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名槍物語

2020 JAN 26 9:09:55 am by 西牟呂 憲

 嘗ての日本では「犬畜生にも劣る」と忌み嫌われた双子で生まれ、尚且つ赤ん坊の頃から異相のため実父からは愛されなかった於義丸(おぎまる)は、幼少期を殆んど父親とは接することがなかった。異相と言っても別に奇形ではなく、ややタレ目だっただけなのだが、父親とは何かとそりの会わない異母兄に似ていたのが災ったのかもしれない。
 もっとも双子の片割れの方は更に悲惨な境遇となっていたのだが、会うことなく後に風の便りに消息を聞くのみだった。
 戦国時代もその膨大なエネルギーを消尽して、トーナメントの最終極面に差し掛かった時期である。今にも天下を取りそうだった織田信長が倒れ、その後継を巡って名乗りをあげた豊臣秀吉と実父は微妙な関係だった。
 慎重な実父は大仕掛けは早急と見て、軽く小競り合いめいた戦闘の後に和解策として子供のいない秀吉に於義丸を養子の名目で人質として差し出す策を考えた。もっとも秀吉の方も早くにかたづいていた妹を離縁までさせ、正室のいない実父に差し出すのだから、狐と狸の化かし合い。実父徳川家康45歳、新妻の朝日は44歳である。
 於義丸、当時11歳は「羽柴三河守秀康」となる。天下人の養子となった少年は何とか養父に認められようと心に誓いを立て精進するにつれ、逞しく育っていった。ただ、人前に出るときに遠慮する所があった。
 初陣は秀吉の九州征伐で、この戦闘は言ってみれば島津潰しである。最前線の豊前田川にある岩石城を先鋒で乗り込んで一揉みで抜き、日向では島津本体と激戦の後に追い払うという功績を挙げた。秀吉もこれを喜び豊臣の姓を与えた。
 それよりも、この戦の前後に若き秀康に目をかけてくれた秀吉の軍師、黒田官兵衛とは生涯の仲となった。官兵衛からすれば主君の養子であるが、遠慮がちな少年が、戦場においては鬼神の働きを見せるのがいじらしい。また父親の愛情薄く育った秀康にしてみれば師匠のような存在に懐いた。秀康の前途は明るく開けていたのだ。
 ところが小田原征伐の直前に秀頼が生まれたことで、多くの人の運命は狂う。時に秀康16歳。
 家康は関東240万石の大大名として国替えになり、そのオマケのように結城家の婿養子に出される。実は行く末を案じた官兵衛の斡旋でもあった。
 羽柴結城少将となって関東に下る秀康の心中は穏やかでない。天下人の養父の捨て駒か、新たに関東の支配者となる実父の押さえか、なぜオレ一人アチコチにやられるのか。一層無口になるとともに表情は暗くなった。

名槍「御手杵」レプリカ

 無聊を持て余す秀康の心を慰めたのは天下の名槍、御手杵(おてぎね)の槍であった。養父、結城晴朝から譲り受けたのは後に「天下三槍」に数えられる。刀身(槍の部分)だけでも1.4mと大太刀ほどもあり、小兵では扱うことすらできないバケモノのような槍であった。
 天下三槍とは、福島正則から母里太兵衛が譲り受けた「黒田節」の逸話にある「日本号(ひのもとごう)」と、本多忠勝が愛用した「蜻蛉切(とんぼきり)」である。
 断面正三角形の穂先を眺めながら酒を飲むと、特徴のある目が裂ける如く拡がり異相が益々不気味さを増してくる。
「おやじ殿は何故にワシを憎むか。太閤殿下は何故にワシを邪険にする」
 酔いが廻ると御手杵を軽々と従えて庭に出る。庭には稽古用の巻き藁がいくつもあちこちにしつらえてあり、ハァッ!という裂帛の気合と共に片っ端から突いて一つも外さない。家人達は震え上がり部屋に篭って主が鎮まるのを待つのみであった。
 上がってきてふと鏡を見ると我ながら凶悪な表情に自ら驚いた。腹を切らされた兄、岡崎信康にそっくりだった。
 
 さて天下人秀吉もついに寿命が尽きた。すかさず家康は伏見城に入り様々な工作に着手するが、その際にはお気に入りの三男秀忠ではなく秀康を伴った。秀忠には江戸を磐石にする大役が命じられていたからだが、秀康は素直に喜んだ。
 伏見城下で二人で相撲見物に臨んだ。この頃の相撲は庶民も含めて大変な人気で大いに賑わった。だが、場が盛り上がりすぎてやや騒がしい。そして西方に摂津出身の大兵と、東方に山科の小兵が対決する段になり、互いの贔屓筋が大声で喚き会った。何度か仕切りをするのだが歓声に煽られて立ち会えない。終いには土俵近くで掴み合いまで始まると、家康は不快感を浮かべた。
 すると秀康がゆっくりと立ち上がりあたりを睥睨した。異相は鬼瓦のようで、その左手には金梨地鞘糸巻拵えの外装をしつらえた愛刀「童子切」の鞘が握られていた。童子切は源頼光が酒呑童子を切ったとされる足利将軍家が所有していた大業物で、秀吉ー家康ー秀康と伝わった名刀である(家康から二代将軍秀忠に渡ったという伝承もあるが誤り)。騒ぎは一瞬にして静寂に収まった。
 このあたりで家康は秀康に対し更に認識が変わり、むしろ警戒感すら持ったようだった。

