フェリペ二世と太閤秀吉
2021 JUN 13 0:00:54 am by 西 牟呂雄
スペイン・ハプスブルグ家の当主として太陽の沈まない帝国を作りあげ君臨したフェリペ二世は熱烈なカトリックの信者で、宗教革命後のカトリックの盟主を自任していた。その強烈な信仰心は、フランスにおいてセント・バーソロミューのプロテスタント虐殺を聞いて生まれて初めて笑ったと伝えられる。
この話には続きがあって、その後は二度と笑わなかったとか、恐ろしい人物である。
加えて新大陸で味をしめたのか成功体験として頭に刻まれたか、布教と領土的野心をワンセットにしての侵略を隠そうともしない。何しろこの人の名前をとってフィリピンがフィリピンという名前になった位だ。その勢いで南蛮貿易商人とイエスス会がペアで日本に押し寄せていた。
信長はうまい具合に利用していたが本能寺に倒れる。後を取った秀吉にも盛んに接近し、大陸侵攻をけしかける。そこまでは良かった。重商主義的な政策をとる秀吉はあるときに気が付いた。自分で貿易できる毛利や島津はいいとして、見返りになる鉱山や産品のない大名の中には改宗してキリシタン大名に化け貿易の旨味にありつこうとする者がいることを。更にスペインは日本人を奴隷として売り飛ばしていることに激怒する。ご存じだろうが鎖国と禁教令の前に宣教師の追放を発したのは秀吉である。
そこから劇的なことになる。フェリペ二世と秀吉が同時に死んでしまう。同じ1598年の9月13日がフフェリペ二世、5日後の9月18日が秀吉の命日だ。筆者はこういった日付を並べるのが趣味で楽しんでいるうちにこの事実を知った。
その前にオランダが独立戦争をしかけたり、アルマダの海戦に敗北するなどスペインの黄金時代が終わりを告げる。一方で半島への進出が失敗に終わり秀吉も落ち目になってきた頃だった。
世界史は大航海時代の主役がオランダに取って代わられ、関ヶ原の戦いに家康が勝利する。勃興するオランダと家康が結びつくのは時代の流れに沿っていた。
歴史は繰り返す。その270年後にフランスが幕府と結びつき、英国が薩摩に肩入れしたのと同じだ。スペイン・ポルトガルからオランダへ主役が変わるタイミングで、徳川家康は偶然流れ着いた英国人ウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンを召し抱える。前者は三浦按針となり、後者の屋敷跡の地名は名前がなまった八重洲である。そして後ろ盾のオランダはスペインのようなカトリックではないため、布教には興味がないことを吹き込んだに違いない。
結局のところ関ケ原以降は大阪・スペインVS江戸・オランダの代理戦争になり、家康=オランダ同盟が最終的に勝ったことになる。オランダは当時スペインが独占していた南アメリカ産の銀に対抗できる(当時アジア最大の銀の産出国だった)日本との貿易を手にしてメチャクチャに儲けた。
極東の日本もある意味大航海時代のフロントにあったことになる。
ついで話を二つ程。ひとつは、関ヶ原・大阪夏の陣でひとまず戦国時代が終わったのだが、その時点での負け組はどうなったかという話。この時代、土着の地侍以外に武器を携えて渡り歩いている浪人は大勢いて、俗に『兵を挙げる』は『一戦やるから来る奴はいないか』のこと。要するに一人傭兵みたいな者がウジャウジャいた。大坂の陣の際の豊臣方は関ヶ原の負け組の巣窟だった。そういう輩は物心ついてからというものズーッと戦争ばかりで他に能がない。あの宮本武蔵でさえその中にいたようなものだ。
負けておとなしく帰農するといっても土地はない、商いをするにも知識も経験もない、戦争以外には使い物にならない。
どうもオランダ組はそこにビジネス・チャンスを見つけたのではないか。鎖国以前は家康も朱印船貿易でたんまり儲けていたし東南アジアに日本人町がいくつもあった。オランダ東インド会社は一方で勃興する次のライバルイギリスや土着の勢力とも争わなければならない。
