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末期の海軍航空隊 神雷部隊・剣(つるぎ)部隊・芙蓉部隊 

2021 NOV 24 0:00:58 am by 西 牟呂雄

「一機2トンもする『桜花』を吊った一式陸攻が敵まで到達できると思うか。援護戦闘機がわれわれを守りきると思うか。そんな糞の役にも立たない自殺行為に多数の部下を道づれにすることなど真っ平だ」
「桜花を投下したら陸攻は速やかに帰り、再び出撃せよ、と言っているが、今日まで起居をともにした部下が肉弾となって敵艦に突入するのを見ながら自分たちだけが帰れると思うか。そんなことは出来ない、桜花投下と同時に自分も目標に体当たりする」
「オレじゃなきゃ務まらないというから仕方なくやってはいる」
 特攻兵器『桜花』は海軍の一式陸攻爆撃機に抱えられて敵機動部隊に接近し発射されるロケット推進機だ。防御不能の秘密兵器として米軍を恐怖に陥れはしたが、クリスチャンの米軍は自殺を忌み嫌ってコード・ネームは「BAKA」とした。
 特攻について、筆者は無論否定する。切なく悲しい歴史として軽々には論じられない。冒頭の言葉も特攻を否定した海軍神雷部隊長、野中五郎少佐のものである。神雷部隊とは桜花攻撃専門に編成された一式陸攻部隊のことである。
 野中少佐は、2・26を主導し首相官邸でピストル自殺した野中四郎大尉の実弟に当たる。兄弟そろってスパルタ教育で有名な府立四中から陸士・海兵に進んだ。兵学校時代は居眠りばかりして成績こそ奮わなかったが、艦上攻撃機搭乗員に配属されてからはメキメキと頭角を現し、終戦直前は上記神雷部隊長となる。独特の感性の持ち主で、部隊を『野中一家』と呼び、司令部には南無妙法蓮華経の大旗と陣太鼓が据え付けられていた。一方で茶の湯を好み、茶道具一式をいつも携行していたそうである。
 常に桜花特攻には反対であったが、やむにやまれず九州沖航空戦で指揮を執って出撃しようとした上官の岡村大佐をさえぎり、3月21日出陣し全滅する。神雷部隊はその後6月まで戦闘を続けるが、戦果は著しく低下した。以下は3月21日の訓示である。
「まっすぐに猛撃を加えよ。空戦になったら遠慮はいらぬ。片端から叩き落せ。戦場は快晴。戦わんかな最後の血の一滴まで、太平洋を血の海たらしめよ」
 常々、 車懸り戦法と称して『敵部隊を見つけたらグルグル回れ。オレが突っ込んだら続け』と言っていたようなので、覚悟の突入だったと思われる。

「私が先頭で行きます。兵学校出は全て出しましょう。予備士官は出してはいけません。源田司令は最後に行ってください。ただし条件として、命令してきた上級司令部参謀が最初に私と来るというなら343空はやります」
 名機紫電改を集中配備し、かろうじて1945年4月まで迫る来る米艦載機から九州の制空権を確保できていた、『剣部隊』こと343海軍航空隊の飛行長であった志賀義男氏の言葉。剣部隊に特攻要請があった時に発したという。
「指揮官として絶対やっちゃいけない、自分が行かずにお前ら死んでこいというのは命令の域じゃない、行くなら長官や司令が自ら行くべきだ」
 とも常々言っていた。
 志賀氏は海兵62期の『赤鬼』と呼ばれた猛者で、真珠湾攻撃から終戦まで飛び続けた。大戦初めからのパイロットの生存率は2割以下。志賀氏の指揮の元、編隊撃破の戦術で剣部隊を統率。「海軍航空隊にはエース・パイロットは存在しない」とし、良く統率されたチーム・プレイに徹して戦果を挙げた。以前のような、我こそは、といった攻撃がなくなり米軍パイロットも慌てたようだ。また、一時フィリピンで特攻を指揮した者が副指令になった時は、源田司令に働きかけて転出させもした。
 最後まで健闘したものの、稼働が20機ほどに落ちた時点で原爆を2発落され、源田司令が「我が剣部隊も既に組織的な攻撃に対する機能は乏しくなった。もし今度、新型爆弾に対する情報が入ったら、俺が体当たり(特攻)をしてでも阻止してみせる」とまで言ったが、結局特攻はなされなかった。

「ここに居合わす方々は指揮官、幕僚であって、自ら突入する人がいません。必死尽忠と言葉は勇ましいことをおっしゃるが、敵の弾幕をどれだけくぐったというのです。失礼ながら私は回数だけでも皆さんの誰よりも多く突入してきました。今の戦局に、あなた方指揮官自らが死を賭しておいでなのか」
「劣速の練習機が昼間に何千機進撃しようと、グラマンにかかってはバッタのごとく落とされます。2千機の練習機を特攻に駆り出す前に、赤トンボまで出して勝算があるというなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私がゼロ戦一機で全部、撃ち落としてみせます」
 この気迫のこもった言葉は、艦上爆撃機『彗星』に乗り夜間攻撃に徹した芙蓉部隊を率いる美濃部正少佐が、特攻止む無しとする海軍上層部に対して放ったものだ。
 特攻の生みの親、大西瀧治郎中将から特攻を示唆された時も
「特攻以外の方法で長官の意図に副えるならば、その方がすぐれているわけです。私は、それに全力を尽くすべきと思います。だいいち、特攻には指揮官は要りません、私は指揮官として自分の方法を持っています。私の部隊の兵の使い方は長官のご指示を受けません」
 と反論した。ただし、この口論は他の証言者のいない二人きりの際のものとされ、本人の一方的証言ではある。
 美濃部はフィリピンで海軍第一五三航空隊戦闘901飛行隊長として、月光隊による夜間爆撃を考案した。その月光隊にはBー29ハンターとして有名になる遠藤幸男大尉もいた。
 もっとも戦闘901飛行隊は、Bー29の前身B-24爆撃機の夜間迎撃以外、米機動部隊への夜襲は失敗している。
 この信念は、沖縄に上陸された後に本土防衛のため再編された芙蓉部隊による夜間の飛行場爆撃に生かされた。数次にわたり沖縄の米軍基地を叩くことができたのは終いには芙蓉部隊のみになっていた。しかし残念ながら、米軍飛行場は強力な対空砲火により、彗星による三式一番二八号ロケット爆弾による爆撃も高度4千mで接近後緩降下し投弾せざるを得ず、命中率は格段に落ちた。もともと夜間攻撃はその成果の確認ができないことが多く、多少盛られたものだとの指摘はある。
 さしもの美濃部少佐も硫黄島への出撃の際には一度、「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と口走り、別れの盃(別盃)を交わしている。最後の本土決戦の作戦でも、自身を先頭にしての特攻作戦を立て、玉音放送後も徹底抗戦を部下に訓示するなど混乱はした。

 筆者は前期高齢者である。この年になっても負け戦のヒステリー状況で冷静でいられたか逡巡することがある。
 無論、特攻を肯定する者ではないのだが、破れかぶれになった挙句に相手を道連れにしてやる、とならないか、そして(特攻は志願制とはいうものの)オレがやるからお前らも続け、とならないで済むほど胆力を練ってきたか。
 ただ、あくまで反対を貫いた合理的な指揮官(志賀・美濃部少佐のような)により救われた命があったのなら、自分もそういった冷静さを持っていたいとは思う。
 美濃部少佐は戦後航空自衛隊で空将になり、平成の航空幕僚長を務めた。

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Categories:遠い光景

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