亡き友 中村順一君へのレクエム
2022 OCT 23 7:07:40 am by 西 牟呂雄

どうにもならないことがある。
それでも納得とか合点がいかない。あいつが死んで7回忌にもなるのにオレが生きている。
順番が違うだろう、えっ。ふざけやがって。
オレ達はあの時代にはマイナーだった保守派だった。だが微妙にズレていて、あいつは保守本流でオレは反体制無頼派を気取った、分かり易く言えばチンピラのことだが。周りは頭の切れる左派ばかり。それが何故か『力を合わせて』という感じにはならず、罵りあってばかりいた。
ヒマに任せて何時間も電話で話したこともあった。何を話したか全く記憶にないのは、恐らく意味のない会話だったに違いないが、何時間も話し続けられたのは謎としか言いようがない。そのころ互いに彼女がいなかったことは事実だ。
九州に単身赴任していた時に訪ねてきてくれた。今更だが、正直うれしかった。
『マイレージが期限切れになりそうなので使わにゃならんのだ』
『国境の防衛状況を視察する』
『特攻の英霊を慰めに行きたいから付き合え』
いちいち奴がひねり出して恩着せがましく言い放った旅の理由である。こう言いながらも1年に3回も会いに来てくれた。知り合いもいないオレを励ましに来たのは分かっていた。
病魔に臥せった奴を見舞いに駆け付けた時、すでに奴は会話もままならなかった。
『オレが来たからにはもう大丈夫だぞ』
と振り絞るように声をかけた。そして以前からモメていたある絵を拡大印刷した紙を見せた。
『この絵を覚えているか。確かめたくて持ってきた。お前が言っていた親戚とはこの絵のどいつだ』
と迫った。実はその絵に関して数年来論争し決着がついていなかった。まぁ、例によって奴の一方的主張にオレがイチャモンをつけただけだが。
しかしすでに奴の記憶から消えていたようだ。あの記憶力の化け物が。
それから奴を見舞うのはつらかった。とても一人では耐え難いのでもう一人を誘い、帰りにはいつもガブ飲みして帰った。
ともあれそれからまる6年経ち、オレは癌にもコロナにもなったものの相変わらず酒を飲み煙草を吸い、余裕のある生活とは無縁の暮らしを続けている。奴との約束通りだったらとっくに仕事なんか辞めて、一緒に旅に出ては罵り合い、時局を論じて悲憤慷慨していただろうに。奴が死んでしまったおかげでこの年になってもついつい仕事をしては抜き差しならないことになり、ヤボ用に漬かってしまう。こういうのをオレたちは『ダサい』と言っていたではないか。それもこれも奴のいないせいだとすれば合点がいく。これでは体力のあるうちに遊べないではないか。
これは最後まで現役だった奴のオレに対するいやがらせではないのか。オレにだけ人生の果実を味合わせてたまるか、ということなんだろう。
だとすれば奴の望みは達成された。奴のいないこの世に残されたオレの人生の果実は既に寂しいものに成り下がっているからだ。この先、たいして長くはないだろうが、生きれば生きるだけ、面白くもないことばかりが降りかかってくる。それは優れて戦いそのものとも言えよう。すると奴はその戦いに勝利して逝ってしまったとなるのではないか。クソいまいましい。
遅いか早いかで、いずれオレもあっちに行き、奴と邂逅するだろう。
それはまるで目が覚めたような感覚に違いない。あの世は時間も空間も無いのだから、オレ達の年も関係ない。そうでなければジジイになったオレがまだ若々しい壮年の奴と出会うことになり、あっちに行ってまで不快な気分になる。そんなことはあってはならない。
遠い昔に奴のウチに『オトマリ』に行った際、奴の実家は戦災に会わなかった山の手で、驚くべきことに薪で沸かす五右衛門風呂だった。二人で浮いている板の上に乗る段階でモメ、どっちが長く入っていられるかで勝負がつかず(オレが反則をした)、終いには潜りっこまでやった。その時のお湯から頭を出した時の互いのマヌケ面。
あの世に行って初めに奴と会うときは、必ず互いにその時のマヌケ面をしていることだろう。お湯から頭を出した瞬間のようにポッカリと目が覚めすはずだ。
待ってろよ、順。
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Categories:遠い光景

西 牟呂雄
10/31/2022 | Permalink
順よ。お前が生前こよなく愛したオリックスが日本一になったぞ。
巨人ファンばかりだった子供の頃、一人阪急を連呼していたことを今でも思い出す。
特に1967年から米田・梶本・足立が活躍し、長池・加藤・福本が頭角を現した時代はパ・リーグを連破していた。滅多にないテレビ中継を見た時は例の調子で解説に熱がこもっていたっけ。
オレはその少し前に土橋・尾崎のエースを擁して強かった東映フライヤーズを贔屓にしていたから、実に不愉快になったものだった。東映はそのころ後楽園をフランチャイズにしていたが、巨人戦の熱狂とは違ってガラガラのスタンドにオヤジと行っていた。張本・大杉・白・大下。
1968年、監督になった大下弘は「罰金なし・門限なし・サインなし」の三無主義を打ち出した。当時から努力と反省と我慢が大嫌いだったオレは、何と素晴らしいチームだ、と益々好きになったが、阪急に歯が立たなかった(今から考えれば当たり前だ)。
日本シリーズで巨人に挑戦してはコテンパンに負けていたよな。ギャアギャア言い訳して悔しがるお前をせせらわらったのは溜飲が下がった。
ともあれ7回忌の年に阪急の後継オリックスが日本一とは何たる巡りあわせか。試合は執念の勝利だった。おめでとう。
東映の後継である我がファイターズはダントツのビリ・・・。まあ見ていろ。新しい球場もできるのだ、来年は一泡吹かせてやるから待ってろよ。
中島龍之
10/31/2022 | Permalink
中村さんの7回忌にオリックスが日本一とは、何かの因縁ですね。天国からの強い願いがそうさせたのでしょう。ファイターズも来年はオリックスのように最下位からの優勝期待してます。