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続・街道をゆく 川中のみち

2025 JUL 1 20:20:11 pm by 西 牟呂雄

 フトした思い付きで名古屋の『川中』というところに出かけてみた。名所・旧跡など見当たらない市街地と言ってよい。
 このところ長島一向一揆に凝っていて、かの信長を二度まで退けた防衛力を研究していたが、キーワードとしての『輪中(わじゅう)』に興味を持った。長島を訪れた際にも『輪中の里』という表記を見た。
 『輪中』とは河川の合流地点や扇状地のような川の中州に堤防で囲って共同で水害を防いだ集落である。
 かつては沢山あったのが、治水技術の進歩により急速に姿を消しつつあり、それはそれでいいことなのだが、私は例によってその痕跡を見付けるのもまた一興と思った。そして尾張・木曽の地図を眺めながら、この辺はどうかな、等と楽しんでいたら『川中』という地名が目に留まった。現在は地続きの住宅地だが・・・。
 検索してみるとやはりかつては付け替えられる前の矢田川と庄内川に挟まれた輪中だった。これは行ってみなければ、『続・街道をゆく』の醍醐味である。
 名古屋駅から市バスで30分。川中に降り立った。真っ平な名古屋のベッド・タウンで、その昔は度重なる洪水に悩まされた『輪中』だったことが偲ばれる。遠くに高い堤防が見えた。
幹線道路を入るとまず探したのは小高い丘だ。堤防が決壊した時に避難するための場所で、裕福な個人は水屋というお蔵のような構造物を立てたりもする。
 昼間の人通りのない中ウロウロしていると、明らかに人工の土塁が見つかった。どちらも小ぶりな神社である。東側が中切(なかぎり)天神、西側に神明社。地図を眺めるとこのあたりを矢田川が流れていたらしい。大きく北側に迂回するように付け替え、庄内川と並行させて合流させた様子が伺える。昭和五年の工事だそうだ。

中切天神

 工事完了後はこのエリアもハザード・マップにのってはいるが被害は少なくなり、避難場所としての使命は終えたのだろう。
 中切天神は、古くは茄子天神と呼ばれていたともいい、お腹の痛みを抑える御利益があり、お参りの際に茄子をお供えした事からそのように呼ばれた。
 詳しい説明はなかったが、境内は小さな本殿と南向きで瓦葺妻入りの四方吹き抜け拝殿があり、地域の信仰の拠点であったことが確認できる。
 古地図を見ると、旧矢田川の北側の堤防にあったようだ。

拝殿と本殿

 そこから西の方に少し行ったところにもう一つ、旧矢田川の左岸に当たるところに神明社はある。輪中の外側になるこの辺りは地名は『中切』になり、新田開発の際に伊勢神宮から天照大神を奉受して祀ったといわれる。
 河川の付け替え後はここも当初の役割を終えたのだろうが、戦後に立派な鳥居が寄進されていた。

神明社

 寄進した人の名前が刻まれていたが『K野』という名字が多く、おそらくこの地(旧矢田川南岸)に根を張った一族で、私財を投じての避難場所だったのではないか。確か名鉄をはじめ数々の企業の設立に関わった名古屋財界の大立者がこの『K野』姓だったと記憶するが、関係があるかもしれない。そういえばK野家が新田開発を手掛けた際に牟呂神富・神明社を建立しているが、それはここから遠い豊橋市である。いずれにせよ同族だと思われる。
 かつて青山学院陸上部で『山の神』と言われ、箱根の登りにめっぽう強い選手がこの名前だったと記憶する。その選手の祖母に当たる方が大相撲名古屋場所で必ず向こう正面に映り込むタニマチで、艶やかな着物の着こなしをされていたはずだ。

 さて、河川の付け替え工事は行われたが、昭和の初期の工事であるからそれほど深部まで水路を遮断する土木技術はそのころはなく、地表に出てくる水を逃がす工夫はなされるはずで、その痕跡はないかとさらに調査した。
 すると東西に通ずる少し開けた道路があり、その道に沿って親水公園にあるような小さなせせらぎが流れている。
 察するにこれが湧水を集める放水路ではないだろうか。水は明らかに(濁り具合から言って)上下水道ではなく、ささやかではあるがたくましく流れていた。

東方面

西方面

 この水路沿いに歩いていると立派な住宅が並んでおり、その表札は『K野』である。なるほどその後もこのエリアの発展に貢献している名家の風格を感じる。
 東の遥か先に現在の矢田川の堤防が見えている。
 西側に進み庄内川と合流した大きな堤防に立ってみた。だだっ広い濃尾平野の奥まで見通せて、河川敷にはゴルフ・コースがあった。
 聞くところによれば堤防決壊は最近ないが、大雨の際にはこのコースは水没してしまうそうだ。その先は(地図で言えば北方面)多少土地が低く感じられて、そのためか緑地が整備されていた。いざというときに水を逃がしたのだろう。

ささやか放水路

 ところでその昔に、堤防に囲まれた中で暮らすのはどんな気分だったろう。
 現代に暮らす我々としては閉ざされた空間で一生を送る『閉塞感』といったものを想像しがちだが、どうであろうか。常に水の恐怖と戦いながら耕筰に従事し、助け合って生き抜くのは物凄く忙しかったように思える。
 そしてその中の何人かに一人くらい『こんなジメジメした狭いところにはいられない。外に行く』と輪中を飛び出すようなハネッ帰りがいたはずだ。
 想像を逞しくすれば信長の天下取りの野望、秀吉の朝鮮出兵など、両者が尾張出身であることから外向きベクトルを醸成する土地柄とも言える。信長は最近の研究では名古屋西部の勝幡城(しょばたじょう)で生まれた。城内であるから輪中とは言わないが、土地柄周囲を高い土塁と堀で囲った中で暮らしたはずだ。

勝幡城 復元模型

 秀吉は庄内川のもっと下流の中村出身だから高い堤防は常に視界に入っていたはずだ。それが天下人となった後には京都を5mの土塁で囲って御土居(おどい)とし、洛中と洛外を区別した。その目的は諸説あるが、防衛と治水を兼ねていたに違いない。京都を輪中にしてやっと安心したのか、と考えるのは穿ち過ぎか。
 などと考えながら日帰りの『続・街道をゆく』を堪能して帰路に着いた。

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Categories:続・街道をゆく

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