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オリンピックへの道 (死闘10番勝負 その1から5)

2013 NOV 17 15:15:26 pm by 西室 建

  やはり、最も盛り上がるのは、宿敵同士が火花を散らす鍔迫り合いだろう。どの世界でも見応えのある勝負には胸が躍るが、必ず勝者と敗者に分かれる。手に汗握る攻防を制した者は賞賛に値するが、そこまで力を引き出した相手にも同様の拍手を送りたい。しかし、厳しい話ではあるが両者の間には決定的な差があり、また無ければそれ程までの名誉と誇りを賭ける勝負は生まれないだろう。それらの名場面は日々、色々なところで見ることができるが、オリンピックに絞っていくつかの死闘を拾ってみたい。

 陸上男子100m カール・ルイスVSベン・ジョンソン                    
 ロサンゼルスオリンピックに於いて、100m・200m・走り幅跳び・男子100m×4、の4冠に輝き、ミスター・オリンピックと言われたアメリカのカール・ルイスと、ジャマイカ生まれのカナダ移民ベン・ジョンソンの一騎打ち。オリンピック後も世界陸上等を次々に制覇し、スーパースターの名を欲しいままにしていたルイスに、前年に彗星の如く世界陸上100mでこれを退けて世界新記録を樹立したジョンソンが88年のソウル・オリンピックで挑んだ。
 この決勝レースをテレビで見ていたが、この頃からゴール側から走り込んでくる選手をズームする映像が流されるように成る。ついに追いつかない、となった時点でのカール・ルイスの「あー、コンチクショウ!」となった表情が非常に印象深い。
 この時の女子100mの金メダリスト、フローレンス・ジョイナーはゴール前に勝利を確信して笑いながらフィニッシュした映像が残されている。
 ベン・ジョンソンは上半身からしてまるでプロレスラーのような筋肉のマッチョ・マンだった。そしてレース後に発覚するドーピングでメダル剥奪。その後復帰したが、もう一度陽性反応が出て永久追放となってしまった。しかし、一方のルイスの方も選考会の時点では興奮剤か何かの陽性反応が出ていた。怪しいものだ。彼等の死闘が汚されてしまい、何となく後味の悪さが残った。ただ、敗れ去った後、ルイスはジョンソンに握手を求めに駆け寄っている。顔には悔しさが丸出しではあったが。

 柔道無差別級 ヘーシンクVS神永昭夫              

神永   言わずと知れた東京オリンピックの柔道無差別級決勝。東京からオリンピック種目になった柔道は「お家芸」の国民世論の元、ズラリと金メダルを並べた。そして「柔よく剛を制す」の柔の心の本家本元、無差別級の決勝に臨む神永昭夫のプレッシャーはいかばかりか。巨漢ヘーシンクの袈裟固めで敗れてしまったときは、筆者でさえも日本が負けたような気分を味わった。
 実は直前に膝の靱帯を断裂していた。今日であれば合理的に公表されて然るべき事態もこの時代は違った。自ら口することすら恐らく卑劣と解釈されたであろうし、神永はひとことも言わずに試合に臨んだのだ。
 神永は当時某製鉄会社のサラリーマンとして勤めていたが、この人の凄いところは、負けて大騒ぎになった翌日も定時に出勤したらしい。やはり達人の域に近いのではないだろうか。筆者はその後、鉄鋼海洋事業部、N製鉄所等の幹部だった御本人を存じ上げているが、実に立派なお方だった。社会人野球の部長も(監督ではない)されて、敗色濃い試合でも抜群の存在感だったと聞いている。
 一方ヘーシンクは指導者として母国で過ごしていればいいものを、ナニを感違いしたのか(恐らく契約金に目が眩んで)ジャイアント馬場が率いる全日本プロレスのリングに上がる。実は私の専門はプロレスであり、本気のガチンコの実力を見抜くのには自信がある。ヘーシンクは強さについては充分なのだが、プロレス・エンターテイメントの作法になじめず晩節を汚した。プロレスなめんなよ。    

