スキー競技の張家口
2022 FEB 12 8:08:27 am by 西 牟呂雄
現在オリンピックのスキー競技が行われている所は北京の北180km、万里の長城の要害である大境門の外側に位置している張家口である。この地で平和の祭典が執り行われることに筆者は特別の感慨がある。
昭和20年8月15日。日本が無条件降伏をした時点で、かの地は内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)であり帝国陸軍駐蒙軍(関東軍ではない)が駐屯していた。民間日本人4万人もいた。
千島列島の占守島と同じく、降伏を無視したソ連軍の侵攻はここでも起こった。この地を守っていた根本博中将は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と果敢に突撃を命令、ソ連軍の猛攻を跳ね返した。更には八路軍のゲリラ攻撃(彼らは山中ゲリラ・街中テロしかやらない)をしのぎつつ、4万人の民間人とともに長城を越え脱出・帰国したのである。民俗学者の梅棹忠雄や版画家の池田満寿夫はこの一行の中にいて生還できた。根本の決断は北海道をソ連から守った第五方面軍司令官、樋口中将に被る。
尚、駐蒙軍は国民党軍とは戦闘しておらず、根本は帝国陸軍にあってはいわゆる支那屋の中国通で、国民党軍の傅作義とも交流があったためスムースに引き揚げられたものと思われる。
その縁なのか根本は戦後奇怪な行動に出る。蔣介石が日本軍の引き揚げに協力的だったことを徳と考え、大陸の足場を失いアメリカからも疎まれ孤立無援だった国民党を支援しようと台湾に密航する。
この時無一文に近かったため、明石元長の援助を受けるが、この明石は台湾総督を務めた明石元二郎(日露戦争の時に後方攪乱工作をした情報将校明石大佐)の息子、かつ現上皇陛下のよき相談相手でもある明石元紹の父である。
当初は拘束されるが、身元が明らかになり「顧問閣下」として遇された。そして人民解放軍との決戦となった金門島の戦いを指揮してこれを撃退する。今日の台湾の地位を保全したことになる。根元の行動は日台両国ともに長く極秘とされ2000年代まで表には出ていなかった。尚、日本人義勇軍と言われた富田少将の白団(パイダン)とは関わっていない。
検索していたらもう一つ面白いエピソードがあった。中佐時代の陸軍省新聞班長だった時、かの2・26事件に遭遇している。根本は統制派として決起将校からは狙われており、決起部隊の一部は、当日未明から根本の陸軍省出勤時に襲撃する計画だった。が、二日酔いで寝過ごして助かったらしい。そして「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである」で始まる戒厳司令部発表を、拡声器を使ってガンガン流し部隊の動揺を誘っている。
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Categories:遠い光景
西 牟呂雄
2/17/2022 | Permalink
ここに取り上げた根本博は、少佐時代の南京駐在武官時に南京事件に巻き込まれて重傷を負っている。
この南京事件は、日中全面戦争時の日本軍による南京攻略のことではなく、その10年前、国民党軍の北伐による南京包囲の際に起きた外国人殺害(当時は欧米も公使館を置いており、日本人・欧米人がいた)略奪・暴行を受けた事件のことである。
根本少佐は腹を撃たれ銃剣で突かれ瀕死の重傷となった。かのパール・バックもこの事件に遭遇し、日本に避難している。この報復として米・英は揚子江にいた駆逐艦から市内を砲撃している。
なお、この事件は蒋介石軍の狼藉だけではなく、中国共産党を操ったソ連のミハイル・ボロディンの策動ともされ、蒋介石はソ連とは断交した。
この経緯を知ってか知らずか、根本は蒋介石を助け共産中国と対峙したことになる。