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藤の人々 (戦前編)

2014 SEP 9 12:12:24 pm by 西 牟呂雄

 
 大正の中頃である。
 京都駅頭に小柄な男が降り、長旅のトランク数個を赤帽に持たせて歩き出した。やや小柄な体躯を前のめりにするように早足で歩き改札を抜けると、当時は改札からやや離れた所にあった人力車を用立てて深々と乗り込み行き先を告げた。
「千本通り高辻下る、じゃ」
東京にはタクシーがあったが、ここ京都は路面電車こそ通っていたものの荷馬車も往来していた。
間口四間の店の前で停まると小僧達が一斉にそちらを見て客かどうか、そうならば『おいでや~す』と頭を下げなければ、と目をこらした。
 短躯の男、名は藤(ふじ)逸(いつる)という。帽子の下の両眼が良く光るが普段はわりと愛嬌のある表情だった。しかしその姿を認めた古手の小僧があわてて店の奥に駆け込むと、入れ替わりに番頭の田原は飛び出してきた。
「これは大旦那様、電報を頂ければお迎えに上がりましたのに。又突然どうなさいましたですか。」
「気が向いたので紅葉を見に来た。」
「そうでしたか。」
二人は京都では目立つ関東弁で喋った。元より逸は口数は少ない。
「貴(たかし)は。」
「あぁッ、それはー今出て居られます。」
「いつ帰る。」
「遅くとも夕方には。」
「遊びに行ってんじゃねぇだろうな。」
「そりゃ・・・。まあお茶を入れますから奥の方へ。」
 この時代はフラリと紅葉を見に京都に来るのは普通ではない。が、それ以上の説明もなく田原も聞かなかった。そういう男なのは承知しているのだが少し慌てた。理由はある。
 逸はお茶を飲みながら田原をじろりと見ると思わず立ち上がった。例によって前屈みでツカツカと店先にまで歩き、その年にでも奉公に来たと見える箒でせっせと掃除中の小僧に声を掛けた。田原はあわてて逸の後ろに立った。
「名前はなんてぇんだ、おめーは。」
「しょうきちだすぅ。おおだんはん。」
 逸は直ぐにここの主人であることを察知した小僧の賢さに好意を持った
「そうか。それで正吉、若旦那はどこだい、えっ。」
「わかだんはんは、でんしゃ(しゃの所が上がる)に乗らはってテエダイいうところに行ってはりますぅ。」
京都言葉でゆっくり喋った。この時代方言はすり減っておらず、逸には意味が分りかねた。
「正吉よ。テエダイっちゅうのは何でぇ。」
「わかりまへん。」
後ろの田原が青ざめて姿を消した。

 藤(ふじ)と言う変わった名前は、今では東京近郊の車で直ぐ行ける清流の里となっているが、その昔は山間の一角に開けた盆地の古い宿場町にのみあり、いくつかに分家してそう広くも無いあちこちに点在している。氏は藤原を称していたが歴史上に登場した人物なぞおらず、この地域にへばりついて細々と営みを続けてきたと思われる。この地域は江戸期を通じて養蚕が盛んであり、その関係で染物も行われた。
 幕末の動乱もこの地では伝承もなく、官軍が通り過ぎて新時代を迎えたが、しばらくして一族の一人、逸が黒紋付の染め抜きで新技法を編み出した。逸は進取の精神を持っており、本来秘伝とすべきその技法を新たに定められた法律の下『専売特許』を取得した。以降逸の一統の家業として順調に発展していくことになる。逸は一族の連枝からひろと言う娘を娶り一家を成し、その時代では少ない方であるが三人の子供を得た。貴(たかし)と玄(くろし)が息子で、この家系は代々一文字の名前を付けた。その下の妹は節(せつ)という。
 日露戦争が終わってみると世の中は忙しく体裁を整えた。都市部は今日の面影がほぼ想像できる程度にインフラが整備され、社会制度といった類いは一通り揃った。地方は大都市ほどにはならないものの、今日のような一極集中ではなくそれなりの文化が息づいている。藤家の家業も大きくなり、黒染めの現場は工場(こうば)と呼ばれるようになった。大正になり、染物の本場京都に店舗を構えてこれも当たり、関東から京阪に出た珍しいケースとして知られた。
 長男、貴と次男、玄(くろし)は対照的な兄弟で、貴は六尺豊かな大男。一方の玄は小柄。貴は理系で勉強家ならば玄は詩人。それでいて性格は兄貴はおっとり、弟は几帳面と言った具合だ。が二人は仲良く、特に貴は弟思いのやさしい兄貴だった。
 父としての逸は概して子煩悩というわけでも無い。むしろ殆どの発明を独学で行い、研究に集中するあまり他の関心を吸い取られているような風情だった。当時のことであるから食事は膳で取ったが、何か閃いた時にいきなり下げさせて分厚い本を取り出したりして家人を唖然とさせたりしていた。

