5.15事件「話せばわかる」「問答無用」
2018 AUG 31 19:19:50 pm by 西 牟呂雄

5・15事件で殺害された犬養毅首相が襲われた時に発した言葉とされる。これに対して海軍の山岸中尉が『問答無用』と応じた。
だが、実際の発言は提題の言葉ではなかったという説を保坂正康の新書で読んだ。
撃った本人山岸は『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と言われたと回想している。
初めに引き金を引いて弾が出なかった三上卓は裁判では『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と制され『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ』と言われたと証言した。
『問答無用』は正確には『問答いらぬ』であったことは両者の話が一致している。
ところが『話せばわかる』についてはその場にいた妻の話では違う。
『まあ急くな。撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう。ついて来い。・・・・(移動)・・・・まあ靴でもぬげや、話を聞こう』
となっているようだ。
保坂正康は『話せばわかる』は後年に民主主義のキーワードとして喧伝されるに到ったのではないかと考察している。
この事件は計画立案時点から実に幼稚というか杜撰極まりない内容で、総理大臣・内大臣を殺害し立憲政友会本部を襲撃、なぜか三菱銀行を爆破する。その後警視庁を占拠する。日暮れとともに変電所数ヶ所を襲って首都機能を麻痺させる。その混乱によって戒厳令が施行される隙に軍閥内閣を樹立する。このような何とも劇画的なテロ、荒唐無稽な作戦で、まともに考えれば絶対に実現できそうもない。
勢いで犬養首相は殺害したが、結局警視庁に乱入して窓ガラスを割りピストルを乱射しただけ、日銀・三菱銀行・立憲政友会本部に手榴弾を投げただけ、変電所6ヶ所の一部を壊しただけ。その後に憲兵隊本部に自首した。クーデターでも何でもなかったのだ。
周辺にいた橘孝三郎、大川周明、西田税(計画中に仲違いして襲われ重傷を負う)等はただ傍観していただけなのか、或いは煽りに煽っていたのか。
更に不思議なことにこの事件に対する量刑が実に甘いのだ。海軍軍人は海軍刑法、陸軍士官学校生徒は陸軍刑法、民間人は東京地方裁判所で裁かれたが、ただの一人も死罪にならなかった。助命嘆願運動が起こる等、背景には当時の不況、政治腐敗への強い反発があったからと評されるが何かあやしい。
1929年は世界恐慌が起こっており大変な閉塞感に覆われていた。そして事件の前年には満州事変が勃発している。月並みな言い方であるが、ある方向に向かって突き進む時代だった。
煽って糸を引いていた何者かがいたに違いない。それは通り一遍の軍による政治的独裁への舵取りを推進する国内の勢力ではなく、例えば勃興する国をただ混乱に陥れ自国の利益の拡大を図ろうとする国際的なオーガニゼーションかもしれない。
既に明らかなゾルゲ並びに尾崎秀実以外にも、昨今の研究では国際コミンテルンが陸軍統制派、下手をすれば・・・・。
ところで引き金を引いても弾が出なかった三上卓はかなりのクセ者で、事件の二年ほど前に『青年日本の歌』という歌を作詞作曲している。後に『昭和維新の歌』と伝わり一部で流行した後、発禁となった。
汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れとぶ
混濁の世に我立てば
義憤に燃えて血潮沸く
このヤバさは危険で、歌っていると陶酔感が漂う不思議な歌だ。
三上は戦後も盛んに右翼活動を推進し、1961年には同じような武装・国会突入を試みる『三無(さんゆうと読むそうだ)事件』でも逮捕されている。この時に馬場元治衆議院議員の秘書で、襲撃の際に突入のサインを出すはずだった鮫島正純とは後の池口恵観、あの朝鮮総連を落札したり第一次内閣を退陣した安倍総理に護摩行などをしてみせた謎の僧侶である。
また、愚連隊から右翼に進化して数々の事件を起こし、最後に朝日新聞本社でピストル自殺した野村秋介が門下になったのもこの直前だったらしい。
