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海軍名パイロットの系譜 (今月のテーマ 空)

 安倍総理が真珠湾で名前を出した飯田房太中佐(戦死後二階級特進。戦死時は大尉)のことを調べてみた。『The Brave respect the brave』がいたく心に残ったからだ。
 映画「トラトラトラ」で被弾した零戦が帰投を諦め米軍格納庫に自爆攻撃をするシーンはこの飯田大尉がモデルとも言われている。
 海軍兵学校62期で巡洋艦に任官した直後に飛行学生としてパイロットの道を進む。
 奇しくもゼロ戦のデビューとなった中国戦線で重慶・成都の空戦を経験した生粋のゼロ・ファイターである。そして真珠湾に行く。

飯田大尉を埋葬する米軍

飯田大尉を埋葬する米軍

 安倍総理のスピーチにあった通り、攻撃中に燃料タンクを打たれたため僚機に手信号で自爆の意思を伝えると引き返す。
 飯田大尉の突撃を目撃した米兵によれば実際には格納庫ではなかったが、最後までフル・スロットルのスピードで機銃を撃ち続けての激突だった。 
 ためらいのない戦意旺盛な突撃に米軍は戦死した米軍人とともに丁重に埋葬したのだ。
 飯田大尉が中国初戦の成果に浮かれる中、漏らした言葉が残っている。
『重慶に60キロ爆弾一発落とすには、爆弾の製造費、運搬費、飛行機の燃料、機体の消耗、搭乗員の給与、消耗など諸経費を計算すると約千円かかる。相手は飛行場の爆弾の穴を埋めるのに苦力(クーリー)の労賃は五十銭ですむ。実に二千対一の消耗戦なのだ。こんな戦争を続けていたら、日本は今に大変なことになる』
 こういう合理的な考えの人だったので、実は真珠湾攻撃の前日に敗戦を示唆し自爆を仄めかしたという説がある。燃料タンクに被弾したというのも全て伝聞であり、激突の際にも発煙はなかったので覚悟の自爆だというのだ。

 同じくゼロ戦のパイロットで、戦後は警察装備の開発を手掛ける会社を経営していた志賀淑雄という方がいた。安田講堂騒乱の際に屋上から投げられる投石の雨に機動隊が苦戦している時、徹夜で食パン型の安全坑道を作って寄付したことが佐々淳之の本に出ている。
 この人の言によれば、初期のゼロ戦の成果に報道が過熱し『エース』とか『撃墜王』と持て囃す事に対し、海軍では編隊共同空戦を旨とし「海軍戦闘機隊にエースはいない」という方針を決定していたそうだ。この辺はベスト・セラー『大空のサムライ』を発表しエースと言われた坂井三郎氏と微妙に肌合いが違う。
 その志賀氏(旧姓四元)は飯田大尉と同郷かつ兵学校同期で、開戦直前に一緒に帰郷した際の会話を覚えていた。この時志賀氏は長女が生まれたばかりだった。その会話は
『早く結婚して子供をつくれよ』
『うん、じゃ、この子をもらうよ。貴様の娘なら美人だろ』
『そうか、じゃあ20年待たなきゃいかんぞ』
 その時期になんと悲しくも明るい会話であることか。つくづくやるべき戦争ではなかった。
 余談であるがこの二人の海兵62期というクラスは実にワイルドだったことで有名だ。因みに伏見宮・朝香宮と二人の皇族がいたが、直接鍛えられた65期によれば『宮様が先頭に立ってオレ達を殴って鍛えた』らしい。海兵は最上級生の一号生徒が新入生である三号生徒を指導するため、獰猛な(即ち殴ってばかりの)クラスは3年ごとに現れると言われている。
 志賀氏は下級生から『青鬼』と呼ばれていた。『青鬼』がいるのなら『赤鬼』はどうかというと、これがいた。やはりゼロ戦乗りになった周防元成氏だ。
 志賀氏の言に習って『エース』を並べるつもりは毛頭ないが、この周防氏の操縦技術は図抜けており、戦中を戦い抜いて敗戦後は航空自衛隊に所属した際にその技能の高さに米人教官が舌を巻いた。