 さて、夜も更けた頃、夕食も食べずに待っていた逸の耳に軒先の騒がしさが聞こえた。京の町屋は奥に細長い。喧噪が近づくのがわかり、段々と声が近くなってくる。貴の帰宅であろうが、逸の突然の来訪を告げているに違いない。
「やあやあやあ、オヤジ殿。」
「ばかものー!」
 大音声であった。あわてた誰かが物を落とした。
 順調に商売をしているはずの貴は、知らぬうちに京都帝大の学生となってしまっていたのだった。その噂を耳にした逸は怒り狂って京都まで突進してきたのだ。
 元来真面目で勤勉でもあった貴は、家業を継ぐべく逸の強い勧めもあって旧制工業高等学校に進んだ。その間も知的好奇心は旺盛で夜間には外国語学校でドイツ語に励んだ。
 卒業後には京都に出した店を任されはるばるやってきたのだが、京都では先に来ていた田原が一切を卒なくこなしており取り急ぎすることもない。田原は幼い頃から見知っている上、若旦那若旦那と呼ばれているうちに勉学の虫が騒ぎ出し、京都帝大の選科生として工学部化学科に通い出した。そうなれば元々商売なぞやる気もなく、流行の有機化学に熱中し瞬く間にマントを羽織った学生になりおおせた。又、酒は強く、軽く二升酒飲んでも酔っ払って我を忘れることは無かった。
 逸は滞在中怒り続け十日程の滞在で帰って行ったが、二つの事を約束させた。帰ってくることと結婚である。逸にすれば跡取りと頼む長男が居心地の良い学生風情でいることに我慢がならず、折しも神田にも出店したのだが怒りのあまり伝え忘れた。
 渋々約束はしたものの自由気儘なこの境遇をすぐさま捨て去ることにいかにも未練が残り、舞子遊びなどをしているうちに一月が過ぎた。年末には帰って見せなければと思っていたところに電報が届いた。
『クロシケッカク』
第八高等学校在学中の玄が何と言うことだ。この時代では一刻を争う事態である。
 
