タオイズム(道教)は難し Ⅱ
2019 APR 27 5:05:25 am by 西 牟呂雄
『井の中の蛙大海を知らず』『木鶏』『包丁』
これらの著名な言葉の原典があの『荘子』であることはご存知かと思う。
荘子は奇怪とも思われる寓話をひいて、自然の摂理に寄り添うように生きることを教える。『荘子』内篇七篇は、出だしからして北の海の巨大魚『鯤(こん)』が巨大な鳥『鵬(ほう)』になって南の果てに飛ぶ話。
概して自分で思いついた壮大な例えに酔いしれているようなところがある。
どうも正確な伝記はないようで、まぁ隠遁生活をしながらそのメチャクチャな嘘話を考えていても食える階級にいたヒマ人だったのだろう。紀元前三百年あたりで、である。
「木鶏」は、かの双葉山が安芸の海に69連勝の後敗れた日に「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電したことで知られる。このころは年に二場所しか興行しないうえに13日で千秋楽だから3年近く負けがなかった大記録だった。
「包丁」は牛肉解体の名人、庖丁という人の名前だった。この人が牛一頭を一本の小刀で見事に解体した故事による。これまた肉の筋目に従って刀を当てて捌いた、という話になって自然体の道を説く。
話は変わるが「解釈」という言葉、「解」は「角」と「刀」と「牛」、即ち牛の角を刀で切る。「釈」は「分ける」こと。それで角を切ったボディの肉を分ける、これで「解釈」になったとか。
様々に「解釈」されてなお、今日読み継がれているのは思想体系として論理的にも確かなものに違いない。ただ中国思想の常として中心概念に「神(一神教のGod)」を置かなかったので、道教なる怪しげな祀られ方をしてしまった感がある。むしろ、時空を超えた絶対無限・絶対自由の中に遊ぶ境地に至るノウハウとして捉えたほうがありがたみが増す。しかしそのためにナニを修業しろ、とか念仏を唱えろ、とは書いていない。
「万物斉同」とは主観を取り払って大いなる自然に合一せよ、と言っているのだが、生半可な人間にそんなことができるわけがない。
仏教が中国に伝わるのは後漢の一世紀頃であるから、荘子の時代にはまだ「解脱」なる考えはなかったのではないか。そう考えると上記の自然への合一とは、後に中国における禅の修行へと形を変えて続いたのかもしれない。ペルシャ系とも言われる達磨大師は中国に於いて禅宗を確立した。
「無用の用」これも好きな言葉だ。一見役に立たないモノがしっかりと世の中の役に立っているのだ、これを拡大解釈すれば幾らでもなまけていられる。
それはともかく、最近あることで大変に腑に落ちた。
リュウグウへのタッチダウン成功の事である。
1999年に発見されたリュウグウは、ロクに引力もないちっぽけな小惑星だが、スペクトル分析で含水鉱物としての水があることがわかっており、JAXAの探査プロジェクトはやぶさ2の対象に選ばれた。
算盤玉のようにブサイクだが40億年、地球から3億キロも離れた所を飛んでいる。但し公転しているために はやぶさ2 は52億キロも移動しなければならない。リュウグウは発見されなければ全く無用であったにもかかわらず、目下のところ地球の誕生のキーにさえなり得る貴重な天体となったのである。
それにしても、NASAや中国の宇宙開発に比べるとはるかに予算規模が少なく、一時は事業仕訳などというタワケた見世物の対象にまで貶められたJAXAは良くやった。
技術とチーム・ワークで人類初の快挙を成し遂げた、日本ならではの功績と思う。
タッチ・ダウンに成功した時には思わず拍手をした。
えーと、何の話だったっけ。
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