出雲への誘惑Ⅱ
2014 JUN 9 23:23:56 pm by 西 牟呂雄
大国主命の一族のその後に思いを巡らせているとき、ハタと気が付いたことがある。
松本清張の『砂の器』に出雲の亀嵩が出てくる。小説は東北訛を追いかけて行くと出雲に辿り着き、それが事件解明に繋がるという話だ。文脈では東北(恐らく日本海エリア)の方から出雲まで言葉が流れたというモチーフと記憶するが、これ逆じゃないか。
日本海の海運は江戸期の北前船の物流のように極めて盛んで、東北から山陰を経由して関門を抜け、瀬戸内を通って大阪に至る。ここで様々な物(一番は米)の値段が決まってから「下り船」で大消費地の江戸へと向かう。無論復路もある訳で、帰り船は黒潮の分流に乗って能登くらいまではスイスイ行けたはずだ。
「越」の国。古来より継体天皇が出てくる等、大国だったと思われるが越前・加賀・越中・越後と広すぎるのでパスすると、その先はまぁ東北となる。
このルートで行くと出雲発祥の出雲弁が東北方言の一つのルーツと言うのもあまり無理筋ではないと考えた。大国主命が国を譲ってしまった後、その一門は天孫族の目をかすめて海路北を目指す。その一部が信濃に辿り着いて諏訪神社を造営し、別の一団は更に日本海沿いを進む。なかなかイケるのではないか。盛岡在住の作家高橋克彦氏によると、青森を中心に東北ではやたらと大国主命が祭られているそうで、見方を変えると一族は東北に逃げ込んだと考えられなくも無い。
源義経の生存北上伝説が知られているように、政治的にマズくなると北に逃げ込むというのは、中央の統制が利きにくかったからだろう。そう思って平家と物部氏に狙いをつけてみたら、あった。確かそうなところをそれぞれ挙げておく。
物部の方は秋田県に唐松(カラマツ)神社というのがあって、宮司は何と物部さんという。しかもそこの『物部文書』というのには、蘇我氏にやられたのでここまで逃げて来たのではなく、先祖神ニギハヤヒが鳥海山に降りたのが始まりで、その後スッタモンダの挙句に物部守屋の子供がこの地に戻って(逃げ帰って)落ち着いたのだ、と。この家系からは物部長穂工学博士や実弟の長鉾陸軍中将も出ていて本物だ。
平家はと言えば能登の輪島に大納言時忠の子供、時国の血をひく時国家という家系が続いていて有名。こちらはかなりの信憑性がある。他にも落人伝説は東北全般にあるそうだ。
蝦夷(えみし)という名称はアイヌ民族説もあるにはあるが、思うに”中央に従わない”あるいは”中央に背を向けた”人々の総称なのではないか。佐藤愛子さんの佐藤家はその中でも特に反抗的な荒蝦夷(あらえみし)の系統だと聞いたが、頷ける。或いは東夷の沙門を自称した今東光大僧正しかり。
しかるに年代的に物部・平家よりも時代の下る出雲こそ、日本のルーツの一方の旗頭に相応しいのではないか。うーん、ロマンを感じるなぁ。
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