 玄はもはや呼吸も苦しそうだった。医者も気休め以外に効果的な治療方法も見出せず、ただ安静にして栄養をつけるよう言うばかりで離れに寝かされていた。
「兄さん、わざわざ申し訳ありません。」
「何を言う。もう大丈夫だ。」
「ははは、兄さんらしい。嘘が下手だ。」
「んなこたーない(そんなことはない)。嘘などついたことはない。」
「まあ、僕はホッしたところもあるんです。東京にお店を出したでしょう。オヤジさんはそれを僕にやらせようと思っているみたいなんで。いや、口には出しませんよ。でもわかります。僕は商売は苦手なんで困っていたんですよ。」
「バカなこと言ってないで来年どこの帝大にするか早く決めろ。おい、京都はいいぞ。東大よりずっといい。」
 貴は言いながら席を立った。
 オヤジの馬鹿野郎。オレに帝大を辞めさせておいて。こんな思いを玄にまでさせてたまるか。玄は今流行の『白樺』等を読んでしきりに関心を寄せているような高校生だ。玄には好きなことをやらせてやりたいとオレが跡を取ると言ってるんじゃないか。
 一瞬カッとなったが、考えて見ればそういう自分も商売はそっちのけで学生風情になっていることを思い出し、逸の前では何も言うことが出来なかった。
 玄は暫くして逝った。死後日記が見つかり貴は目を通したが、最後までは読めなかった。筆で割と大きな字の綴りだった。
『山紫水明ノ地ニ生ヲ受ク。四季折々、時ニ花ヲ愛デ、雨ヲ楽シミ、川ニ遊ビ、紅葉ヲ喜ビ、銀雪を仰グ。兎モ角モ我々人類ハ、カフイフ感情ヲ持ツニ至ッタノダ。』
 玄の笑顔が浮かんできた。かわいい将来楽しみな弟を失いこれから自分がどうなっていくのか。只、この家系は不思議と人の生死に恬淡としている気質を共有していて、それは逸もその妻のひろも同じである。ハラリと泣いた後は凜として葬儀を仕切った。
 納骨を済ませて、貴はブラブラして過ごしていた。周りが打ちひしがれているふうでもないのに、一人メソメソするわけにもいかない。この地は当時土葬である。一~二ヶ月程たつと盛っていた土がガサッと崩れる。それを見て人は『ああ、土に返ったな。』と囁くのだが、貴はそれを聞いてゾッとしただけだった。
 半年も過ぎたころ二つ目の約束の縁談を持ち込まれた。逸が八方手を尽くし近隣の名士の娘の話を探し出してきた。貴は全然乗り気でなく、日本山岳会に入り登山に夢中になっているところだった。特にアルピニストという呼称が気に入り、自己紹介の時にそう言っては悦に入っていた。
 ところがこの話は一端立ち消えになる。世に言う関東大震災である。震源地から離れているもののガーッと来た。人は歩けず、地鳴りがした。東京下町は一発目で火事を出し大惨事となったが、この地は揺れこそひどかったが家屋の倒壊や火災にまでは至らなかった。ところが三日後の余震が震源が近く死人が出た。通信・交通が遮断され、誰もがどこで何が起こっているのか分らないまま数日を過ごした。
 暫くして逸が出店した神田の店は無事とわかり、年を越した。下町一帯と言っても最も火事の被害でやられたのは、隅田川の東側で、銀座あたりはその頃川も多く流れていて、猛火はそこで止まっていた。無論長屋造りの安普請は倒壊を免れなかったが。

 寒い正月だったが、工場の出初めと初荷を終えた後に貴は逸に呼ばれ目の前に座らされて、おもむろに写真を見せられた。何だこんなもん、と目をやると大変な美人である、いや可愛らしいまだ少女のような娘だった。かたわらで母親のヒロがニコニコしていた。在来の資産家で大変な山林を持つ造り酒屋の六女だそうだ。名前を静といった。
『おめーはこの娘を貰って神田に行け。』
『・・・・まあいいでしょう。』
『「まあ」とは何だ、「まあ」をとれ。』
『・・・・いいでしょう。』
『いいです。と言え。』
『・・いいです。・・』
 神田の店は当時の流行の看板建築というやつで、二軒続きで百坪のうちの表家の一階に店舗と水回り、二階が居住スペースになっていた。新婚生活は裏屋の方で始まった。貴二六才、静十九の新婚夫婦であった。ただ、貴の家系は禿頭であり既に薄くはなっていた。
 静はミッション・スクールを出たいわゆるモダンガールでもあり、しゃれた物を身につけたりお菓子を焼いたりと楽しそうにしており、貴も満足した。神田は当時は往来も多く下町の外食文化と相まって、堅苦しい嫁仕えはやらずにすんだ。
 そして年号が昭和に変わる。時代がゆっくりと変わっていった。

つづく 

藤の人々 (昭和編)

藤の人々 (終戦編)


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