三無(さんゆう)主義とは無税・無失業・無戦争の思想と言うが、理論的にどういうものか分からない。それがどうしてテロと結びつくかは俗人的なことのようで、何かと騒がしい人材が集まって来ては同じような事件を企画していたらしい。
話はグルっと戻って『問答いらぬ』とか『問答無用』もひどいが、あのモリカケ問題に対する野党の態度に近いものを感じるのは私くらいか。
途中にお役所のチョンボがボロボロ出たが、総理の示唆はなかったとしか思えない。そりゃ忖度はしたに決まっているが、見返りを貰った人物は存在していない。世間知らずのオカアちゃんがチヤホヤされたのと、誰もやろうとしなかった獣医学校を知り合いが作った過ぎない。周辺のトリック・スターが人目をひいたのでマスコミが飛びついたが、カゴイケ・マエカワ・・。
確かに文書改竄はよろしくない。自殺者まで出した。
ですがね、官僚の劣化などと囃し立てるなら政治家はもっと劣化しているし、マスコミに至っては何様のつもりか。改ざん前の文書を見てもどうってことない。
総理の関与がないことがはっきりしても『疑惑はますます深まった』を繰り返されてもねぇ。『問答無用』とどこが違う、最も劣化しているのは野党じゃないか。
総裁選が来月あるが、総理の対抗馬はこの話をほじくり返すとかえってドン引きされて惨敗し、今後浮かび上がれなくなりかねないぞ。憲法問題と国際情勢、経済政策だけでやってくれ。
もっとも私の政治予言は外れるが。
あれっ、何の話だったっけ。
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Categories:言葉

西室 建
9/17/2018 | Permalink
昔、千葉の鋸南町町長だった人が『オレは5・15事件の最後の生き残りだ』という発言をしたことが(確か平田といったような)あった。本当かどうか定かではないが。
ところが『三無(サンユウ)事件』の実行部隊の責任者の一人、篠田英悟は最近まで生きていて、平成25年にジャーナリストの安田浩一のインタヴューを受けている。
この事件は初めて破防法が適用された。
安田浩一は、上記篠田の運転手をしていた古賀良洋にも取材して『あれは国士を気取る連中の戦争ごっこみたいなもの。池口さんにしても何も知らんかったんじゃないか』の証言を聞いている。
三上卓は逮捕はされたが執行猶予で釈放されていた。昭和46年に死去。
西室 建
5/17/2019 | Permalink
事件主導者の一人として投獄された橘孝三郎は、ただの農本ファシストとは違う。
一高卒業寸前に退学し、帰農してしまう。在学時に原書で読んだベルグソンに強い影響を受け、独自の思想体系を昇華させた一種の哲学者であり、決して偏狭な国家主義者ではない。
指導育成の過程で海軍将校と知り合い、事件においては門下生に変電所を襲撃させている。
出所後、昭和49年まで存命し、『天皇論』全五巻を執筆した。
じつは例の三島事件の後に、楯の会の阿部勉と橘門下の棚井勝一が『土とま心』を創刊しているが、その編集後記に以下の記述があったので少し長いが引用しておく。
「確かに、橘塾長と三島さんの思想や実践活動のあり方には懸隔があったのは否定できません。しかし、あまり知られておりませんが、両者にはかなり深い交流があったようです。橘塾長は三島さんの思想及び楯の会に強く共鳴し、自身の孫の一人をはじめ、門下の六、七名の学生を楯の会に参加させています。また、その門下の一人で楯の会一期生の篠原裕さんを通じ、著書「天皇論」五部作を三島さんに贈り、三島さんの天皇論、殊に大嘗祭の解釈にかなりの影響を与えたことは、あまり知られていない事実です」
西室 建
9/19/2019 | Permalink
喜劇王チャップリンはこの事件の前日に来日し、犬飼首相との面会を計画していた。
事件首謀者は(特に古賀中尉)はその機会に要人もろともチャップリンまで暗殺するつもりだったのだ。
チャップリンがシンガポールで発熱したため計画から外された。
5月14日に帝国ホテルに入り、犬飼首相の歓迎会が15日の晩餐会となったのだが、その日の午後に事件が起きたという状況だった。
そして事件の2日後にチャップリンは首相官邸の現場に弔問に行っている。
その滞在期間中を取り仕切った秘書は高野虎市という日本人で、チャップリンの作品にもチョイ役で出ているのだとか。知らなかった。