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小倉記 さらば小倉・さらばエカテリンブルグ編

2013 SEP 3 18:18:25 pm by 西 牟呂雄

一年と少し小倉に住んだが仕事も一段落、流れ者としてはケジメをつける意味で都に帰ることにした。感慨は特にない。心残りは日本初の工場犬チビとの別れだが、アイツの残り少ない犬生を見届けられないのは残念だ。死んだ後、工場の一角にでも埋めてやろうなどと考えるのは守衛のおじさんと僕くらいだから、どこかでゴミにされたりしたら浮かばれない。

もう一つ、小倉の軍歌バー『予科練』も寂しがってくれるだろう。実に怪しげな店だった。例によって酔っ払って帰る時に旭日旗の看板に気付き思わず入ってしまったが、水兵服のジイサマとモンペ姿のバアサマがいて、ガンガン軍歌をかけていた。付け出しは乾パンと金平糖。因みに僕の親父(2013年時点85才)は旧海軍兵学校の出身で同期会の会長をやっている。本人は「世が世であれば聯合艦隊司令長官。」と大はしゃぎしていたが、一般に旧海軍はクラス会が盛んで、関係各種学校の同期会は今でも集まっては「貴様元気だったか。」と軍歌演習に励む。それで知らず知らずの内に僕や僕の息子にまで伝染し、息子に至っては子供の頃から大のゼロ戦ファンになってしまった。その手の話をその『予科練』でひけらかしていたら、『提督』などと呼ばれて調子に乗っていた。後日その話を親父にしたところ「お前のようなシロートが提督とは怪しからん。オレが行って本物を見せてやる。」と烈火のごとく怒り狂った。不思議なことにいつ行っても他に客がいたことがなく、そのせいか勘定はバカ高かった。

ところでアベノミクスもいいのだが、製造業の現場までは半年・1年もタイムラグがあるから、年度変りになっていよいよ工場を臨時休止せざるを得なくなった。実体経済はやはり設備投資と物流だからまだまだ耐える期間ということでしかない。工場を止めると月に2回程3連休になってしまうのだが、それは悲惨な暮らしだった。何しろ単身赴任だから、掃除・洗濯をやり尽くし、朝から酒を飲んだりしては昼夜逆転になってしまう。テレビはBSの洋画がつけっぱなしで、誰とも会話しないから英語ばかり聞いていると3日目には今どこにいるのか分らないような錯覚症状を起こす。その間食事なんかカップ麺かコンビニおにぎりが1日に2回程度だから体に悪いなんてもんじゃない。ヘトヘトになって連休を乗り切り月曜日に出勤するという本末転倒の極みになってしまった。それやこれやで都(みやこ)に舞い戻ることを決心したのだが。

ところがその都たるや、チョットいなかっただけで東横線の渋谷駅は地下にもぐり、吉祥寺駅は工事中、赤プリは影も形も無くなった。小倉が疲弊しているというのにこれは何だ。東京駅周辺に至っては再開発だらけで壊すわ建てるわ、政権交代ねじれ解消で破れかぶれになった都が発狂したようだ。オリンピックもまだ先なのに、もはや僕の時代は過ぎ去って早くも引退モードに入れ、という例の天の声が聞こえそうだ。

さらばついでに、直近に訪問したロシアの旅を紹介しよう。前回は二月に行って零下30度と冬将軍に痛めつけられたので夏場にしてもらった。すると今度は白夜。夜の八時なんかはカンカン照りだった。

訪ねたのはエカテリンブルグという百万都市。何しろあの国土に一億四千万人しかいないからスベルドロフスク州では抜きん出た都会となる。この前隕石が落ちた所から約百キロ、モスクワからは千七百キロ(飛行機で2時間、時差も2時間)、この街から東をシベリア、西をヨーロッパ、即ちヨーロッパの最東端に当たる。ちゃんとそれを表示したオベリスクが立っていて、まぁ田舎なんですな。このヨーロッパという概念はどうも白人・キリスト教徒には大変な重みがあるようで、ロシア全体を何とかそちらの方にくっつけていたい、と思わせるアイデンティティーになっているようだ。余談だが革命時に最後のロマノフ、ニコライ二世と一家が皆殺しになったのもこの街で、惨殺現場に教会をたてたのがエリツイン。