 このような名パイロット(エースではないとして)の系譜に連なるのが、初めはゼロ戦、敗戦時は紫電改、航空自衛隊でF86FからF104まで飛び続けた山田良一氏である。海兵71期だから先程の順番で行くとワイルド・クラスを卒業。源田実率いる第三四三海軍航空隊に所属していた。
 ブルー・インパルスの初代飛行長で、我々以上の年代なら忘れない東京オリンピックの開会式で鮮やかに五色のオリンピック・マークを大空に描いた際、地上指揮官だった人だ。あの田母神閣下の先輩にあたる航空幕僚長も務めた。
 もう一人戦後のパイロットを紹介したい。アクロバット飛行の名手、通称ロック岩崎。自衛隊入隊後F86F、F104,F15を乗りこなして民間のエア・ショー・パイロットとなったが、惜しくも2005年に事故死した。
 この人は日米合同の模擬空中戦で旧式F104に乗り最新鋭F15を、後にF15で同じくその後継機F16を「撃墜」し、その業界ウォッチャーの間では有名だった。
 真珠湾から国土防衛まで戦い抜くと生存率2割を切るという極限状況を、卓抜したテクニックと強靭な精神プラス・アルファで生き抜いた人々の後輩が平和な時代に事故死する。
 戦場での悲劇は、特攻は言うに及ばず全ての英霊に等しく無惨なものだ。

 しかしいつの時代でも空に生きるものは命がけなのだと思う。

 トムさんより富永さんの写真が送られましたので載せました。(2月7日)

前列が富永少尉

前列が富永少尉

隼は征く 雲の果て 

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    8 comments already | Leave your own comment

  1. The Brave respect the brave

    留学中のことだが、何事もBraveは米国人学生の生態系の頂点であるジョック(jock)=体育会(アメフト、野球、バスケ部のスターが多い、女はチアリーダー)なのに通じていて飯田さんはそこに叙せられたという感じだ。ちなみにjockの反対はナード(nerd)で文化部、オタク、ガリ勉などのしもじもであるが、jockはバカも多いから社会に出ると逆転もする。しかし「あいつはナードだぜ」と言われてた奴はアングラがハーバードで秀才だったが、ぜんぜん尊敬されてなかった。アメリカのこの精神はけっこう好きだった。

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  2. 2/2/2017 | Permalink

    此処には元零戦のパイロット富永氏が居ました。
    一緒に飛行場でジャイロコプターやウルトラライトプレーンで遊びました。
    しかし、戦時中のことはほとんど話しませんでした。
    1995年、大使館のオープンセレモニーの時、小生はマネージメントをしていましたが、日本から来た商社の方が「あの方は富永さんでは無いでしょうか?」と聞いてきた方がいました。
    「そうですよ」
    「やっぱり、私が今生きて居るのはあの方が居たからなのです」
    後で富永氏に聞くと、
    自分たちは東京調布の守備をしていた。
    終戦間際に「全機フイリッピンに集結せよ」と命令が来た。
    部下達3機を率いて向かったが、九州上空に来た時「ああ、これで最後だなあ、俺は良いけどこの若い連中をむざむざ死なせるのも可哀想だ」
    と、本部に連絡を入れ、「隊長機不調につき博多へ緊急着陸する」と言って、その夜は部下を引き連れ博多の町で思いっきり遊ばせた。
    翌日、向かおうとすると「その必要なし、全機帰れ」と言われたそうです。
    日本各地、外地から向かった機は全部待ち構えて居た米軍機に全滅させられた。
    戦後、判ったのは日本軍の暗号は全部解読されていた。
    「神国日本の暗号が毛唐に判るはずがない」しかしアメリカは開戦と同時に日本語学校を開き、暗号を研究していた。
    その解読機を積んだ潜水艦が撃沈され、暗号機は米軍の手に渡った。
    陸海空軍でそれぞれ暗号は違っていたがそれぞれ解読されていた。
    しかし米軍はそれを保有しながら互いの縄張り意識から他へ伝えなかった。
    真珠湾も事前に察知しながら海軍のみの避難で残って居たのはジャンクばかりだった。
    又、こんな話しもしていました。
    「敵機との遭遇戦はどんな様子だったのですか?」
    「打ち落とせるようになるべく背後から近づくと、気がついた若いパイロットの恐怖の顔が忘れられない、戦争なんて絶対する物ではない」
    その彼は神奈川久里浜の海を見下ろす丘に眠っています。

