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維新にさほどの義が有りや

2021 SEP 2 0:00:11 am by 西 牟呂雄

 文久三年、薩摩藩は琉球救済の一環として地域通貨のような『琉球通宝』の鋳造を幕府に願い出て、3年間に限って許された。ところがその際に『琉球通宝』だけではなく、幕府が発行する天保通寳も一緒に密鋳していたのだ。その贋金は幕府のものより鉛の含有量を多くしていて、今で言えばあからさまな贋金、立派な犯罪なのだ。尊王討幕の正体見たりと思わざるを得ない。しかもこれを推進したのは名君として名高い斉彬である。
 尚武の志高く、武士として胆力を磨きに磨いた薩摩藩にして、藩論分裂によって散々血を流した後に、薩長同盟を結ぶことに筋は通るのか。
 大体どこの藩でも『尊王攘夷』一本鎗の派と、討幕までは筋が通らないとする一派で激しい争いが起こり、暗殺・切り合いといった大騒ぎを経験することになる。薩摩・長州はその争いの中の生き残った連中が討幕に舵を切った。結果は良く知るところであるが、歴史的には危ない橋を渡り続けたことになる。どちらも無謀な戦を外国に仕掛けてコテンパンに負けたらさっさと攘夷の旗は降ろす、戦闘こそないものの土佐もまたしかり。
 筆者自身、保守派を自称しているので、短絡的に『尊王攘夷』と口走る心情は分からないでもないが、どうも論理体系のゆがんだポピュリズム・ヒステリーに思えてならない。それは幕府・反幕府に関わらず同時発生的に出て来る。
 一例は御三家水戸で暴発した天狗党である。水戸は元々同じ御三家の尾張と同様勤皇の志の厚い土地柄だが、理屈ばかり言い立てる藩風とカッとなる気質が災いして藩内に争いごとが絶えなかった。それは藩主の世継ぎ問題だったり、幕府による日米和親条約だったりとキリがない。桜田門外の変にも人材を輩出している。そして水戸学の権威、藤田東湖の息子の小四郎(当時23歳)がたった60人で筑波山で気勢を挙げ武装蜂起してしまう。すると例の気質で頭に血が上った近隣の百姓・浪士が参集して瞬く間に千人を超えた。
 その集団が日光東照宮を目指そうとして、一部が暴徒化する。それからは天狗党・保守派が入り乱れ、水戸城や江戸藩邸での勢力争いを引き起こしてのテンヤワンヤ、暴徒により那珂湊反射炉の煙突は爆破されたしまった。
 結局目標を失った天狗党は何故か京都を目指す。おそらく一橋慶喜に嘆願にでも行くつもりだったのだろうが、幕府からは追討令が出ており中山道沿いの小藩と小競り合いしながら進む、最後は慶喜に拒絶されてアウト。最初から最後までプロセス無視の計画で、どうしたかったかも不明な混乱だったと言える。
 尊王攘夷の天狗党の流れから、対照的な道を進む二人の人物がいる。実際に乱に加わり、途中で逸れ生き残った相良総三と、武田耕雲斎の下で暴れている頃に一度捕縛された芹沢鴨である。芹沢は新選組に行って局長になり、その時点では幕府側ではあるが結局暗殺される。
 一方の相良は江戸潜伏中に何と土佐藩の板垣退助の保護を受ける。間の悪いことに丁度そのころ坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋で、薩摩の西郷との間で薩土軍事同盟という討幕の謀りごとが結ばれた。薩長同盟に遅れること1年である。これより西郷の指示で江戸薩摩藩邸にいた益満休之助が幕府の後方攪乱のため放火や、掠奪・暴行と暴れるが、相良はそれに加わった。余談ではあるが益満は勝海舟の親書を山岡鉄舟が西郷隆盛に渡す際の先導役を務めるキーパーソンで、最後は彰義隊討伐の上野戦争で戦死する。
 相良の方は、この騒乱を鎮圧しようと庄内藩の新徴組が薩摩藩邸を焼き討ちした際に品川から船で落ち延びる。すると王政復古の大号令が発布されたため、公家の綾小路俊実を盟主とした赤報隊を結成し、官軍の東山道征討として中山道を攻め上ることとなった。しかしこの寄せ集めの赤報隊はかなりいい加減なもので、相良は命令に従わないどころか勝手に『年貢の半減』等を言い触らしては略奪ばかりして顰蹙を買う。何しろ甲州博徒の黒駒勝蔵までが入っているのだ。結局、偽官軍のレッテルを張られて下諏訪で処刑される。因みに命令に恭順した二番隊長を務めたのは元新選組九番隊組長の鈴木幹三郎(分裂して暗殺された伊東甲子太郎の実弟)である。テンヤワンヤぶりが分かろうというものだ。
 そもそも何百年も京から出たこともない公家を頭に戴いて圧力をかけることができると思う所がこっけいの極みで、天誅組の騒ぎに至っては目的も何もはっきりしない。
 孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられると、その先鋒を勤めようと土佐脱藩浪士の吉村寅太郎が公家の中山忠光をそそのかして浪士を引き連れて大和に出発する。40人位のまぁちょっとした護衛につもりだったのではなかろうか。それが何をトチ狂ったか五条にあった幕府代官所を襲撃して制圧する。しかし例の八月十八日の政変で長州派公卿は追放され、孝明天皇の大和行幸が中止される。こうなるともはやお呼びでない、とばかりに幕府から追討されることになる。すると天誅組は十津川郷士をオルグして千人程の人数を揃えた。
 十津川は年貢御赦免の天領だが、言ってみれば古代より尊王専門の傭兵部隊であるから参加した。これが思いつきで頼ったようなものだから、待遇は悪いし戦略もない。中山忠光の無能は如何ともしがたくたちまち四分五裂となって雲散霧消してしまう。これまた何をしたかったのかさっぱり分からない。中山はその後長州潜伏中に暗殺された。
 九州の大村湾に面したエリアに2万八千石の大村藩がある。関ケ原で東軍に付いたため準親藩で、代々名君が出たことでも知られる。場所柄長崎から海外の情報も入り易いと思われる。初代藩主はキリシタン大名でもあった。
 さて、最後の藩主となった大村純熈(すみひろ)が長崎奉行を命じられた頃、例によって藩内は当然割れた。明治以後に編纂された藩の正史である『台山公事績』は山路愛山が編纂を始めたが、十数年モかけても脱稿せず、愛山死後にやっと完成した代物だ。それによれば、開明派藩主の元、勤皇の旗印を掲げ一丸となって討幕に励んだことになっている。維新後に栄達した者も多い。筆者はさる縁者からそれは嘘っ八であることを知っている。維新に邁進したのは事実であるが、その前に過激派が保守派の家老を暗殺してその罪を保守派の藩士になすりつけたのだ。その狡猾さと残虐さはその後の栄達にふさわしいものでは断じてない。それを塗り込めて正史に落とし込むために愛山は難渋して筆が進まなかったのだ。そのことは、その後を継がされたさる大歴史学者の子孫に確認した。一方暗殺された側にも筆者の知り合いがいて同様の証言を得ている。

 最近『歴史のミカタ』という新書を読んでつくづく自分は歴史を生きていない、と感じた。分かりやすく言えば、自分で考えて歴史を体系的に吸収していない、ということだ。ところが老いたりとはいえ未だに息はして物は考えることはできる。なにやらこの先が楽しみになるような気が、今はしてきた。手始めに維新の大義はあるか、と思料した次第である。

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Categories:伝奇ショートショート

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