ここら辺のロシア人の感覚は百キロ二百キロはちょっと隣町のノリで、レセプションのある隣町の工場が二百キロ離れていた。道路は良く整備されたフリーウエイのような幹線道路が、時に地平線までまっすぐに続く。とにかく人なんか住んでないのだから地形を縫うようにサッと線を引けば計画ができる、という感じ。但し冬の間もスパイクを履いた重量トラックが猛スピードで走るから傷みはひどい。

このエリアでの事業は日系の例があまりなく、レセプションには地元政府の要人(州副知事)、製鉄会社社長、に加え恐れ多くも日本大使館から公使閣下・審議官殿・三等書記官様のご一行の臨席も賜った。時間も有ったので市内見学と称して古い製鉄所の跡地を見学したが、驚いたのなんの。高炉モニュメントは18世紀、前世紀の遺物とも言うべき反射炉(通訳の人は平炉と訳したが構造から見て、鹿児島や韮山にある反射炉)に至っては19世紀からつい40年前まで使われていたそうだ。よほど原料の純度が高いのでこんな設備でもそれなりの歩留りがとれたのか、或いは旧社会主義体制には償却の概念が無かったそうだから、使い物にならなくなるまでやめられないシステムだったのか。

だが一番大きな理由は、タダ同然の土地がいくらでもあるので、壊すにも金が掛かるからほったらかしにしてハイお次、とばかりにサッサと別の所に造っちまえとなったのではないだろうか。これは中国なんかでもそうで、新規高層建築の隣で経営者が夜逃げした草ボウボウの立派な工場なんかザラにある。僕が以前やっていた工場の隣のビルは農民工の寮になっていたっけ。

レセプションの後、エカテリンブルグまで戻り保養所のような所に泊まった。ところが白夜なものだから夜8時位までサッカーをして遊んだりするのだ。これもロシア流の歓迎と喜びの証、とつきあったがそれだけじゃない。10時頃からはウオッカをやりながらサウナに入り水風呂に飛び込むといった難行苦行が続く。ただ、感じたのは彼等タフネゴの時とは別人のようなしみ通るような笑顔でもてなす。ひょっとすると義理人情の世界が透けて見える気がするのだが。

翌日はエカテリンブルグ市内でさる展示会の打ち上げの市長主催のパーティーにも招待された。かなりの大規模な立食ガーデン・パーティー形式で、バンドが入り大賑わいだった。圧倒的に目を引いたのは案内役のプロポーション抜群のホステス達で、棒高跳びのイシンバエアやテニスのシャラポア並みの美人がゾロリと立っている。いやはや街中にウジャウジャいたデブのオバさんとは別の民族なんだろう、きっと。又、会場をヒラヒラ歩いている人形のようなメイクの妖精コスチュームの女性にも驚いた。何というのかピッタリした素材に等高線のような縞模様のデザインで、小柄ながらこれまた均整のとれたボディラインを、新体操のような振り付けでヒラリヒラリと歩いている。一言も発しないので何か食べているときに隣に来られるとビックリという嗜好だ。もう一つ、大きなエアドームがあって、なぜかアフリカ館になっていた。中には各国のブースがズラリ。英語・フランス語・現地語が飛び交ってワンワンとうるさい位だった。そこで何を商談しているのかは展示も無くさっぱり分らない。一回りしてハッツとしたのだが、これはロビー活動なのではないか。

実はエカテリンブルグは2018年サッカー・ワールドカップと2020年万国博覧会に名乗りを挙げていて街中にはポスターがたくさん貼ってあった。誘致をする際にはかなり荒っぽいことが行われていることが知られているが、まとめてご招待ならば腑に落ちる。その裏では更にそのぅ・・・・。これは大変だ・・、PM10時過ぎにやっと暮れゆくユーラシアの真ん中で、僕は新たな躍動感に包まれたような気がした、密かに力こぶを造ってみた。

と言う訳で小倉記はこれを持って終わります。次のシリーズで又、ダスビダーニャ!

 

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あいや御同輩、いやさお若えの

Categories:小倉記 東京より愛を込めて

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