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婆沙羅競べ

2021 JUN 1 0:00:40 am by 西牟呂 憲

 南北朝の相克は、後醍醐天皇亡き後も足利尊氏から二代将軍義詮になってもなお果てしなく続くようであった。後醍醐天皇の魔性、足利尊氏・直義兄弟の争い、北畠顕家の剛直、高師宣・師奏兄弟の狼藉、楠一族の死闘、と筆舌に尽くせぬ人間模様が織りなす奇々怪々が、末法の世にはびこったからである。
 京都に押し寄せる軍勢は、元は足利幕府の管領であった細川相模守清氏に率いられた南朝軍であり、先陣として乗り込んできたのは大楠公・楠正成の三男、正儀であった。、四條畷の戦いで、長兄正行・次兄正時が高師直に敗れ討死したため楠軍の総大将となっていた。
 追って入京してきた細川清氏は明らかに度を失っていて、室町の幕府屋形に攻め入りもぬけの空であったことに怒り狂い火を放った。略奪する物が何もなかったからである。
 清氏の怒りも、元はと言えば政敵となった佐々木道誉に謀反の噂を立てられたせいで幕府における地位を失墜させられたからであり、詮なきものではない。しかしこの時期、転じて北朝南朝のいずれかに宗旨替えすれば、両朝天皇の名の元にいくらでも大義名分がたってしまう。何しろ足利兄弟ですらことあるごとに宗旨替えをしたくらいである。
 二代将軍義詮は、後光厳天皇を擁して近江に落ち延びた。
 楠正儀は、京極にあった幕府の要人佐々木道誉の屋敷に向った。すると遁世者とおぼしき僧形の姿があり静かに言上するのであった。
「楠左兵衛督(さひょうえふ)様とお見受けいたし候。屋敷の主、道誉禅師申しまするに必ずや楠左兵衛督様おいでの際はこれにて一献さしあげるべしと申しおかれ候。案内(あない)仕りますゆえこちらへ」
 正儀も面食らったが、馬を下り従って進むうちに更に仰天した。畳が敷き詰められ(この時代板張りが普通)、花瓶・香炉・盆に至るまで贅を尽くした物が整えられている。寝所には沈香の枕に緞子の寝具が敷いてあった。次に十二間の侍所に行くと山海の珍味が山と準備されており、三石入りの大筒に美酒が満々と蓄えられていた。書院に案内され、書聖・王義之の偈、韓愈の文集が古渡りの硯とともに揃えられるに至っては三嘆せざるを得なかった。
 王義之は東晋の書家であるが日本には奈良時代の鑑真和上によりそのコピーが入ったと言われる。コピーとは真筆の上に薄紙を乗せて輪郭を取り、それを丹念に塗り潰したもので、今日日本にはそれすら2点残されるのみである。実際の真筆は世界に一つも伝わってはいない。韓愈は唐代の高級官僚で、詩人の白楽天と並び称された文章家である。
 やって来た細川清氏が『佐々木の屋敷など焼き払え』と吠えたが、正儀はそれを制した。さすがの正儀も唸るしかなかったのだ。

 時は4日程遡る。前線を破られた幕府軍は都からの離脱を決め、御所でも室町でもそれぞれの御物・宝物・武具を積み込む作業で大童である。ガラガラと荷駄が動き回り埃を巻き上げ、怒号が飛び交っていたいた。何しろ御所と幕府政所が一緒に引っ越すのだ。女房達の衣装・化粧道具だけでも山のような荷物となる。京極にある佐々木館でも同じような喧噪の中、主である佐々木道誉は一人の遁世者を連れて帰って来た。そしてその様子を見て大音声を発した。
「たわけー!オサマレーッ」
 そして振り返ると後ろの遁世者に向って言った。
「まったくあさましいこと夥しく恥じ入る次第で。われらは武装してこれより都落ち候。手筈の通りに宜しく申し上げる」
 遁世者は頷くと上述のような常識外れの出迎えの準備にかかったのだ。

 京の都は攻めるのに易く守るのに難い。七口の全てを固めるには南朝方の勢いがどうであろうと兵力がたりない。この時期に南朝が攻め入ったこと四たびに及ぶが、体制定まらぬがゆえに敵中に孤立するばかりで兵站が続かない。果たして今次もすぐに撤退することとなった。
 正儀は逗留中にこの度肝を抜くような気配りにいたく感じ入り、郎党共に飲み食いは許したが調度品の一切に手を付けさせなかった。
 しばし刮目して何かを思案していた。フト目を開けると、自分を出迎えた遁世者が庭先に佇んで自分を見つめている。正儀はニコリともしないでその者を手招きした。
「御坊、ずっとこの屋敷におったのか」
「入道様が行く末しかと見届けよと申されましたゆえ。左兵衛督様のお振るまい、誠に雅であること伝えんがためここに御座候」
「丁度よい。そこもとに願いの義これあり。これより我等は立去るが、道誉入道が揃えし物に倍する馳走を盛り上げてくれぬか」
「あっぱれな武者振り、心得て候」
「奥に設えしは秘蔵の鐙と白幅輪太刀(しろぶくりんのたち)である。去るに当たっての置き土産と伝えてくれ」
「御意のままに」
 そう言うと『馬引けー』と号令をかけ馬上の人となった。門前を出た所で振り返りその遁世者に問うた。
「そこもとの法名は」
「さて、徒然なるままに流れる乞食坊主にて」
「されば俗名はなんと」
「卜部と申し候」
「ふむ」
 踵を返して去っていった。

 元の鞘に納まって舞い戻った佐々木道誉は上機嫌で遁世者を相手に盃を干した。
「それで楠の若造はどんな顔をした」
「初めはあまりのバサラ振りに唖然と驚き入り、深く感じ入った様子にて」
「ほう、やはり大楠公の倅じゃのう」
「なかなかに歯ごたえのあるもののふにて候」
「三十路前であろう、これからか」
「入道様にあしらわれ、鎧に太刀を献上したことにて。この婆沙羅くらべは結局」
「これこれ、兼好法師。人聞きの悪い」
「ふふふふ」「はははは」

 かの吉田兼好は太平記に高師直の艶文の代筆者として記述され、歌舞伎の演目にまでなっているが、筆者はこれをかなり怪しんでいる。あの斜めに物をみては悦に入っている兼好法師がそんなことをするだろうか。太平記は誇張された内容が多く、筆写によって伝わるうちに当代一の名文家として後に知られた吉田兼好の名が取ってつけられたのではないかと睨んでいる。この婆沙羅比べに出て来る遁世者の名は太平記には無いが、兼好法師と考えると余程面白いと思うがいかに。実際にはこの時点で大阪近辺の正圓寺のあたりにいたとされるので都までは指呼の距離である。

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Categories:伝奇ショートショート

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