 丁度、豊臣恩顧の大名達の間にも亀裂が入りだした。無理押しをした朝鮮出兵のしこりに端を発した石田三成と武闘派の対立である。
 そしてついに七将と言われた福島正則・加藤清正等が三成を襲撃しそうになり、三成が伏見に逃げてきた。家康は笑いを噛み殺しながら両者を調停するのである。更に手の込んだことに、三成を佐和山に送り届ける役目を秀康に託した。二人は秀吉の養子と側近という間柄なのだ。
 三成は余程心強かったのか、秀康に正宗の大刀を贈っている。

 家康は手始めに陽動作戦として上杉征伐を仕掛けた。上杉景勝はともかく、その傍らに控える直江山城守がきっかけである。野心を見透かすような怜悧な眼差しと高い教養、更には戦場に於ける際立った武者振り、全ていけ好かなかった。そこへ持って来てかの「直江状」を送りつけられて激怒する。「内府様」などとは書いているが、端々に「左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事(内府様に表裏あり)」とか「天下に不似合の御沙汰と存じ候事(天下人には似合わない振る舞い)」と小憎らしいことを付け加える。
 怒り狂った後に、内心これは豊臣方を分断するいい口実になる、と考えた。武闘派の福島正則、細川忠興、加藤嘉明を引き連れて下向する。その際にも秀康を従えて行く。秀康は勿論かの御手杵を携えていた。
 すると狙い通り三成が挙兵するのである。有名な小山評定で武闘派を手なづけると、関が原での決戦に挑んだ。
 ところが秀康は居残りを命じられた。更に、中山道を進ませ途中に真田の上田城を潰させる役割を弟の秀忠にまかせることに。戦の経験など碌にない秀忠に花を持たせる腹かと、秀康は憤怒のあまり例の異相を険しくした。  
 家康はその夜密かに秀康を呼んだ。
「のう、秀康。その顔を見た所不満か」
 秀康は返事もしない。
「会津の上杉がこの期に乗じて来たならば何とする。抜かれれば我が軍は挟み撃ちじゃ。秀忠で防ぎきれると思うか」
 無理に決まっている。だが、それがどうした。オヤジは弟に継がせるな、秀康は父の腹を読み切っていた。そしてこううそぶいた。
「そうまで御心配することもありますまい。引き受け候。我に御手杵あらば」
 互いに笑うこともなく、物も言わずに分かれた。
 
 果たして上田責めの不手際により、秀忠は関ヶ原に間に合わなかった。
 しかし本戦の方は謀略を駆使した家康が大勝利し、結果として豊臣は一大名になり果てた。
 戦後の論功行賞では諸侯の中で唯一人50万石を加封された。だが秀康に喜びなし。

 いよいよ天下取りの仕上げである。そしてそれは後継者を正式に決める事である。息子の中に三人の候補がいた。結城秀康もその一人であった。他に秀忠、秀忠と母が同じの弟、松平忠吉である。この弟は関ヶ原で福島正則と先陣を争い、捨てがまり戦法で退く薩摩軍を追い副将・島津豊久を仕留めた剛の者である。
 慎重な家康は家臣に尋ねた。本多正信は秀康を推した。井伊直政は娘婿であの松平忠吉、大久保忠隣が秀忠と意見は割れた。無論、家康は自分の思いを採用した。戦はもうすぐ無くなる。これからは文治の時代になるのだ。
 弟の秀忠が徳川将軍家を継ぐことが決まると、秀康は出雲阿国の歌舞伎を見物した。
「艶やかなり、お国。天下一の女なり。我は天下一の男となることかなわず無念」
異相のためか、妾腹のためか、はたまた双子で生まれたせいか愛情薄く育ち、また、家康の下に生まれたため運命を翻弄された。わずか34歳で没する(梅毒説がある)。
 慰めたのは名槍「御手杵」の冷たく光る輝きのみであったと。

 秀康はその後越前に転封となり、松平の姓を名乗る。幕末に活躍する松平春嶽が出る(もっとも田安家からの養子)。
 「御手杵」の槍は結城を継いだ川越松平家にて所蔵されたが先の戦争で焼夷弾の直撃を受けて消失した。現在レプリカが見られる。
 ついでながら愛刀「童子切」の方は秀康の子孫、津山松平家が現代にまで至らせ国宝である。
 尚、双子の兄は母親の実家永見家で育てられた永見貞愛で、知立神社の神職を勤めるも秀康より3年早く死去する。

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