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『記憶の蜃気楼』鈴木信太郎

2026 JUN 1 0:00:43 am by 西 牟呂雄

 改装中の山荘喜寿庵は、2ステップの工程を組んだため、家の中でモノをあっちに動かしこっちに移して何回も引っ越しをしている状況である。そしてそのたびに大量のゴミが出る。片っ端から捨てるのだが、困ったのは大量の蔵書。アルピニストを気取っていた2代前の爺様の分厚い英文の山の本とかドイツ語の科学の参考書(多分、読めないし)などを、泣く泣く捨てざるを得なかった。

古めかしい

 だが、その中に目を通すと実にもったいなくなる本が混じっていて、これは困る。例えば、仏文の権威にして同じく泰斗であった辰野隆と『シラノ・ド・ベルジュラック』を共訳した鈴木信太郎の随筆集があった。提題『記憶の蜃気楼』である。1961年初版の旧仮名遣い旧字体のままだ。
 東大仏文は第一次世界大戦以前は頗る振るわず、エミル・エック教授がフランス文学科を創設以来25年間に21人しか卒業生がいなかった。鈴木が一高から仏文に行った年に辰野隆が卒業。爾来、鈴木は辰野とともに小林秀雄、今日出海、中島健蔵、三好達治、鈴木力衛、福永武彦、中村真一郎といったキラ星のような俊秀を輩出した黄金時代を築き上げた名伯楽である。この点、森鴎外以来のドイツ文学嗜好が戦争(第一次大戦)に負けた途端フランス趣味に移った感があり,ある面興ざめがしなくもないが(勝ちに乗じた?)いずれにせよそのお陰で芳醇な詩文に接することができたことになる、まぁ遅いか早いかではあるが。
 鈴木信太郎は明治28年の神田佐久間町生まれ、実家は米問屋だった(あの辺りは神田川の河口でズラッと米問屋)。淡路町生まれの筆者の感覚で言えば外神田。細かく言えば縄張りの外になるのだが同じ下町である。敷地60坪ほどの家には庭があり苔を育てていたという。そして神田川で泳げた。戦前かつ関東大震災以前の風情を懐かしむ筆致にはそれなりの郷愁を感じる。
 このエッセイは至る所に捧腹絶倒の妙味が散りばめてあって、例えば日本の知性とまで言われた小林秀雄。講義にはロクに来ないが試験は受けに来て、著者の出した設問に『こんなくだらない問題には答えられない』と答案したので憤然と零点をつけたとあった。だが翌年の『マラルメの類推の魔について』という設問には見事な論考に満点にした。大らか、かつアカデミックな鍔迫り合いのようなやりとりである。その後の成績は分からないが(小林はフランス語に関しては大したことない、という説もある)卒論「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(現行タイトル「ランボオI」)にも舌を巻き卒業認可したそうだ。
 又、財界四天王と呼ばれた水野成夫(フジ・メディア・ホールディングス創業者、日経連常任理事、経団体理事、経済同友会幹事)、は法学部仏法卒業の後共産党に入党し転向するが、学生時代から付き合いがあった。フランス語の翻訳家の顔も持ち、アナトール・フランスの小説の翻訳を携えて著者の前に現れた、とある。
 盟友である辰野についての記述もあり、読んでいてアッと目が留まった。鈴木曰く『昭和の日本人を代表させるに足る典型的な人格を備えている』『福徳円満なおぢいさん』のユニークな個性の描写に続いて『省線電車の中で初めて会った二人のお嬢さんに話しかけて自宅まで連れてきてしまった』とあった。
 これは今年13回忌をやった亡き母とその親友A・Kおばさまのことである。亡母は女学生時代にフランス語に凝り、辰野の講義を聴講していたが、そのきっかけはこれだったのかと驚いた。お茶の水の日仏学院に通っていたが、そこで講義をしていた辰野と電車に乗りあわせたものと思われる。自宅におじゃました、とは聞いていたが、辰野の方から話しかけたとは知らなかった。招かれた辰野宅でご一家とともに好きだったベートーベンのレコードを掛けて遊んだと言っていた。そして辰野の退官の際に学内会議室で催された酒宴にも顔を出し、小林秀雄が号泣したのちに酒乱に豹変するのを目撃している。
 果たして本書にもその宴席についても記述があった。テーブルの上で踊る日夏耿之介(詩人)、廊下に突っ伏してデカルトを罵る森有正(フランス文学者、森有礼の孫、母は伯爵徳川篤守の娘)本郷通りで倒れる学生、と凄まじい。因みにこのドンチャン騒ぎの後、研究室での宴席は禁止となったとも書いてある。昭和23年のことであった。
 古書を読んで偶然にも亡母の思い出話に触れることができたので、書き留めてみた。

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Categories:遠い光景

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