ここで需要と供給が一致したため、オランダはこれを商売にしようと考えたのが日本人傭兵部隊、すなわち給料を貰って戦う外人部隊だった。有名なのはシャムのアユタヤで活躍した山田長政である。マニラにもジャワにもインドのゴアにさえ数百人規模の傭兵部隊がいて、暴れまわった。
恐らく当時の鉄砲保有数世界一で、海では倭寇が暴れ回り、生まれてから戦い続きの荒くれ集団だ。強いことは強い。しかし、待遇が悪いと反乱を起こすなど扱いづらい奴等、という評判だったらしい。
もう一つ、鎖国に至った経緯について。キリスト教の禁教とセットで教えられるのだが、筆者は違う見方をしている。
当時大陸では明が女真族の清に圧迫されていた。北京を占領して大清帝国になるのはもう少し後だが、万里の長城を超えるのは時間の問題となっていた。それに加えて特に四川省あたりは大飢饉に見舞われていた。当然の事のように流民が発生し一部は国外に逃げ出し始めていたのだ。
今日の東南アジアの中国系は清の弁髪例を嫌って海を越えて来た福建系や広東系が多い。そういった移民の流入は日本にも押し寄せていたに違いなく、その人数が当時の経済規模からいって許容範囲を超えそうな勢いだったのではないか。
長崎には鎖国期でさえ商用の華人は1万人以上居住していたし、国姓爺合戦の鄭成功は五島の日本人女性「田川」を娶っている。倭寇で散々暴れに行ったのだから向こうが混乱に陥ればその反対もあるだろう、という仮説なのだがいかがなものだろう。
そして貿易の旨味を独占しておかなければ西南雄藩、すなわちもともと密貿易に長けていた島津・毛利といった外様に儲けを持っていかれる。これが鎖国令の裏の意味ではないか。
人口動態調査を探したが、いいウラは取れなかった
いずれにせよ提題の二人はいい時代の終わりに死んだのだ。
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Categories:潮目が変わった
西 牟呂雄
1/2/2022 | Permalink
天正遣欧少年使節の伊藤マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンはマドリードでフェリペ二世に謁見したそうだ。ヨーロッパで話題となっていた一行は王族並みの礼遇を受けていた。
ところが帰国の際には秀吉の伴天連追放令が出された後で、宣教師の身分では入国できなくなっており、ポルトガル領インドの副王として許可を得る。そして聚楽第で秀吉に謁見した。
その際に西洋楽器の演奏をしたのだが、秀吉はいたくこれが気に入ったらしい。演奏をしたのはクラヴォ、アルパ、ラウデ、ラヴェキーニ、ヴィオラ、レアレージョということだが、小型のチェンバロ、ハープ、ギター、ヴァイオリン、オルガンの類だった。
このうちヴァイオリンとオルガンにはアンコールを所望して大喜びであり、この時点で伴天連追放令は空文化した、というのだが。
西 牟呂雄
1/28/2023 | Permalink
16世紀スペインの探検家ビリャロボスがレイテ島とサマール島を王太子フェリペにちなんでフィリピナスと呼んだのが今日のフィリピンの由来だそうだ。
フェリペ二世はカスティーヤ王国の孫になるのだが、同時にアラゴン王、ナバラ王、ポルトガル王、ナポリ・シチリア王を兼ね、ペルギー・オランダ地方も支配し、更に中米・南米フィリピンの全てに君臨した。そのため全土に目配りできず王宮にて膨大な書類の決裁に忙殺された。この点、清朝第五代雍正帝に似ている。
そのため『書類王(エル・パペレロ)』『慎重王(エル・プリュデンテ)』と呼ばれた。
レパントの海戦でオスマン・トルコ海軍を破ったものの、海賊をかき集めたイングランド海軍にはてこずった。
130隻で繰り出して、約1カ月イングランドを一周する形で戦い続け、帰還できたのは半分。レパントの海戦では有効だったガレー船が地中海の外では使い物にならず、急遽帆船仕立てのガレオン船で挑んだのだが惨憺たる結果に終わった。
書類ばかりで現場を知らなかったのではなかろうか、と本日の日経で佐藤賢一が考察している。