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葛城の足跡

2022 NOV 6 0:00:41 am by 西 牟呂雄

 家系伝説ではヤマトの方から食い詰めて東にたどり着いた藤原の流れとなっている。どうせ誰かが吹いたホラだろうが、もし本当ならヤマトのどこあたりがルーツなのか。それを解く鍵が気になっていた。地名である。
 私の本名は全国でも甲斐国の一部に多く、そこから同心円的に分布していた。面白いことにそこは桃太郎伝説がある。そしてもう一つ平家の落人伝説。どちらも知る人は少ない。特に平家の方は清盛一派の伊勢平氏ではなく、平新皇・平将門の息子が流れてきた話。
 戦前の電話帳にウチの苗字は東京市に二軒しかなかった。ウチは曽祖父からの下町だったがもう一軒は中野区の女性で、再開発される前の中野駅北口で表札を見たことがある。爺様は冗談で『そのウチはワシの妾宅だ』という嘘をバラまいたらしいが、当人が知ったらさぞ迷惑だったことだろう。最近、八王子の呉服屋さんが同姓で家紋が同じなのを発見した。
 また、九州単身赴任時代に歯医者にかかったところ、同じ苗字の女性歯科技工士さんがいて、山梨のご出身ですかと聞かれた。その方は結婚されてその苗字になったが、ご主人の父上は山梨からきたそうだ。『あなたと私が不倫してもバレませんね』とマヌケな冗談を言ったところ口をきいてもらえなくなった。

電柱の表記

 この写真は奈良県葛城市の電柱の住所表記である。
 今回の旅先で見つけた。確かめようもないがここからはるばる東下りで一族郎党が流れたのではないだろうか。
 近鉄御所線の単線が通る農村地帯だ。
 こころみに近所を歩いても表札に同姓は一軒もない。
 或いは、ナントカ一族が逃げ出して落ち着いた後に故郷を懐かしんで出身地を名乗ったかも知れない。
 ちっぽけなお寺があったので試しに聞いてみたが、やはり近在にその姓の家はないそうだ。ちなみにそこのお寺の奥さんは大字(おおあざ)のことを『ダイジ』というので初め何を言っているのか分からなかったが、あれは方言なのか奥さんが無知なのか。

普通の農村

 仮説が正しければここで農業にいそしんでいたのか、などと思いながらブラブラした。
 まことにささやかな小川があって、その向こうの地名は東室であり、遥か南に下った隣の市には室という地名も残されていることも分かった。更に北の斑鳩には三室山という聖徳太子ゆかりの山がある。
 古代にあっては土を掘り下げて柱を立て屋根をかぶせる竪穴式住居を『ムロ』と呼んだ。この辺りはそれなりの人口を擁した集落だったのか。
 奈良盆地をうろつくと、南東の石舞台がある蘇我氏のフランチャイズ、卑弥呼の墓とも伝わる箸墓古墳のエリア、北にあたる平城京と斑鳩、と中心地が移動している。そしてここ葛城もまたそれなりの政治的勢力の葛城氏が値を張っていたことだろう。

 集落の外れまで来ると誠にささやかな神社があった。
 春日神社である。春日と言えば藤原。ははあ、それに引っ掛けて『ウチは藤原だ』と言った奴がいたのだな。ただしここから流れたという証拠なんかない。
 おもむろに地図を広げて眺めているとすぐ近くに當麻寺があった。聖徳太子の異母弟、麻呂子王によって建立されたと言う伝承の古刹である。今日では当麻寺と表記される。
 ここから一山超えれば河内の国になる。古来交通の要所で、しばしば戦乱にも巻き込まれた。
 検索してみると、役行者だ空海だと有名どころがテンコ盛りで、元々は三輪宗の寺だったのだが現在では真言宗と浄土宗の二宗兼学の寺院となった。

東塔・西塔

 尋ねてみると広い敷地の大寺院だった。
 そして塔が東西とも残っている古い形式で他では見られない。国宝の當麻曼荼羅図(根本曼荼羅)があり、拝観料を払ってみたものの暗くてなんだか・・・・。
 この曼荼羅は中将姫という姫君が蓮糸を用いて一夜の内に織った、という伝承があるが実際には錦の綴織りであることが分かっている。藤原鎌足の曽孫である藤原豊成の娘とされているらしい。
 やれやれと参道を下り始めた所で、なにやら場違いな『葛城市相撲館「けはや座」』の看板。なんじゃこりゃ。更には『相撲の開祖・当麻蹴速の塚』。相撲?けはや?

 この項 つづく

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Categories:遠い光景

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