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名古屋だぎゃ (お城と神宮)

2015 JUN 21 18:18:22 pm by 西牟呂 憲

 

天守閣

天守閣

 
 なかなか観光で来ることはない名古屋。仕事で来ていたときも、東京に近すぎるのでちょっと見て歩くようなことをしたことがない。縁があって尾張名古屋にやってきた。他にも観光地はあるのだろうが名古屋シロウトとしては出だし名古屋城に行く。米軍の爆撃を食って炎上したため、天守閣も光り輝く金の鯱(しゃちほこ)も残念ながらレプリカだ。焼失したものは鱗が全て高純度の金で、しばしば盗難にあったことも知られている。しかし正門をくぐって入る時の堀の深さや入場してからの天守閣への経路のディフェンスなど実に考え抜かれており、広さから推定できる収容人員の規模も大きい。戦いには強い名城と思えた。特に天守閣の石垣の高さと傾斜は、名人加藤清正の作品らしく見事なものだった。
 思えば鳥羽伏見の後、東海道を上ってくる官軍に対し守りを固めたこの名城で食い止めた場合は激闘があったかもしれない。ところが尾張藩は初祖義直の頃から朝廷との縁が深く、逆に王政復古後の混乱期は東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった譜代大名を勤皇側へ動かす方へ回る。
 元々将軍家と同格意識があり、異才の藩主七代徳川宗春などは将軍吉宗とことごとく対立して見せた。こういった気風を残した開明派の徳川慶勝が巧みに時代の流れを読んだということだろう。

  熱田神宮にもお参りに、鳥居が直立不動といったシンプルな感じ。
 ここは草薙の剣が御神体。話は古く素戔嗚尊が切り刻んだヤマタノオロチの尾から出た剣だ。それを日本武尊が東征の折りに携行して危機を脱出。ところが伊吹山で身罷ってしまったため、残された宮簀媛命 (みやすひめのみこと)がここに祭った、という複雑な経緯をたどっている。
 
 

 

 従って創建された景行天皇の時代には剣もあったのだろうが、現在は諸説あってよくわからない。どうも御神体の櫃の中に何かはあるようだが見た人はいない。平家が壇ノ浦で滅亡した際に平時子が安徳天皇を抱いて入水した際に腰に差して水没して見つからなかったという記述があるものの、それも本物だったかどうか。
 戯れにガイドの方に『本当はどうなんですか』と聞いてみると『それは気にしなくていい事なんです。我々も見ることはできませんし、宝剣は人の目に晒されただけでもケガれてしまいますから。』と実に明快に不明瞭な説明をされた。

 織田信長は例の桶狭間に行く際はわずか5騎のみを連れ飛び出し、ここ熱田で軍勢が集まるのを待って戦勝祈願した。

信長塀

信長塀

 首尾よく勝利した後寄進した「信長塀」が残っている。現存しているのは120メートル。
 信長と言えば、叡山焼き討ち、長島一向宗殲滅、石山合戦と仏の方は抵抗すると徹底的に弾圧したが、神様は何にも難しいことは言わないから平気で拝んだのだろうか。
 一説には『勝つなら表、負けるなら裏を』と賽銭10枚をバラ撒いたところ全て表が出た、と言う。手の込んだことに表を貼り合わせた細工だったとか。多分嘘だろう。
 しばし、たったの5騎で兵を待っていた織田信長の心境に想いを馳せたが、どうもヤケッパチになったのが実態だったのではないかなァ。もうこれしかない!と頭に血が上るまで戦術を練りながらこの境内にいたのだろう。

 近くに名物『ひつまぶし』の本店があって、午前中に予約を聞いたら午後二時からと言われた。そういうものなのだそうで、その間にお参りをしていた。
 それでその『ひつまぶし』なのだが旨い上にコッテリ感がすごく、二日酔いの胃にはキツかったが確かに旨い!
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 ところで東海道五十三次の四十一番目『宮宿』とはここ熱田のことで、当時の東海道はここから海路桑名宿へ行ってしまい名古屋は通らない。そっちは美濃街道になるのだ。
 そのルートが示すとおり、広い境内の足元まで海になっていたようだ。
 そういえば新幹線も当初は東海道線の方ではなく、四日市ルートで計画されたようだが怪物政治家、大野伴睦の辣腕で岐阜ルートになってしまった。そりゃ票になったでしょうね。

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