。
主人は細面の眼光の鋭い顔立ちで、普段は物静かな男。そして20才くらい若い『お光』という美人の女房と二人で切り盛りしていた。実はお光の実家はここの出で、その昔秩父の方に奉公に出たことがあったという。
苗字は『藤(ふじ)』と名乗っていたが、主人、藤逸(いつる)の背中に鮮やかな般若の刺青が入っていることを知る者はいない。屋号は『般若屋』といった。
その後店は繁盛し、この家系は今日まで続いているが、三条の家訓を固く守っていた。
ひとつ まつりごとにかかわるな。おかみはいつもかってにころぶ。
ふたつ ぜいきんとりたてるがわにけっしてなるべからず。おかみにつかえるはもってのほか。
みっつ ばくちにふけるはみのもちくずし。にょしょくにおぼれるもしかり。さけはいくらのんでもよし。
おしまい
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Categories:伝奇ショートショート, 藤の人