世阿弥 秘すれば花 Confidentiality should be The Flower
2015 SEP 18 12:12:39 pm by 西 牟呂雄
世阿弥の能楽理論書として名高い『風姿花伝』にある有名な一節ですが、『秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。』となっています。私は長い間この言葉をどうやら間違えて理解していたようです。
そもそも室町時代に書かれたのですが人口に膾炙したのは明治になってからで、本当に『秘』されていました。
私は勝手に、表現者(アーティスト)としての天才世阿弥が観客に向かった際、ズバリそのものの感情を出してしまうのではなく、なるべく隠すことによって深みを出すのが芸だ、ということだと。例えば『悲しい』を表すのに打ちひしがれる仕草ではなく『佇む』、『喜び』を表すのに小刻みに『手振り』をする、というようなことを指していると考えたのです。
ところが、最近気になって文献をめくったところ、少し違うようです。
能は面をつけて、老人・女性を表現します。自分の表情や性別を隠します。
世阿弥はそういったものを演じる際の心構えを『風姿花伝』に書き付けていますが、長い歴史に埋もれた間も流派別に口伝として受け継がれて、色々な解釈が伝わっているのです。
ある解釈によると、「花」というのは人が発見する気付く「珍しさ」「面白さ」を指していて下世話な言葉でいえば、それに至るネタはなるべく隠しておきなさい、と教えていると。
これはいかがなものか。演目も同じ物を等何度も見れば見巧者は粗筋も結末も分かっていて今更「珍しさ」「面白さ」もない。観阿弥・世阿弥の天才親子により幽玄美を追求する「夢幻能」にまで磨き上げられた芸は、奇を衒うでもないでしょう。鑑賞者は『さすがはあの間の取り方だ。』とか『今日のは多少大げさだな。』等と思いながら見るものと思います。
世阿弥は将軍足利義満の庇護をうけて極めて寵愛されます。大変な美少年でもありました。しかし義持・義教と代がかわるに連れて、弾圧が加えられるようになるのです。その背景には足を引っ張られたり、はたまた世阿弥の器量も落ちてきたり(仮説ですが)挙句の果てに1434年に佐渡国に流刑されてしまいます。
『風姿花伝』はその絶頂期の少し後、義満没後に書かれたものですね。
ここまで完成させた我が芸を、余興紛いの猿楽・田楽などと一緒にされてたまるものか、と思ったかどうか。その失意と執念が『秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。』と書かせたと考えれば。
いや、古典を現代語で読んでは誤ります。
今日の口語で言えば『分かるやつにはいつかは分かる。花になるまで隠しておけ。それまで決して漏らすな。』ではないか。うーん、どうかな。
事実『風姿花伝』は能の各流派に秘蔵され、極一部の大大名家にあるだけで、明治42年に吉田東伍が『世阿弥十六部集』を出版するまでは一般の目には触れなかったわけです。
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コスモス
1/17/2016 | Permalink
いつも楽しく読ませていただいていますが、「秘するが花」。初めてコメントさせていただきます。世阿弥にとって「舞台」は戦場。「風姿花伝」も勝つ(観客を感動させる)ための指南書。とはいえ、自己啓発本として「有り難く」読むだけでは面白くないです。「初心忘るべからず」で現代版独断解釈されていましたね。外国の文学も古典も頭ではなく、体を通して訳してこそ、妙味。これからも現代版独断解釈シリーズ楽しみにしています。
西室 建
1/17/2016 | Permalink
コスモス様、コメントありがとうございます。
「舞台」は戦場、とは目から鱗ですね。
現代版独断解釈とは恐れ入ります。源氏物語でもやりなおしますか・・・って多少荷が重いかと。
徒然草でもかじってみましょうか(笑)。
コスモス
1/18/2016 | Permalink
西室さま、返信ありがとうございます。体を通して訳すと書きましたが、もし、ご興味がありましたら、安田登(1950生・能楽師)著『中国の古代文字から―身体感覚で「論語」を読みなおす。』もおすすめです。また、源氏物語もいろいろな方が訳されていますが、語り手がなんと光源氏という橋本治著「窯変 源氏物語」に対抗して、新たな視点で訳されたら面白いですね。林真理子氏は六条御息所に語らせていらっしゃいます。さて、西室さまは、どなたに乗り移られるのか?
西室 建
1/18/2016 | Permalink
コスモス様
お言葉に甘えまして源氏の次男坊(実は実子でない)『薫 中将』にでもなってみますか。
いや、いっそのこと『夕顔』になったりして、ナンチャッテ。