Sonar Members Club No.36

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小倉記 早春流浪編

2013 AUG 30 9:09:41 am by 西 牟呂雄

 年が明けてこの方、ひどい風邪をひいてゴホゴホいっている。一人暮らしの風邪というのは実に直らないもんだ。インフルエンザでもないので、高熱をだすにも至らない。寝てばかり居ると実に寝汚いことになって鏡なんぞ見るのもいやになる。しかし良く考えて見ると今回の単身赴任まで一人暮らしを全くしていなかった。東京生まれなので親元から学校に通い、気楽な独身サラリーマン時代も両親存命、海外ではホテル暮らしで掃除も何もせず、だ。周りには、単身赴任10年目とか還暦まで独身といったツワモノが大勢いたのだから文句も言えまい。 ただそれならそれで、相応のリズム感が生活に出てくるはずだが、不思議なことに僕の場合少しもそうならない。一番の原因は酒の飲み過ぎで計画がオジャンになり、何をするにも出たとこ勝負になるからだ。もうそうもいってられないのだが。

 駅南口の旦過市場は正月には静まりかえっていて季節感があった。昔はコンビニも何も無いから、長持ちするお節料理を造り毎日毎日食べていた。一方隣のラブホは普通に流行っていて季節感はない。 ゴホゴホいいながら出勤してみれば、工場犬チビもケホケホいっていた。こいつも何とか年を越したかと思うと感慨深い。次の戌年まであと五年もあるから、それはさすがに無理だろうが。しかし犬には『死ぬ』という概念は備わっているだろうか。自分が消えてなくなり、意識の無いモノに朽ち果てるということはいくら利口ぶっても分らないだろう。人間はその辺の事柄を感じたあたりから業を背負ったのだな。

 温泉にでも浸かろうと、車で適当に南に向かってみた。九州は実に多くの温泉が湧いており、中には一軒宿で日帰りできるようなものも有るためドンドン行けば何かの案内に当たるだろうと安易に考えた。すると、というか怪しげな案内板が目について、何と『河内王』の墓。九州なのになぜ河内なのか。吸い寄せられるように行ってみると、フェンスに囲まれたこんもりしたミニ古墳に「宮内庁」の看板!これは皇族ということになる。案内によるとこの人はカワチオウでは無く「カワチノオオキミ」だそうで、河内の国とは何の関係もないがここで身罷ったそうだ。察するに太古の昔はカワチという音は地名とは別の意味があって(例えばカワイイとか)その名の皇族がここでバッタリいったのだろう。太宰府に行く途中だったらしい。

 道が細くなったり幹線道路に交わったりして山深くなっていった。十分に山の中だな、といったあたりで突然盆地が開けた。車も増えてほぅーっと思ったが車のナンバープレートに筑豊の文字。筑前の国と豊前の国の真ん中で筑豊、そうか、ここは旧産炭地なのか。地名は田川だった。田川の盆地まで車を進めると何やら物々しい煙突。行ってみるとこれが『石炭歴史記念館』だった。確かに当時にしてはバケモノのような煙突が立っていて、敷地内に当時の住居、機械類、ジオラマが展示してあるが、ひときわ目を引くのが『炭坑節発祥の地』という記念碑だ。それによると、一般に歌われている「三池炭坑の上に出た」は「伊田の炭坑の上に出た」が本当だが、田川伊田坑の方が先に閉山してしまったために後付けしたのだ、と書いてある。因みにどちらも三井のヤマだ。我国一大産業として傾斜生産の恩恵にあずかり戦後の一翼をになったものの、現在の風景は「ツワモノ共の夢の後」。石ころの山だったボタ山はその後道路の補修や埋め立てに使われ、残っているのには(3つ位見えた)木が生えて緑の山になっていた。

 しかしまぁ世界遺産か何かになった山本作兵衛の炭坑画にある通り、それこそ戦前のヤマの労働条件はひどいものだったようだ。その一方で大手では炭住と呼ばれる社宅はタダ。中央財閥系以外にはバケモノのような成金も多く、基幹産業であったことが偲ばれる。その名も高き伊藤伝右衛門の屋敷にも行ってみた。伊藤をご存知なくとも歌人柳原白蓮と金爵結婚をして、その後逃げられた人と言えば小説にもなったアレかとお分かりだろう。生涯文盲だった、とか上京した際に「タダイマチャクタン(着炭、石炭入荷の意)」と電報を打った、といった伝説がある。実際は衆議院議員にもなったりして単なる成金というだけじゃ無く、大物だったんではないか。そりゃ女癖なんかは相当に悪いんだろうが、白蓮が新聞紙上にぶちまけた絶縁状には邸宅内にもそれらしいのが居たことが綴られている。

 屋敷はなかなか凝った日本家屋で、玄関横の洋式応接間、いくつもの広い座敷、畳敷きの廊下、タイル張りのお風呂に九州初の水洗トイレ、と精一杯若い嫁さんを迎えようといった大らかな意思を感じた。廊下の突き当たりに階段があり、上ると一部屋の居室。その部屋で白蓮が日常を過ごしたそうだ。何だかそこだけ隔絶されているようで、『ここは私の領地。何人たりとも入るべからず。』という覚悟を感じさせる。僕が言うのも何だがイヤな女だったのではなかろうか。伝右衛門の方は、逃げられた後(宮崎滔天の息子龍介と駆け落ち)「全てを許す。」という声明を出していて、実は持て余していたに違いない。むしろ結婚自体も金欠貴族に頼まれて仕方なしだったんじゃないか、何しろ白蓮の歌は少々気持ち悪い。

 もう一つ。高倉健さんはこの辺の出身で、親父さんは炭坑の事務職だったらしい。地元の名門高校から明大に進み俳優になった、とのこと。道理でヤマの話が良く似合うわけだ。この日は特に名前は記さないが、シケた温泉の小汚い宿に駆け込んで素泊まりにしてもらい露天風呂に飛び込んだが、翌日風邪はもっとひどくなった。

 ひどくはなったが、根が貧乏性なもんで、折角ここまで来たのだから、と更に山中を分け入って、道の駅で一服しながら観光案内のパンフレットを見ると、『東洋のスイス』なるふざけた見出しがあった。アルプスの少女ハイジのコスプレかと疑ったがそうじゃなくて鯛尾金山跡!これは行かねば、とばかりに山また山を越えると中津江村と言う所に着いた。ご記憶だろうか、ワールドカップの開催時にカメルーンのチームが合宿していたあの村だ。そして鯛尾金山跡はそこにあった。

 どうやら明治時代に英国人が経営していた金山で、多くの外人が来ていたので『東洋のスイス』ということなんだが、いかにも苦しい。金を掘る山は堅い岩山で、やはり炭坑とは格が違う。機械化も早くから進んでいて、長い坑道が見学コースになっていた。古い写真には女性もたくさん写っており何だか明るい、掘っているモノも明るいからか。地下数百メートルの海面より深いところまで掘ったそうだ。そして掘り尽くしてイギリス人もいなくなり、観光に力を入れたりカメルーンを呼んだりして普通の田舎になった。下手に流行ったりするものは最後はみんな同じ道をたどって廃れるんだな、これが。

 ウーン、地道に目立たずやろう、と殊勝なことを考えながら坑道を後にすると、小さなせせらぎがあり、何とオタマジャクシがウジャウジャいた。春が近いな。

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