 ホッケー インドVSパキスタン                                  
  戦前からインドではホッケーが盛んで、オリンピックには英領インドとして参加し、1928年のアムステルダム大会から3連続金メダルの強豪だった。このうち1932年ロサンゼルス大会は、ホッケー競技の参加国がインド・アメリカ・日本の3カ国しかなく、わが日本は堂々銀メダルに輝いている(参加国が全てメダリストという珍しい記録)。戦後も1946年からインド共和国として3大会連続で金。ところがその間1947年にはパキスタンがイスラム共和国として袂を分かってインドのライバルとなってしまった。インドの3連勝の最後1956年のメルボルンではパキスタンが銀メダルを取っている。即ち決勝で当たっているのだ。
 以後80年代まで両国の死闘は続くことになる。古来より、国境を接する国同士が仲が良かったためしがなく(我国もアノ国との関係でよく思い当たる)宗教の対立まであるため武力闘争を何回も起こし、更には核の開発競争にまでエスカレートしている。今でも国境の町で、夕刻国旗を降ろしゲートを閉じる時の通称フラッグ・セレモニーなんぞは大変な盛り上がりである。毎日毎日やるのですぞ。
 そして56年から64年の東京大会までは両国がズバ抜けて強く、3大会連続で決勝で当たる。60年ローマはパキスタン、64年東京はインドが雪辱、68年メキシコはまたパキスタン(この時インドは銅)が金を取っている。
 両国の対決はオリンピックらしからぬ乱闘騒ぎまで起こしていた。その後もライバル関係は続くのだが、他のスポーツの振興もあり80年のインド、84年のパキスタンの金(共に相手はメダルに届かず)が最後となった。

 棒高跳び ハンセンVSラインハルト                             
 これは東京オリンピックで、筆者は最後のところだけテレビで見ている。これが死闘たる所以は延々昼過ぎから夜遅くまで試合が続いたところ。このオリンピックは10月に開催されたため日暮れが早い。それにしても(無論照明はつけられたが)月下の決戦で、確か競歩だったかトラックに選手が次々にゴールしていた中での場面を覚えている。
 記録的には5mを越えた当たりだったと思うが、両者一歩も譲らない。棒高跳びの経験は無いが昨今のスター達を見る限り、かなりの瞬発力、集中力が求められるのではないか。アメリカはこの大会までのオリンピック全て金メダルの14連勝中でハンセンは医学生だったと記憶する。バーを上げてのジャンプ前にフィールドに横たわっていた姿が映像にあったが、あんなことで精神が集中するものか、と思った。そして2-3度ポールのしなり具合を確かめた後に一発でクリアした。
 対するラインハルトはニコリともしないで黙々と挑んだが3回ともバーを落とした。国立競技場から「アーッ。」という歓声が上がった。このときラインハルトは駆け寄ってハンセンの勝利を称え、すぐに控え室に走っていった。僕は子供なりにゲルマンとはこういうものか、同じ白人でもアメリカとは違うな、と思った。記録によれば午後1時からはじまって9時間を越す正に死闘だった。

 男子バレーボール 日本VSブルガリア                             
 この頃から女子ばかりが人気だったバレーボールで男子も人気スポーツとなり、特にミュンヘ・ンオリンピックに向けてのアニメ放送とタイアップしてブームを呼んだ。実際には東京で銅、メキシコで銀、と一定の実力はあったのだが、東洋の魔女の名前の前に霞んでしまっていたのだ。市川崑監督のドキュメント映画には1シーンも登場しない。このアニメは松平監督自らがテレビに売り込んだ、という話がある。レギュラーにも個性的な選手がいて、大会前から人気が出てきていた。
 その頃は実業団リーグで製鉄会社のチームが強かった。その縁があって中村祐造選手の話を聞いたことがある。一番の天才的プレイヤーはセッターの猫田選手で、目が顔の横の方に位置しているからチョッと首を振るだけで真後ろの相手のコートが見えたという。
 名将松平監督に率いられたチームはA・B・Cクイック、時間差攻撃を駆使して勝ち上がって行く。ところが準決勝で東欧のブルガリアと当たり、1.2セットを連続して落とし絶体絶命のピンチに陥る。松平監督はここでベテランのキャプテン南を投入。怒涛の巻き返しで3セットを奪い勝利した。
 劣勢の中、突如日本の若い女性が2~3人「ニッポンチャッチャッチャッ」をやりだした。熱狂的なファンがやっているのだろう、と初めの内観客は「何だこれは」という反応だった。だが日本は第3セットに追い上げだすと、声援に応えて南はオーバー・アクションで走り回る。しまいには会場全体で(大半がドイツ人だろうに)ニッポンチャッチャッチャが始まった。ブルガリアの選手は呆気に取られたことだろう、多少気の毒ではあった。そしてこの勢いで決勝は東ドイツに圧勝して金メダルを取るのだ。

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オリンピックへの道、死闘10番勝負、その6から10

死闘(ヴァーチャル)十番勝負 そのⅡ(1から5)

死闘(ヴァーチャル)十番勝負 そのⅡ(6から10)

Categories:死闘十番勝負

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