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  3. 西室 建

    2/2/2017 | Permalink

    東オーナー、
    アメリカ人はそういうの好きだな。実はアメリカ海軍と海上自衛隊は今でも尊敬しあっている。海上自衛隊の操艦技術の練度は世界一だからな。

    トムさん
    富永さんのフル・ネ-ム教えてください。

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  4. いまもって体育会精神のままである小職としてガリ勉やウラナリを馬鹿にするアメリカは好きだった。Braveそのものであるマリーンが偉いのもわかる気がする(海軍の一部なのにどういう力関係か知らんが)。海自を尊敬してくれるのはイチローを認める精神かな、協力して強くなってほしいな。しかし英国人の部下をもってそのノリでやるとだめであった。しかしドイツでは英国流はだめであった。難しいもんだ。

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  5. 西室 建

    2/3/2017 | Permalink

    マリーン・海兵隊は海軍からは独立した指揮・命令系統を持つ組織。従って米軍は陸・海・空・マリーンの四軍体制となる。

    任務が際立っているのは外征専門なこと。戦闘機・ヘリコプター・戦車を持っていて海軍の水兵とは別になっている。
    一応管轄は海軍長官の元に位置づけられるが、その性格ゆえに他の陸・海・空とは全くソリが合わないので在日米国基地でも場所からして分けられている。

    英国人はシニカル。ドイツ人はロジカル。こんな感じかな。

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  6. 2/3/2017 | Permalink

    米国陸空海軍が出てきましたね。
    小生の父親は札幌、調布、武蔵野、ワシントンハイツで写真店を営んでいました。
    当時、空軍には黒人兵は居なく白い人ばかりでした。
    高校生時代は学校から帰ると各基地を回り、手伝いをさせられました。
    戦前、ハワイ、ロス、サンフランシスコと渡り歩いたおかげで英語に堪能だった父は米軍進駐と同時に写真店の権利を受け継いだのです。
    ただ、戦時中は今思い出すと3歳頃、祖父と父がひそひそ声で祖父が父に「なあ、この戦争はもう終わりだ、そうしたら又、アメリカへ行こうな」「アメリカへ行くの?僕も連れて行って」「しー、そんな事は誰にも言ってはいけない」と怒られたのを覚えています。

    どうも、歳を取ると引き出しが一杯で新しいことは皆こぼれて、底の方にある古いことばかり思いだします。
    ご勘弁を。
    西室様
    富永氏の娘さんと連絡が取れました、近日中に返事が来ると思います。

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  7. 西室 建

    2/3/2017 | Permalink

    ワシントン・ハイツは今の代々木公園ですね。
    オリンピックの選手村になって返還されるまで日本人オフ・リミットでした。
    代わりにできたのが調布飛行場の「関東村住宅地区」で今の味の素スタジアムのあった所だったのは記憶にあります。アベベ選手がトップで折り返したあたり。
    その先は立川・福生と基地があって16号線の最後にジョンソン基地、今の航空自衛隊入間基地まで続いてました。

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  8. 西室 建

    2/7/2017 | Permalink

    トムさんから、その富永さんの写真が送られてきましたので本文に載せました。

    本名 富永 静さん
    第三三二海軍航空隊(岩国)
    飛行予備学生13期の少尉さんでした。

    ご冥福をお祈りします。

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